prisoner's BLOG

私、小暮宏が見た映画のノートが主です。
時折、創作も載ります。

「その男 ヴァン・ダム」

2011年08月29日 | 映画
シュワルツェネッガーの「ラスト・アクション・ヒーロー」ほどのスカタン映画ではないにせよ、ヴァン・ダムがヴァン・ダム自身を演じるというメタフィクションっていうのは、木に竹を接ぐようにアクションに小理屈をつなげる、インテリのおもちゃとしか思えず。
肉体を張るほうがよっぽど脳使うでしょうに。
(☆☆★★★)

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「ルパン三世 念力珍作戦」

2011年08月29日 | 映画




「ノストラダムスの大予言」と二本立てで公開された(’74)らしい。「念力」なんてついているのは、当時のオカルト・ブームに合わせてのこと。
「珍作」戦なんて、あらかじめ珍作と呼ばれるのを見越していたのではないかと思うほど。まだマンガの映画化がゲテモノ扱いされていた時期で、伊東四郎の銭形や田中邦衛の次元など、

しかし、ファッションや踊りの振り付けなど、今の目で見るとすごく古めかしく見える。

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「ベニスに死す ニュープリント版」

2011年08月27日 | 映画
ずいぶんしばらくぶりの再見だが、東京に名画座というものが何十もあった時代にはこの「ベニスに死す」と「地獄に落ちた勇者ども」のルキノ・ヴィスコンティ二本立てがそれこそひきもきらずという感じであちこちの名画座でかかっていて、こちらも河岸をかえては再見した(最初見た時は、「砂時計」云々のセリフあたりであまりにのったりしたテンポに飽きて途中で出たのだが)。

中でも印象的なのは大塚名画座で上映されたのを見に行ったところ、あまりに人が詰めかけていて、邦画専門の姉妹館であった鈴本キネマでの上映(「ピンク・レディーの活動大写真」ほかというから時代がわかる)を急遽中止し、二館入れ替えながら入りきらない人は整理券をもらって待つ、という上映方法にしていた。劇場の人が「こんなに客が来たのは開館以来だ」と呟いていた。
それで整理券をもらって待つ間、近くの古本屋で買ったのが角川文庫版で深井国のイラストの表紙の沼正三「家畜人ヤプー」だったというのは、余談。
ちなみに「ベニスに死す」上映の破裂しそうなくらいぱんぱんの劇場(今みたいに定員入れ替え制ではないからそうなる)で、ピンク・レディー目当てだったと思しきおっさんが何を間違えたか紛れ込み、わけがわからんとしきりと文句をとばし、あのおやじ(映画のダーク・ボガート扮するアッシェンバッハ)は頭がおかしいのではないかとのたまっていた。つまみ出そうにも満員で動きが取れないのだった。

それはともかく、いくら久しぶりとはいえ何べんも見た映画だから、さほど新しく気づくところもないだろうと思えたが、なんのなんの。以下、記す。

舞台になる20世紀初めのベニスのホテルには今のような団体客はもちろん、家族客もいない。
もちろんタジオ一家はじめ家族で来ている客はいるが、父親がおらず今のような核家族ではない。当時ああいうホテルを利用するブルジョワは、子供たちの管理は家庭教師にまかせていて家長である父親は仕事と遊びに励み、他の家族は母親をリーダーとして一団となって行動していたということだろう。

父がいない、ということは穿ってみれば、アッシェンバッハが信奉する理性主義の喪失を意味するとも思える。
主人公アッシェンバッハも娘をなくすことで父ではなくなり、売春宿での娼婦の態度からして男でもなくなっていたと思しい。映画には出てこないが、原作では妻にも先立たれている。
そういういたたまれなさと芸術家としての行き詰まりからかベニスに来たのだが、冒頭で乗ってくる汽船の名がエスメラルダ。そして娼婦の名もエスメラルダ。

街に白い消毒液が撒かれるのは、冒頭の汽船の白化粧した老人、そしてラストのアッシェンバッハの化粧とも対応する。街が先に死化粧した、といったところか。

ホテルの玄関脇にもホールにも部屋にもさまざまな色の紫陽花が飾られている。日本原産の紫陽花が海外に持ち出されたのはシーボルトによるものだといわれるが、20世紀初めにはイタリアにもずいぶん普及していたことになる。
その他、あっちにもこっちにもさまざまな花が飾られているが、終盤になるとすっかり姿を消す。ひとつだけ残ったのが、死せるアッシェンバッハの胸元の薔薇だけ、という計算の見事さ。
余談だが、ヴィスコンティ家出入りの花屋は、それだけで経営が成り立ったという。

