prisoner's BLOG

私、小暮宏が見た映画のノートが主です。
時折、創作も載ります。

「聖地には蜘蛛が巣を張る」

2023年04月23日 | 映画
主人公の女性ジャーナリストが言いそうで言わないことがあって、つまり囮捜査のために娼婦に変装していても、 私はあなた(犯人)の言う「汚れた娼婦」ではないといっことは一切口にしていない。 当然と言えば当然なので、それ言ってしまったら殺された娼婦たちと自分は違うと上から目線になるだろう。
それだとミソジニーに対する批判という重要なモチーフが成立しなくなる。

特に後半幻想シーンがかなり現実と区別がつかないような形で挿入されてきて、しかも それが本当に現実ではないのかどうか微妙なところが怖い。
つまり幻想で描かれるようなことが本当にありえないのかどうか疑わしいということ。

また犯人にとっても 都合のいい幻想の中で生きているのであって現実は神の救いがあるわけでも何でもない。ミソジニーが何もプラスの価値のものはもたらさないように。
ただし犯人の憎悪や悪意は確実に伝染するし、増幅もしていき、しかもそれを悪いことだと思っていないのがなんともいえずおぞましい。

ミソジニーに捉われるのが必ずしも男だけでなく、その影響下にある女子供も例外でない。支配被支配そのものに関わる問題だからだ。

犯人の首を締める手が、たとえば窓の外に突き出して受けた雨を神のお告げのように感じているらしい手と共鳴する映画的演出。

男たちのミソジニー感覚の中にどうやら兵役体験があるらしいのが暗示されている。戦友というのは、母親以上に精神的な支えになるといった意味のくだりが、先日読んだレマルク「西部戦線異状なし」にあった。

製作会社にwild bunchなどヨーロッパの会社名が並び、どういうわけかデンマーク王国大使館が後援している。
ヨーロッパ諸国(デンマーク・ドイツ・スウェーデン・フランス合作)がイランの内情を批判する映画をバックアップしている格好で、若干大きなお世話感はあるが、不当とは言えない。

死刑を12回執行するとか、死刑以外にムチ打ちの刑を付するという判決にはホントかいとびっくりする。

イランに死刑があるのは意外ではないが、拘置中の被告と家族が仕切りなしに面談できるのは意外だった。日本はまだ映画やドラマで見るように仕切りがあるのだろうか。





「サイド バイ サイド 隣にいる人」

2023年04月22日 | 映画
冒頭、バスに坂口健太郎と茶髪の青年が黙って乗っているので友人同士なのかと思い、それにしては一言も口聞かないなと思ったら、場面が進むにつれ坂口の連れが二人に増え、しかも同じ場面の中でカットが変わると現れたり消えたりする。
こりゃ背後霊か何かと思ったら、中盤になってその連れの青年がバンドやってる映像をPCで見ているので、あれ実在の人間なのかと思ったら坂口の後輩で、当人つかまえて君の生霊がぼくについてまわっていると坂口が言い出すので目をむいた。

スピ系というのか、それにしてもここまで来るのに約一時間、全体で130分ってどうよ。
坂口が病んでいる人を診るとどこが悪いかわかるらしいのだが、それに背後霊だか生霊だかがどう関わっているのかよくわからない。そばで何も言わずに突っ立ってるだけですからね。

もう画面といい、ストーリーといい、動かざること山の如しでとにかく間の起きすぎもったいぶりすぎで、綺麗でぴたっと決まった固定画面が多い分、なおさら時間が凍りついたよう。
途中で何人も出ていきましたよ。





「search #サーチ2」

2023年04月21日 | 映画
全画面に伏線という宣伝文句は大げさではなくて本当に最初の方から なんでもないようなところに伏線が貼ってある。
前作の編集担当の2人が監督・脚本に当たったという割と珍しいケース。

