prisoner's BLOG

私、小暮宏が見た映画のノートが主です。
時折、創作も載ります。

「博士と狂人」

2021年04月30日 | 映画
博士と狂人というタイトルだが、メル・ギブソンは独学で学問を収めたので博士号をとっておらず、ショーン・ペンの本物の博士は精神に異常をきたして幻覚の末に殺人を犯すという二人とも両方を兼ねている状態。

メル・ギブソンとショーン・ペンという実生活での素行で問題を起こしたスターというのが面白い。
ギブソンの方が最近は狂的な目付きを生かした役が多いのだが、ここでは穏やかな方の役をやっているのがまた面白い。

ペンが精神病院に監禁されているので二人が直接顔を合わせる場面が限られ、もっぱら手紙のやりとりで辞書編纂作業が進むのが、文字言語の方が空間を越えていく力をそのまま表現した。

もともと言語は話し言葉だけしかないのが普通だったのだが(日本語も漢字を万葉仮名として音を表記するまで文字を持たなかった)文字を持つことで空間と時間を越えた。
文字を持たないまま消滅した言語は数知れない。

その意味で、七つの海を支配していた頃のイギリスにあってはスタンダードになる英語を世界の隅々まで届ける使命を辞書が担うという発想は自然だったろう。
現に今でも時間を越えて英語は良くも悪くも世界のスタンダードになっている。

日本の大漢和辞典の編纂史なんかドラマにするとおもしろいかもしれない。

監督がP・B・シェムランとファイド・サフィニアと二つ名前を持っている。どうなっているの。




「ブラック アンド ブルー」

2021年04月29日 | 映画
貧困地域出身の黒人女性がそこから出ていくべく軍隊に入り、除隊後警官になる。
そして警官として元いた地域をパトロール中、そこで相棒の警官が絡んだ麻薬組織との癒着と腐敗を知ってしまい、組織と警察の両方から孤絶した地域で追われることになる。

この孤立無援な脱出劇の設定がサスペンスものとしても社会問題の取り込み方としても秀逸。黒人にとって警察は理不尽な弾圧機関以外の何者でもないという前提と、女性排除=ミソジニーが強い組織であることが今では周知になっているので、孤立ぶりが際立つ。
悪党内部にも人種による格差があって、黒人ボスを白人が騙しているのがバレるかどうかのサスペンス設定など上手い。

警官が身につけているボディカメラの映像など小道具の使い方も定番だが効果的。

アクションシーンでも軍隊帰りという設定が生きることになる。
ナオミ・ハリス、大力演。




「ようこそ映画音響の世界へ」

2021年04月28日 | 映画
緊急事態宣言で閉じこもることになったからというわけではないが、ホームシアターの音響を少しチューンナップしたのに一番ふさわしいセレクションになった。
モノラルの音響が2chになり、さらに5.1chになる変遷と、5.1ch採用の「地獄の黙示録」の音がいかに画期的だったか手にとるようにわかる。
劇場で見たら(聞いたら)もっと良かったろうとは思うが。

武器の音、ボートの音、セリフ、などそれぞれの音にそれぞれスタッフが専門について責任を持つ、というやり方はディズニー・アニメでそれぞれのキャラクターにアニメーターが専属でついて演技をつけるといったやり方をふと思い出した。

70年代の音の重要性を理解している若い映画作家たちが登場してきて、さらにルーカスとウォルター・マーチとコッポラといった個人的な横のつながりが紹介に次ぐ紹介で広がっていき、それが大きな成果に結びついたのがわかる。

ウォルター・マーチがコッポラ主宰のアメリカン・ゾエトロープに参加する際、映像編集と録音とミキシングとの壁を取り払うと宣言する。実際、マーチは編集とサウンドデザインの両方で大きな功績を残していて、宣言を体現した人と言えるだろう。

バーブラ・ストライサンドが「ファニー・ガール」の歌の同時録音にはじまり、「スター誕生」で600万ドルの製作費に100万ドルを自腹で上積みして録音をやり直したら、ワーナーがその分あとで埋めてくれたので助かったと話す。
彼女をはじめとして、音楽畑の人が映画に参加することが音の向上に多分に貢献したと思しい。

アカデミー賞で録音賞と音響効果賞と音響編集賞どこが違うのだろうと思っていたら、今年から統一されるという。ここではなるほど音部門のそれぞれのパートがオーケストラの楽器のようにそれぞれの役割を果たしているのがわかる。




