prisoner's BLOG

私、小暮宏が見た映画のノートが主です。
時折、創作も載ります。

「劇映画 孤独のグルメ」

2025年01月18日 | 映画
エピソードとエピソードのつなぎ方がしりとりみたいで、食映画の先輩「タンポポ」にならったとも言えるし、さらにさかのぼるとルイス・ブニュエル「自由の幻想」に行き着く(伊丹十三その人がそう言っている)。

もっとも「自由の幻想」およびその姉妹編みたいな「ブルジョワジーの秘かな愉しみ」は食のモチーフの取り上げ方が「孤独のグルメ」とは真反対で、食卓の椅子がトイレの洋便器になったり、食べたくても食べられない状況がなぜか続いたり、欲望に逆らってばかりいる。

テレビドラマ版だと井之頭五郎はとにかく幾皿も幾皿もすごい量を食べるが、劇場版では特に前半は食べてもオニオンスープとビーフシチューの二皿だけで、ことによると一日に一食くらいしか食べてないのではないか。その分、こちらもおなかがすきます。空腹は最良のソース。
遭難したからとはいえ、素性の知れないキノコと貝の鍋なんて大丈夫か、毒にあたりはしないかと思ったら全然大丈夫ではなかった。

食べ方もテレビのように口まわりに食材をまったくといいくらい見せないわけではなく、パンにシチューを乗せてかぶりつく程度には見せる。

調子が出てくるのは中盤、韓国料理を幾皿も並べるようになってからで、韓国式マナーでは料理を乗せた机の脚が折れるほど大盤振る舞いすると形容されるのも納得の歓待ぶり。
遭難して気が付いたら韓国領というのがさりげなく大胆。

しりとりを逆に辿るようにして塩見三省のおじいちゃんが昔食べたスープを再現していく組み立てが緩いけれど筋が通っている。

ガラケーを使っているのがゴローちゃんらしいというか。

松重豊がこのところ地の白髪姿で出ることが増えて、井之頭五郎とは別人格だと演じ分けている感じ。
上映前のCMで商品の種類を変えて三つも出ていた。





「グランメゾン・パリ」

2025年01月17日 | 映画
パリのロケと料理の数々は目に楽しく贅沢な気分に浸る。こちらとは縁のない世界ではあるが。
はじめのうち日本のルーツを無視してフランス料理の伝統に忠実であるべしなんて言うけれど、そんなことできるわけないので日本に回帰するだろうと思ったら案の定。
フランスが人種文化の多様性を保持しているかというと、実際問題そうでもないでしょ。





「シンペイ 歌こそすべて」

2025年01月16日 | 映画
音楽映画としてはどれも聞き覚えのある曲で、あ、この曲も中山晋平作曲なのと何度も思った。
メロディが親しみやすく列車内の「ゴンドラの唄」のくだりにせよあたまからメロディを押し出さず、徐々にドラマを組み込むように処理している。割と史実に忠実っぽい。

なんだか見覚えのある顔立ちの俳優ばかりだが、それもそのはずで中村橋之助、三浦貴大、渡辺大、緒形直人、真由子と二世あるいはそれ以上の俳優総出演。

どういう製作体制で作られたのかわからないが、美術装置の質感がロケセットらしいがかなり厚みがある。
室内に置かれた古ぼけたオルガンが後年立派なピアノになるのを似た構図で繰り返して見せるのがわかりやすい。借金を返すのをいちいち律儀に描いている。

ラスト近くで戦時色が濃くなってくるありがちな展開は重くなる前に躱した感。




「エマニュエル」

2025年01月15日 | 映画
冒頭、飛行機で髭面の東洋人と乗り合わせたエマニュエル(ノエミ・メルラン)がつと立ってトイレに姿を消す。斜め後ろからの顔はよく見えないが、代わりに太腿はよく見える思わせぶりなアングルで撮られていて、半世紀も前の「エマニエル夫人」の飛行機セックスの再現なわけだが、ひょいと場面がとぶともう男はトイレにいてエマニュエルと無機的なピストン運動で交わっている。男がトイレから出るシーンもないので、行為の前後に思わせぶりな前戯、後戯が置かれるということが基本的にない。

男の側の一方的な劣情妄想を切り捨てているフェミニズム的な作りということになるだろうが、女の方の劣情まで切り捨てたみたいで、「サスペリア」のルカ・グァダニーノ 版リメイクみたいに、わざわざリメイクでやらないで別にオリジナルでやればいいのにと思ってしまう。それだと比較対照にならないからではあるだろうが。

土台、今回見てみる気になったのはかなりフェミっぽい匂いがしたからで、これまでシルヴィア・クリステル以外のエマニエルは全部パスしたし、オリジナルの「エマニエル夫人」だともうあからさまに東洋人差別がばりばりに出ていたのだが、そのあたりPC的に遺漏なく収まっているのが逆になんだかむずむずする。