ここに出てくるパソコン上のアプリ画像は全て実写ではなく作られたもので、俳優が出ているところ以外は 全てアニメーションみたいなものと監督たちは語る。
内容も手法もデジタルデバイスを手足のように使う世代の映画という感じ。編集というのは、昔からコントロール好きな監督がこだわるパートという気もする。
その一方で、ストーリーのひねりや着地などはごくオーソドックスな娯楽映画のものなのは一作目と同じ。

前作は映画館でしか見ていないのだが逆にこれを小さい画面で見たらあまりにもごちゃごちゃしていて見づらくなるのではないかという気もする。
監督たちは絵コンテならぬ ビデオでコンテを作ってそれをスタッフやキャストに見せながら作業を行ったという。それ自体は先駆者としてはジェームス・キャメロンあたりがすでにやっていたことだが、今では当たり前なのだな。

主人公の少女がいろんなアプリを使う手際がものすごく速いのはいいとして、たとえばわからない外国語(スペイン語)を訳すのがここまで速いかと思うが、まあ映画の嘘 ということで。

「サーチ2」と日本ではタイトルがついているが 原題はただのmissing=失踪。
あちらの映画だと 必ずしも2っていう具合に続編につかないで 例えば ダーティハリー2はただのMagnum Force。 それで続編だとわかるのだろうかと心配になるくらい。

リモートで遠く離れた中米で小さな仕事を頼むというのも コロナ以降の労働環境の変化を取り込んだものだし、 Google 翻訳も大々的に取り込んでいる。

それにしても GoogleやFacetime が実名で出てくるのは当然とはいえ、やたらと誰でも知るような企業名も仮名にする国から見ると、ちょっと奇妙な気分にもなる。ただ出てくるアプリで悪人が使うなのは架空のにしてたらしい。





「ハロウィン THE END」

2023年04月20日 | 映画
オープニングでシッターを務めている間に誤って人を死なせてしまう青年コーリーがマイケルを継いでブギーマンになる話なのかと思うと、これまでずうっとマイケルとかかずり合ってきたローリー(ジェイミー・リー・カーティス)の総決算となる、その顛末をローリー自身が書き綴っていく物語でもあるといった具合に焦点があまり絞れていない。

マイケルの出番がなんだか中途半端。半面、ローリーがなんべんも高いところから落ちても命に別条はないどころかケガもしていないみたいなのは、そのまんまで半ばブギーマン化しているみたい。

田舎町のどこにも行けない人間関係が煮詰まっている息苦しさや、人間と超自然の存在であるブギーマンとがシームレスに行き来するあたりなど、アメリカでも八つ墓村みたいなおどろおどろしい話は成立するのだなと思った。
いじめっ子が思い切り酷い死にざまを見せるあたりは、いいぞもっとやれという気分になる。

カボチャをくりぬいて作るおなじみのランタンがやはりおなじみのテーマ曲に乗ってだんだん脱皮するように大きくなるオープニングのタイトルデザインはなかなか良い。





「AIR エア」

2023年04月19日 | 映画
マイケル・ジョーダンその人は出演しておらず、 顔がはっきり映ることもない。 エンドタイトルを見るとDamian Delano Youngという、これまで短編に二本出ただけの人が演じている。
「She said」で実在の有名人物ハーヴェイ・ワインステインをやはり 顔を見せないで 描いていたが キャラクター 自体の正邪は真逆。

マット・デイモンが マイケルに対し説得する 長セリフ や、逆にジョーダンの母親が デイモンを説得しようとする長セリフなど、 言葉によってそれまで当然のこととされていた習慣、価値観が別の、次のフェーズに置き換わるのがくっきり描かれた。
仕事の上の勝ち負けという以上にその勝ち負けのルール自体を書き換えるのがスリリング。

収益に対するパーセンテージを報酬として受け取る、いわゆるインセンティブ契約は成功者とそうでない者との差を広げるものでもあるのだが、それは報酬を支払う側にとってもコワいものであるのがベン・アフレック(監督を兼ねる)のセリフで示される。





