prisoner's BLOG

私、小暮宏が見た映画のノートが主です。
時折、創作も載ります。

「ジュゼップ 戦場の画家」

2022年11月16日 | 映画
実在の画家の作品をモチーフにアニメを作るという発想がまず面白い。

画とすると日本のアニメに慣れた目にはぎこちなく粗っぽいように見えるが、そのうちこういう画でもアニメが成り立ちうるかのかという蒙を拓かれる感にうたれる。

片渕素直監督などは世界的な潮流からするとアニメこそこういう一種重い内容、大人が見るべき内容を取り上げるのであって、日本にあるのはいつまでたっても思春期のつもりでいる人向けのアニメばかりということになる。

収容所など出てくるところからして第二次大戦頃かと思ったら、スペイン内線で大勢がフランスに亡命してきた頃の話。

被害者側だけでなく加害者側まで取り込んでいる視点の広さ。




「人生は二度とない」

2022年11月14日 | 映画
インド映画ではあるけれどスペインを横断して各地の祭りを見て回る観光映画でありロードムービーでもある。
トマト祭りや牛追い祭りなどの実写を取り込んで、特に牛追いなどどうやって撮ったのかと思わせる。

初めのうちいつも悪ふざけ気味のキャラがあまりにシャレにならない許しがたい悪ふざけをするもので、キャラクターばかりかこういうキャラを放っておく映画の作り手にも問題ありはしないかと思うくらいなのだが、これが終盤でそっくり許す、という一点で見事に反転して着地する作劇の見事さ。

インド映画というと長いのが通例で、マサラムービーのように歌や踊りがえんえんと入るから長くなるという印象だったが、この場合は個々のキャラクターを書き込んでそのひねった着地まで追っているのだから長くなった感がある。

終盤、野宿するあたりの風景がマカロニウエスタンでアメリカ西部に見立てられてロケされたような荒野だった。たぶん近い場所のだろう。





「犯罪都市 THE ROUNDUP」

2022年11月13日 | 映画
使われている携帯がガラケーなので一体いつの話なのだろうと思ったら、作中の監視カメラの映像に2008年と入っていた(前作は未見)。
なぜこの時代でないといけないのかよくわからないが、国際的な捜査協力制度が整っていない設定にする必要があったのだろうか。
どちらかというと、今ではこういうことありませんよというエクスキューズみたいな印象。

とはいえ、見せ場はもちろんマ·ドンソクのぶっとい腕を振り回しての大暴れで、強すぎてハラハラする感じはあまりない。
誘拐した人質も平気で殺すソン・ソックの凶悪犯ぶりが凄まじいのだが、血生臭い割にドンソクのバカ強さが中和して陰惨な感じはあまりしない。

前半は「フレンチ·コネクション2」みたいに捜査権も言葉も通じない外国ベトナムに渡って強引な捜査をするので、正規の手続きを重視する連中と軋轢を起こすのだが、後半韓国に戻って正規の捜査を始めても実はあんまり調子は変わらない。





「恋人はアンバー」

2022年11月12日 | 映画
タイトルだけだとまったくどんな話なのかわからないが、ゲイの男の子とレズビアンの女の子のラブ・ストーリー。
そんなの成り立つのかという設定だが、やはり少なくとも最終的には愛の話としか言いようがないと思う。

ふたりは1995年卒業予定のアイルランドの高校の同級生なのだが、学校の性教育の授業でわざわざ尼さんが出てきて生殖目的以外のセックスは全部ダメですと教えるビデオを見せられるような環境で、同性愛者であることなどとてもカムアウトできるような空気ではない。

その中で同性愛者であることを隠すために女の子としたくもないキスやデートをしないといけない男の子エディに同級生アンバーが文字通り石をぶつけるのが最初の出会いになる。全編にわたるアンバーの乱暴だが率直な態度が大きな魅力。
この石をぶつけるというアクションが何度か繰り返され、最終的に本当に相手を目覚めさせる一撃になる組み立てがうまく、そうさせたのはやはり広い意味の愛だろうし、同性愛者であっても男女で立場や扱いが不平等なものでもあるのも外さない。

