観光地化した十勝で英語が日本語と共にアナウンスされていてアイヌがアイヌ語を習っているという逆転が、言語の背景にある力関係を示している。
テレビで「インディペンデンス・デイ」を見ているシーンがあるけれど、あれはドイツ人の監督がアメリカで思い切りアメリカ万歳やっている映画で、かなりアイロニカル。
日本人観光客が主人公のカント(哲学者のカントかと思ったら、アイヌ語で「天空」という意味)の母親に「日本語お上手ですね」と言うのは悪気がないだけに無神経が際立つ。
アイヌの伝統が「守り」に入って、熊狩りが禁止されそうになっているのは現代の感覚に合わないからという理屈はつくだろうが、たとえばアイヌが川から鮭を採るのも禁止されていて、許可をとるのに身長を越すほどの書類を作る必要があった、他民族の「主食」を禁止した例はないとはアイヌ初の国会議員だった萱野茂氏の講演で教えられた。
実際のアイヌの役名と本名が同じというのが一つの主張ということになるだろう。
熊を殺すシーンそのものは記録ビデオ映像の中でのみ現れる。直前に熊の目から見たカットが入ったりする。
亡くなった父親が現れるのはあの世から(おそらく熊が殺されて生死の境が薄れて)召喚されたと解釈すべきか。