映画は冒頭から日本の陸軍と海軍との連携の悪さと、それを統括するはずの大本営のエゴイズムを正確に描き出す。
さらに本来なら生き延びて改めて戦い直す方が正しいはずなのに、やたらと簡単に自決したり逃げようとする(実は他の隊と合流しようとするだけなのだが)味方を殺したりする硬直ぶりも、今の日本にも通じる的確な描写で押さえている。
敵の銃弾や砲撃、火炎放射にさらされる凄惨さもさることながら、味方が分裂して味方でなくなってしまうのがなんともやりきれない。
戦前の軍隊というのが狭い所属に囚われてその内部でしか物を考えられなくなっているタコツボ状態になっているのがよくわかる。映画は特に指摘していないが、戦前の軍隊が国民軍ではなく天皇の軍隊だったことが当然その下部構造にあるだろう。
国と国民を守るためにはどうするのが有効かという前提に立てず、天皇(それも現実の天皇ではなく、共同幻想・思い込みとしての天皇)に申し訳が立つかどうかが優先してしまうわけだ。
現実的に有効な戦い方を考案できるのは栗林中将やバロン西といった海外体験のある人たちで、それはアメリカ式合理主義思考を身につけているからという以上に、相手のことを知っていて、タコツボから逃れていることによっているのだろう。
異なる者を知ることが大事、というのはこの二部作を作ること自体が示したモチーフでもある。
アメリカ映画がこれだけ戦前の日本を的確に描き出せたのは驚きだが、一方でああいうにっちもさっちもいかなくなった時やけっぱち気味に破滅に突き進んでいく性向は昔の日本に限らず、時代や国を越えて普遍的に見られる現象なのだろう。とうぜん、それは今のイラクにおけるアメリカも思わせる。
(☆☆☆★★★)
父親の西徳二郎は義和団事件の時の清国大使や外務大臣も勤めた大物外交官だが、昔の言葉で言う妾腹で後継ぎの竹一ができたら、生みの母に手切れ金を渡して追い出してしまった。
父親は多忙でほとんど家に寄り付かず、竹一はほとんど親と一緒に過ごすことのない孤独な少年時代を送った。長じるにつれ初めはラジオの組み立てなどにも興味を示したが、やがて「馬」と出会いこれに熱中することになる。
映画での颯爽とした姿からはちょっと想像しにくい。
映画の中でもオリンピックで金メダルを獲得した時に乗っていた愛馬ウラヌスの写真をまるで家族の写真のように出して見せているが、西にとっては馬は家族同然、というより実際の家族以上だったのだろう。
ウラヌスは、当時の普通の日本人の体型では乗ることもできない巨大な馬(体高181cm)で、当時としては日本人離れして背が高く脚が長く、しかも脚力に恵まれていた西でなければ乗りこなせなかったという。
実際「知ってるつもり?!」で西のオリンピック競技の実写映像を見たことがあるが、でかい馬が障害物を次々と飛び越えていくダイナミックな走りっぷりは驚くようなものだった。
バロン西伝説、というのは硫黄島の戦いの最中に、オリンピックで活躍したバロン西がいると知ったアメリカ兵が「私たちはあなたを尊敬している。死んではいけないバロン西。洞窟から出てきて欲しいと、我々は心からお願いする」と投降を呼びかけた、というもので、私は漫画の「空手バカ一代」で知った。前掲書では、日米双方ともこのような呼びかけを見聞した人はおらず、伝説であると断定していて、映画でもそのような場面はない。
ただ、そのような「理解」を外国からも得たいという当時の日本人の願望はよくわかる。