prisoner's BLOG

私、小暮宏が見た映画のノートが主です。
時折、創作も載ります。

「ユダ&ブラック・メシア 裏切りの代償」

2021年12月31日 | 映画
ブラックパンサーというと、メディアや官製によるテロリストのイメージが強かったが、それに対する抗議とFBIの方こそ一方的な暴力で弾圧したことを描く。

ちゃちなコソ泥を見逃す代わりにS(スパイ)として組織に送り込むのは洋の東西を問わず官憲の手口だが、そこから元はこれといって思想的な背景がなかったウィリアムがブラックパンサーのリーダー・フレッド・ハンプトン に感化されて目覚めていくのと、反対にそばにいるだけで裏切り続ける展開が平行する。典型的なアンビバレント(二律背反)。

ユダというともちろんキリストを裏切った弟子なわけだが、一方で「ジーザス⋅クライスト⋅スーパースター」で描かれたキリストを愛しすぎたために自分の手で葬りその罪をかぶる自己犠牲のキャラクターのイメージもあり、実際それに近いのではないかという最近の研究の結果も耳にしたことがある。
ウィリアムの末路はユダとはまた違うのだが、アンビバレントを背負い続けているので、単純にハッピーともアンハッピーともいえない。

フレッド役のダニエル・カルーヤの、黒人たちのプライドを取り戻させるカリスマの表現が見事(アカデミー助演男優賞)。
FBIの連絡役のジェシー・プレモンスはなんか見た顔だと思ったら、「すべての美しい馬」(00)でマット・デイモンの少年時代をやっていたというのに苦笑。なるほどデイモンに似てるのね。 

悪名高いFBI長官エドガー・フーバーを演じているのが実生活ではばりばりのリベラルのマーティン・シーンというのが面白い。役者とは自分とは真逆の人間をやりたくなるものなのか。




「あの夜、マイアミで」

2021年12月30日 | 映画
ボクサーのカシアス・クレイ(→このドラマの中でモハメド・アりと改名)がチャンピオンになったのを機に、黒人解放運動活動家のマルコムX、アメリカンフットボール選手のジム・ブラウン、歌手のサム・クックといったアイコン的実在の人物四人が一夜集まるというドラマ。

原作・脚本ケンプ・パワーズ。設定からしてこれは元は舞台ではないかと思ったら案の定。
監督は「ビール・ストリートの恋人たち」でアカデミー助演女優賞を受賞した女優のレジーナ・キング。黒人で女性という二重のマイノリティから四人の男を見事にアンサンブルとしてまとめた力量は見事で、それ自体がドラマの方向とかぶる。

アリのイーライ・ゴリー 、マルコムのキングズリー・ベン=アディル 、ジムのオルディス・ホッジ、サムのレスリー・オドム・Jr.の四人が時にあきれるくらい外観もそっくりで、それぞれいかにも言いそうなことを交わす根も葉もあるウソというか、ポップアート的な面白さと、それぞれの背景の立場と思想の重さ。
予備知識は必要な作りではあって、どこまでわかったのか心許ないが、勉強しないとという駆り立てられもする。




「私はいったい何と闘っているのか」

2021年12月29日 | 映画
スーパーの副店長を勤める中年男が、仕事上の悩みや娘の結婚や妻の昔の男絡みでうだうだしているところに、男が頭の中の思考がナレーションになって絶えずかぶさる、そのズレやコントラストで笑わせるという仕掛け。

ただその構成がどうもピリッとせず、妻とのなれそめを沖縄旅行に絡めて後から説明するような語りもとってつけたようでダレる。
娘が一方的に決めた結婚相手に顔合わせするところであたふたするシチュエーションはありがちだけれど割と笑えた。