「仕掛人・藤枝梅安2」

2023年04月18日 | 映画
エンドタイトルに一作目同様あれ、この人出てたっけと思うような役と俳優の 名前が出てきて、その出番が エンドタイトル後にくる。 これはMCU同様に 池波正太郎ユニバースにするつもりだなと 思った。
映画の画面では2ではなく弐と表示される。本当は弐にしたかったのが、読めないといけないから変えたのか。

一とは 兄弟を 殺す殺されるというモチーフで かぶっていて、殺した者は殺される因果応報がいずれは仕掛人自身にも降りかかってくる暗示が緊張感にもなる。
一番悪い奴の殺し方が通常の鍼や毒の吹き矢といった目立たないスマートなものではなく、徹底的に苦しめて殺すのは私情が出ているからか。

最初に仕掛人が登場した70年代だとテレビでも平気でやっていたエロチックな描写が大幅に抑え気味。
元締が石橋蓮司だと、いつ裏切りはしないかとひやひやした。

タイトルにずらりとローカルテレビ局の名前が並ぶ。キー局に対する対抗心があるのかと思ったりした。キー局はまるっきり権力と一体化していて、ドキュメンタリーで骨のある作品を出したりするのはローカル局だったりするものね。
日本映画専門チャンネルが軸になっているっぽいが、どういう体制で作られたのか。ここまで多いと通常の製作委員会方式とも違う気もするこれこれ

これだけいっぱい集まると製作条件もいいのか、画面は厚みがあって、しかもデジタルを取り込んだ新しさもある。





「わが映画人生 黒澤明監督」(没後10年 大島渚監督)

2023年04月17日 | 映画

日本映画監督協会が続けている監督が監督にインタビューするシリーズで、撮った素材をほとんどそのままつなげているみたいな映像集。まず記録として貴重だが、たとえば○○ちゃんと呼ばれているのは誰のことなのかわからないことも多く、字幕で示してもいいのではないかと思った。

インタビュ―する側の大島渚がほとんど自分の監督としての経験を語らず、聞き手に徹している。
たとえば、日本の監督が海外に出ていく時の体験など、大島自身が「愛のコリーダ」から「戦場のメリークリスマス」「マックス・モン・アムール」に至る歩みを黒澤の海外での評価とハリウッド進出の失敗と比較するよう話に持っていくこともできたと思うが、そういう(多分)デリケートなところには触れていない。
あまり聞かれたくないようなことは聞かないようにしているのが伝わってくる。大島渚は意外と(でもないが)長幼の序に忠実なのではないか。

助監督時代、スケジュールや予算の管理からロケハンから脚本、編集とあらゆるパートを経験させられて、当時の東宝だと助監督は幹部候補という位置づけだったという。終わりごろになると、ほとんど現場にはB班的な仕事がある時には出るが、なければ脚本書くか酒飲んでいたかという調子だったらしい。
これが次第に量産する都合もあってか分業化して他のパートに関わらなくなったのは監督を育てるという点ではよろしくないと黒澤は語る。

大島も時代は下がるが松竹の助監督時代に他の会社だったらスクリプターがやる仕事までさせられていて、そういうトータルな具合に商業主義でやっていく地盤を身につけたのが後で創造社を起こして潰しもしないでなんとかやっていけたのに役立ったという意味のことを別の場所で言っている。

黒澤がずうっとタバコ吸いっぱなし。

大島がドイツ人プロデューサーに黒澤が助監督時代に書いたシナリオ「達磨寺のドイツ人」を映画化できないか打診されたと語る。けっこういけそうな気がするけれど、黒澤は否定的。



「ザ・ホエール」

2023年04月16日 | 映画
元が舞台劇ということもあってほとんど 室内で登場人物も限定されている。
画面はどこから光が来てるのかわからないローキーで統一されていて、強い光が差し込むところを限定しているのが効果的。
カメラワークや編集も舞台くささをまるで感じさせない。わずかに挟まれる屋外シーンが海というのは、開放感と鯨というモチーフに合わせてだろう。

