1976年のジョージ・シーガルとジェーン・フォンダ主演の「おかしな泥棒 ディック&ジェーン」のリメーク。
旧作だと夫が会社をクビになるのだが、ここではCEOが一人で会社の金なんと四億ドルを独り占めにして逃げてしまうため会社全体がぽしゃってしまうという設定。従業員全員が職を失う上、退職金も出ないのだから、なお悪い。そしてこのアレック・ボールドウィン扮する金の亡者のCEOにいかに命より大事な金を吐き出させるか、という復讐がメイン・ストーリーになる。現代の貧富の格差の拡大と、トップの無責任ぶりをうまく取り入れた。
劇中のテレビ番組にラルフ・ネーダーが当人の役で出てくるのにびっくり。1960年代にアメリカ、というより世界で初めて消費者運動を始めて、自動車業界のビッグ3に欠陥車の発売停止と被害者への賠償金を認めさせた人であり、最近でもブッシュとゴアが争った大統領選挙(!)に出馬した人、という程度の知識はあったが、実物の動く映像は初めて見た。いかにもうるさそうな顔してるなあ。貧富の格差そのものに異議を唱え続けてビル・ゲイツに噛み付いたりしている人なのだから、ぴったりといえる。
わざわざ時代設定を2000年にして、主人公の仲間がエンロン(!)に再就職するというオチがつく。さらにエンドタイトルにワールドコムの誰それの協力を得ましたとか出るのだから、企業の無責任な利潤追求至上主義を批判している姿勢はかなりマジメなもの。
キャリーはここでプロデュースも兼ね、基本は得意のドタバタだが(身体がまだ動く)、一箇所だけ金持ちの勝手さに対する悔しさを露にするシーンだけマジでやってみせている。
もっとも、やはりエンドタイトルにジム・キャリーつきのスタッフの名前がずらっと十人近く並ぶのだから、皮肉。
(☆☆☆★)
旧作だと夫が会社をクビになるのだが、ここではCEOが一人で会社の金なんと四億ドルを独り占めにして逃げてしまうため会社全体がぽしゃってしまうという設定。従業員全員が職を失う上、退職金も出ないのだから、なお悪い。そしてこのアレック・ボールドウィン扮する金の亡者のCEOにいかに命より大事な金を吐き出させるか、という復讐がメイン・ストーリーになる。現代の貧富の格差の拡大と、トップの無責任ぶりをうまく取り入れた。
劇中のテレビ番組にラルフ・ネーダーが当人の役で出てくるのにびっくり。1960年代にアメリカ、というより世界で初めて消費者運動を始めて、自動車業界のビッグ3に欠陥車の発売停止と被害者への賠償金を認めさせた人であり、最近でもブッシュとゴアが争った大統領選挙(!)に出馬した人、という程度の知識はあったが、実物の動く映像は初めて見た。いかにもうるさそうな顔してるなあ。貧富の格差そのものに異議を唱え続けてビル・ゲイツに噛み付いたりしている人なのだから、ぴったりといえる。
わざわざ時代設定を2000年にして、主人公の仲間がエンロン(!)に再就職するというオチがつく。さらにエンドタイトルにワールドコムの誰それの協力を得ましたとか出るのだから、企業の無責任な利潤追求至上主義を批判している姿勢はかなりマジメなもの。
キャリーはここでプロデュースも兼ね、基本は得意のドタバタだが(身体がまだ動く)、一箇所だけ金持ちの勝手さに対する悔しさを露にするシーンだけマジでやってみせている。
もっとも、やはりエンドタイトルにジム・キャリーつきのスタッフの名前がずらっと十人近く並ぶのだから、皮肉。
(☆☆☆★)
朝日新聞が信頼回復のため編集局長を二人制にして、一人に紙面づくりを、もう一人に記者の管理・育成を担当させるという。わけがわからん。
責任者二人にしてどうするのか。帝国陸軍と海軍みたいに頭が二つになって喧嘩になるに決まっているではないか。
と、言ったら兄が「もう喧嘩になっているんだろう」。かもしれない。誰かと誰かがポスト争いしたあげく両方の顔が立つようにした、とか。
記者の管理とか育成って、紙面づくりを通してしかかりえないのに、ナニ考えてるんだろ。
あと、読者による紙面評価を取り入れるっていうけれど、これまでだって記事に対する反応はあったはずだ。それを記者の扱いに反映させてこなかったのが問題のはず。
これから、どう反映させるの?