脳内ナレーションの使い方だったら「私をくいとめて」の方がうまくいっていたと思う。一人暮らしと家族持ち、若いのと中年との違いはあるにせよ、センスの違いは感じる。

しかし新聞を読んでいたり、ナポレオンのブランデーを置いてあるのを自慢するって、父親が権威を見せようとする(そして大方失敗する)のと共に、いつの時代だろう感もある。

 - YouTube

「私はいったい何と闘っているのか」- 公式サイト

「地下鉄道~自由への旅路~」

2021年12月28日 | 映画
冒頭に残酷描写に対する注意書きが出るが、構えていてもかなりショッキング。
第一話の火炙りになって殺される黒人奴隷をもろに見せる。
第二話で鞭打ちをスポーツのように楽しんで「練習」「コーチ」する光景。

好意と「寛大さ」を持って黒人に接してくる白人の欺瞞も容赦なく描かれる。

「マンディンゴ」もそうだったが、とにかく奴隷制下の白人が黒人を当たり前のようにまるっきり人間だと思っていないのを繰り返し描かれるもので、ほとんどめまいがしてくる。
おそらくこれに近い感覚の(相手が黒人とは限らない)人間がいるであろうことも。

家に近づいていくカメラワークが何度も繰り返されるのが、奴隷たちにとってはホームはないことを逆説的に暗示する。
全十話のタイトルがすべて地名というのが、奴隷制度がアメリカ全体を貫く原罪であることを示すように思う。



「マトリックス レザレクションズ」

2021年12月27日 | 映画
オリジナルの「マトリックス」は予告編などで見た映像の斬新さにわくわくして思いきり期待して見に行き、そして正直失望した。
(余談だが、同じように予告編ですごい映像の連続に大期待して実物で失望したのにチャン⋅イーモウの「HERO 英雄」があって、予告編が良すぎる時は気をつけろ、と思っている)
続く二本の続編にもなかなか興味が湧かなくて、各々の新味を凝らした映像に辛うじて興味をつなぐだけだった。

こういう人間がさらにその続編を見に行くということ自体どうよと自分で思わないでもない。
好きで見に行くというより一応流行りもの、ヒット作を見ないと遅れるという意識もあると思う。

ただ、それだけでなく、なぜこれだけヒットし大きな影響を与えたシリーズの世界観に乗れないのか、考えてみたくはある。

今自分がいるこの世界は実は存在しておらず、まだ覚醒していない夢の中か、誰かに管理された電脳空間にでもいるのではないかといった妄想は特に若い時に割と一般的に持つ疑問ではないか。

厄介なのは、一見して荒唐無稽な認識であるにも関わらず論理的に批判しようとすると、その依って立つ認識の基盤はどこにあるかというと、どこまでいっても認識の結果から始まるのであって、認識そのものの確かさを保証するものはないという、中2病的に大人の世界を否定しようとすると、これは実に便利なリクツに陥る。
そこがどうも胡散臭い。

厳然として合意できる認識の基底というのはあるのであって(そうでなかったら現実も認識も共にありえない)、現実と仮想現実との間で遊ぶのにはあまり意義も興味も感じない。

実際のところ、「マトリックス」がウケたのは大きく二つあって、ひとつはそういったそういったとっつきやすいスノビズムと、現実の制限の軛から解き放たれた自在なアクション表現をテクノロジーを基にして繰り広げたから、と大ざっぱにまとめられるだろう。
エヴァもそうだが、一見して衒学趣味や知的遊戯に耽るうちに案外作者のストレートな動機からあさっての方に行ってしまうのに微妙な反発を覚えてきた。

あとアクションものとして困るのは、あまりに何でもできるようになりすぎて、そして劇の中で死んだ人間も(ミスター⋅スミスのように)平気で何度でも甦るので、限界にぶつかる緊張感がかえって薄れてしまったことだ。
これはあまりになんでもCGで表現できるようになったので、逆にああCGね、と索然として大作映画全般に対する興味が薄れてしまった傾向ともつながる。