アッシェンバッハはホールでも食堂でも新聞を広げている。支配人が外国の新聞がベニスの観光客を奪おうとして嘘を書いているというあたり、疫病を知ったのもそのドイツの新聞からだろう。外国に来ても母国語の新聞を読んでいるあたり、習慣を変えようとしない頑迷さがうかがわれる。

タジオの姉妹三人はいつも大きさこそ違え、同じデザインの服を着ている。なので、個性を持って見えるのはタジオだけということになる。

海岸のタジオがよく着る水着の横縞模様と脱衣所の木を組み合わせた横の線と、柱の縦の線とのコンビネーションのファッショナブルなこと。これは美術のフェルディナンド・スカルフィオッティの好みとも思え「暗殺の森」でも「アメリカン・ジゴロ」でも縞模様を好んで使っていた。

たとえば、海岸でラストシーンに現れるカメラは、前半でコレラを媒介したと思しきイチゴを売りに来たのに客の老人が「生の果物など危険だ」と警告を発する瞬間に画面に現れており、イチゴをタジオがつまんで走り去るところにもそのカメラを担いだ技師が通りかかる。カメラと「死」とはこの時すでに対応していたらしい。

初めてアッシェンバッハがタジオを見る、というより視界の中に捉える場面で、アッシェンバッハの主観カットかと思うといつのまにか彼が画面に入ってきて客観的カットにすりかわる演出がなされている。もちろんアッシェンバッハのまなざしはヴィスコンティその人のものだ。

圧巻、というほかないのは、ビョルン・アンドレセンのアッシェンバッハのというよりはカメラの、ヴィスコンティの恋焦がれる視線を振り払うでもなく受け止めるでもない、そのなよやかな全身の動きの振り付けの芸術と、それに対してアッシェンバッハ=ヴィスコンティのまなざしそのものがじらされ苛立ち身悶えするような官能性だ。直接話しかけ触れることがあるのは幻想シーンだけで、それだけに、ただ見る見られるだけの関係であることがはっきりする。
ベニスのうねうねとした迷宮的な町並みが、また絶えず視線をさえぎるかと思えばまた通すのに奉仕する。「夏の嵐」で見られたベニスロケの町並みを主にロングに引いてがっちりとしたタブローとして捉え、舞台の装置のように扱うのとはまったく違う処理だ。
ラストにカメラが置かれたのは、その視線のドラマのしるしかもしれない。

なお、モニカ・スターリング著「ヴィスコンティ ある貴族の肖像」によると、ラストシーンで老婦人が歌っているのはムソルグスキーの子守唄。また、アッシェンバッハの末期の目に映るタジオが逆光のなか片手を腰にあて、もう片手でどこか遠くをさすポーズはヴェロッキオのダビデ像のものだというが、右手を上げているのが違う。

ニュープリントだが、ごくたまにわずかな傷が見えるところがある。デジタル・リマスターまではしていないのだろう。
10月よりテアトル銀座にて公開。
(☆☆☆☆★)

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「ツリー・オブ・ライフ」

2011年08月26日 | 映画
よくここまでハリウッド的あるいは一般的文法を使わず、独自の文体を通したことに恐れ入る。
一方でここまでやらなくてもいいのではないかとも。

監督のテレンス・マリックがハーバード大学の哲学科を出ているせいか哲学的な作品かと思ったら、瞑想的と言ったほうがいい感じ。神を頂点とする宇宙の秩序からあくまで人間が見た秩序にコペルニクス的に置き換えたカント以来の西洋哲学とは違って、神(あまり一神教ではないが)の視点が入り込んでくるのが、この人の作風。

「天国の日々」で、リチャード・ギアとリンダ・マンズが夜の川で逢引する場面、浅い川で暗いので水の上を歩いている感じがちらっとする。そこで投げ捨てられたワイングラスが、もう登場人物たちには見えないのに川底に降りたカメラがアップにする。水にひそむ、何か神につながる力の暗示は、射殺されたギアが川に倒れこむのを水中から捉えたカットで完結する。

これまでの作品では汎神論的なセンスを自然描写の中に見せていたが、身近な空や野や太陽などを通り越して自然科学的な宇宙像にまで行くと、自然に対する人間の畏れという感覚が薄れて、人間が科学の力で撮って来た宇宙と言う感じにかえって近づく。