アカデミー賞を取っただけのことはあって特殊メイクとブランドン・フレイザーの演技はちょっとびっくりするレベル。テレビだとこういう極端な肥満体はもっぱら見世物的に「治療」の対象として描かれるが、さすがに次元が違う。ブランドンの声などそれこそ鯨の吠え声みたい。

テレビの「名探偵モンク」に鯨のデールというやはり部屋から出られないくらい肥満した犯罪者がどうやって外で人を殺せたかという謎のエピソードがあって、「ロッキー・ホラー・ショー」や「レジェンド」などでもすごいメイクアップを見せたティム・カリーがやはり特殊肥満メイクで演じていたが、あれはベッドの上でほとんど身動きできない設定だったから、技術的にはかなり楽だったろう。

鯨というタイトルから、ハーマン・メルヴィルの「白鯨」が出てくるだろうとは思ったら案の定。
アメリカ文学の代表作な割に、おそろしく読み通しにくいのはウディ・アレンの「カメレオンマン」のネタにされていたくらいで、長いだけでなく本筋から脱線して鯨に関する百科全書的な、たとえば鯨の脂肪の層は一メートルもあるとか、その油をとるにはどんな手順かとかいった記述が細部に至るまでえんえんと続くもので退屈と言えば退屈なのを、主人公の娘があっさり王様の耳はロバの耳式に言ってしまう。
そこで終わらず、徒労に思える人生の意味という点で作品のモチーフに持ちこむことになる。

それにしても「ノック 決断の訪問者」といい、同性愛カップルと子供の話が続く。介護人にして義理の妹役が東洋人のホン・チャウというのも含め、「伝統的」家族だけが未来にバトンを渡すわけではない、という認識が一般的になってきた表れだろう。





「マッシブ・タレント」

2023年04月15日 | 映画
ニコラス・ケイジが自分自身の役を演じて、 しかも彼の大ファンであると同時に 犯罪組織の幹部で某国の大統領の娘を誘拐して立候補を断念させようとしている悪人のもとに CIA の要請で潜入するという無茶な任務につかされ、さらにその幹部がケイジ主演のシナリオを書いていてその内容自体がこの映画のベースになって、映画の進行と共に書いている内容が変わってくる、という、こうやって書いているとひどくややこしく思える構造なのだが、見ている間はすらすら呑み込めるように出来ている、普通の娯楽映画として見られるのがいい。
似た趣向だった「その男、ヴァン・ダム」ほど自虐的ではない。

昔、渋谷のまんだらけで大型のガメラのフィギュアに ニコラス・ケイジ様 お買い上げという札がかっていたけれどもあれは本当のニコラス・ケイジだったのだろう。
とにかく浪費癖と破産とそれを補うやたら大量の映画出演ぶりのお騒がせ セレブだったわけだが 今回はそれを セルフパロディとして 演じる一方で、たくさん出たのは確かだがシナリオを読んで乗れるところがあったから出演したので、粗製乱造と言われるのは心外ともインタビューで語っていた。というか、よくこのシナリオ受けたと思う。

どうでもいいことだけれど、ケイジ主演の「ドライブ・アングリー3D」で共演したアンバー・ハードはジョニー・デップの元妻、というより、この映画で名前を覚えたらあれよあれよという間にデップと結婚離婚、そして泥沼訴訟と敗訴になってびっくりした。

「フェイス・オフ」のケイジの実物大フィギュアがガラスケースに入っていて、それを見るとケイジ自身とガラスの反射で二重写しになる象徴的カットなど、エンドタイトルで見るとフィギュア製作者以外にデジタル処理もしているらしい。ずいぶん手がかかっている。

冒頭にこの映画の字幕担当以外に戸田奈津子ほか「コン・エアー」などの作中引用されるこれまでのニコラス・ケイジ主演作の字幕担当者の名前が出るというのは珍しい。 字幕翻訳にも著作権があるからだろう。
しかし、映画記録サイトで翻訳者の名前がわからないというのは手落ちですね。