今回はそういう自由さをむしろシリーズ側から封印して制限の中で戦うようにしているところがあるのが興味深い。元祖シリーズからの抜粋がたびたび挟まってコントラストを作っている。

もともとメタ構造的なシリーズをさらにメタ的な趣向(キアヌが「マトリックス」というゲームのデザイナーとして登場するなど)屋上屋を重ねるようで、逆にウケて陳腐化した要素を相対化しようとしている感もある。
ただそれが面白いかというと、もとの構造に興味が薄いからやはりさほど面白くないということになる。




「顔役無用(男性NO.1より)」

2021年12月26日 | 映画
1954年公開。
鶴田浩二、三船敏郎の共演作。配役序列では鶴田の方が先。
生まれは鶴田が1922年で三船が1920年、映画デビューは鶴田が1948年で三船が1946年といずれも三船の方が少し先輩。

鶴田は松竹でデビューしたわけだが、1952年に独立プロを設立して大映、東宝、新東宝の映画会社を股にかけて出演、「ハワイの夜」が超絶大ヒットしたりして、東宝に出る時は必ず配役はトップにするという契約だからこうなったらしい。
三船が武蔵を演じた「宮本武蔵 完結篇 決闘巌流島」では小次郎役の鶴田が、クレジットのトップとなったという(現在のビデオでは一番重い脇役、いわゆるトメ扱い。映画本編は未確認)。 

当然ながら、三船が硬派で、鶴田が軟派。
冒頭に出てくるダフ屋が大村千吉なのに笑ってしまう。

鶴田はチケットショップの女の子(当時21歳の岡田茉莉子)をたらしこんで横流しさせたチケットをダフ屋に高く売らせたり、その他とにかく行き交う女全員がきゃあきゃあ言うというほとんどマンガみたいな役。

三船の方は子飼いのボクサーを差し置いて自分が先に手が出るような血の気の多い顔役の役。
考えてみると、越路吹雪と三角関係になる女絡みでも商売の上でもコケにされっぱなしの感があって、鶴田が敵役になってもおかしくないのだが、終盤の母親(浦辺粂子)の登場で強引に丸く収まる。
ダフ屋とか八百長が絡む割にのんびりした調子で、最後も警察のお説教で済む。

二人が本格的に対決するガード下の喧嘩がほとんど真っ暗な中に電車の光がさーっと流れてくるあたりの調子はいい。対決そのものは曖昧に終わってしまうのだが。




「妻の心」

2021年12月25日 | 映画
1956年5月3日封切となると、ゴールデンウィーク映画ということになる(ゴールデンウィークという言葉は、1951年の「自由学校」を大映が松竹と競って映画化してヒットしたのを捉えて大映宣伝部長が呼ぶようになったのが定着)。
いかに娯楽が乏しい時代だったとはいえ、この地味といえば地味な内容のオリジナルシナリオ(井手俊郎)が、れっきとした一流キャストスタッフで映画化され、しかもおそらくヒットが見込まれたのに驚く。
しかもこの年、監督の成瀬巳喜男は他に「驟雨」「流れる」と三本も撮っている。

地味と言ったが、実は微妙な感情の綾や変化が、細かい技巧が絶えずこらされて具体的、映画的に描かれているのが見もの。
撮影・玉井正夫、美術・中古智、照明・石井長四郎、録音・下永尚、音楽・斎藤一郎といったスタッフワークの見事さ。撮影所の底力がうかがわれる。
 
成瀬巳喜男は小津は二人いらんなどと城戸四郎に言われたというが、言うまでもなく似て非なるもの、というより似てもいない。
微妙に斜めからのアングルと、前後のカットをかぶせるようななめらかな、しかしときどき飛躍させる繋ぎ。

三船敏郎がてらいのない二枚目ぶりで、人妻高峰秀子と一緒に歩いているだけで噂がぱっと広まるだけのオーラを発散していた。りゅうとした背広にネクタイと頭を撫でつけたスタイルというのも珍しい。