ブラッド・ピット、ショーン・ペンといったスターも、いわゆる演技的見せ場は乏しい。極端に言えば木や草と同じ次元の扱い。

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監督・脚本 テレンス・マリック
ウォルト・ディズニー・ジャパン株式会社

「星空のマリオネット」

2011年08月25日 | 映画
音楽とか乗ってるバイクとか、ものすごく時代を感じさせます。
古くなるのが悪いというわけではないが、1950年代くらいの日本映画の風俗ーその他が古くなっているのは魅力的に見えるが、それ以降となるとなんか安くなる感じが伴う気がする。単純に映画界の力が低下したせいもあるだろうが、日本の風景も劣化したということか。

川にはまって死んだ仲間を引き上げようとする前後は緊迫感あり。
(☆☆☆)

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「海の野郎ども」

2011年08月17日 | 映画
新藤兼人監督・脚本で石原裕次郎主演というかなりミスマッチな一作。

裕次郎が外国船が運んできたスクラップを荷揚げする(スクラップをもっぱら人力で運ぶのにびっくり)人夫たちに檄をとばす登場場面で、人夫たちがぼそっと聞いているだけでおうっとも何とも言わないのが妙な感じだし、スクラップが落ちてケガ人が出ても上から見ているだけで駆けつけようともしない。ふつうだったら皆に慕われている若頭といった描き方になるだろうが、どうもただの中間管理職みたいで魅力に乏しい。

カッコ良く悪徳業者のボスをやっつけるわけでもなく、逆にのされて反撃するわけでもないから、通俗娯楽とすると定型を外しすぎ。かといって社会派的にリアルな迫力を見せるには宮島義勇の撮影が「蟹工船」とまではいかなくても重厚感があるにせよ、スターがいる分作り物くささが抜けない。

日本人たちが妙なみやげ物を外人水夫に売りつけたり怪しげなクラブに案内しているあたり、1957年の日本というのは「もはや戦後ではない」と言われた一年後とはいえ「後進国」だったのだなと思わせる。
(☆☆☆)



「コクリコ坂から」

2011年08月16日 | 映画
冒頭、初めてビデオカメラを持った人がやたらと風景をなでるようにパンしてまわる、いわゆる壁塗りパンみたいなカメラワークがちょこちょこ見えてどうなることかと思うが、食事の用意の丹念な描写あたりから、これは「画を」見せるのではなく、「画で」見せる作りだとわかってくると調子が整ってくる。

東京オリンピック(1964年)の前年の横浜ってビルらしいビルなどあまりなく、商店街には平屋建ての家が多く並ぶ。
丹念に手をかけての再現と思えるけれど、「上を向いて歩こう」が流れたりしてもノスタルジックな調子は案外薄い。

旧制高校の男子寮みたいな建物(ただし、男女共学で女子の出入りも禁じてはいないのが戦後の匂い)と、哲学などの部活に、教養主義の残滓を嗅ぐ。

「ゲド戦記」が父親殺しから始まったの続いて、これは父親探しの話でもあるのでイヤでも宮崎父子の関係をだぶらせてしまうわけだが、単純に実の父を探すというのではなく、恋人が実の父を探し当てることが、ヒロインにとっても父を見つけることにもなるというかなりねじれた構造。

もっとも、ジブリブランドを抜きにして見れば(というのはムリだが)、普通に佳作という感じ。
(☆☆☆★)

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「おっぱいバレー」

2011年08月15日 | 映画
タイトルつけて綾瀬はるかをキャスティングしたところで喜んでしまって勝ったも同然と思ったのかどうか、そうは問屋が卸しませんでした。

ものほしげではあっても本格的にエッチ系に行けるわけないのが早々にわかってしまうので、興が乗らない。

代わりに時代色やノスタルジックな調子を出しているけれど、それだとストーリーが動かないのだね。
実際にあった話といったところでリアルさを求める素材でもないし、実話といわなければ信じられないくらい奇抜な話でもない。なんだか中途半端。
(☆☆★★★)
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「この愛のために撃て」

2011年08月14日 | 映画
看護助手サルテ(ロシュディ・ゼム)が、撃たれた上バイクにはねられて病院に運び込まれた謎の男サミュエル(ジル・ルルーシュ)の世話をするうち、何者かに妊娠中の妻を誘拐されサミュエルを連れ出すよう命じられる、という冒頭からどう展開するか大筋は見当つくし、実際その通りになる。典型的「追いつ追われつ」式娯楽映画で、その典型に忠実なのがまずうれしい。
語り口がきびきびして随所に使われる省略法も冴えて、上映時間が85分という短さなのも、うれしい。