「パーム・スプリングス」

2021年04月27日 | 映画
ある一日が無限にループするという設定の映画は「恋はデジャヴ」あたりから目だろうか、最近では「ハッピー⋅デス⋅デイ」シリーズなど妙に目立つが、これが目新しいのはループするのが一人ではなく、男女二人だということだろう。

ループする二人だけが共通の世界を持っていて、その他の人間とはずっと断絶状態にあるわけで、ずいぶんとっちらかっているようで、全体として二人きりの世界に閉じこもってもいいではないかとなりかける男を、あくまで脱出を試みる女が引き出すというドラマになる。

その一方で他の人間との関係でどれだけひどいことになっても(これが笑わせる)リセットされるからお構いなしだったのから抜け出す話にもなっている。

繰り返しの見せ方がアングルを変えたり編集を変えたりして変化をつけている。
時間がループしているうちにどこの時代にいるのかわからなくなってくるある動物の登場が可笑しい。




「8日で死んだ怪獣の12日の物語 劇場版」

2021年04月26日 | 映画
コロナ禍で監督も俳優も自宅待機になってしまっている状況で、ZOOM収録で作られた映像に、高いところを前進移動するカメラ(ドローンというほど大げさなものではなく、物干し竿の先にiPhoneをつけて撮ったといった具合ではないのではないか)とか、仮面をつけた女たちの舞踏の映像とかがはさまる。

本筋?としては、自粛生活中に怪獣の卵を手に入れたり、その卵が孵ったり、宇宙留学して帰ったりといった荒唐無稽というか、当然のように怪獣がいて通販でやりとりされているらしい世界観というのがよくわからないながらも妙にもっともらしい。

紙粘土で作った掌に乗るようなカプセル怪獣がときどき「イレイザーヘッド」の赤ん坊を乾かしたみたいに見えたりする。

しかし、カプセル怪獣というのもウルトラセブンでは作中でも解説されるように時間稼ぎのために出したみたいになってしまっているわけで、コロナ禍で時間潰しに困っている状況に合わせた格好になっていると言えば言える。

のんさんが突然マジメな調子でこんなことでいいと思いますかと言い出すのが、宇宙人に操られてるのか、宇宙人が入れ替わっているのかと思わせるような違和感があった。
この人自身、いつもふわっと浮いているみたいな感じがあるものね。

しかしこれ見たとき三度目の緊急事態宣言に突入した直後なので、まだこれが作られた状況と大差ない繰り返しなのにうんざりする。
昔の一時的な状況を生かして作りましたという感じにまだなっていない。

日本映画専門チャンネルの番組として付けられた、映画公開の初日にそれまでzoomで話していた出演者たちが顔を合わせる場面の位置付けが曖昧になった感がある。




「BLUE ブルー」

2021年04月25日 | 映画
ボクシングを扱った映画は栄光か破滅か極端に向かいやすいのだが、複数の主役キャラクターにそれぞれ両方を混淆して、さらに彼らが勝ち負けほかを通じて立場が逆転したり交錯したりする、その様相が多彩で豊か。

新入りにも親切で言葉遣いも丁寧で基本を誰よりも知っているけれど、いざ試合となると負けてばかりの松山ケンイチ。
口から出任せからボクシングを始めたのがだんだんはまっていき、意外な素質を見せ、しかし即才能開花とはいかない柄本時生。
ボクサーとしての才能には最も恵まれ、女性にも恵まれながらじりじりと脳の障害が進行している東出昌大。

勝負の結果は予想した通りになるのとならないのと、試合の結果だけでなくその後のダメージを含めて常に揺れ続ける。
松山ケンイチが単なるいい人ではないのを覗かせるのが説得力がある。

ボクシングシーンもリアルだが、そこを追及する(と、やはり本物のボクサーにはかなわない)よりは、日本王者までいってもまだ別に仕事を持って生計を立てないといけないところほか、周囲の人間を含めた生活描写のリアリティの厚みを見せる。

そして全体として栄光と破滅のどちらにも振り切らないで、それらに共通する一種のロマンティズムが出てくるラスト。

先日の「アンダードッグ」といい、日本映画で未開拓に近かったボクシング映画に秀作が続くのは、日本が貧乏になったのと、俳優の役づくりのフェーズが上がったのと両方ありそう。




