prisoner's BLOG

私、小暮宏が見た映画のノートが主です。
時折、創作も載ります。

「誰がキャプテン・アレックスを殺したか」

2024年07月31日 | 映画
自称ウガンダ初のアクション映画。
こういう映画の作り方があるのかとちょっとびっくりする。

ずうっとバックでナレーションというにははしゃぎすぎの「これこそ映画だ」「豹と虎の一騎打ち」といったコメントがラップみたいに絶え間なく流れ、「演じるはセルジオ・アーネスト」とゴダールもびっくりの異化効果が挟まったりする。

爆発とか弾着で血が噴き出すといった処理はほとんど合成。レンズが汚れていてもおかまいなし。銃撃戦とカンフーがまぜこぜで、「映画を真似した映画」という文脈に則っている。




「化け猫あんずちゃん」

2024年07月30日 | 映画
化け猫あんずちゃんが目の前に現れた時のかりんちゃんのリアクションを引いたサイズで描いているのが上手い。

昨今の墓が集合住宅みたいなコンパクトな味気ない体裁になったのを見せておいて、まだ小学生のかりんちゃんが亡くなった母親を文字通り地獄にまで追いかけていくのだが、その地獄のイメージが荒野にちょっと異国的な扉や塀を配するのと現代ののっぺりとした道具立ての混在というのが面白い。
考えてみると、今の一般的な地獄絵図というのは割と異国的ではないか。

地獄から死んだ母親を取り返しに行くという「オルフェ」みたいな話だが、借金づけになっている父親が半分地獄に沈められているというくだりが怖くて可笑しい。

あんずちゃんの声が森山未來というのは先日の「大いなる不在」のイメージとはずいぶんと異なるが、微妙に周囲に溶け込まない役柄という意味では適役。





「フライ・ミー・トゥ・ザ・ムーン」

2024年07月29日 | 映画
本題というべきアポロ11号による月面着陸映像が実はフェイクだった(のかもしれない)という「カプリコン1」的モチーフが出てくるのが中盤過ぎと割と遅くて、それまではスカーレット・ヨハンソンのいかにも海千山千の広告屋とチャリング・テイタムの元空軍パイロットで元宇宙飛行士候補のNASAスタッフの喧嘩友達式のロマンスが発展していくクラシックなラブストーリーが占める。
クラシックな味わいは音楽や服装もそうだし、ワイプといった技術的処理にも見られる。

アポロ計画の時は「宇宙飛行士の妻」というカテゴリーがあるくらいで、宇宙飛行士はもちろんNASAのスタッフも全員男。

ちなみにソ連の女性宇宙飛行士のワレンチナ・テレシコワがボストーク号宇宙を飛んだのは1963年、アメリカ初の女性宇宙飛行士サリー・ライドがチャレンジャー号で飛んだのは1983年と単純にどっちがフェミニズム的に“進んでいる”かという比較はできないにせよ20年も遅れた。
その中で広告屋(個人営業に近いが)を女がつとめるというのは、隙間に食い込む余地がある時代という意味で適切なのかもしれない。

「ネットワーク」で超敏腕テレビプロデューサーをフェイ・ダナウェイがやっていたのも当時とすると時代の先取りだったか。

月面着陸を撮るカメラが初め重くて乗せられないと渋られるなど、映像の価値が今では考えられないくらい軽かったらしい。
電器屋の店頭から盗まれるテレビに堂々とSONYの文字があるのも時代ですな。
映像が頭から虚構と捉えられていた時代の産物ということになるか。
1969年の月面着陸のちょっと後、1970年の大阪万博の展示の多くがみどり館のアストロラマなどの映像だったことに対して朝日新聞だったかがそういう映像=虚構といった発想の論評をしていたと思う。