朝日NHK問題
責任者二人にしてどうするのか。帝国陸軍と海軍みたいに頭が二つになって喧嘩になるに決まっているではないか。
と、言ったら兄が「もう喧嘩になっているんだろう」。かもしれない。誰かと誰かがポスト争いしたあげく両方の顔が立つようにした、とか。
記者の管理とか育成って、紙面づくりを通してしかかりえないのに、ナニ考えてるんだろ。
あと、読者による紙面評価を取り入れるっていうけれど、これまでだって記事に対する反応はあったはずだ。それを記者の扱いに反映させてこなかったのが問題のはず。
これから、どう反映させるの?
朝日NHK問題
N響アワーで実相寺昭雄がゲスト出演。
池辺晋一郎によると、実相寺は映画音楽を依頼する時、画面に合わせないで勝手に作曲してきてもらったのを後で画面に当て嵌めるという。
それで不思議と尺が合うとか。
というか、もともと怪獣番組にモーツアルトとか画面とズレるようにつけるのが演出の方法論のような気がする。
先日実相寺の演出で上演された「魔笛」の映像がちらっと出る。アニメみたいなコスチューム・デザイン。色のついた髪の毛。オープニングに出てくる竜が、擬人化されて口をぱくぱくさせる機関車になっていた。
前にやはり実相寺が演出した「魔笛」ではバルタン星人やレッドキングが出てきた。
なんでもドイツでもウルトラマンが出てくる「魔笛」があったのだとか。
前に実物の実相寺を見たことがあったが、まったく同じ印象。鳥みたいにあさっての方を見ているみたい。
池辺晋一郎との間に挟まった大河内奈々子が完っ璧に無視されていた。
池辺晋一郎によると、実相寺は映画音楽を依頼する時、画面に合わせないで勝手に作曲してきてもらったのを後で画面に当て嵌めるという。
それで不思議と尺が合うとか。
というか、もともと怪獣番組にモーツアルトとか画面とズレるようにつけるのが演出の方法論のような気がする。
先日実相寺の演出で上演された「魔笛」の映像がちらっと出る。アニメみたいなコスチューム・デザイン。色のついた髪の毛。オープニングに出てくる竜が、擬人化されて口をぱくぱくさせる機関車になっていた。
前にやはり実相寺が演出した「魔笛」ではバルタン星人やレッドキングが出てきた。
なんでもドイツでもウルトラマンが出てくる「魔笛」があったのだとか。
前に実物の実相寺を見たことがあったが、まったく同じ印象。鳥みたいにあさっての方を見ているみたい。
池辺晋一郎との間に挟まった大河内奈々子が完っ璧に無視されていた。
シリーズ5作目にしてこういう切り口があったかと感心する。
大沢樹生扮するホストが金持ち女に唆されて殺人に手を染めてというあたりから細かいツイストを重ねたあげく、監禁の館に紛れ込んでしまう展開が鮮やか。
もともと監禁ものは場所も人物同士の力関係も変化がないから単調になりがちなのだが、そこに外部からの人間を関わらせた分、ずいぶんドラマ的に面白くなった。
佐野史郎のヘンタイぶりはさすがだが、そのままだったらややまたかと思わせかねないのを、別の男の視点を加えたことで一段とイヤらしくなった。
そしてこの実にしょーもないホストが、監禁されている少女に対して白馬の騎士みたいになるのかと思うと、結局徹底してしょーもないまま通すのが逆に爽快。美化していない分、これはこれなりにひとつの「生き方」かと思わせる。
男に監禁されていた少女が「救われる」のではなく、自分の足で出て行くドラマとして構成して、成功している。
監督の若松孝二は、日本の監禁ものの原点みたいな「胎児が密猟するとき」を作っている人だが、屋内の官能シーンだけでなく、屋外の雪に埋もれた風景で徹底して役者を過酷に歩かせて、体をはった迫力を引き出しているのは、さすが。
(☆☆☆★★)
後註・四方田犬彦「パレスチナ・ナウ―戦争・映画・人間」によると、ヒロインが監禁されていた館から出て行くシーンで流れるのは、パレスチナ国歌だそう。若松孝二は1971年に足立正生と組んで「赤軍PFLP 世界戦争宣言」を作っている。詳しい意味は同書参照。
