prisoner's BLOG

私、小暮宏が見た映画のノートが主です。
時折、創作も載ります。

「不都合な記憶」

2024年09月30日 | 映画
回転する宇宙ステーションとやはり回転する轆轤(ろくろ)とをカットバックするオープニングで、これ外宇宙の大きさと閉鎖系の内宇宙との対照を表わしているのかなと思ったら、だいたい当たった。

保存されている記憶=記録から女を再現するという筋はちょっと「ソラリス」を思わせ、他にも映画の作り手がどこまで意識してそうしたのかわからないが、地上の場面がかなり交錯するところや、無重力状態の描写など、いろいろと通じるところがちらちらと混じる。
はっきり違うのは女の立場・視点から見ることも可能になったこと。

同じ人間がずらっと並ぶ合成画面があるけれど、微妙にカメラが揺れている。固定画面にした方が手間はかからなかったろうけれど、何気に手をかけているのがわかる。
いかにも目立つスペクタクルでなしに大セットを組むというのも、贅沢な話。

伊藤英明が「悪の教典」以来のサイコパスぶりでおよそ感情移入しずらいキャラクターだが、かといって対する新木優子はアイデンティティ(自己同一性)が土台存在しないものでどちらにも入り込みにくい。

あと、このステーションの扉ってずいぶん簡単に開くのね。力まかせに開けたら開いてしまう。





「罪の天使たち」

2024年09月30日 | 映画
1943年のロベール・ブレッソン第一回監督作品。実は「公共問題」1934がその前にあるのだが、破棄されたのか自分の作品と認めてないのか、とにかくこれが第一作とされている。

のちのブレッソン作品に比べるとかなり普通の映画だが、ラスト・カットが手錠がかけられる手のアップというのが示唆的。

修道女たちの衣装が白か黒かくっきり塗り分けられているのが、清冽。
荻昌弘が「テレーズ」の批評でこれを思わせると書いていた。




「拳銃魔」

2024年09月29日 | 映画
上映時間35分過ぎあたり、銀行強盗の前段階で自動車の後部座席のアングルから前をずうっと撮っていて、運転席の男が下りて銀行に入っていき、警官が近づいて助手席の女が応対し、非常ベルが鳴って男が出てきて、女が警官を殴り、二人とも車に乗り込んで逃走する、というところまでワンカットで収めたのには驚いた。
その間カメラが前後退するだけというシンプルなカメラワークで、すごく経済的な演出。
製作当時は一般的な技法だったろうスクリーン・プロセスを使っていない(他のシーンではいくらも使っている)。

少年時代の拳銃魔をやっているのがラス・タンブリン。
ノンクレジットだが脚本の大半を書いたのはダルトン・トランボだという。

サーカスの見世物の出演者として登場する女(ペギー・カミンズ )が銃を撃つのにぴったりシンクロして的が割れるのは当たり前なようだが一続きのワンカットの説得力を高めた。
乗馬ズボン姿がセクシーで、女の方が主導権とっているみたい。




「ぼくが生きてる、ふたつの世界」

2024年09月28日 | 映画
聴覚障碍者の両親を持つ健常者の子供が主役という点で「コーダ あいのうた」とそのオリジナル「エール!」とモチーフはつながるわけだが、「コーダ」のラストで主人公が歌の才能を評価されて故郷から都会へ旅立つのというはっきりした区切りがつくのとは対照的に、宮城から東京へこれといった才能も学歴も将来の見込みなしに出てきた後の描写が後半を占めている。

中盤で吉沢亮の主人公が都会に出ていくところをことさらに区切って描かず、気がついたらいつの間にか都会にいる描き方で、ガラケーとかVHS、テレビデオなどが置かれていることで一昔前の時代とわかる。平成7年と書かれた書類が写ったりする

パチンコ屋でバイトしているところで客の二人が大きな声でケンカしているのをまるで気がつかない(聞こえない)で玉を打っている太った中年のおばちゃんが聴覚障碍者とわかり(やっている河合祐三子も本物 )、これまた後でいつの間にか絡んでくるなど、場面と描写を上手く省略しながら描いている。

これまた後で役者志望だったらしいと描かれるのだが、吉沢亮だと何せ本物の役者なのだからそのまま役者になるのではないかと期待というか予想させてしまうかも。

肩のあたりに入れ墨を入れたでんでん扮する祖父がヤクザで、酔ってやたら大きな声を出す。
これもヤクザであることも障碍者同士の結婚に反対していたことも初めから割らずに順々後からわかるように描いている。

ラストでここまで描かれた二つの世界が一目で見渡せるようになってから
タイトルの文字列が「ぼくが生きてる」「ふたつの世界」と左右に割って置かれ、なるほどと思った。









「ジガルタンダ・ダブルX」

2024年09月27日 | 映画
オープニングの字幕で動物は殺してませんとか、麻薬はいけませんといった言わずもがなの文言が並ぶのをぼんやり眺めていたらすぐ差し迫った意味があるのがわかる。
つまり、森で象が大量に殺されて象牙を切り取られるわ、役人がマリファナ(ガンジャ)をぷかぷか吸って村人を拷問するわで、いささか刺激が強い。

森に棲む精霊(にしては穢いね)みたいな男とか、象の群れとかを結びつけるのはわかるが、クリント・イーストウッドそれもマカロニウェスタンの彼とか、インド映画の巨匠サタジット・レイといった名前が並ぶもので、一体どう結びつくのか三題噺みたいで見当がつかなかったが、三時間近い時間をかけたラストでだんだんピースが積み上がって、ああそういうことかと腑に落ちた。
手足を一杯に伸ばしておいてもへたれず、徐々に態勢を立てていくよう。