エマニュエルに性的に奉仕する男たちが実行役と指示役とで別になっていてしかも指示役が主というラストの図(つまり直接は絡まない)に、なんだか面倒くさいなあと思う。

どうでもいいけど、ノエミ・メルランは左利きなのね。箸を左手で上手に使っている。





「甘い汗」

2025年01月14日 | 映画
岡崎宏三撮影、水谷浩美術のこってりした質感が見事。言葉が上方でないのが不思議なくらいねちっこい手触りだが、舞台はなんと下北沢。1962年はこんなだったのかと驚く。闇市が辛うじて残っている。
というか、だいぶ長いこと行っていないから今行ったら改めて驚くだろう。

冒頭いきなり小沢昭一がバーに入っていったら女二人が誰なのかわからないまま(片方は京マチ子=大阪出身)いきなりぐちゃぐちゃした取っ組み合いになるなんともいえないカオスな出だしだが、すぐ豊田四郎らしい端正さとせめぎ合うようになる。

棟方志功をあしらった屏風の前で、小沢栄太郎が京マチ子の愛人に対して「女を泣かしてはいけまへん、それが私のモットーです」と言うのに対して京が「もっともです」と返したら、何を勘違いしたのか「違います、モットーです、わかります?」という変なやり取りになる。聞き違いしたのか確かめようともしない、小沢が京を見下しているのが一発でわかる。

元は京がテレビドラマで初主演した水木洋子の脚本「あぶら照り」の映画化らしい。昔のテレビドラマは「男はつらいよ」にしても、市川崑版「破戒」にしても映画版とは別に作られていても現存していないことが大半なもので比較できないのが困る。

佐田啓二の映画としては最後になってしまった作品だという。めずらしく色悪の役。




「メアリーの総て」

2025年01月13日 | 映画
原題はMary Shelley メアリー・シェリー。「フランケンシュタイン」の作者。

なんでもないようだけれど、シェリーというのは夫パーシー・シェリーの姓で、メアリーはパーシーと1813年頃に出会ったのだが、彼はすでに妻子持ちで、翌年激怒した父ウィリアム・ゴドウィンから一緒に駆け落ちしたのであり、正式にシェリー姓を名乗ったのは1816年の末にパーシーの妻ハリエットが自殺してからということになる(おいおいだが、ご丁寧にもハリエットとパーシーがまた駆け落ちしていたのだった)。

当時ゴドウィン姓とシェリー姓のどちらを名乗っていたのかは曖昧で、姓と共にアイデンティティも引き裂かれていたと思しい。
作家として「フランケンシュタイン」を執筆するが、夫が書いたものだろうと出版社の編集者は信じない。ここがあからさまな差別の告発として見応えがある。

詩人バイロンがたいそうな女たらしぶりで、女性監督らしいというとなんだが、これまでのホラー寄りに処理していたバイロンとシェリーの「フランケンシュタイン」を生んだ一夜を扱った作品の中では毛色が違う。




「私にふさわしいホテル」

2025年01月12日 | 映画
舞台になるホテルのレトロな雰囲気が、文学賞の舞台裏というちょっと古めかしい設定とシンクロしており,服装もレトロなままモダンになっている。

文学賞絡みのてんやわんやというと筒井康隆および鈴木則文「大いなる助走」があるけれど、あれほど毒々しくはなくて万事かわいい。

山の上ホテルといったら最近いろいろあって明治大学が購入することで収まったわけだが、その実物を見られる。タイミングがいい.。

あたりまえみたいだけれど、のん、田中圭、滝藤賢一の主演三人のセリフが聞き取れる。最近日本映画のセリフが聞き取りにくいこと珍しくないのです。





「アルマゲドン・タイム ある日々の肖像」

2025年01月11日 | 映画
監督脚本のジェームズ・グレイの自伝的作品だというが、彼が自己を投影しているであろう少年が成長して映画監督になるのかというとまったく違う。
課外授業で美術館に行き、カンディンスキーの抽象画を見て目覚めるところは描かれるが、そこから美を追及する道に入るかというと、そんなことはない。

メインになっているモチーフは人種差別で、主人公の少年はユダヤ人、その友人は黒人で、被差別者の中にもランクはあって、そのつもりはなくても友人の犠牲の上にかろうじて塀の中に放り込まれるのを免れた後ろめたさを抱えて生きていかなくはならない。

はじめの方に出てくる学校が明らかに貧乏人向けで、転校する先が裕福な生徒ばかり、描かれてはいないが相当に両親が経済的にムリしているだろうなと思う。

タイトルが人名の頭文字も小文字で綴られている。そのつつましい感じがふさわしい。

アンソニー・ホプキンスが自分の苦労話を苦労を滲ませないで語るのがいい味わい。




「カルキ 2898-AD」

2025年01月10日 | 映画
製作費100億円というのはそんなものかなと思う。ハリウッド映画や配信で何百億というのが珍しくなくなっていると感覚がマヒしてくる。