月面着陸のフェイク映像と本物の映像とがクライマックスで交錯するあたり、本物とされている再現映像もまたフェイクには違いないというのに目眩がする。
ロバート・ゼメキスの初期作「抱きしめたい」のクライマックス、本物のビートルズはテレビカメラのモニターで、そっくり同じ振り付けをロングに引いたサイズで役者にやらせたのを同じ画面を収めて見せた演出をちょっと思い出した。

フェイク映像を演出する監督がしきりとスタンリー・キューブリックと比較されるのが可笑しい。
月面着陸映像はキューブリックが撮ったのだなどという妄説は実際にある。
その監督が連れてきたカメラマンが東欧系らしい。ヴィルモス・ジグモンド(スィグモンド)やラズロ・コヴァックスなど東欧から亡命してきた才能が頭角を現すのは1970年前後だったなと思う。





公開講演会「映画監督・黒沢清氏を迎えて」

2024年07月28日 | 映画
篠崎誠監督が聞き手になって黒沢清監督から話を引き出す土曜午後いっぱいの四時間半。

まずフランスの叙勲に合わせてフランス映画人たちのビデオメッセージが上映される。レオス・カラックスのは下ネタ入り。

三部構成で、第一部は、立教大学に入学して当時は無名の蓮實重彦の授業をとり、いくつか出た課題のうち、鈴木とつく映画人を三人挙げよというのがあって、鈴木清順、鈴木則文までは出たけれど、三人目で困った、鈴木達夫、鈴木晄と後で答え合わせしたが、特に正解はないといった授業で初め百人くらい出席していた学生が秋頃には十人くらいになっていた、代わりに蓮實信徒になって教えを広めないといけないくらいの気持ちになっていたとのこと。

それからいくつかの映画の抜粋をスクリーンに映しながら解説する。
「ジョーズ」よりオープニングの夜の海岸シーン、女の子(そういえばこの役を演っていたスーザン・バックリニーは先日亡くなった)が走りながら服を脱いでいくのにいつの間にかズボンを脱いでいる、走りながら脱げるわけがないので編集でスキップしていると指摘する。
「バック・トゥ・ザ・フューチャー」のマイケル・J・フォックスがスケートボードに乗って車につかまって走るシーンは逆にカットを割らないで通して見せる。
「工場の出口」で一分足らずのうちに実に大勢の労働者、犬や馬車まで混じえて出てくるのを、いわゆる実写にとどまらず明らかに演出が入っていると指摘。

それから黒沢監督の実作三本の抜粋に移る。
「降霊」の誘拐犯がわらわらと湧いてきた刑事に追われて工事現場で倒れたら上に組んでいた足場が崩れて下敷きになるのをカットを割らずに見せる。
「打鐘」の自転車に乗った競輪選手がカットをやはり割らずに積まれた段ボールに突っ込んでくる
そして「回路」の飛び降り。
編集によって失われるものをあっという間もない時間に掬いとって見せるという原理の説明。

第二部は30分くらいのあまり見る機会のない短編の二本立て上映。製作がコロナ禍にぶつかったという。
永作博美とユースケサンタマリア主演のAmazon prime「モダンラブ・東京」。いくつかの都市にまたがるモダンラブもののひとつ。
ラブものはどうも苦手だとしきりと照れたように言っていた。
永作博美が結婚相談所の紹介で会った別人の釣書を持ってきているユースケ・サンタマリアの正体不明の男とだんだん関係を深めていくが、そのユースケがふっとコンビニに行って姿をくらますのがすごい不安を煽ったり、事実ラストでは姿を消してしまう。

それから乃木坂46の「Actually」。MVと言いながら大半は中西アルノ、山下美月、齋藤飛鳥による芝居が占める。それもセリフが珍しく多くて、企画者の意図ではMVで商売する気はないので、彼女たちにそれまでしたことのない体験をさせたい、だから監督には一切注文はつけないということらしい。
後半になってMVになるのだが、こちらは振り付けの人がどうカメラを動かすかまでほぼ決めていて、あまり変えることはなかったという。