まったくといっていいくらい無視された映画だが「シンガポール・スリング」も「戦士」の誕生を描いたという意味で「赤P」とつながっているということか。
完全なる飼育 赤い殺意 - Amazon
大沢樹生扮するホストが金持ち女に唆されて殺人に手を染めてというあたりから細かいツイストを重ねたあげく、監禁の館に紛れ込んでしまう展開が鮮やか。
もともと監禁ものは場所も人物同士の力関係も変化がないから単調になりがちなのだが、そこに外部からの人間を関わらせた分、ずいぶんドラマ的に面白くなった。
佐野史郎のヘンタイぶりはさすがだが、そのままだったらややまたかと思わせかねないのを、別の男の視点を加えたことで一段とイヤらしくなった。
そしてこの実にしょーもないホストが、監禁されている少女に対して白馬の騎士みたいになるのかと思うと、結局徹底してしょーもないまま通すのが逆に爽快。美化していない分、これはこれなりにひとつの「生き方」かと思わせる。
男に監禁されていた少女が「救われる」のではなく、自分の足で出て行くドラマとして構成して、成功している。
監督の若松孝二は、日本の監禁ものの原点みたいな「胎児が密猟するとき」を作っている人だが、屋内の官能シーンだけでなく、屋外の雪に埋もれた風景で徹底して役者を過酷に歩かせて、体をはった迫力を引き出しているのは、さすが。
(☆☆☆★★)
後註・四方田犬彦「パレスチナ・ナウ―戦争・映画・人間」によると、ヒロインが監禁されていた館から出て行くシーンで流れるのは、パレスチナ国歌だそう。若松孝二は1971年に足立正生と組んで「赤軍PFLP 世界戦争宣言」を作っている。詳しい意味は同書参照。
まったくといっていいくらい無視された映画だが「シンガポール・スリング」も「戦士」の誕生を描いたという意味で「赤P」とつながっているということか。
完全なる飼育 赤い殺意 - Amazon
「朝日」ともあろうものが。 (河出文庫)烏賀陽 弘道河出書房新社このアイテムの詳細を見る |
著者はもと朝日新聞記者。もとはインターネットで発表されたもの(http://ugaya.com)で、すでに斜めに読んではいたが、きちんと単行本で読み直すと、よくある朝日批判のようにサヨクだとか中韓寄りだとかいう段の話ではなく、本当に会社としての体質がおかしくなっていると思える。
「アエラ」の「現代の肖像」のコラムに新しい書き手が欲しいというので、編集部員の筆者が書いて持っていくと、なぜか編集長代理が「俺は聞いていない」と言い出し、ヒラの編集部員が書くのは「前例がない」と言って没にする(ご丁寧にも、実は前例はあった。そんなことも調べなかったらしい)。せめて読んでから決めてくれと食い下がると、「読んだら、載せないわけにいかないじゃないか」という意味不明の理由で拒絶する(要するに判断する能力がないということだろう)。
アメリカにいる特派員が、十分な英語力がないものだから現地のアシスタントにつききっきりで通訳してもらい(正直、特派員なら当然英語くらいできるだろうと思っていた)、時にはインタビューも記事書きもやってもらって、のみならずその記事に自分の名前を入れる。おかげで、知日派の若いアメリカ人を激怒させ、日本から気持ちを離させてしまう。これはいささかショックだったし、人の仕事を横取りして平気という腐敗ぶりには肌寒いものを感じる。
「自己保身」「上役の顔色窺い」「年功序列」「横並び」「仕事の本来の目的を忘れた無意味な狭い仲間内の競争」といった、日本の会社とか役所の典型的な欠陥の塊みたいで、これで他の会社だの役所だのをよくぞ批判できるものだと思わせる。「自分を棚に上げる」という言葉を絵にかいたよう。努力した者もしない者もまったく同じに扱われるというあたり、昔の社会主義国かと思わせる。これじゃやる気をなくせというようなものだ。
朝日NHK問題
中盤、こんなシーンがある。