エンドタイトルを見ていると、interpreterとtranslateと二種類出て、どちらも通訳の意味だがどう違うのか。





「ノック 終末の訪問者」

2023年04月14日 | 映画
突然、他人の運命を縁もゆかりもないはずの人間が一方的に負わさせるのはリチャード・マシスンの「運命のボタン」をちょっと思わせ、それが世界の破滅にまで至っているのはタルコフスキーの「サクリファイス」のサスペンス版 アレンジという感じもある。 ラストの方で後者とよく似た絵も出てくる。 もっとも火はCG 製だが。

侵入者たちの言うことが本当なのか、ただの妄想に過ぎないのかはっきりしないのが強いサスペンスになっていて、本来だったら荒唐無稽としか思えない話がこのところのテレビで昔だったらフィクション映像でもありえなかったような出来事をぼんぼん伝えてくる現状が現実にあるからもっともらしく見えてしまう。
ただラストがはっきり割り切りすぎてる感じはある。

侵入される一家がゲイカップルと養子の東洋人の女の子というのは今風というか、破滅が待っているかもしれない未来を担うのは「伝統的」な家族=人びととは限らないということか。

登場人物はほとんど 7人だけ、舞台はほぼキャビン1つという ずいぶんコンパクトな作り。 これだったら 日本映画でもできるのではないかと思うくらいのスケールで、極端に言えば回想シーンを除けばテレビの「トワイライト・ゾーン」の1話でも収まるくらい。

知らない出演者ばかりだなと思っていたら、4人の侵入者のうち一番キレやすい男をやってたのがハリー・ポッターのロン役のルパート・グリントでした。





「オオカミ狩り」

2023年04月13日 | 映画
(ネタバレあり)
フィリピンに逃亡していた凶悪犯たちをまとめて貨物船に乗せて韓国に送還するのだが、同じ船にフランケンシュタインのモンスターみたいな謎の怪力巨人も一緒に乗せられていてこれがなぜか暴れ出す。本当になぜかで、後で考えてみても原因がわからない。何か薬を注射したから暴れだしたのかと思うとおとなしくさせるための睡眠薬だと後でわかるといった調子。

初め犯罪者集団vs警察の限られた船内のバトルになるのかと思ったら(それにしては警察側が弛みすぎ)、モンスターが割り込んできてちょっと「プレデター」みたいに違うストーリーに脱線することになる。実際モンスターの主観で体温を色で表わすサーモグラフィみたいな画面がはさまったりする。

ただしストーリーの軸を移す手際が悪く、誰が主人公になるのか、少なくとも誰が話の軸になるのかブレまくるので、どう見ればいいのかだんだんわからなくなってくる。つまりノリにくくなる。
さらにある程度キャラクターが定着したところであっさり殺される肩透かしの連続で、全編ホラー映画そこのけの血みどろ描写もあまり繰り返されると退屈こそしないが飽きてきます。

また回想シーンの入れ方の手際が悪く、特に終盤無理やり話を捻じ曲げてあらぬところに持っていくのが、なんだか映画というよりシリーズものの第1話みたいで、どうにもすっきりしない。
日本で劇場公開されるレベルの韓国映画で、これだけストーリーラインとキャラクター配置と、つまり構成がガタガタなのは珍しい。

そしてモンスターの正体というのが第二次大戦中に日本軍が生体実験で作った兵器でしたというのには、またぁとうんざりした。
その生体実験シーンに出てくる日本軍人と医者たちの日本語がすげーいい加減で字幕がついてたのは失笑もの。
こういうのをエクスプロテーションというのです。

目を縫い合わせて口の中にウジが湧いているモンスターの姿、どこかで見たようと思ったら「サンゲリア」のサングね。









「親愛なる同志たちへ」

2023年04月12日 | 映画
物価高と低賃金に対する不満からのデモに当局が手を焼いて上=モスクワからの圧力もあって群衆に発砲してしまう。このあたりはまるっきり資本主義国のデモかストライキに対する弾圧と同じ経過と絵面が続くのがなんともいえない皮肉に見える。
ここで明らかに狙って撃っているようではなくても流れ弾が当たったらしい描写にしている