第三部は上映された短編の解説と今年公開される三本の話。
映画監督には教祖型と教師型があるというが、黒沢監督は典型的な教師型ではないかな。事実、大学教授でもあるわけだが。


「大いなる不在」

2024年07月27日 | 映画
藤達也の認知症演技がセリフの言い方は正常なのに内容はどこでどうショートしているのかわからない飛び方を見せる。その中で体裁を取り繕うのが習い性になっているのか、恩師を偲ぶ会(当人は物理学者らしい)らしき会合だとまったく破綻を見せないのがまた見ようによっては小憎らしい。

話している相手が誰なのかしばしばわからなくなって相手(主に森山未來)にしてみれば腹が立ってくるのと、もともと不仲なのが相乗効果を出したり逆に打消しあったりする。

このあたりに散乱ぶりは初めの方で明らかに人物を鏡に写して見せる画作りをしているのでそこで暗示していたのかもしれない。

時制が交錯する構成で(部屋の散らかり具合で時間経過を描き分けている)、前の方で言ったセリフの内容が後で出てくる実際の場面と微妙に食い違っていたりする。





「NIMIC ニミック」

2024年07月26日 | 映画
「哀れなるものたち」「女王陛下のお気に入り」のヨルゴス・ランティモス 監督の12分の短編。

チェロ奏者のマット・ディロンが朝、アイマスクをしてベッドで寝ている妻のそばで目覚め、茹で卵の朝食を摂り、出勤してチェロの練習をして、といった日常的なスケッチが綴られるのだが、地下鉄で向かいの席に座った女性ダフネ・パタキアに時間を訊いたのをきっかけに、その女性がいつの間にか家庭内でもオーケストラの地位も彼の座に居座ってしまう。
妻と女が夫婦みたいに並んでそこに子供もいる家庭という図になるわけだが、何事もなかったかのように淡々としているのがなんともいえず異様。





「あのコはだぁれ?」

2024年07月25日 | 映画
予備知識なしで見ていて、なんだかこの場面見覚えあるぞとデジャヴに何度も襲われたのだが、なんのことはない「ミンナのウタ」の姉妹編みたいな映画なのでした。
その他「呪怨」でおなじみと言っていい白塗りでこそないが名前も同じ俊雄くんが布団の中にいつの間にか潜り込んでいたりする。

余談になるが、「呪怨」で俊雄と似たような白塗りの女の名前が伽耶子という明らかに韓国名なのはどういうことだろう。在日一世の作家・李恢成の作品が映画化もされた「伽倻子のために」 。
俊雄という名を聞くと、今村昌平監督の「女衒」で緒形拳の恋敵役の王(ワン)を演じた俳優が柯俊雄といって、台湾人なのだが、1945年生まれと日本のぎりぎり占領下の生まれ。当時の台湾では日本人風の名前をつけることが多かったらしい。

マキタスポーツが幽霊というと恨みつらみをしょって化けて出るというイメージだけど、ここの幽霊というのは前向き積極的なんだという意味のセリフを言っていて、それはそれで迷惑だなあと思った。





「スーパーティーチャー 熱血格闘」

2024年07月24日 | 映画
生徒のひとりが「キッズ・リターン」のボクシングみたいな感じで格闘技をやっていて、そこでドニー・イェンが柄の悪い連中から救いに乗り込んでいって控室で立ち廻りになる。
ずらっと並んだ控室のロッカーが高さといい音といい効果的に使われている。

学園ものとドニー・イェンとの取り合わせというのが新鮮で、とにかくやたらと強くて頼もしくて、それが当たり前というキャラだから生徒たちも自然と馴染むというわけ。




「お母さんが一緒」

2024年07月23日 | 映画
お母さんが一緒と言いながら、温泉旅館の向かいの部屋に泊まっているのにも関わらず、三姉妹の母親の出番はない。
そのあたりいかにも舞台劇的なのだけれど役者たちがみっちり芝居していてしかも暑苦しくならない。
全員思い切りどうしようもないキャラなのを、どうしようもないなりに笑いとばす感じに仕上がっていて快調。