ふたりは同性愛者なのを隠すためにデートを重ねるのだが、アンバーの父親が自殺している事情や、尻軽女は安く見られると母親に教えられる一方、エディは父親が軍人で同じように「男らしく」軍人になる道を押し付けるようでなくしかし現実としては追い込んでいく。
このあたり、同じ性的少数者といっても女の方がさらに軽く見られていて、その分激しく遠慮なく反発するコントラストが出る。

ど田舎のどうしようもないような閉鎖的封建的な環境なのだが、それに囚われている人たちの描き方がユーモア混じりなのがいい。

マッチョを任じているような父親が密かに泣いたりするところ、母親が息子がゲイであることに気づいて、しかし動じないあたりの描き分けも上手い。夫婦仲が悪いのはお互いだが、そこから向かうベクトルは大きく違う。





「RRR」

2022年11月11日 | 映画
全編見栄を切りまくり、上がりまくりの演出は「バーフバリ」同様、健在。

歌と踊りそのものは少ないようで、えんえんと流れる歌に合わせて編集されたブロマンス風のシーンなどミュージカル的な、あるいはマサラムービー的な快感は大きい。
本当言うとマサラムービーという言い方もインド全体に通用するわけではないので、こういう視覚と聴覚にまたがるトータルな表現というのは世界中にあるだろうし、国境を越える。
テルグ語映画でインド人内部でも言葉が通じたり通じなかったりするのを取り込んでいるが、おそらくこのスタイルなら言葉が通じない州でも通用するだろう。

で、内容自体がインド建国前夜の物語で、傲慢な差別意識と帝国主義意識ばりばりのイギリス人たちが徹底的な悪役として描かれる。
最近だと悪と正義の区別が曖昧な映画が娯楽大作でも多いので、この振り切り方は気持ちよくもある。

二人のヒーローが二大スター共演の等分のバランスをとりながら火と水に象徴される対称性をなす緻密さと気の使い方。
旗や二つに割ったネックレスなどの小道具の徹底的な生かし方、セリフを使わないでわからせる見事さ。
一方でバックに流れる歌の歌詞が興奮を煽る。

ただナショナリズムというのは他国に抑圧された状態では良い方向に向かう大きな力になるが、ある程度国作りが達成されると排他性や暴力性に結びつきがちでもある。そして他国の上に立つようになると今度はミイラとりがミイラみたいな帝国主義化するのは過去の日本を見てもわかる。

実を言うと、香港映画「プロジェクトA」とか「ワンス·アポン·ア·タイム·イン·チャイナ」シリーズなど大娯楽アクションの一方で、れっきとしたナショナリズム鼓舞映画でもある。
その後の中国や香港をみていると、前ほど曇りなく楽しむにはひっかかるところも出てしまう。余談だが。

エンドタイトルに出てくる実際のインド建国の父たちにガンジーやネルーといったなじみがある人がいない。
日本の明治維新の元勲たちを外国人がなじむのは難しいみたいなものかもしれないし、歴史的政治的評価も難しいのかもしれない。

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「ラ・ブーム」

2022年11月10日 | 映画
ソフィー·マルソー13歳のデビュー作。
これも見たつもりであまりちゃんと見てなかった。

初恋ものには違いないのだけれど、フランス映画だなあと思わせるのは両親や曾祖母の色模様も描きこまれていること。母親が「禁じられた遊び」の子役だったブリジット・フォッセーというのが歴史はめぐるという感じ。
特にレオノール·フジタと知り合いだという曾祖母の老いておよそ枯れない現役感。

初恋といっても絶対のものではないのをはっきり釘を刺すようなラストがやはりおフランス製という感じ。というか、最近のフランス映画ではこういうテイスト薄れてないかな。

主題歌が英語。二作目にハリウッド製ミュージカルへのオマージュが入っていたりしたけれど、昔からフランス映画はアメリカが好きなくせにツンデレ気味。




「さらば荒野」

2022年11月09日 | 映画
無法者の一団のリーダーのオリバー·リードが教師に見えた美人キャンディス·バーゲンを誘拐したら、その残忍な夫ジーン·ハックマンが執拗に追ってきて、ストックホルム症候群的にリードとバーゲンの仲が深まるのと、ハックマンたちによる長距離ライフルによる狙撃による皆殺しとが並行して展開する。