二人が連れ立って歩いていると雨で小さな店に一緒に降り込められるあたり、降ってくるのを省略していきなりざあざあ降りになっている中で二人きりになっているのに繋ぐ小さな省略の緊張感。
雨がやむのか降り続けるのか曖昧なまま何度かはさまる雨足のカットのサスペンス。
三船というと女性の前でバカみたいに照れるイメージが強いが、ここでも互いに憎からず思っているのに何言っていいかわからなくなってしまう微妙な気まずさがよく出た。

小林桂樹の夫が芸者を連れて秘密に旅に出るなど、今の感覚だったら即離婚ものだろう。
そういうところは変わったけれど、女って本当に損、というセリフはまだ生きているだろう。

成瀬巳喜男監督作の常で、身近な金の貸し借りのうっとうしい感じが実によく出ている。
最近出た新書でまだ読み終えてないが「サラ金の歴史」小島庸平によるとこういう背景があるから人に知られずに借金できるシステムが発達したとわかる。




「月曜日のユカ」

2021年12月24日 | 映画
男を喜ばせるのが生き甲斐の若い女の子、とはいかにも男に都合がいい幻想の女、には違いないが、その映画にしかありえない幻想を、デビュー作の「狂った果実」でフランスのヌーヴェル⋅ヴァーグに先んじたと評された中平康が製作当時(1964年)としてはありったけの技巧とセンスで描いてみせる。
古色を帯びたモダニズムといって不思議な印象を受ける。

正直「狂った果実」は脚本が石原慎太郎(まあ、セリフがひどい)ということもあってか、今見ると女を人間と見ていないのが丸わかりで凄い違和感がある。
昔の映画の無軌道な青春像というのも、しばしば男だけの特権であることがバレてきたとも言える。

これもそうとも言えるし、そうとも言えない。
映画自体が意図的に表面的に“無内容”を気取っているせいもあるし、加賀まりこその人の存在がテレビなどでも受け継がれて今に至っているせいもあるだろう。
というか、元から他人の操り人形にならないヒトなのだとも思える。





「クルエラ」

2021年12月23日 | 映画
クルエラの白と黒に二分された髪が、ダルメシアンの柄であると共に本来のエステラとの二面性を端的に見せる。

縦横無尽に流される70年代のヒット曲の数々の贅沢さ(ビートルズのカム⋅トゥゲザーだけはさすがに使用権料が高すぎたかカバー曲)

悪役のエマ・トンプソンの貫禄と数々の相当素っ頓狂なファッションの着こなしの見事さ。
マイケル・ストロング、ポール・ウォルター・ハウザー、ジョエル・フライなど脇役もそれぞれ役に見せ場が描き込んである。

ファッション界をそれらしく描くのは相当な費用とセンスと技術がいるだろうが、見事にやってのけた。衣装デザインは「眺めのいい部屋」「マッドマックス怒りのデスロード」でオスカー受賞のジェニー・ビーバン。

「スター⋅ウォーズ」から「五弁の椿」に通じる定型もあって、どこかに大元になる原典があるのかもしれない。




「馬喰一代」

2021年12月22日 | 映画
1951年大映作品。
主演は三船敏郎、京マチ子、志村喬と前の年1950年の「羅生門」と重なるところも多い。
志村喬が三船と対立する(と言いながら人情も見せる)金貸し出身の有力者で議員という役どころというのは珍しい。

三船は東宝出身のスターだが、キャリアの初期は大映や松竹の映画にも出ている。
黒澤明が東宝争議の後いったん東宝を出て各社を転々したのにつきあった格好だが(例外的に木下惠介=松竹の「婚約指輪」がある)、東宝社内の立場や契約はどうなっていたのかなとは思う。

黒澤作品ではないが、北海道の広大な大地を馬が疾駆するシーンは爽快。

監督は木村恵吾。小津と同い年の1903年生まれで、監督デビューはサイレント映画、狸御殿もので有名。
そのせいか、音の使い方が画面にべったりでなく、わざとずらして音だけで処理しているところが散見する。