夜が明けるとともに温泉の湯煙が朝日の中で光って旅館の外の景色が見えるようになり、自然に解放感が出てくる。

もともとCSのホームドラマチャンネルの連続ドラマだったのを再編集したというが、その連続ドラマ版見られないものか。





「やさしい女」

2024年07月22日 | 映画
ドミニク・サンダはこの時十七歳のはずだが、頬の線など稚いところが大人びた感じ、特に目つきと同居している。

監督のロベール・ブレッソンはほとんど素人だけを起用してそれも一度きりで二度と使わないので有名だが、素人の素材の「自然さ」よりは明らかに型にはまった「不自然さ」に合わせている。能面芝居の中からこぼれる生々しさと言い直せるかもしれない

回想形式をとっていて投身自殺したサンダの遺体から生前の彼女にフラッシュバックで遡るのだが、これはドストエフスキーの原作の構成をほぼ踏襲したもの。
遺体がオブジェとしてごろっと転がされているあたりの即物感が、そのまま生前の姿にも通用する。


「THE MOON」

2024年07月21日 | 映画
韓国一国が開発した月探査ロケットが月に向かう間、太陽嵐を受けて機器は故障、三人の宇宙飛行士のうち二人までがEV(船外活動)中に事故死する。
それから残された一人が独断で月の上に立ち、隕石が降り注ぐ中着陸船を離陸させるが地球には帰れないとなると、ジェット噴射式のドローンを抱えて月面に降下、NASAの救助を待つという命が百個あっても足りない危機また危機を乗り越える。危機を次々と突破していく強引さとタフネスとツッコミどころ満載ぶりは韓国製らしい。

いったん現場を離れたメンバーが乞われて復帰するのは「アポロ13」、泣かせるのは「アルマゲドン」といったところ。
いくらなんでも倫理的許容範囲を超えているところはあって、そういうところに限って登場人物が揃って泣いていたりするのだね。

宇宙連盟(だったっけ)という8か国からなる合意による連盟というのが出てくるのだが、それらしいのを調べてみるとアルテミス合意という実在の合意が出てきた。
日本・アメリカ・カナダ・イギリス・イタリア・オーストラリア・ルクセンブルク・アラブ首長国連邦の8か国の代表の署名による月や火星の平和利用に関する合意だそうで、作中では8か国だが現実には当初の8か国のあと40カ国が署名している。t

この映画の製作国である韓国は実際には入っているのだが、映画の設定ではラストで入ることになる。
現実の宇宙開発では先頭グループのはずの中国は映画には全然出てこない。影もかたちもない。
アルテミス合意は宇宙の平和利用・たとえば月にある資源は南極同様どこの国にも属さないというタテマエで運用されていて、ここでもそれは踏襲しているがどうも表向きという感じ。





「メイ・ディセンバー ゆれる真実」

2024年07月20日 | 映画
どういう意図でミシェル・ルグラン作曲による1971年の映画「恋」(原題Go Between=仲介者)のピアノによるテーマ曲をほぼ全編に流したのだろう。

「恋」の内容はというと、20世紀の初めのイギリスの田舎に預けられた13歳の少年ドミニク・ガードが年上の令嬢ジュリー・クリスティに憧れ恋するのだが、クリスティの方はガードを使い走りとしてしか遇さず、別にたくましい小作人の男アラン・ベイツとできていたというもの。タイトルこそ「恋」だが、実態はジョセフ・ロージー監督、ハロルド・ピンター脚本らしい残酷劇といっていい。
この映画に出演した時のクリスティの実年齢は31歳。
「メイ・ディセンバー ゆれる真実」のモデルになった実際の事件の女の方は36歳だから、まあ近いといっていい。相手の少年の設定は13歳だから合致する。