バーゲンはのちの「風とライオン」もだけれど、誘拐される役。見るからに都会的美人なので荒くれた環境に放り込んでコントラストを作りたいということか。

原題がThe Hunting Partyと人間狩りの趣向の方がむしろ眼目で、音楽がリズ·オルトラーニで撮影がスペイン出身でマカロニウエスタンをかなり撮ったセシリオ・パニャーガ が担当しているせいか、マカロニっぽい残酷趣味が目立つ。

男二人と女一人の話には違いないけれど、男二人が直接話したりするシーンはないわけで、全体とするとどうも単調。




「ラーヤと龍の王国」

2022年11月08日 | 映画
舞台は東南アジアを思わせる複数の国が割拠している地域。ディズニーも世界中を相手にしているせいか、至るところを舞台にします。

火が滅ぼした世界とか、ダンゴ虫が巨大化したみたいなキャラクターが王蟲を可愛くしたみたいとあからさまに宮崎アニメっぽい。

ヒロインが追われる側だけかと思ったら追う王国側の女リーダーのウエイトが途中から高くなるあたりも、ナウシカとクシャナみたい。




「世界で一番美しい少年」

2022年11月07日 | 映画
「ベニスに死す」の美少年タジオ役で、一躍世界の美少年ファンを魅了したビョルン・アンドレセンを扱ったドキュメンタリー。

撮影現場のスタッフの大半が監督のヴィスコンティ同様の同性愛者で、しかもタジオ役のアンドレセンを見ることを禁じられていたという、同じ嗜好の者を身近に集めておいて、しかし一番肝腎なところは独占するというヴィスコンティのエゴイズムに恐れ入る。
助監督をつとめたフランコ・ゼッフィレッリがヴィスコンティの独占欲にジャマされてなかなか一本立ちの監督になれなかったと自伝に書いていたが、まあ流石にというか貴族で、人は自分に従って当然という感覚なのだな。

この映画に関するネット記事では性的搾取について詳しく書かれていたので映画もそうかと思っていたら、何しろ当人が登場してくるのでかなり慎重な形で扱われる。
代わりに顔を知らない父親や失踪して死体で発見された母親、やはり早く亡くなった妻といった家庭上の不幸が描かれて、こちらだけでも十分すぎるくらい重い。娘がいるのにびっくりした。一時期は死亡説も流れていたものね。

さほど望んだわけでもない映画出演の役で一生をそのイメージで見られるというのもきつい話で、中年期のテレビ出演でもタジオ役のことを聞かれていて、「ミッドサマー」の長い髪の毛が真っ白になっての映画出演でもあまりのコントラストに驚いたもの。

もっとも容姿とすると今のが一番出来上がっている感じで、映画出演時はむしろその移ろいやすさを記録しておきたいという欲望が創作の動機になっているる感があった。
こういうとなんだが、ヘルムート・バーガーの自伝というのが出ているらしいが読んでみたくなる(全然性格が違うが、クラウス・キンスキーのもね)。

池田理代子がインタビューに登場して、「ベルサイユのばら」のオスカルがタジオをモデルにしていることを話したり(ただ、オスカルの絵が原作マンガの絵ではなくアニメの方なのはどんなものだろう)、公開当時日本で歌を吹き込んだり(なんと、エンドタイトルでも流れる)、帝国ホテルに泊まった部屋を再訪したりといった日本での受容が世界的にも特別なものだったように描かれる。日本の今のBLものの繁栄を考えると当然にも思えるが、ただ不思議なのは意外と忘れられているが、日本での「ベニスに死す」の一般的な興行成績は良くなかったのにも関わらず、だ。
だから「家族の肖像」までヴィスコンティ作品は公開されず、その前後の「ルードヴィヒ」「イノセント」などはそのヒットを受けて後から公開された。

逆に言うと「家族の肖像」以降のヴィスコンティ・ブームがあまりにすごかったので多くの作品が積み残されていたことが忘れられている。結局全作品が劇場公開されているというのはかなり驚嘆すべきことに思える。