インド製のSFというのは珍しいような、インド自体がSFみたいな国というと失礼かもしれないが。

見ているとプラバースとアミターブ・バッチャンという、インドらしい濃ゆい顔と身長2メートル半の老人(え?)がメインで出てきて、これがどっちが善玉でどっちが悪玉なのかはっきりしない。どちらも善とも悪ともそう思えば思えるので、初めて見ると結構戸惑う。

エンドロールが出かけたあたりでいったん止まり、続編の予告がかった場面が出るというのは正直あまりありがたくない。きちっと終わらせてよ。





「モアナと伝説の海2」

2025年01月09日 | 映画
なんだか話に芯がないように思った。何を達成したのか乗り越えたのかわかったようでわからない。
さらに続くらしいけれど、それで中途半端になったというわけでもなさそう。





「胸騒ぎ」

2025年01月08日 | 映画
「スピーク・ノー・イーブル 異常な家族」のオリジナル。
前半のやりとりはイライラするのは一緒。ホスト夫婦が礼節を守っているつもりなのか悪気がないのかそういうふりをしているのか、つかみどころがないまま神経を逆なでしてくる。

主な舞台になる孤立した家のありようはかなり違っていて、こちらはオランダにあるから、ごく平坦な見晴らしのいい土地にある。

リメイクで何かおかしいと気づくきっかけになる写真を見るのを父親から娘
にしたのは改善といっていいだろう。
その他、リメイクではかなり脱出の手のあれこれを工夫していたのが逆にわかる。





「ビーキーパー」

2025年01月07日 | 映画
ジェイソン・ステイサムが養蜂家なのだけれど、ハチに刺される、いつ攻撃されるかわからない恐れに絶えず直面しながらしのいでいるというイメージなのだろう。
ハチみたいに捉えどころがない相手よりは、敵がはっきりしている分やりやすい。

大統領が女という設定なのにトランプが現実に大統領になる時期に見るとなんだか違和感を覚える。
まあ息子がマザコンで犯罪者というのが味つけにはなっているが。





「ボストン1947」

2025年01月06日 | 映画
日本の植民地支配を受けていた時期の韓国で日本選手としてオリンピックに出場しなくてはいけなかった屈辱を舐めた韓国選手たちが、時を経て後進の選手のコーチとして出場するのに今度はアメリカの選手として出場しなくてはいけないというドラマチック・アイロニーが痛烈。

ここでは取り上げていないが、1947年といえば朝鮮戦争勃発の3年前だ。
あえてそれには触れていない感がある。

イム・シワンのマラソンのフォームが見事。





「ロード・オブ・ザ・リング ローハンの戦い」

2025年01月05日 | 映画
冒頭、ヒロインのヘラが馬を駆って小高い丘に降り立ち、豚のモモ肉のハムみたいな塊を鳥に投げ与えるところで、鳥がそのモモ肉全体を丸呑みするのに嘴の中に収まってしまうくらい巨大なことがわかる。
ただし、この後この巨大な鳥はあまり出てこない。
沼から森を頭に乗せた巨大タコみたいなのも出てくるが、これまた一回こっきりしか出てこない。
考えてみるとファンタジー色というのはこういう巨大生物以外あまり出ておらず、全体とすると戦争ものみたい。
ただし、ヒロインは戦うヒロインとはいえず、ありがちなフェミニズムにも傾いていない。

「指輪物語」The Lord Of The Rings の初の映像化というのは実はアニメで、それもただのアニメではなく実写映像の輪郭をトレースする技法、ロトスコープを採用したラルフ・バクシ監督の1978年作。トレースしたからリアルなのかというと、かなり不気味の谷に落ち込んでいる感があった。

今回のアニメ化にあたっての神山健治監督のインタビューを引用すると「まず絵コンテとして1回、その後コンテムービーに合わせてプレスコ(※映像より先に音声を録音・収録すること)をして2回。それをもとにモーションキャプチャーを使用して全シーン撮影、そのデータを使って次はカメラを置いてCGシーンで全カット撮影、それを元に手描きによる作画で全カット演出。3年間で5回くらいこの映画を通しで撮ったイメージです。 」
まあ、えらい手間がかかっています。





「ウルフズ」

2025年01月04日 | 映画
あれと思ったのは、オオカミ=wolfの複数形はwolvesと覚えていたからで、wolfsとなると「wolfの三人称単数現在」と辞書を引いたら載っていた。一匹狼の群れ、というべきか。作中で言っているが、ジョージ・クルーニー、ブラッド・ピットともに一匹狼というわけね。それが最終的にバディ(相棒)になる話。初めからバディじゃないのとも思うが。

いまどき、ポケットベルなんて通信手段に使うとは思わなかった。80年代の産物だもの。

ラストの銃撃戦、相手はもっといっぱいいたと思うのだが、いつの間にか減ってしまう。
「オーシャンズ11」の縮小再生版といったところ。