年上の女性と少年の組み合わせというのは実話創作問わずよくある話ではある。
この場合少年がすでに成長して(演じるチャールズ・メルトンは1991年生)いるのであまり見分けはつかない。
見分けがつかない中で内面の葛藤を想像しながら(表には出さない)、突発的に思わぬ行動に出るのに驚いたりすることになる。

ラストでポートマンが蛇をいじっているのは創世記のイブにひっかけているのか。






「YOLO 百元の恋」

2024年07月19日 | 映画
役者が極端に体重を増減させる場合、「レイジング・ブル」のデニーロだとボクサー体型に絞ってから増量したわけだが、ここでの主演(兼監督)のジア・リンはエンドタイトル見ると増やしてから絞ったらしい。しかも他の出演作を見るともともと太ってたわけではない。太ったまま戻らなくなったらどうするのだろうと勝手に心配してしまった。
安藤サクラはどうしてたのだろう。

安藤サクラ主演のオリジナル版「百円の恋」とはかなり展開が違っていて、ひきこもりになって身体も心も緩んでいたヒロインが家を出て百円ショップで働くところからタイトルがついたのだが、ここではテレビ局で働く従妹が持ってきた仕事でそれまでにも増した屈辱を受ける。

身体が絞れてきたヒロインがロードワークを始まるところから高らかに「ロッキー」のテーマ曲そのものが鳴り響き、練習風景のMTV式の編集がそれに続く。
こちらの方が「ロッキー」的ドリームのニュアンスが濃い。

YOLOとはYou Only Live Onceの略。





「密輸 1970」

2024年07月18日 | 映画
プロレスのバトルロイヤルさながらに入り乱れる複数の勢力が密輸されたお宝を争う中で、一番体を張っているのにふだん割を食っている海女さんたちが逆転勝利するのがわかっていても痛快。

コン・ゲーム式に~と見せかけて実はという語りを時制を前後させて織り込む手際もいいし、ベトナム戦争後という時代背景を生かしてナイフでの接近戦もたっぷり見せるサービスつき。
海中撮影に相当な危険や困難さが伴ったのは想像に難くないが、やすやすとやってのけている(ように見える)。

海女のサブリーダー格がリーダー以下のメンバーを裏切ったかのように思わせる語りが上手い。
税関=役人を徹底してワルく描いているのが思い切りがいい。

日本の昔の歌謡曲みたいな曲調の唄がずうっと流れて、ときどき対位法的な効果を出す。





「リコーダーのテスト」

2024年07月17日 | 映画
「はちどり」のキム・ボラ監督がそれに先立つ2011年に発表した28分の短編。

フィックスを主とした、空間把握に優れた画面構成がすでにここに見られる。
セリフに頼らず、淡彩のスケッチのようでニュアンスが豊か。
ボロいラジカセと、どういうわけか象嵌か何かの立派な細工が施された台に乗ったテレビが1988年のソウル・オリンピックを伝える。

主人公の小学生低学年のキム・ウニがリコーダーを家に忘れて電話で母親に持ってきてと頼むが容れられず、教室でバンザイみたいなポーズをとっている(↑)罰を受ける冒頭からなんともいたたまれない感じ。

キムはともだちのハンナの母親がノックしてから部屋を出入りするのに驚くので、逆に自分の家族が出入りする時ノックしないのがわかる。ハンナは育ちが良くてピアノも弾く。
対照的にキム一家は狭い部屋をムリに分けて寝起きしているもので、ウニはリコーダーを練習する場所もない。

ハンナというのはキリスト教圏でもある韓国らしい名前。チャップリンの母の名前であり、「独裁者」のヒロインの名前でもある。たしかヘブライ語で“慈しみ”といった意味。

子供は女男女の三人で、長男は二番目なのにおそらく儒教社会では特権的な地位を占めている。ここでは単に威張っているだけなのが「はちどり」になるとそれがかえってプレッシャーになることになる。
大きくなったら横暴な暴力亭主になるだろうなとも思う。