灯台から猫の姿が見えなくなり、しばらく探していた灯台守二人が休憩して話し込んでいると、いつのまにか猫が寄ってきている。ところが二人は話し続けて猫に気がついたのかどうかわからない、鳴いても何の反応もしない。シーンのラストでちゃんと猫を相手にしているのだから、どこかからは気づいたのだろうが、それがわからないようになっている。
なんでもないようなシーンなのだが、クライマックス、不倫ものだから当然亭主と若い男が対決しなくてはいけないのだが、どこで殺意を持ったのか、どこで死ぬ気がなくなったのか、といった普通だったら示されそうなモメントがない。
二人とも心ここにあらず、といった状態になって、通常だったら悲劇にまっしぐらになるのを、え?と言いたくなる展開で逆転する。
そういう不思議な、なんでそうなるのかわかるように描かない方法をとることを、中盤で予告していたのではないか、という気がする。
釣られたり缶詰にされたりして、魚が頻繁に出てくるのだが、その魚の缶詰をクライマックスで猫に食べさせているのは、見ようによっては灯台に「缶詰」になっている男たちを猫が見下ろしている図、という狙いかもしれない。猫に将軍の名前がつけられたりしているのだから。
魚をぶら下げている神父というのも出てきたが、キリストの十二使徒の何人かは漁師でしたよね。
不倫ものは人妻と若い男がメインで、亭主はつけたりというのが常道だが、ここではむしろ男二人の結びつきの方が強いくらいで、実際狭くて島からも離れた空間で一緒に暮らしているうちに気持ちが通じ合ってくる描写がよくできていて、二人が並んで写真に納まっているラストも納得できる。
この亭主がよく描けていることが、凡百の不倫ものとこれを引き離した。
戦後まもない(なぜ若者が絶対殴られても殴り返さないか、この時代と関係している)風俗描写の見事さ。
辺鄙な環境で、排他的になっていく人とあっけらかんとしていられる人とを共に描いている。
フランス映画だが、ロケ地の風景からかなんだかケルト的な男っぽさみたいなものを感じた。
(☆☆☆★★★)
息子のまなざし - Amazon
灯台から猫の姿が見えなくなり、しばらく探していた灯台守二人が休憩して話し込んでいると、いつのまにか猫が寄ってきている。ところが二人は話し続けて猫に気がついたのかどうかわからない、鳴いても何の反応もしない。シーンのラストでちゃんと猫を相手にしているのだから、どこかからは気づいたのだろうが、それがわからないようになっている。
なんでもないようなシーンなのだが、クライマックス、不倫ものだから当然亭主と若い男が対決しなくてはいけないのだが、どこで殺意を持ったのか、どこで死ぬ気がなくなったのか、といった普通だったら示されそうなモメントがない。
二人とも心ここにあらず、といった状態になって、通常だったら悲劇にまっしぐらになるのを、え?と言いたくなる展開で逆転する。
そういう不思議な、なんでそうなるのかわかるように描かない方法をとることを、中盤で予告していたのではないか、という気がする。
釣られたり缶詰にされたりして、魚が頻繁に出てくるのだが、その魚の缶詰をクライマックスで猫に食べさせているのは、見ようによっては灯台に「缶詰」になっている男たちを猫が見下ろしている図、という狙いかもしれない。猫に将軍の名前がつけられたりしているのだから。
魚をぶら下げている神父というのも出てきたが、キリストの十二使徒の何人かは漁師でしたよね。
不倫ものは人妻と若い男がメインで、亭主はつけたりというのが常道だが、ここではむしろ男二人の結びつきの方が強いくらいで、実際狭くて島からも離れた空間で一緒に暮らしているうちに気持ちが通じ合ってくる描写がよくできていて、二人が並んで写真に納まっているラストも納得できる。
この亭主がよく描けていることが、凡百の不倫ものとこれを引き離した。
戦後まもない(なぜ若者が絶対殴られても殴り返さないか、この時代と関係している)風俗描写の見事さ。
辺鄙な環境で、排他的になっていく人とあっけらかんとしていられる人とを共に描いている。
フランス映画だが、ロケ地の風景からかなんだかケルト的な男っぽさみたいなものを感じた。
(☆☆☆★★★)
息子のまなざし - Amazon