「AVA エヴァ」

2021年04月24日 | 映画
「ニキータ」とか「レッド⋅スパロー」みたいな底辺這いずりまわっていた女を訓練して仕立てた殺し屋ものだが、天涯孤独というわけではなく家族がいて亡父以外とは縁が切れているわけではないのが珍しい。

途中まで成績優秀だったのがアルコール依存症になったのがきっかけで身を持ち崩し今でも断酒している描写がかなりリアルで、AA(アルコホリック⋅アノニマス=無名のアルコール依存者の会)の自分語りで父親の裏切りを話すのが脚本テクニックとして上手く、内容も重い。

ジェシカ⋅チャスティンとしてはむしろこういう芝居場が見どころで、アクションシーンはよくこなしてはいるけれど役の設定自体の詰めが甘いので、ややご都合主義に見える。

酔っぱらいを殺し屋に仕立てるというのはリアルに近づけるとムリがあるのが目立つ。肝腎な時に酔っていたらどうするのか。

殺し屋としての仕事ぶりが必ずしも手際いいわけではなくて、標的を殺す理由を詮索したりするから、ずいぶん使い勝手悪くないか疑問に思った。

デンゼル⋅ワシントン主演の「フライト」でも断酒していたアルコール依存症者がスリップするきっかけはスピリッツのポケット瓶だったが、これもそう。
というか、ポケット瓶をもって歩いて人目を忍んで物陰できゅっと空ける、というのは、アメリカのドラマや映画で、こいつアル中と示す定番の描写になっている。

コリン⋅ファレルとの対決がなんで水入りになるのか、よくわからない。

ジーナ⋅デイビスが母親役というのになるほど感あり。この人自身「ロング⋅キス⋅グッドナイト」で殺し屋役やってたものね。




「シン・エヴァンゲリオン劇場版」

2021年04月23日 | 映画
あまりにコアなファンが多いので正直引いて見ていることが多かった。
リアルタイムではないがテレビシリーズ、新旧の劇場版につきあってきたわけだから、興味がなかったわけはないのだが、謎本をいちいち読んだり、グッズを集めるとまではいかず、つかず離れずでつきあってきたというのが自分の基本的なスタンス。

で、この最終作は、それほどはまったわけではない人間から見ても、ここ二十年以上の論争(というかざわつき)に落とし前をつけたと思え、少なからぬカタルシスがあった。
エンドタイトルの終わりで監督名がぴたりと止まるというのは一般論としてはもったいぶった感じで好かないのだが、この場合の総監督⋅庵野秀明が止まるのは膨大な数のスタッフとファンを巻き込んだ壮大な個人映画としてふさわしい。

碇ゲンドウとシンジの父と息子の対決が自ずとクライマックスに来るのだが、「スター⋅ウォーズ」のように父を殺して新しい世代が来るという展開にならないのが、キリスト教的な世界観を大々的に援用しているのにも関わらず、なんというか日本だなという気がした。
キリスト教っぽいのは異国のものだからこそ世界につながる感じになるのではないか。

テレビシリーズのラスト近くで書きかけの原画を出してしまったり、旧劇場版で長々と作者のそれと見分けがつかなくなったシンジの独白、あるいは実写の導入といった作り物としての結構を自ら踏み越え破壊する書法を全編のおさらいとして再現する締めくくりがぴたりとはまった。

クローン、代替可能な人間と代替不可能な人間との狭間で引き裂かれて揺れるドラマ。
この代替可能感、誰でもいい、誰でもない感じというのが、身につまされるのだな。

事前の予告編でシン⋅ウルトラマン、シン⋅仮面ライダーが続けて流れる。
どんな展開になることか。




「バンコクナイツ」

2021年04月22日 | 映画
3時間に及ぶ長尺だが、ストーリーで見せるのではなく、多くの環境描写の必ずしもロジカルでない積み重ねでできた茫洋としたスケールと厚みはあまり類がない。

