prisoner's BLOG

私、小暮宏が見た映画のノートが主です。
時折、創作も載ります。

2009年4月に読んだ本

2009年04月30日 | 
prisoner's books2009年04月アイテム数:5
ロシア闇と魂の国家 (文春新書 623)亀山 郁夫,佐藤 優04月05日{book['rank']
powered by ブクログ

「スカイ・クロラ」

2009年04月30日 | 映画
スカイ・クロラ [DVD]

VAP,INC(VAP)(D)

このアイテムの詳細を見る

何も起こらない退屈な時間を退屈なまま描かれても、あいさつに困る。

最初の主人公二人が出会うシーン、「太陽がまぶしくて」「カミね」というやりとりに不安になる。カミュの「異邦人」をまんま引用するセンスもだが、発音があいまいでどうなることかと思うと、悪い予感っていうのはどうして的中するのかなあ。
長セリフをアニメでやるのは鬼門みたいなものだが、押井守自身の「御先祖様万々歳」ではもっとうまく処理してたぞ。

飛行機のディテールはすごいのだけれど、同じことの繰り返しなのでだんだん眠くなる。
(☆☆★★★)


本ホームページ

「12人の怒れる男」

2009年04月29日 | 映画

もとのドラマが良く出来ているのだから、舞台をニューヨークからロシアにしたって大きく外れることはないだろうと思ったら、これがなんと大ハズレ。

場所や人物設定を変えたのはいいとして、陪審員がその権限と立場を越えて犯人と目されたチェチェンの少年に「同情」して「救おう」とするのは、やりすぎ。そんなのは、陪審員が関わるべきことではない。神のようにすべてを見通せる人間などいないという法の精神をひっくり返してしまった。
もともと、あのドラマは被告が真犯人ではないと立証しているわけではない。ただ合理的な疑いがあるのを立証しただけだし、それで必要にして十分なのだ。

しかも、そういう法的逸脱、越権行為を監督のニキータ・ミハルコフ扮する陪審員長が突然すべてを見通したような口調で説くし、ラストの字幕からしても作者たちは結構本気で訴えているみたい。しかし、本気でチェチェン問題描くのだったら、別の映画にするしかあるまい。

こうなるとロシアの「民主主義」ってどうなっているのか、気になってくる。人種差別主義者が大声でわめきちらすのがうっとうしく、オリジナルみたいに一泡ふかせる場面がないのも、リアルなのではなくドラマのカタルシスがないだけだ。

1時間36分のシドニー・ルメット版に比べてなんで2時間40分もかかるのか、一時間以上かけて何描いているかというと、チェチェン情勢が挿絵的に入るのと、それぞれの人物が自分のバックグランド(映画の創作)についてながながとセリフで説明するのとで、だから社会的な厚みが出るかというと逆。画面に出したことしゃべったことしか見えなくなり、かえって薄っぺらになった。

ラストカットの人間の腕をくわえた犬は明らかに黒澤明の「用心棒」の引用。だけど、黒澤は一瞬見せただけですぐひっこめたよ。あんなに焼けただれた腕を長々とは見せなかった。
(☆☆★★★)


「ザ・シンプソンズ MOVIE (劇場版)」

2009年04月28日 | 映画
ザ・シンプソンズ MOVIE (劇場版) [DVD]

20世紀フォックス・ホーム・エンターテイメント・ジャパン

このアイテムの詳細を見る

劇場公開時、所ジョージ・和田アキ子・ベッキーといったいかにも話題作りの声のキャストを組んで、WOWOWから見ている長年のファンが運動を起こして抗議したので、DVDでは大平透はじめ長年テレビ版の吹き替えをしていた人たちのキャストが別に収録されることになった。
見たのはオリジナル吹き替え版。わざわざ変な吹き替え聞く気にならず。

しかし映像特典は劇場版の吹き替えキャストだけを扱っているのだからふざけた話。もっとも、アニメで声はおなじみの人の姿を見ると、けっこう年取っていたりしてぎょっとすることあるけれど。

作画はテレビ版よりずっと手がこんでいるけれど、スペクタクルが魅力ってアニメじゃないものなあ。構成も弱いし、もともとタブーを扱うことが多いから、特にこれが大胆というわけでもない。残念。
(☆☆☆)