性的にも経済的にも搾取する、しかも美しさを称賛し溺れ込みながらなのだから悪気がないというこの世界の仕組みに粛然となる。











「巴里の女性」

2022年11月06日 | 映画
チャップリンの数少ない主演を兼ねない監督作。
初期短編群の大半でヒロインをつとめたエドナ·パーヴィアンスを主演に据えて製作脚本監督の裏方に徹した(冒頭にわざわざ自分は出演していませんという断りの字幕が出る)が、興業的には失敗して一時期封印していた作品。

併映の「のらくら」で監督脚本ちチャーリー·チャップリンと出たが、こちらではチャールズ·チャップリンとやや構えて出た。

田舎娘がパリに出て一年後にはいきなり金持ちの囲い者になっていて贅沢な生活に浸っている飛躍がすごい。
考えてみると、チャップリンくらい極端な貧困と極端な富裕の両方知っている人もいないのだ。

田舎で一度は結婚を語らった男が、駆け落ちしかけて父親を亡くしたので一緒に行くに行けなくなり、そのままヒロインは一人でパリに向かう。
男も母とパリに出て貧乏画家をやっているが、エドナの部屋の引き出しから男物のカラーが落ちる時の反応や、一年経ったというのにわざわざ父親の死をあてつけるように喪章をつけているあたりのいじいじした感じは、日本の貧乏文士みたい。

繰り返されるパーティ場面は、女たちを肩車したり宙に釣って風船をばらまいたりと、わが日本の品の悪い方のお座敷遊びや、バブルの乱痴気騒ぎを思わせる。国や時代は変われど、やることはたいして変わらない。

白黒サイレントと地味なはずのフォーマットだが、プリント状態が極上で、パーティの派手派手しさが伝わってくる。
一方でトリュフのシャンパン煮など、なんか(ヒドい言い方になるが)トリュフがウンコに見える。わざわざ金持ちとブタのためのものと字幕が出るのだから狙っているのだと思う。

アドルフ·マンジューの金持ちが女たちをやたらとっかえひっかえするが、昔のメイクアップだと顔が見分けにくいのとでかなり混ざる。
おそらく金持ちにとっては女など丁度や食事同様のエクスペンダブルなのだろう。

彼のオフィスというのがベッドで、枕元のテレタイプから吐き出されてくるテープを見ているところからして、株の売買で儲けているのだろう。
この映画の製作は1923年、(roaring twenty=咆哮する20年代)、最大にして最悪のバブルの端緒あたりか。

字幕翻訳·清水俊二とラストに出たのにびっくり(監修は大野裕之)。清水氏が亡くなったのは1988年ですからね。
1972年からのリバイバル「ビバ!チャップリン」の時の翻訳ではないか。

チャップリンの言葉で、喜劇はロングショットで見た人生で、悲劇はクロースアップで見た人生だというのがあるが、それを自ら証明しているみたい。
別に画面のサイズが変わるわけではないのだが、チャップリンという絶対の存在が抜けると自然に他の部分がアップになってくる。

「のらくら」

2022年11月06日 | 映画
「巴里の女性」の併映。
チャップリンはいつもの放浪紳士とチャーリーと、彼そっくりの金持ちと二役を演じる。

「独裁者」の二役のずっと前の先達とも言えるが、こちらは貧乏人と金持ちのコントラストはあるにせよ、キャラクターそのものは意外と変わらない。
金持ちも上はもっともらしい正装をしていてもズボン履いていなかったり、チャーリーの方もエドナ·パーヴィアンスに惚れる割にエドナの方が金持ち階級のせいか割とあっさり諦める。

すでに夫婦仲が冷えきっている金持ちチャップリンがお酒をやめなければ終わりですと最後通牒を突きつけられて、背中がぶるぶる震えているから泣いているのかと思うと振り向いたらカクテルをシェイクしていたギャグなど何べん見てもおかしい。

途中から金持ちの方が甲冑を頭まですっぽり着こんでしまうから顔がまったく見えなくなるので二役の取っ組み合いの映像化が可能になった。

甲冑の面を上げるとチャーリーの顔が見えるが、たぶん似た別人にちょび髭のメイクをしたのだろう。本物のチャーリーと同じフレームに入っているが、途中から人影に隠れる。

ゴルフをするシーンが多いが、チャップリンが左利きであることがわかる。クラブのヘッドは左利き用のものなのかどうなのか、よくわからなかった。

「ブラック・ライダー(1972)」

2022年11月05日 | 映画
黒人(アフリカ系)スターとして画期的な功績を残したシドニー・ポワチエの初監督作。
共演のハリー・べラフォンテも「拳銃の報酬」をプロデュースしたり、公民権運動に積極的に関わってきた人。