タイの自然を捉えた魅力的な画が多い。
ただ風俗の面から見た場面が多いので、タイの現地の人が見たらどういう風に写るのだろうかというのは気になった。

あまりに茫漠としてとりとめがない気もする。




「夜の第三部分」

2021年04月21日 | 映画
「ポゼッション」のアンジェイ⋅ズラウスキー監督のデビュー作。

「ポゼッション」に見られたモチーフがすでにここでいくつも見られる。
妻と妻そっくりの別の女性が登場すること、妊娠と出産を一種グロテスクに描くセンス、など。

妻のみならず、しまいに主人公の男自身が人格の分裂を見せるあたり、抑圧された状況下のアイデンティティーの不安定化とも、他人(殊に女性)も自分も信じられなくなった状態の反映ともとれる。

シラミに血を吸わせるアルバイトで口糊をしのぐ、というあたり、シラミは戦時中の不潔さの現れだろうし、文字通り生き血を吸わせているグロテスクな連中(役人でも、占領者でも、単にはしっこい奴でも)に頼って生きている図とも取れる。

しまいには生きていること、生まれてきたこと自体にまで遡って違和感を提示しているようでもある。原作が父親の小説というのも暗示的。

もっとも、そういった解釈以上に重要なのはそういう具合にデフォルメして描く作者の想像力の質と、異様に不安定な映像そのものの感触、つながらないストーリーがもたらす違和感と裏腹の磁力の方だろう。

後年、フランスに行ってカメラワークも広角レンズとエキセントリックな移動撮影を多用するスタイルを美的に精練させるわけだが、この泥臭くも荒々しい第一作で十分作家性は確立している。





4月20日のおもしろ画像 

2021年04月20日 | Weblog

「象は静かに座っている」

2021年04月19日 | 映画
3時間54分におよぶ長尺。全編ハンドヘルド(手持ち)カメラによる長回しの連続で、正直見通すのに忍耐力は要るが、息詰るばかりのリアリティと重苦しさが迫ってくる。

それにしても中国は対外的には威丈高でけたたましく高圧的だが、中に入ってみるとこうも憂鬱で閉塞感に溢れているのかと思う。日本のすぐれた地方映画と通じるものすらある。
グローバリゼーションにより経済的に疲弊した地域(ここでは炭坑町)が切り捨てられ出口なしなのは世界的な現象なのだろう。

監督がこの29歳のデビュー作の後で自殺したというのも、これを作った事でますます自分の状況を閉塞させたということかもしれない。

最後に姿の見えない象の鳴き声だけが夜の闇に高々と響く。
静かに座っている象とは何の暗喩なのか、居座って動かない体制や社会なのか、今あるそれに対する反抗なのか。




「21ブリッジ」

2021年04月18日 | 映画
99分という最近珍しいくらい短い時間にてきぱきとストーリーを語っていて、いくつかの評でドン⋅シーゲルの名前が出ていたが(出だしなど「突破口!」だ)、なるほどあの尺と予算が限られた中で効率性を芸にまで高めたB級アクションの魂が再現されたよう。
内容が相当に苦いところも。

犯人二人の経歴を現場と捜査本部のカットバックで一気に説明したり、小道具を使ってキャラクターの逆転を表したり、セリフによる説明抜きで事情をはっきりわからせるクレバーな作り。

一方で時間が停滞するシーン、犯人と刑事が銃を向けあって逮捕か射殺か人質の死かというシーンばかりでなく、事件の真相を解説するセリフ主体のシーンでも役者たちの力量がモノを言って緊迫感が途切れない。

アメリカの映画やドラマではいつもながらのことだが、ちょっとしか出ない脇役のキャスティングと演技にそれぞれ味と工夫が凝らされている。

出だしの少年時代の主人公の警官だった父親の葬式の場面で、何百人という警官たちが整列して参列しているのを真上からの大俯瞰で捉えたカットが強い印象を残すが、これがラストの方につながってくる構成の巧みさ。

マンハッタン島にかかっている21の橋をはじめ、すべての出入口をふさぐ大がかりな捕物になるわけだが、その画のスケールの大きさと迫力はさすがにアメリカ映画で、レインボーブリッジひとつで大騒ぎするのとは桁が違うと思い知らされる。

これが最後の作品になったチャドウィック⋅ボーズマンは信じられないくらい機敏に動き、演技にも気迫とキレがある。

USBメモリの扱いがやや曖昧なのは惜しい。





「モンスターハンター」

2021年04月17日 | 映画
ゲームにはまるで疎いので元のゲームをどうアレンジしているのかはわからないが、ハリウッド映画的な骨法に従って作っているので見ていて混乱したりするところはない。
おおざっぱな世界観がわかればいいという感じ。