競馬のシーン、三船が育てた馬が出場するが、病み上がりの身なので調子が出ず順位を落とすのを画では見せずラジオのアナウンサーの放送で聞かせ(ラジオの受信状態がひどく、あちこちに持って歩き、地面に落とすとぴたっとクリアに聞こえるようになるギャグ)、ゴール寸前から愛馬が疾走する姿を見せる。
メリハリが効いているとも取れるし、必要な競馬の画を撮るのが大変すぎるので上手に逃げたとも取れる。

息子が上の学校に行くため家を出ていくのを三船が身体の具合が悪いのを言い訳にして寝転んでいるのを、機関車の汽笛が聞こえてくるといても立ってもいられず無理を押して立つまでの、三船のアップに汽笛がかぶさる押しの演出も意識的に音を生かしたもの。

京マチ子が三船に惚れているし三船も憎からず思っているはずなのに三船が武骨過ぎてなかなかうまく噛み合わないのはイメージそのまま。
三船はずっと後の寅さんのゲストでもこういう役をやっていた。

冬の北海道で撮るのは大変すぎるからか大半のシーンはセットだが、よくできてます。子供が天国の母ちゃんに手紙を届けるんだと言って風船を飛ばす背景など逆に作り物ならではの情感が出た。

男の子がすごく健気で成績いいのに学校はお金がないから小学校までしか行けないあたりや、この子がまことに健気なあたりは時代が違うとも思うし、いい方に変わったのかどうなのかとも思う。

撮影は峰重義。のちに日活で鈴木清順と組む人だが、この頃は大映で仕事していたのね。




「ショップリフターズ・オブ・ザ・ワールド」

2021年12月21日 | 映画
モチーフになっているザ⋅スミスというバンドについてほぼ無知なので、ここで流れる音楽や実物の映像などに特に思い入れを持つことはないが、ある人にとっては救いそのものであるような存在でも興味や関心のない人にとってはなんのことやらというギャップはわかる。

ピストルを持ってDJが一人でやっているような小さなラジオ局に押し入ってザ⋅スミスの曲をかけろと命じるというのは、相当に危険でDJが銃でも持っいたら射殺されてもおかしくないような話。
タイトル(であり、ザ・スミスの曲名でもある)ショップリフターは横文字で書くと格好いいが、万引きのこと。これも描かれるが捕まることはない。

だからけしからんとヤボなことは言わないが、DJの態度など正直虫のいい展開で、純粋さやもとから世界に対して持っていた違和感をてこにして若者たちが通じあうモチーフ自体はわかるのだが、良くも悪くもどうもぬるい。

途中で銃弾で破壊されるカップにキッスのジーン・シモンズの絵が描いてあるのだが、「週刊ダイヤモンド」に「どデカく稼ぐ KISSに学ぶ成功の哲学」なんて記事が出るくらい商売上手なのを念頭に置いての選択だろうか。




「ブラック・ウィドウ」

2021年12月20日 | 映画
血がつながっているわけではないスリーパー(敵国に潜入して一般市民のふりをして長期間住み続けるスパイ)家族のうち、娘たちが敵味方に分かれるが最終的に和解する話。アメコミ活劇であると共に文字通りのシスターフッドものでもある。監督が女性というのに納得。

拉致によって一種の洗脳状態に置かれていたかつての自分たちを解放するドラマも絡む。
アメコミ活劇は今や必ず現代的なテーマやモチーフを持ち込んで料理している。

押井守が「攻殻機動隊」実写絡みで言っていたけれど、フローレンス・ピューと並ぶとスカーレット・ヨハンソンはかなり小柄でハリウッド的体形ではないのがわかる。「アベンジャーズ」シリーズでまわりがみんなデカくてCGやコスチュームで膨れ上がった男ばかりだとかえって気づかなかった。