本ホームページ


ザ・シンプソンズ MOVIE(2007) - goo 映画

「禅 ZEN」

2009年04月27日 | 映画
中国語を当然のように使っているのが新鮮。仏教が舶来思想だったことをいまさらながら思わせる。ずいぶん前の映画だが、遣唐使を描いた「天平の甍」で中国を舞台にしていたのに日本語で通すという無茶をしていたのとは隔世の感。

その代わりというか、セリフの多くが漢語調なので、どんな字を書くのか耳で聞いただけではわからず、ひっかかるところが多い。

中村勘太郎の端然とした所作、佇まいが美しい。
(☆☆☆★)



「BLOOD THE LAST VAMPIRE」

2009年04月26日 | 映画

韓国とのコラボで実写映画化もされているけれど、セーラー服と日本刀というミスマッチにそそられる層がどこの国にもいるみたいね。米軍基地に密着したアメリカン・スクールって設定で、セリフの大半は英語。
ヒロインの唇の具合がアンジェリーナ・ジョリーみたい。

英語で通した日本製アニメに「バンパイアハンターD」というのがあったけれど、実写でやるより上なくらいリアルな血しぶきは、見せ場として世界的に通用するのだろう。
光をアニメで表現する効果、音響など、一時間ない短い尺に技術的成果を詰め込んでいる。
(☆☆☆★)


「接吻 Seppun」

2009年04月24日 | 映画

なぜ人は無視されたり話しかけて答えがないと怒るのか、それは人間は他者の承認なしには自己というもの自体がありえないからだ、人間の発達過程を考えてみると、まず自己があってそこから他者を認識していくのではなく、他者の反応の積み重ねの上にいわゆる自己が編み上げられるのではあって、その逆ではない、という説を読んで、ナルホドと思った覚えがある。

小池栄子(このキャスティングは誰がどこから考えたのだろう!)のヒロインが、意識的にマスコミや警察などを呼び寄せて無視しさった豊川悦司の殺人犯に何か感じるものがあって接近するのだが、その基本にこれまで周囲にもっぱら無視されてきた、自己を否定されてきた、という怒りがあるのは確かだろう。

近代社会は、中世のように神が作ったルールがあってそれを守るというのではなく、互いに自己同士がルールを承認しあってシステムを作ってきたのだが、そのシステムが続くうちあたかもそれがはじめからにあったかのように扱われるようになる。法律をいちいち自分が承認したものとして受け取っている人間がいるだろうか。
自己承認感のない人間にとってはそのような自分が認めた覚えのないルールを押し付けられるのは、自己否定と受けとり強い怒りと嫌悪感を持つ。
他者に対して無反応なのは、無関心なのでも高慢なのでもなく、押し付けに対する怒りと抗議であり、殻に閉じこもっているわけではないのだ。

ただし、押し付けている側はルールを当然の前提としているから押し付けという意識そのものがない。そこに食い違いと理解不能感が生まれる。わからなければ放っておけばよさそうなものだが、当然としている前提が脅かされているのに戸惑い、後付け的に理屈をこじつける。
テレビのワイドショーの解説などはその典型だ。しかしそれらの理屈は本質的に立証不能な事後的な仮説にとどまり、共通の認識の前提にはなりえない。
この映画は、後ろを向いて仮説を立てず、わからないながら前に一歩を踏み出す。

死刑囚と結婚する女の話、と聞いて初めは自分の思い込みを一方的に相手に投影する女の話かと思ったが、他の承認に始まり、相手に対して自分を認めてほしいことを開示し、他の承認を得て自己を初めて確認し、互いに承認しあい、といった具合に関係を弁証法的に発展させていくプロセスがダイナミックに描かれているのに感心する。
自分を認めることができたヒロインがみるみる生命感を得て子供ともにブランコをこいだりするシーンは素晴らしい。

その代わり、死刑囚の方は他との関係が築けたとともに、それまで静的だった自分の認識の中に殺した家族という他者が初めて現れてきて、恐怖を覚えるようになるところから、新たな齟齬感が生まれる。
必ず次の段階が現れて、スタティックな着地点としての結末というのはありえない。結婚が結末にならないのはもちろん、死刑という結末すら持たない。

