なぜ人は無視されたり話しかけて答えがないと怒るのか、それは人間は他者の承認なしには自己というもの自体がありえないからだ、人間の発達過程を考えてみると、まず自己があってそこから他者を認識していくのではなく、他者の反応の積み重ねの上にいわゆる自己が編み上げられるのではあって、その逆ではない、という説を読んで、ナルホドと思った覚えがある。
小池栄子(このキャスティングは誰がどこから考えたのだろう!)のヒロインが、意識的にマスコミや警察などを呼び寄せて無視しさった豊川悦司の殺人犯に何か感じるものがあって接近するのだが、その基本にこれまで周囲にもっぱら無視されてきた、自己を否定されてきた、という怒りがあるのは確かだろう。
近代社会は、中世のように神が作ったルールがあってそれを守るというのではなく、互いに自己同士がルールを承認しあってシステムを作ってきたのだが、そのシステムが続くうちあたかもそれがはじめからにあったかのように扱われるようになる。法律をいちいち自分が承認したものとして受け取っている人間がいるだろうか。
自己承認感のない人間にとってはそのような自分が認めた覚えのないルールを押し付けられるのは、自己否定と受けとり強い怒りと嫌悪感を持つ。
他者に対して無反応なのは、無関心なのでも高慢なのでもなく、押し付けに対する怒りと抗議であり、殻に閉じこもっているわけではないのだ。
ただし、押し付けている側はルールを当然の前提としているから押し付けという意識そのものがない。そこに食い違いと理解不能感が生まれる。わからなければ放っておけばよさそうなものだが、当然としている前提が脅かされているのに戸惑い、後付け的に理屈をこじつける。
テレビのワイドショーの解説などはその典型だ。しかしそれらの理屈は本質的に立証不能な事後的な仮説にとどまり、共通の認識の前提にはなりえない。
この映画は、後ろを向いて仮説を立てず、わからないながら前に一歩を踏み出す。
死刑囚と結婚する女の話、と聞いて初めは自分の思い込みを一方的に相手に投影する女の話かと思ったが、他の承認に始まり、相手に対して自分を認めてほしいことを開示し、他の承認を得て自己を初めて確認し、互いに承認しあい、といった具合に関係を弁証法的に発展させていくプロセスがダイナミックに描かれているのに感心する。
自分を認めることができたヒロインがみるみる生命感を得て子供ともにブランコをこいだりするシーンは素晴らしい。
その代わり、死刑囚の方は他との関係が築けたとともに、それまで静的だった自分の認識の中に殺した家族という他者が初めて現れてきて、恐怖を覚えるようになるところから、新たな齟齬感が生まれる。
必ず次の段階が現れて、スタティックな着地点としての結末というのはありえない。結婚が結末にならないのはもちろん、死刑という結末すら持たない。
仲村トオルの弁護士は、当然社会の法と秩序に忠実だ。そのルールの前提が脅かされる中、二人の関係をとりもつというより、ルールに依拠してきた自分自身が新たな前提を見つけるべく、関係の一部になる。
ブレッソン、という名前が頭をかすめるくらい(あの振り上げられたハンマー! 「ラルジャン」! そして前半完黙を貫いた豊川悦司の声が初めて響く時の恍惚。)厳密な文体を保つ映画だが、微妙に通俗的な連想を誘う表現がはさみこまれる。差し入れのみかんは加藤泰の「緋牡丹博徒・お竜参上」を思わせ、独房で死刑囚がみる悪夢はホラー映画風だ。そしてクライマックスも違和感を覚えるくらいはっきりスリラー調になって、にわかにどう評価・判断を下していいのかわからなくなる飛躍を果たす。
(☆☆☆★★★)