61年版はカメラを大々的にニューヨークの街に出してリアリズムを持ち込んだことで有名だが、このリメークの再開発でストリート自体がなくなってきているという設定は、リアリズムもより徹底した感じ。あるいは荒廃感が強まったといった方がいいかもしれない。
これと比べると61年版はリアリズムの一方で画面のデザイン感覚が強いのがわかる。真上や真下からのアングル、壁と並行しての俳優たちをフォローする移動撮影など、当時の大きく重い70ミリカメラはあまり自由に動かせなかっただろうのを画面のきっちりした構成に生かした。
原色の使い方、壁の落書きのストリートアート感もそう。
また61年版は時代的にニューシネマの先駆けという面もあるだろう。既成の価値観が崩壊して若者たちが演者としても観客ともしても主体になったという意味で。
若者の反抗がストレートに若さのエネルギーとして噴出できた時代の産物ともとれる。
ごく端的に出演者たちがカッコいいのだ。というか、カッコいいという今では当たり前の価値観が噴出したのが61年版ではなかったかと思わせる。
なんと深作欣二が63年に「狼と豚と人間」でフィンガースナップと小規模ながら群舞シーンを入れているのだから、どれだけの影響力があったのかと思う。
シュランク警部補の帽子とか顔つきがなんだか「フレンチコネクション」のポパイ(ジーン·ハックマン)に似ている。
もともとポパイの方が昔からあるいけすかない高圧的なデカをヒーロー側(というのか)に持ってきた面があるわけだが。
シュランク警部補の帽子とか顔つきがなんだか「フレンチコネクション」のポパイ(ジーン·ハックマン)に似ている。
もともとポパイの方が昔からあるいけすかない高圧的なデカをヒーロー側(というのか)に持ってきた面があるわけだが。
チノがダンスパーティでのイモっぽい感じから、マリアを間にトニーに微妙な三角関係になるあたりからメガネを取って顔つきが変わる。他はともかくこのキャラクターに関しては書き込みが増えた。
61年版では警察が介入しようとすると対立していたグループがしれっと協力して排除する。だから警察の介入はないに等しいのだが、ここでは肌の色もコトバも違うプエルトリコ系(シャークス)よりポーランド系白人グループ(ジェッツ)に警察がえこ贔屓しているに日和っている感じがあって排除感が弱まった。
「五重奏」のナンバーで警察の出番が増えた割に決闘で死んだ二人を見つけるだけという役立たずぶり。
「クラプキ巡査どの」のナンバーはよりにもよって警察署内で歌われるのだが、その分警官が出てこないのが不自然にもなった。あんな歌うたっているのを耳に入ったら留置場行きではないか。
こうスペイン語のセリフが多いとは思わなかった。字幕版で見たのだが、吹替ではどうなっていたのだろう。
こうスペイン語のセリフが多いとは思わなかった。字幕版で見たのだが、吹替ではどうなっていたのだろう。
プエルトリコ系の役を本物のプエルトリコ系の俳優たちにやらせた効果は大きく、リアリティは強まったが、正直ジョージ・チャキリス以下の格好良さは薄れた。役の抑圧感が強まったせいもあるだろう。
プエルトリコ系が活躍するミュージカルとしては、すでに後発でさらに徹底してプエルトリコ発の舞台「イン·ザ·ハイツ」の映画化があるわけで、今となるとこちらはやや人工的に見える。
トニーとマリアが互いに一目惚れするシーンで61年版では背景のパーティの大勢が踊っているのが画面処理でぼやける(舞台で紗の幕を使った応用だろう)のだが、ここではスポーツの試合で使われる仮設の座席の裏に入ってしまい二人だけの世界になるという演出になっていて、自然で成功していたと思う。
トニーとリフの昔からのダチ感覚も書き込みが増えた。トニーが一年刑務所に入っていて更生を誓っているあたりは61年版の一種能天気な感じ(それは原典の「ロミオとジュリエット」のロミオから引きずっていることでもある)を打ち消す効果はある。
トニーとリフの昔からのダチ感覚も書き込みが増えた。トニーが一年刑務所に入っていて更生を誓っているあたりは61年版の一種能天気な感じ(それは原典の「ロミオとジュリエット」のロミオから引きずっていることでもある)を打ち消す効果はある。
「クール」を決闘シーンの前に持ってきて、拳銃を手にしてのやりとりがのちの悲劇につながってくる。解釈が大きく違っているが、トニーとリフの関係とさらにチノをつなぐ小道具として、これはこれでスジは通っている。
ただ一人61年版から引き続いて出演したリタ・モレノの役は、「ロミオとジュリエット」では両家の諍いを二人の恋を成就させることで解消できないかと画策するロレンス神父にあたるが、白人と結婚したプエルトリコ系として融和とそれに伴う軋轢を先駆けて経験した人という位置づけにアレンジされた。