仲村トオルの弁護士は、当然社会の法と秩序に忠実だ。そのルールの前提が脅かされる中、二人の関係をとりもつというより、ルールに依拠してきた自分自身が新たな前提を見つけるべく、関係の一部になる。

ブレッソン、という名前が頭をかすめるくらい(あの振り上げられたハンマー! 「ラルジャン」! そして前半完黙を貫いた豊川悦司の声が初めて響く時の恍惚。)厳密な文体を保つ映画だが、微妙に通俗的な連想を誘う表現がはさみこまれる。差し入れのみかんは加藤泰の「緋牡丹博徒・お竜参上」を思わせ、独房で死刑囚がみる悪夢はホラー映画風だ。そしてクライマックスも違和感を覚えるくらいはっきりスリラー調になって、にわかにどう評価・判断を下していいのかわからなくなる飛躍を果たす。
(☆☆☆★★★)



「インクレディブル・ハルク」

2009年04月23日 | 映画
インクレディブル・ハルク [Blu-ray]

ソニー・ピクチャーズエンタテインメント

このアイテムの詳細を見る

アン・リー版の「ハルク」が悪く凝りすぎたのを反省してか、かなりストレートなアメコミ調ですっきり仕上がった。
インテリっぽいエドワード・ノートンが緑の巨人になる落差も効いているし、二体の巨人の街中での大暴れが昔の怪獣映画ばりの着ぐるみの激突風になっているのもいい。
(☆☆☆★)


本ホームページ


インクレディブル・ハルク - goo 映画

「リダクテッド 真実の価値」

2009年04月22日 | 映画

映画学校入学希望の米兵が撮ったビデオ、フランスのドキュメンタリーの取材、イラクのテレビ取材、米軍施設内の監視カメラ、尋問時の記録、兵隊の家族が思いのたけを語るサイト、テロリスト側が撮ってネットに流した映像、などなどさまざまな映像のフェイクがコラージュされた作り。
米兵が仕掛け爆弾にひっかかったところを米軍側のビデオで見せたかと思うと直後に、同じ光景がテロリスト側が隠し撮りしてネットにアップしたものをつなぐなど、「立場」「視点」による違いを際立たせてはいる。

ありそうでなかったのは、アメリカ国内で大量に流された大本営発表映像のフェイク。もともとフェイクだからということか。
マスコミに流される映像がリダクテッド(編集済み)であることは確かだが、それに対する私的映像がどこまで編集によって切られた「黒塗り部分」を埋めるのか、私的というだけでは保障されない。ネットの情報がマスコミの偏向がかかっていないからといって「正しい」とはとても言えないように。

ラストの悲惨な被害者の写真の目の部分に「黒塗り」をかけたものを長々と流すのは、もともと被害者のプライバシーを守る黒塗りが公開するためのエクスキューズになってしまっていることや、この悲惨な映像自体フェイクかもしれないと思わせる効果など、さまざまなことを考えさせる。

もっとも、考えさせるのが目的なのかもしれないが、映画として見ると作者自身の視点が定まっていない、考えのなんだかはっきりしない羅列的な作りで、かなり退屈する。
ブライアン・デ・パルマって人は来日していてもずうっとカメラを持ってプライベートに撮りまくっていたというから、「自分の目で見る」のと「カメラを通してみる」のと違いがないようなものなのだろう。

なんだか可笑しいのが、フランスのドキュメンタリーが何も起こらないところに長々とヘンデルの「サラバンド」を、それも「バリー・リンドン」で使われたのに近いオーケストラ編曲で流していることで、これドキュメンタリーがえてして荘重な音楽をつけるのをからかい気味に再現しているのかと思わせる。
(☆☆☆)


「リリィ、はちみつ色の秘密」

2009年04月21日 | 映画
天才子役と言われて久しいダコタ・ファニングも役と同じ14歳となるとちらちらと娘役っぽくなってくる。
母親の死の真相を核にした作劇は、記憶の曖昧さをやや都合よくすぎるように思えた。

保護者になる黒人女性たちの暖かさが魅力。
(☆☆☆)