モンスターが思った以上にグロいのには参った。
ピーター⋅ジャクソン版の「キング⋅コング」の巨大な虫とまではいかないが、蜘蛛が人に産み付けた卵が孵ってわっと文字通り蜘蛛の子を散らすように腹から胸にかけて走りまわるあたりなど総毛立った。

「バイオハザード」以来のミラ⋅ジョヴォヴィッチの長身で筋肉質の女性ヒーローぶりもすっかり板についた感じで、トニー⋅ジャーの言葉が通じないながらも対立を通り抜けて協力関係になるあたりもいい。
「マッドマックスFR」みたいなロマンス抜きの男女ペアでもあるし、もっと遡れば昔からある喧嘩友だち式のこれまた骨法に従った作り。

いかにも映画館の大画面と音響効果がぴったり。
あちらの映画はスケールの大きさの出し方が上手いよねえ。

字幕版で見たのだが、吹き替えだと言葉通じないのはどうしたのだのだろう。英語は日本語にして意味不明言語は音だけそのままで通したのだろうか。




「レッド⋅スネイク」

2021年04月16日 | 映画
メディアでもいくらか話題になったクルド人の女性部隊をモチーフにしている。

クルドのことを知ったのはクルド出身のユルマズ⋅ギュネイ監督によるカンヌ映画祭パルムドール受賞作「路」(1982)でのことだ。

ギュネイはトルコ生まれだが、トルコ政府は長いことクルドの存在そのものを認めない政策をとっていて、クルド人として小説を書き映画を出演し監督したギュネイは政治犯として投獄され、しかし刑務所の中で脚本を書き演出プランを立て毛布をスクリーンにして試写して周囲の囚人の意見を取り入れて脚本を直し、つまりリモートで映画を監督して最後に刑務所を脱獄してスイスで編集ダビングして完成したという、それ自体映画みたいな経緯で作られた映画だ。

もちろん現場に監督はいたわけで、現在はその現場監督のシェリフ⋅ギュレンの方が監督としてクレジットされてはいるが、精神的シンボルとしての監督クレジットではあったのだろう。
なお、ギュネイは亡命後間もなく死亡している。

今にして思うと、「路」の製作支援と受賞自体がクルドの独立を支援する政治的な動きのうちだったように思う。

「路」は刑務所から仮釈放されて故郷にとぶ囚人たちのそれぞれの運命を描く壁画的な巨編で、それらのエピソードを貫く重要なモチーフがトルコとその中でも特にクルドにみられる封建制と女性に対する抑圧ということになる。

女性の働き口は極端に限られているため、夫が投獄されて困窮した末に売春したところ、不義を働いた女は夫の手で成敗(!)しないといけないという村の掟がのしかかってくる、これが20世紀の出来事かと思うようなエピソードが全編の締めくくりに来る。
ここで夫が掟を破り妻を助ける道を選ぶ(が、すでに手遅れで死なせてしまう)クライマックスでは紋切り型でなく爆発的な感動を呼んだ。

そのイメージが強いので、この映画で描かれるクルド人家族は特に女性の地位が低いようでもなく、差別的抑圧的なのはもっぱらISIS(この映画ではこの呼称を採っている)という描きかたなのは映画としてのわかりやすさを考えれば首肯できる範囲だが、どちらが本当だろうとは気になった。女性たちがクルド人社会で抑圧されている分自ら銃を取ることを選んだ話なのかと思ったら、そうではなかった。
言葉がかなり英語が共通語として使われているので、クルド内部より外の世界向けに作られているのがわかる。クルド語が使われているのか、どの言葉が使われているのか本当にはわからないのだが。

ISISの連中ときたら女に殺されると地獄行きだとか、ジハードで死ぬと天国で美女に囲まれた生活ができるとか、現世でもやたらと処女にこだわって貢ぎ物として貴重品扱いするとか、もう呆れるばかりに差別的。

性暴力の描きかたには慎重で、それ自体を見せ場=見せ物にしないように気を配っているのが伺える。

一番タフで優秀な狙撃手でロケットランチャーまでぶっぱなす黒人女性兵士の胸に星条旗のワッペン?が見えるのはいかにもという感じ。

英語タイトルはSisters in Arms。Brothers in Armsだと普通に「戦友」という意味。