この映画の舞台の1963年というと、1937年生まれのコンチャロフスキーがソ連邦国立映画大学の卒業制作の短編「少年と鳩 」を発表してヴェネツィア映画祭で短編部門のグランプリを受賞、大学の同窓生のアンドレイ・タルコフスキーが同じ映画祭の長編部門で「僕の村は戦場だった」がやはりグランプリを受賞した時期にあたる。
白黒・スタンダードサイズで作られているのもこの頃でも古風なフォーマットなのをあえて再現しているのだろう。

いわゆる「雪解け」と見なされた、当時の新しい世代のソ連の監督が輝かしい成果を上げた時期なわけだが、すぐ当局の引き締めが厳しくなり、二人が共同脚本を書きタルコフスキーが監督した「アンドレイ・ルブリョフ」は五年に及ぶ公開延期になり、コンチャロフスキーは「貴族の巣」「ワーニャ伯父さん」といった安全パイの19世紀ロシア文学の映画化に向かった。

この映画で発砲の前に子犬が親犬のおっぱいに吸い付いていたり、虐殺計画を聞いた車のまわりの畑から鳥が黒雲のように飛び立ったりを見せる一種抒情的な映像感覚はこの初期作品から見られる。

1984年に渡米して「マリアの恋人」を撮ってからしばらくアメリカで仕事して、その後もロシアはじめ各国を股にかけて活動している。タルコフスキーが亡命宣言を出してパリで客死するのに比べると、言い方悪いが世渡りは上手い。父親がソ連国歌の作詞家のセルゲイ・ミハルコフという家柄のせいもあるのではないかと想像する。
虐殺の描写は思いの外控えめ。






「GUNDA グンダ」

2023年04月11日 | 映画
本物の豚の誕生から成長している姿を追っていく映像集には違いないのだけれども、豚がずっと歩いているところをずっと明らかにレールを敷いた移動撮影で追っていくところなどあまりと言えばあまりにカメラワークとして出来すぎていて、ドキュメンタリーというより、自然の素材を使った劇映画に近い。

白黒映像の美しさも音響効果もどういう風に光を当てているのか、どこまで同録なのかよくわからないくらい自然だが出来すぎ。

さりげなくというか、結構あからさまに子豚たちが死んでいるのがわかるように撮っている。





「ダンジョンズ&ドラゴンズ アウトローたちの誇り」

2023年04月10日 | 映画
クリス・パインがかなり無責任なダメ親父役っていうのがひねっていて、アクションシーンは ミシェル・ロドリゲスに任せてある。
角と尻尾を生やしたソフィア・リリスが可愛いと思ったら 「IT イット」の子供の一人なのね。 かなり成長したと思ったがまだ21歳。
途中から出て途中で消えてしまうレゲ=ジャン・ペイジが完全無欠のヒーローで、何か裏があるかと思ったらうっちゃるのが上手い。逆にここまで完全無欠だと主役にならず、脇だからこうできたと言える。

魔法使いサイモンのご先祖様がえらい 性格が悪くて意地悪なのがこういう性格づけもあるかと思わせる。
かつての少女漫画から抜け出てきたみたいな二枚目だったヒュー・グラントが 「パディントン2」に続いてかなり三の線に寄せた悪役をやってるのが楽しい。上手に歳とつきあっている。

コミカルな珍道中ファンタジーという点で「コナンPART2 キング・オブ・デストロイヤー」を思わせた。といっても、シュワルツェネッガーの主演作ではあまり知られていないだろうが、リチャード・フライシャー監督の職人芸を楽しめた拾い物的に楽しい映画で、これも大作なのだがサイモンが自分が一番最後に行くと言った 次のカットでもう降りてるところに繋ぐなど、細かいところでさりげなくテンポアップしてするなど芸が細かい。
おかげで2時間15分という長尺なのだがダレないし疲れない。