本ホームページ


リリィ、はちみつ色の秘密 - goo 映画

「フロスト×ニクソン」

2009年04月19日 | 映画
もともと結末はわかっている話だし、後になってからインタビューの様子を回顧するフラッシュフォワードが入るので、ドラマの意外性や盛り上がりより、何がこのインタビューの決め手になったのか、という分析的な見方になる。
とすると、必ずとも納得できる描き方ではない。深夜の電話はフィクションであることがかなりはっきりしているし、テレビ映えするか否かが決め手になったという解説はやや後付けの理屈、という印象はぬぐえない。

それと、テレジェニック(テレビ映えがする)人物がやたら得をする社会構造というのが、そりゃそうだろうと思う一方でそういうはっきり言ってバカげた価値観が横行する中、納得できない分、どこかすっきりしない。

ニクソンのしたたかさ、コンプレックス、などをひっくるめて、現実の人物としてはともかくドラマのキャラクターとしては魅力的に描かれている。政治家としての力量・功績はあるのだし。

謝罪にこだわるのは日本だけではないらしい。
(☆☆☆★★)


本ホームページ


フロスト×ニクソン - goo 映画

フロスト×ニクソン [DVD]

ジェネオン・ユニバーサル

このアイテムの詳細を見る

「屋敷女 」

2009年04月16日 | 映画

フランス製のスプラッターというのは、「地獄の貴婦人」の昔から独特のえげつなさがあるようで、血まみれ映画は珍しくないが、主役を妊婦にして顔をハサミで切り裂いて口裂け状態にするというのは相当に底意地が悪い感じで、展開の方も悪意満載。
タイトルは明らかに望月峰太郎の「座敷女」のもじりで、怖い女が襲ってくる点は一緒だけれど、後はもちろん関係ない。

ベアトリス・ダルは「ベティ・ブルー」でも狂気を孕んだ女を演じていたけれど、今回の基地外女は似ていて同じような役。
(☆☆☆)


「BUG/バグ」

2009年04月15日 | 映画

ホラー風の体裁で売られているけれど、ここにいるのは「エクソシスト」のウィリアム・フリードキンであるより、「真夜中のパーティ」('70)のフリードキン。
つまり舞台劇の映画化にウィリアム・ワイラーの二代目になるか(淀川長治)と評された演出家の37年後の力量に注目することになるが、腐っても鯛ととるか腐った鯛ととるか、微妙なところ。

舞台の映画化にありがちな空間をムダに広げることなく、リアリズムに沿って映像分割するのには成功し、得意の閉所恐怖症的感覚も出たが、舞台のリミットを守って妄想に現れる「虫」を直接画面に出すことはしないのはいいとして妄想が「伝染する」、という感じを出るくらいに映像が狂気をはらんで奔る、というわけにはいかない。本来狂気がかった表現はフリードキンの得意とするところだと思うが。

特典映像のインタビューで、フリードキンは「エクソシスト」が最初公開された26館の上映状態がどうなのか、音響からスクリーンの明るさから毎日チェックしたという。「恐怖の報酬」が公開されたのが、ちょうど「スター・ウォーズ」と同時期で、つまり映画のあり方が大きく変わる時期とぶつかってしまったもので期待されたほど当たらなかったとも。
それにしても、顔だけ見ていると若い時とあまり変わらないが、全身写ると完全な洋ナシ体型なものでびっくりする。
(☆☆☆)


「ダウト-あるカトリック学校で-」

2009年04月14日 | 映画
メリル・ストリープはやはり「マンマ・ミーア」みたいにはしゃいだ役より、こういうピリピリした神経が薄く青白い皮膚から透けて見えるような役が似合う。

フィリップ・シーモア・ホフマンの神父が少年と関係を持ったのかどうか、という一点が舞台劇的に表に出さない扱いになっていて、何の証拠もないのにストリープの校長が神父を責める場面は原理主義的でイヤだなあ、と思わせる一方で、ホフマンのぬるっとした個性とわざわざ爪が伸びているのに清潔だからいいのだと生徒たちに見せて回るあたり、いかにも気持ち悪くて何やっているのか知れないとも思わせる、多義的な解釈ができるようになっている。
もっとも、そのオフになった部分が映画だと舞台ほどは効かない、喚起力がない、という問題は残る。

どちらもキリスト教のイヤな部分を扱っているのだが、最終的には信仰に戻る印象。
(☆☆☆★)