犯罪者と善人の二人が一緒に行動するのはバディ・ムービーそのまんまだがさほど両者が影響を与え合うわけではなく、その場限りの協力体制なのがフランス式ハードボイルドで、犯罪者ジル・ルルーシュの佇まいもまことにハード。邦題とはだいぶ感触が違う。
善人であるサルテやその妻も追い込まれると思いがけない行動に出るのも説得力がある。

警察への不信感と敵視ぶりはほとんど70年代の東映映画を思わせるくらい。もともと日本の警察の方がかなりフランスの制度を手本にしているのだから、不思議はないが。
終盤、サミュエルが仲間たちに働きかけてとんでもない騒ぎを起すあたりは「野望の王国」を思わせたりする。ぶっとんでいて、楽しい。

サミュエルとサルテが刑事と逮捕された犯人を装う場面、サルテがぼくが刑事役をやると言うと「(おまえは)顔が善人すぎる」と却下されるのに笑ってしまう。刑事というのは、犯罪者なみに悪相というのはあちらも一緒らしい。

出てくる連中が金髪碧眼の典型的(?)白人がまったくおらず、アラブやアフリカが仲間の地中海沿岸の住人という感じの濃ゆいマスクが並ぶ。

地下鉄の生かし方がうまいのは「白い少女」「サムライ」の昔からフランス映画のお家芸的なものがあるが、ここでは「フレンチ・コネクション」ばりのすごい追っかけを見せ、しかもハリウッド映画の真似がかっていない。
主人公のキャラクター造形は「サムライ」のアラン・ドロンから、サルテという名前は「シシリアン」のドロンからというフレッド・カヴァイエ監督のインタビューを読み、なるほどと思う。
(☆☆☆★★★)
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「REC/レック2」

2011年08月13日 | 映画
一作目とは趣向を変えるのはいいけれど、ゾンビを撃ちまくるシューティングゲームみたいになったかと思うと「エクソシスト」みたいになる展開にびっくり。木に竹を接いだようとはこのこと。
フェイク・ドキュメンタリーって、一見無技巧に写す、写ってしまうものを前面に出すことでリアリティを出す効果があるのだけれど、人に取り憑く「目に見えないもの」を表現するのにはどうも合わない。

ビデオ映像にこだわった分、カメラアングルやつなぎが不自由になって、意外なところからゾンビが襲いかかってくる、というのも繰り返されると手詰まりになってくる。
(☆☆★★★)
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「第五福竜丸」

2011年08月12日 | 映画


死の灰を浴びて顔が真っ黒になって戻ってきた乗組員たちと周囲の反応が、知らぬこととはいえあんまりのんきなので、見ているこっちの方が怖くなる。

入院している乗組員たちのところに見舞いとしてテレビが運び込まれるのが1954年という時代を感じさせる。当時は民放としてはその前年に開局した日本テレビしかない(TBSの開局は1955年)。

事件の影響で「原爆マグロ」が大量に破棄され、魚の消費全体が落ち込んだといった風評被害は現在のフクシマにも通じていると思うが、映画ではそういう描写を省略して消費が回復したところにいきなりとぶ。映画は事件があった五年後に作られていて、まだ配慮が必要だったのだろう。

オープニングから十分近く、セリフらしいセリフなしで丹念に労働を描くシンプルな力強さは新藤兼人監督の後年の「裸の島」ほかにつながる。
それがだんだん新聞が出てきて政治・行政が関わり、アメリカとの交渉が絡んでくると、どんどん話がややこしくなって見えにくくなる。アメリカは今でも被害は放射能によるものとは認めておらず、200万ドルの補償も「好意による見舞金」であって賠償金ではない。なんだか「思いやり予算」の裏返しみたいだ。

第五福竜丸が調査のためタグボートに引かれて去っていくのをじっと見送る場面では、船そのものがひとつのキャラクターみたいに見える。物にも命を見ようとする日本的な感覚とも思える。

それにしても、この事件があってからもう五十年以上経っているけれど、核兵器はいっこうになくなりませんね。脱原発(って具体的に何だろう)のかけ声も五年後はどうなっていることか。



「アメリカン・ジゴロ」

2011年08月11日 | 映画


脚本・監督のポール・シュレイダーは映画批評家時代に小津・ブレッソン・ドライヤーを「超越的transcendentalスタイル」という共通項で論じた「映画における超越的スタイル」(邦訳は「聖なる映画」 古本はAmazonで9800円もする)の著者だが、この映画のリチャード・ギアの部屋に小津みたいな壺が出てくる。ただし、小津好みの赤ではなく青だが。さらにラストシーンは明らかにブレッソンの「スリ」の引用。