ラストの発想は期せずして「シサㇺ」のラストにだぶる。





「スオミの話をしよう」

2024年09月26日 | 映画
一応誘拐事件を扱っているのだが、誘拐されたスオミ=長澤まさみの安否を本気で案じる人が一人もいないというのはどんなものだろう。
それも集まったのは元夫たちでしょ。現夫が真っ先に気にすることはないなどと言い張り、元夫たちがぐずぐず言いながら引き下がるのがなんとも不自然で、何かあるなと思ったら案の定。こういうの、伏線回収っていうのですか。

三谷幸喜にそういうのを要求するのはヤボか知らないが、最初の方で「天国と地獄」ばりに警察?が変装して豪邸に入り込んで外から見えないようカーテンを閉めてみせたりするもので、ああいう本格的な誘拐劇のスリルとサスペンスは求めないにせよ、いかにもお芝居くさく、先行作品の意匠だけ借りましたという感じ。そういうものだと割り切って見るのならいざ知らず、いったん気になりだすと、どうもいけない。

初めから警察を絡ませないで作ると決めて、オープンリールの逆探知の機械にせよ活字を切り貼りする脅迫状にせよ、わざと古めかしい趣向にしてあるのだろう。

スオミというのはフィンランド人が自分たちのことを指す言葉らしいが(「ゴルゴ13」で読んだ覚えがある)、なんでそう言うのか、子供の時フィンランドで過ごしたからという理由づけ?があるらしく、ラストでもフィンランドの首都ヘルシンキがネオン文字で出たりするのだが、なぜなのかどうもよくわからない。

長澤まさみが元夫たちに応じていろいろな顔を見せるという趣向というより、文字通り同じ顔を見せるシーンが見せ場になっている。

一番面白いのは舞台、それからテレビで、映画となると映り過ぎてリアリティの隙間風が吹き込む。





「ぼくのお日さま」

2024年09月25日 | 映画
吃音の男の子が同学年(翌年中学に上がって制服になるから小学六年)の女の子に一目惚れするのだが、そのもどかしい気持ちを表すのにスケートで滑ってばかりいたのが滑れるようになるのと、女の子と距離的に接近するのを結びつけたのが絶妙。何か言おうのとしたところですぱっとカットアウトするのが文字通り切れ味がいい。
白ずくめの背景が清冽。

対する女の子が「月の光」をBGMにフィギュアスケートを華麗にスローモーションをはさんだりして、背丈でも気持ちの上でも見上げるような感じで描かれている。この年頃は女の方が大きい。

単純に子供と大人という対照だけでなく、成長と性徴とを微妙に絡ませたのがニュアンス豊か。

食卓のシーンの両親と二人の男の子の配置で、両親が左側に並んで座り、兄が右側に弟が奥にそれぞれ一人で座るというのは、かなり変。両親がテレビを見やすいようにそうなっているということか?

最近、スタンダードサイズ(1:1.33)の映画が増えたなと思った。これがそうだし「愛に乱暴」もそうだったと思う。スクリーンサイズも映画データに入れておいて欲しいところ。

音楽担当のハンバート、ハンバートってナボコフの「ロリータ」の主人公の名前じゃない。





「イメージズ」

2024年09月24日 | 映画
ロバート・アルトマン監督作品という意識で見たら、思った以上にホラー調でした。幻想と現実が交錯し、殺したと思ったら殺してなかったり本当に殺していたり。血がかなり大量に出る。

スザンナ・ヨークが出ずっぱりの一人芝居で、ドッペルゲンガー?が現れたりするのもホラーと「三人の女」を足して二で割ったみたい。
ヨークによる絵本の朗読が冒頭から繰り返されるのだが、もともとアルトマンによる演技指導の一環として課せられたのが、後にヨークは実際に絵本を作るようになったらしい。

ジョン・ウィリアムス&ツトム・ヤマシタの半分不協和音みたいな音楽が耳につく。
ヴィルモス・ジグモンドの撮影の濁った色彩が彼らしい。

装置がクラシックなのとモダンなのと部屋によってかなりはっきり分かれている。




「ザ・ブレイキン」

2024年09月23日 | 映画
決勝戦で当たるイギリスとフランスの代表が有色人種というのはご時世ですな。準決勝でイギリスと当たるのは日本なのだが、あまりにも出番が少なくてそそくさと切り上げた印象が強い。

出だしで事故に遭い母親を亡くした兄弟の仲がこじれていたのが仲直りするというのが大筋。お話の綾のつけ方は先日の同じブレイキンを扱った「熱烈」より濃い。
主演のふたりは共に世界チャンピオン経験者だという。

エンドタイトルでブレイキンがパリ五輪の種目に採用され、次はパリで会いましょうとなるのはいささか証文の出し遅れ気味。
ブレイクダンスそのものだったら1970年代からあったわけだが。





「ヒットマン」

2024年09月22日 | 映画
なんか思ってたのと違っていてアクション映画ではなかった。リチャード・リンクレテターにアクションを期待するのが見当外れには違いないないが。

頭からビニール袋をかぶって窒息するというのは作家のイエジー・コシンスキがやっていたが死ぬ前に意識を失うので楽に逝ける(試しても私は責任持ちません)のだそうです。

囮捜査がアメリカでは許されているほか、あんなに自由に身分を偽っていいのかと思う。やはりアメリカはでかくてアバウト。





「アビゲイル」

2024年09月21日 | 映画
あちこちから集められた互いに見知らