prisoner's BLOG

私、小暮宏が見た映画のノートが主です。
時折、創作も載ります。

「犯罪王リコ」

2006年12月29日 | 映画
原題 Little Caesar 1931年作品 主演・エドワード・G・ロビンソン 監督・マーヴィン・ルロイ。

翌年の「暗黒街の顔役」同様、冒頭にわざわざ悪は滅びると訴える字幕がついている。当時はギャング映画を作るにもそういうエクスキューズが必要だったのはわかるが、白けます。
内容もかなりわざとらしく勧善懲悪に調子を合わせていて、嘘っぽい。ヴァイオレンス描写もごく少ない。
エドワード・G・ロビンソンはさすがにスゴ味たっぷりだが、のし上がる前からボス連よりよっぽど貫禄あるのがなんだか可笑しい。
(☆☆★★★)


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「めぐみ-引き裂かれた家族の30年」

2006年12月27日 | 映画
正直、テレビで見られた以上の情報というのはあまりないし、問題の捉え方も目新しさはない。
上映されること自体に意義があるという性格の映画だろうが、場内、私を含めて観客が四人というのには、なんかがっくりきた。


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めぐみ-引き裂かれた家族の30年 - goo 映画

「愛についてのキンゼイ・レポート」

2006年12月25日 | 映画
キンゼイ・レポートの名前は聞いたことがあったが、その作成者のアルフレッド・キンゼイ博士がこういう人だとは思わなかった。
聖職者の父親の影響と反発もあってか、性生活についての研究ぶりが興味本位でなくてやたらと学究的にマジメなのがユーモラスであるとともに、不自然にも思える。
レーアム・ニーソンは「シンドラーのリスト」で役者としての評価を得る前はゴシップ欄をにぎわせる方で有名だったから、なんだか可笑しい。

「愛についての」という邦題は変で「セックスについての」だろうと思っていると、だんだん邦題の方が正しいように展開してくる。

監督・脚本のビル・コンドン「ゴッド・アンド・モンスター」でアカデミー脚色賞を獲得していて、あそこでも同性愛が重要なモチーフになっていたが、ここでも意外なくらい同性愛がアメリカ人に多いのを見せている。三割以上とは、そんなに多いのと思わせる。監督当人はどうなのか。

保守層のキンゼイに対する反発というのが、「痛いところを突かれた」ためであることが、かなりはっきりわかる。
(☆☆☆★)


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「武士の一分」

2006年12月24日 | 映画
盲目、とか妻を手籠めにされた復讐、といった要素から、旧大映の「座頭市物語」とか「薄桜記」みたいな暗く陰鬱な雰囲気の作品になるかとちょっと思ったら全然違ってました。
やはりキムタク主演となるとそれなりに一種の華やかさが底にあるのですね。
盲目になった目は動きには反応しないが、光をなくしているわけではない。「気配」に対する身体反応の表現も見事。

日本アカデミー賞を辞退したのは取れるかどうか危ないからとまことしやかに言われているけど、取れるかどうかわからないのは当然として芝居を評価しないのはバカか先入観からかで、客の入りで評価するというのはナニゴトかと思う。

ところで、キムタクのスチール写真があまりネット上に出ていないのは、管理がうるさいからでしょうか。

殿様がただいるだけのお飾りかと思うと意外とやるべきことをやり、仇役にも「武士の一分」があるというのが一面的でなくていい。
この三部作の戦いは、一瞬で決まる。ありそうであまりなかった殺陣。

障子にとまる蛍や、舞い落ちる枯葉にまで神経の行き届いた画面作り。
(☆☆☆★★★)


「硫黄島からの手紙」

2006年12月23日 | 映画
映画は冒頭から日本の陸軍と海軍との連携の悪さと、それを統括するはずの大本営のエゴイズムを正確に描き出す。
さらに本来なら生き延びて改めて戦い直す方が正しいはずなのに、やたらと簡単に自決したり逃げようとする(実は他の隊と合流しようとするだけなのだが)味方を殺したりする硬直ぶりも、今の日本にも通じる的確な描写で押さえている。

敵の銃弾や砲撃、火炎放射にさらされる凄惨さもさることながら、味方が分裂して味方でなくなってしまうのがなんともやりきれない。

戦前の軍隊というのが狭い所属に囚われてその内部でしか物を考えられなくなっているタコツボ状態になっているのがよくわかる。映画は特に指摘していないが、戦前の軍隊が国民軍ではなく天皇の軍隊だったことが当然その下部構造にあるだろう。
国と国民を守るためにはどうするのが有効かという前提に立てず、天皇(それも現実の天皇ではなく、共同幻想・思い込みとしての天皇)に申し訳が立つかどうかが優先してしまうわけだ。

現実的に有効な戦い方を考案できるのは栗林中将やバロン西といった海外体験のある人たちで、それはアメリカ式合理主義思考を身につけているからという以上に、相手のことを知っていて、タコツボから逃れていることによっているのだろう。
異なる者を知ることが大事、というのはこの二部作を作ること自体が示したモチーフでもある。

アメリカ映画がこれだけ戦前の日本を的確に描き出せたのは驚きだが、一方でああいうにっちもさっちもいかなくなった時やけっぱち気味に破滅に突き進んでいく性向は昔の日本に限らず、時代や国を越えて普遍的に見られる現象なのだろう。とうぜん、それは今のイラクにおけるアメリカも思わせる。
(☆☆☆★★★)


映画とは少し話が外れるが、伊原剛志扮するバロン西こと西竹一大佐(最終階級)について書かれたオリンポスの使徒―「バロン西」伝説はなぜ生れたか (1984年) 大野芳は現在絶版なので、以前読んだ記憶で書く。

父親の西徳二郎は義和団事件の時の清国大使や外務大臣も勤めた大物外交官だが、昔の言葉で言う妾腹で後継ぎの竹一ができたら、生みの母に手切れ金を渡して追い出してしまった。
父親は多忙でほとんど家に寄り付かず、竹一はほとんど親と一緒に過ごすことのない孤独な少年時代を送った。長じるにつれ初めはラジオの組み立てなどにも興味を示したが、やがて「馬」と出会いこれに熱中することになる。
映画での颯爽とした姿からはちょっと想像しにくい。

映画の中でもオリンピックで金メダルを獲得した時に乗っていた愛馬ウラヌスの写真をまるで家族の写真のように出して見せているが、西にとっては馬は家族同然、というより実際の家族以上だったのだろう。

ウラヌスは、当時の普通の日本人の体型では乗ることもできない巨大な馬(体高181cm)で、当時としては日本人離れして背が高く脚が長く、しかも脚力に恵まれていた西でなければ乗りこなせなかったという。
実際「知ってるつもり?!」で西のオリンピック競技の実写映像を見たことがあるが、でかい馬が障害物を次々と飛び越えていくダイナミックな走りっぷりは驚くようなものだった。

バロン西伝説、というのは硫黄島の戦いの最中に、オリンピックで活躍したバロン西がいると知ったアメリカ兵が「私たちはあなたを尊敬している。死んではいけないバロン西。洞窟から出てきて欲しいと、我々は心からお願いする」と投降を呼びかけた、というもので、私は漫画の「空手バカ一代」で知った。前掲書では、日米双方ともこのような呼びかけを見聞した人はおらず、伝説であると断定していて、映画でもそのような場面はない。
ただ、そのような「理解」を外国からも得たいという当時の日本人の願望はよくわかる。



「深夜復讐便」

2006年12月22日 | 映画
日本劇場未公開 Thieves Highway 1949年、ジュールス・ダッシン監督、リチャード・コンテ 、ヴァレンティナ・コルテーゼ 、リー・J.コッブ主演。

生き馬の目を抜く観の長距離トラック運転手の世界を描く。
リチャード・コンテの主人公は、リンゴを買い付けてサンフランシスコまで運んで一攫千金を狙うのだが、相棒が季節労働者(スペイン語を話している、メキシコ系だろう)の取り分を足元を見て買い叩くあたりからハードな駆け引きの描写が始まる。

輸送の途中タイヤがパンクしてタイヤを交換する時ジャッキが外れてトラックの下敷きになるタッチも怖いが、イタリア語がとびかったりしている市場に着くと、顔役のリー・J・コッブがヴァレンティナ・コルテーゼを50ドルで雇ってコンテを誘惑させ、その間に積荷のリンゴを勝手に売り捌いてしまうという悪どさで、1954年の「波止場」の先駆けとなる貫禄を見せる。
彼の罠で両足を失った父親の仇討ちという設定もあるのだが、最後復讐を遂げる詰めがいささか甘くなるのは残念。

ダッシンとしては「裸の街」と「街の野獣」の間に位置する作品で、相棒が事故死するあたりのモンタージュや無数のリンゴが斜面を転がってくるあたりなどに演出の冴えが見られる。
(☆☆☆)


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深夜復讐便 - goo DVD

深夜復讐便 thieves highway - Imdb

「刺青 SI-SEI」

2006年12月20日 | 映画
主演・吉井怜 脚本・夢野史郎 監督・佐藤寿保。
谷崎潤一郎の原作を現代化して映画化。来年初めにもまた新しい映画化(瀬々敬久監督)が公開されるらしい。

舞台は「潜水艦」の中と称する窓のない一室、登場人物はほとんど二人だけ、セリフはかなり観念的と、ほとんど演劇のような作り。

原作をヘタに絵解きしないで抜粋をそのまま朗読しているのが、現代の新宿などの風景にかぶさると何ともいえないコントラストをなして面白い。
無残絵をパソコンに取り込んで加工して見せるのも似た趣向。ずいぶん才気走ってる。

やたらビニール類で女をくるんだり、実物の女をそのビデオ画像の前に置いたり、暗視装置越しの映像を多様したりと、現代美術的な感覚なフェティシズム。

吉井怜は細身すぎて刺青を入れるのが似合うとは思えないが、苦痛の表情がエロい。
(☆☆☆)


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刺青 SI-SEI - Amazon

「ありがとう」

2006年12月19日 | 映画
阪神大震災で被災してからプロゴルファーを目指してプロテストに合格した男の実話。
冒頭、突然通りかかったゴルフ場の従業員にいきなり土下差して「ありがとう」というあたり、赤井英和のデビューの「どついたるねん」のまわりが見えない傍迷惑男に通じるのかと思わせ、まったくの正反対であることをだんだんわからせていく。

地震が来る前に空の雲が不気味に光るのだが、それと対応するようにプロテストを受ける前には雲が柔らかく光り、それからOBすれすれの場所から打ち出さなくてはいけない崖っ淵の時、木々の枝の間を抜けて空が見えると、震災の炎が再現されて火の粉があたりを舞い始める、といった映像的な対応と連想法とでもいった作りに才気が見える。

田中好子の夫をぶっきら棒に突き放すようでいて支えている昔風の愛情表現がいい。
大震災のシーンでは炎のまわってくる怖さがよく出ていた。
オバサンくさい眼鏡をかけてキャディ役でぼそっと出てくる薬師丸ひろ子が、だんだん生きてくるあたりもうまい。
(☆☆☆★)


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ありがとう - goo 映画

「私を野球に連れてって」

2006年12月18日 | 映画
1949年、フランク・シナトラ、ジーン・ケリー主演、バズビー・バークレー監督、アーサー・フリード製作。

映画は劇場未公開に終わったが、主題歌は大リーグの試合に必ずかかるものでお馴染みもいいとこ。
今更だけれど、「私をスキーに連れてって」のタイトルはこれのもじりだけれど、誰がどういうつもりでつけたのか。当時は大リーグ中継はなかったはず。

野球選手が歌と踊りの舞台に立つ、という設定がどうもよくわからない。なんでそんなマネするのか。ミュージカル・ナンバーと野球とがあまりしっくり混ざっていない。
ケリーとシナトラが並んで踊ると、いかにも型ががちっと決まっているケリーとぐにゃっとしたシナトラと対照的。
バークリーといっても、得意の幾何学模様式の振り付けは見られず、普通の演出。
(☆☆☆)


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私を野球に連れてって TAKE ME OUT TO THE BALL GAME - Imdb

「明治大帝と乃木将軍」

2006年12月17日 | 映画
1959年製作の大蔵貢製作・原案による新東宝映画。

「明治天皇と日露大戦争」の大ヒットに味をしめたアラカン嵐寛寿郎の明治天皇による姉妹編、というより焼き直しで、水師営の会見の場面など、デジャ・ヴを覚えるくらいそのまんま。

徹底して大衆受けした講談調の忠烈一途の武人としての乃木希典と、英明な大君としての明治天皇のイメージを忠実になぞって、ドラマらしく仕立てる細かい味付けとか解釈とかは一切無視し、「作家性」を見事に捨て去っている。
第一歩兵連隊を乗せた常陸丸が撃沈されるシーンに至っては「平家物語」ばりに琵琶の伴奏つきで語られるのだから恐れ入る。

乃木将軍の軍神化が軍国主義に利用されたのを否定しなくてはいけないといった後年の日本映画が囚われた反戦的タテマエがまったく見られないのは、別に褒めるわけではないがかえって新鮮。

やたらと左右対称の堂々たる構図が目立つ。出てくるヒゲを生やした顔のご立派さを含めて、お札を見せられてるみたい。

旅順攻撃で犠牲者ばかり出てちっとも勝てないのに怒って乃木邸に石を投げた大衆が、勝った途端提灯行列で囲んで万歳を三唱するなど、大衆のいいかげんさの描写だけ結果としてリアル。


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「呪いの館」

2006年12月15日 | 映画
1966年製作(日本公開1971年)、マリオ・パーヴァ監督、イタリア映画。

影と原色を強調した画面作りは魅力があるが、ショックシーンが今見ると弱くて間延びして見えるし、ヒロインと幽霊との因果関係が読めているのにラストまでひっぱってオチにしようとしているので、ドラマ的に膨らみようがなくてあっけない。

金髪で真っ白な顔色の少女の幽霊が神出鬼没に現れるのが一番面白く、「世にも怪奇な物語」フェリーニ編より一年早い製作。

窓の外に少女がはりついて覗き込んでいる場面で、窓の桟を顔の真ん中に入れるようにしている(つまり普通の人間だったらわざわざ見ずらくしている)一見なんでもなくて考えてみると異様な演出は漫画家のささやななえこがエッセイで指摘して、自作でも引用していた。

あと、らせん階段をめまいを起こさせるように撮ったり、唐突にドッペルーゲンガーが現れたりするなど、部分的に面白い。
(☆☆★★★)


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「スーパーサイズ・ミー」

2006年12月12日 | 映画
被験者を自ら兼ねる監督は、もとの血液検査その他の数値がほぼ完璧なのだが、それまでどういう生活をしていたのかの方が知りたくなった。
価格の安いファスト・フードに手を出さないでいられるくらいの経済的に恵まれている境遇にあるってことではないのか。恋人がオーガニック料理のエキスパートというのも出来すぎみたいな話だが。

相手がマクドナルドという巨大企業だから逆に安心して叩けるって面はないのか。出来レースって感じ。
まったく同じようなメニューを一ヶ月食べれば、そりゃ体もおかしくするさ。
(もっとも、こちらも何年もマクドナルドは食べていないが)。
子供にファスト・フードを食べさせたくないというのは当然だが、子供をタテにする議論には眉に唾したくなる。

作中ちらっと医者が言っているが、アルコールによる肝臓障害だって深刻だろうに、酒の業界はそれほど強いロビイストを雇っていないという違いがあるだけなのではないかと思えてくる。

マイケル・ムーア式に作者が前面に出ているのをバイアスのかかっているエクスキューズにしている作りに思えて、印象は良くない。
(☆☆★★★)


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「プラダを着た悪魔」

2006年12月10日 | 映画
スタンリー・トゥッチ(アメリカ版「Shall We Dance」で竹中直人にあたる役やってた人ね)の「君は頑張ってなどいない。愚痴を並べているだけだ」という厳しいセリフに納得。

人にこき使われたり、忙しくて時間がないっていうのは、それ自体は「仕事」じゃないのですね。
何を他に対してアウトプットしているか、自分にインプットしているか、が問題であって、いくら忙しくても他からの評価の対象にはならない。
自分のこととなると忘れてしまうけれど。

メリル・ストリープの上司自身も含めて、上から正当に評価されるわけではなくてご都合主義的に扱われるのはかなわないが。

「Sex and the City」のパトリシア・フィールドの衣装が見もの。エンド・タイトルにはプラダばかりでなく何十ものブランド名がずらり。
まるでファッションに興味のなかったヒロインが次々と衣装をとっかえひっかえして街を歩くシーンは、物影に入って出てくると衣装が変わるのをカメラを動かしながら撮っていて、なんでもないようにやっているけれどモーション・コントロール・カメラを使っているのかなと思ったりした。
「マイ・フェア・レディ」風の展開になるのかと思ったら全然違いました。

主演のアン・ハサウェイが劇中でしきりとフトメ呼ばわりされるのにびっくり。どこが?
メリル・ストリープがスッピン(に見える巧妙なメイクか?)で登場するのは、むしろ余裕に思える。
(☆☆☆)