ジゴロ、なんて風俗を扱った一種のキワモノかと思わせて、途中から殺人容疑をかけられて「罪」を問われるのが、厳格なカルヴァン派の家に育って18歳まで映画を見るのを許されなかったシュレイダーらしいといえばらしい。ただし、「コール・ミー」を鳴らして思い切りファッショナブルなライフスタイルを描く調子のいい冒頭からすると、途中からテンポが失速する感は否めない。

リチャード・ギアが若い若い。ただ、この人が野獣系のセクシー・スターとしてもてはやされた、というのはやはりピンとこない。
若いと目がちっちゃいのが目立って、可愛らしさが先に立ちます。

ファッション・インテリアがすごく凝っているのが見もの。(ベルトリッチ作品で美術を担当しているフェルディナンド・スカルフィオッティがコンサルタント)
(☆☆☆)

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「ベニチオ・デル・トロが新藤兼人監督に『映画』の話を聞いた」

2011年08月09日 | 映画
日本映画専門チャンネルにて放映。この対談は「一枚のハガキ」の準備中にされたもの。

新藤先生の話し方がかなりゆっくりになっていて(日活ロマンポルノ裁判で証人として立った時は、速記者が困惑するくらいすごい早口だったのです)、さらに実際には通訳が入ってさらに長くなっただろう話をデル・トロがすごく真面目に聞いていて、聞いている画だけでも持つのではないかと余計なことを考えながら見た。

「落葉樹」で母親と子供が一緒に風呂に入る場面がフラッシュバックするのはセックスシーンの代用表現なのですか、という質問には答えなし。すごく微妙な話ですからね。だけれど、「絞殺」で息子が母親を襲う場面描いてますから、答えるまでもないようなものだが。

デル・トロも小さい時に母を亡くしていて、共感するところがあるという。
それにしても、よく見ているし、細かい具体的な表現について聞いてくる。

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「ナニー・マクフィーと空飛ぶ子ブタ」

2011年08月09日 | 映画
戦争中、という設定が意外と効いていて、子供たちにも厳しい状態に置かれ忍耐を要求されるのがムリなく設定できた。
空襲を受けているロンドンの空に偵察用の気球がたくさん浮いている光景が、邦題のせいもあってピンク・フロイドの「アニマルス」のジャケットの火力発電所の上に浮いたブタの風船に見えたりする。

わがままで躾が悪くてどうしようもない子供たちがだんだん仲間意識を持ったり信頼を築いたりといった教育がなされていくのにあたって、ナニーが魔法を使って何かをしてやったり干渉したりするのではなく、子供たちに自然にやるようにしむけて身につけさせるのが当然のことなのだが、よろしい。
エマ・トンプソンは脚本を兼ねているからといって自分がしゃしゃり出るような真似はしていないのが賢明。

子供たちが課題を一つづつクリアしていくうちに、醜いナニーの顔が次第に美しくなるというのが、はっきりしないなりに何か寓意を感じさせる。

おだてられなくてもブタが木に登る珍景が見られます。CG製の動物というのはやや興ざめなのだが。
外景、室内ともにイギリスらしい古色がついた質感が出ている。

特別出演のレイフ・ファインズの部下(Addis中尉)役がエド・ストッパードEd Stoppardというのでもしやと思って調べてみたら、案の定劇作家のトム・ストッパードの息子でした。
(☆☆☆★★)

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「鋼の錬金術師 嘆きの丘(ミロス)の聖なる星」

2011年08月08日 | 映画
二つの大国に挟まれた小国があるのが円形の谷の底、という発想自体は面白もいのだけれど、谷底の国とそこに住む人々という造形がいまひとつ腑に落ちない。そのまま地下を掘っていって両大国の下に勢力を広げられるではないか、などと思ってしまう。
あるいはマグマは普段どこに溜まっているのだろう、とか。シリーズものにありがちなのだけれど、設定がややこしくなりすぎる傾向あり。

人物の意外な正体という趣向は定石だけれどなかなか効いている。だけど、いちいち解説的なフラッシュバック入れなくて良いんだけどな。入れないとわからない客が多いと見ているのか(そうかも)。
その割に説明セリフ多くて、なかなか腑に落ちないのはそのせいもあるだろう。

映画の前段階を描いたマンガが収録された小冊子を渡される。なかなかお得感あり。
(☆☆☆★)

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