「モスル あるSWAT部隊の戦い」

2021年12月19日 | 映画
国の政府の下部組織ではない、半ば以上生き延びるために必要だからまとまっている小隊が、ある任務を帯びて廃墟と化したモスルを移動していくのが主プロット。

そこに新しく参加した若者がいくつもの苛烈な経験を経て兵士になっていく一種の成長物語的なプロットがまた絡むが、さらに隊員が一人また一人と死んでいく展開が加わる。
誰がいつ死ぬのかわからない状況では人間関係や各人の成長もいつあっけなく立ち切られるかもしれず、定型的な作劇を使いながらそれを貫徹するのはあらかじめ封じられているようで、いくつもの定型がゆるやかにつなぎ合わせたところにこの作劇の新しさと巧みさがあるように思う。

小隊の中でもメッカへの礼拝を欠かさない者とそうでない者とが混ざっているなど、なんでもないようでおそらく大きな違いがあることがさりげなく描かれる。

一般人を狙ったISの狙撃に対して小隊隊員が背後にまわって制圧に成功した後、青年が撃たれた子供を抱えて慟哭する母親が撃ってきた方向、つまり今は青年がいる方をにらみ返すところでは、明らかに小隊そして青年も怒りの対象に入っている。

補給の銃弾とタバコを交換するところで、両方とも世界の戦場の共通語みたいなものだというセリフがあって、弾はともかくタバコがそこまで必要なのかと不思議な気がした。
そういう細部にも、というか細部にこそ国同士の戦争というより、戦闘状態が日常化してカオス化した環境に匂いが出たように思う。

れっきとしたアメリカ映画なのに全編アラビア語で通しているのは立派。一方であれだけの規模の廃墟と戦闘を映像として定着できるのはアメリカ映画だからだろうし、ラストで明かされる小隊の任務というのは、一種アメリカ的、というかアメリカ映画的ではある。




「アノニマス⋅アニマルズ 動物の惑星」

2021年12月18日 | 映画
全編セリフはまったくないが、68分という短さだからさほど負担にはならない。
描かれるのは、一応人間と動物との関係が逆転した世界。
なぜ一応かというと、動物がリアルな表現でなく、かぶり物をかぶった人間によって演じられているからで、一見すると失笑してしまいそうなのを、本当に笑うより前にシーンを切り上げるといった手で対応している。

つまり初めのうちは後ろ姿やシルエットにしたり、クイックカットを使ってはっきりわかるより前に切り上げてしまうといった調子。
そして人間(の顔をした人間)たちは動物、特に家畜のように虐待されいともあっさり殺されていく。

全体が大きく三つのパートに分かれていて、半裸の男が首に鎖をつけられ引きずりまわされる情景と、数人の男女が家畜小屋に入れられる光景と、野原に銃を構えた鹿(人間)が佇んでいるところとが、曖昧に交錯する。
それぞれがどういう位置づけなのかわからず、場面の繋ぎも明らかにわざとブツ切れにして、たびたび黒味をはさんで繋がれているもので、流れがおそろしく悪い。という明らかにわざと悪くしている。

それでいて最後にこれまた一応ひとつの構造をなして終わるので虚をつかれる。
クイックカットで何が起きたのか一瞬わからない(巻き戻して見たが、やはり相当にわかりにくい)が、見間違えしないようにしている。

積極的に誉める気はしないが(星取表の類の評価はおそろしく低い)、出来そこないいうわけでもなく作り手はかなりの程度狙いで作っているとおぼしい。それが成功しているか、第一どういうつもりでこういうのを作ったのか判断に困るが。
「猿の惑星」調の逆転世界というにはちょっとムリがあるが、低予算なりのデフォルメした世界を作ろうと腐心した感じ。
ちなみに自分はスクリプトドクターの三宅隆太氏がラジオをお薦めしてので見た。