奴隷になっていた黒人たちを新しい土地に連れてきて解放する案内役がポワチエで、これを連れ戻そうとして従わないと殺す白人の悪者たちをニセ牧師のベラフォンテと協力しながら倒すシンプルな話。

ふたりに協力するのが先住民の部族というのがいかにも70年代の公民権運動の時代の産物という感じで、今の目で見ると正直先住民イメージがストレートすぎてちょっと鼻白む感もある。白人から見た「インディアン」なのだね。
先住民といっても言葉も風俗習慣も、つまり文化は全部違っていてごっちゃにするのは乱暴というのが認識されてきたのはかなり最近のことだから仕方ないのだが。

良くも悪くもスターイメージとして優等生的な振る舞いを要求され、また実行したポワチエと、役としてはちゃらんぽらんなベラフォンテとのバディものとして定型を守った手堅い作り。

ソードオフ(短く切った散弾銃)は屋内に集まってポーカーをやっている連中を一気に撃ち倒すには効果を発揮するが、後半屋外でも使うのは珍しい。




「警官の血」

2022年11月04日 | 映画
佐々木譲の原作は、祖父と父と息子の三代にわたる大河小説にして警察小説で(スチュワート·ウッズの「警察署長」を参考にしたという)、それぞれ戦後すぐの上野の火事、70年代の新左翼内部の内ゲバといった日本で実際にあった出来事と絡めている。
これを舞台を韓国に変えて二時間あまりの映画にまとめるとなるとどうするのだろうと思ったのだが、まずほとんど創作に近い。

舞台は現代に設定され、若い三代目に絞って、父親の元部下が上司になる。
父親が上司の上司になるわけで、そういう形で代を重ねているのを取り込んでいる。とはいえ、扱うタイムスパンは大幅に短くなった。

形式としては、上司が組織犯罪を取り締まるためとはいえ組織に深入りし過ぎてミイラとりがミイラになりかねないのをハラハラしながら見守り、また暴走したり組織に襲われるのから防ごうとする若い警官のドラマで、つまり類型としては「トレーニング·デイ」「孤狼の血」などに連なる。

その限りでは迫力はあるが、なかなか腹を割らない相手に過去を含めた複雑な背景をセリフや回想で描いていく方法だとすとんと腑に落ちにくく、なんとなくこういうことなのだろう思うしかない。
そうなるとどこまでこの原作である必要があったか、疑問なしとしない。

原作だと主人公の父や祖父が警官であることを重視した先代の仲間たちが警官の血に応えろと圧力をかけてくるさまがぶ厚く描かれていて、映画では警官仲間内部の仲間意識の強さとその裏腹の裏切りに厳しい空気に移されてはいるが、代が同じなので圧力はそこまで強くない。

アクションシーンは韓国映画としては普通。量は少なめ。

見る前は学生の身分で過激派内部に潜入する二代目のシチュエーションを採用するかと思ったが、考えてみると昔の韓国の左翼の取り締まりの厳しさからしてちょっとムリ。





「ハスラー」

2022年11月03日 | 映画
始まってすぐとにかく登場人物がよく酒を呑むのに驚いた。
主人公のエディにしてからが昼日中からプールバーに車で乗り付けるなりショットグラスを開け続け、運転手は別にいるんだよねと心配になる(もちろんマネージャーが運転する)くらい。

酔って腕が鈍っているように見せてエディの腕前を知らない素人を騙して賭け金を釣り上げる作戦でもあるわけで(「ハスラー2」ではエディ自身が若いホイットニー・ウィテカーにひっかかる)、中盤このトラップを見破られるとリンチを受けることになる。

純粋な競技と違って勝てばいいわけではなく、まずカネのためにビリヤードをやっているわけで、動かすカネを増やすのにギャラリーからも賭け金を吐き出せるための興奮=ハッスルさせるハスラーの手口として、プロレスなどにも通じる複雑な駆け引きが絡む。