最近の大作、エンドタイトルの途中で本編の続きのオチをつけることが多いけれども、この場合それがどうなるか途中で見当がついたしその通りになった。





「生きる LIVING」

2023年04月09日 | 映画
オリジナルより40分も短い。それは主に後半の通夜の場面が大幅に整理されていることによる。
通夜という親戚や役所の上司や部下や近所の人たちなどあらゆる関係者が一度に会する通夜の場面は、イギリスを舞台にしたので葬儀後の会食や列車の中の会話などに分割された。

オリジナルではこの通夜は芸達者の出演者たちがたっぷりと見せ場を振られている「芸の交響楽」(小林信彦)で、考えてみるとお話のスケールからするとこのリメイクのようなむしろ小品がふさわしいのが、全盛期の黒澤明の力量が噴出して異常なヴォリュームとスケールを持ったのが逆にわかる。
普通日本映画と外国映画のキャスティングを比べてみると外国の方が顔立ちにせよ人種にせよ多彩に感じることは多いのだけれども、この場合はオリジナルの方が多彩(ここではちらっとインド人であろう部下が目に入るのが工夫だし、イギリスらしい)。

時代設定は1953年とオリジナルとほとんど同じなのだが、雰囲気は全然違う。 日本の方がいったん戦争で焼け野原になってそこから復興していく一種 むんむんとした熱気と猥雑さがあるのに対し こちらのロンドンは いかにも端正で古式豊か。端的に言って、敗戦国と戦勝国との違いか(もっとも考えてみるとロンドンもV2ミサイルによって破壊されたわけだが、何事もなかったように復興されている)。

主人公が部下たちを呼ぶのにいちいちファミリー・ネームにミスターをつけるバカ丁寧ぶりは「日の名残り」の執事スティーブンスを思わせる。

役所の中で ほぼ 唯一主人公の意思を受け継ぐ 存在であるオリジナルの日守新一に当たる若者(アレックス・シャープ)を最初から前面に出して、ある程度その目を通して描くようになっている。
同じくオリジナルの小田切みきにあたる 若い女性(エイミー・ルー・ウッド)が転職するのだがそれがどういう顛末をたどるかについてはよりリアルに寄せている。うさぎのおもちゃの使い方がリスペクトにはなっていてもオリジナルと性格が全然違っていて、時代の推移により女性の仕事のありようやモノを作る仕事というのが単純に空想的に扱えなくなった現れだろう。
一方で若者同士を接近させて未来につなげる工夫もしている。

冒頭のロンドンの風景は 当時の実際のロンドンの実写なのだが、それからドラマ部分に移行する色の調節などうまくいっている。 スクリーンサイズが 1対1.33 のスタンダード サイズ というのも 珍しい。 文字通りクラシックな枠組みがふさわしく、ラストにきちんとThe Endと出る。

あまりに宣伝でカズオ・イシグロの名前を出しているので、そこまでイシグロ色が強いのかと思ったら本当に強いのでちょっと驚いた 。

自分を抑えすぎるのが習い性になってどう感情を表現していいのかわからなくなってしまっているキャラクターが「日の名残リ」の主人公と一緒。ビル・ナイの抑制と集中に徹した演技は見事。
演技と映像の端正さがまた大きな魅力。黒澤は「生きる」について、「まだ着飾ったシャシンです」と自作を評価しているが、リメイクではその「着飾った」(とばかり言えないと思うが)部分を削ぎ落としたと言えるかもしれない。

イシグロの小説作品は語り手の位置が徐々にずれていってどこまで信じていいのかわからなくなるところがあるのだが、黒澤の「羅生門」 こそ そういう多元的な語りの総本山みたいなものだろう。「生きる」でも後半に多彩な語りが交錯するのがまた交響楽的だった。

繰り返し挿入される螺旋状の階段のショットは同じことの繰り返しという役所のルーティンワークの表現であるとともに それが上の階下の階をつなぐ上昇機運につながりうることを示しているのだろう。