しかし飲み過ぎれば当然本当にヨレヨレになって腕が落ちてしまうわけで、このあたりの自制ぶりを勝者であるミネソタ・ファッツの立ち居振舞いのひとつひとつに見せる。ウィスキーを飲むにしてもストレートではなく氷と水で割り、休憩をとり、顔を洗い、コンディションを整える。普通だったらプレイに入る前にジャケットを脱ぐが、逆に着こんで身だしなみを整えるのだ。

さらに不気味なのがジョージ・C・スコットで、登場シーンではポーカーの最中だというのにミルクを飲んでいるという調子。エディに目障りだからどいてくれと言われても、5センチくらい椅子をずらすだけと(そしてエディの方もそれ以上文句を言えなくなる)何ともいえない威圧感を見せる。

このあたりの演技の付け方、撮影·美術·音楽·編集の隙のなさと雰囲気の醸成はまことに見事(アカデミー撮影、美術賞受賞)。

同じ原作者ウォルター·テヴィスの「クイーンズ·ギャンビット」では酒以上にドラッグの常用が問題になっていたが、こちらの原作ではどうなのだろう。

天井が低いセットで年がら年中タバコをふかしていて、さぞ空気が悪いだろうと思わせる。
ここではウイスキーでもバーボンの方が高級品扱いらしい。

後半カモになる金持ち役がマーレイ·ハミルトン(「ジョーズ」の市長)、バーテンがヴィンセント·ガーディニア(「フロント·ページ」の警部)なのを確認。
金持ちなのに負け犬、ルーザー呼ばわりされ、それがおかしくないのがこの世界の不思議な価値観なのだろう。

男たちだけでなく、ヒロイン(パイパー·ローリー)まで朝早くから酒を呑んでいる。バス停留所でエディと出会うのだが、そんな朝早くからいられるのは停留所くらいだから、という理由で、つまり呑み過ぎによる不眠症だろうと推測され、後半の悲劇にも当然つながってくる。

マネージャーに過ぎないはずのスコットがビリヤードでは最強のミネソタ·ファッツより力を持っているのは、つまりプロレスでいうプロモーターの方がチャンピオンより力を持っているようなものだろう。

ポール·ニューマンはアクターズ·スタジオ出身としてはマーロン·ブランド、ジェームス·ディーンの少し後に出てきたわけだが、カネを両手でつかんで半泣きになったような顔とポーズが期せずして「エデンの東」のジミーにだぶる。

後註 「ハスラー」の邦訳本の関口苑生氏の解説で知ったが、案の定というべきかテヴィスは重症のアルコールとドラッグの依存に苦しめられていたとのこと。
なお、原作はエディとサラが結婚するのを匂わせるのがラストで、サラは映画化のように自殺はしない。映画の方が暗いというのは珍しくないか。




「貞子DX」

2022年11月02日 | 映画
なんかこう、見ちゃおれんという感じ。
ヒロインがIQ200という設定がすでになんだかなあで、IQの数値は現実的には160位が上限で、小学生が1億万個とか言ってるみたいな言葉の上で大げさにしているみたい。

あと、頭がいいというのを表現するのにテレビ番組の東大王みたいに雑学知識の正確さを見せるという描写の発想もあまりに貧困。
呪いの類いを科学的でないと否定するのも、オウムの信者で一流大学の理科系卒がごろごろしていた事実からしてセンスが古い。

怪しいを通り越してインチキそのものにしか見えない祈祷師も、気取り屋でやたら馴れ馴れしいネットマニアっぽい男などセリフも芝居もひどすぎて笑うこともできない。

原点に帰って今となると古めかしいガジェットになっているVHSテープを再生して見ると呪いが感染するという趣向に戻したのはいいし、再生される映像で貞子の視点で井戸から出てくると今いる建物が外から見える、つまり再生される場所が変わるたびにいちいち映像の内容も変わるというのはなかなか怖いが、それ以上発展しないで貞子が迫ってくるわけでもないのでどうにも中途半端。
代わりに白塗りのオヤジが迫ってくるのには当惑する。

呪いで死ぬあたりもパンチが効かない。初めの「リング」で口を思い切り不自然にくわっと開けて死んでいるといった程度の工夫もしていない。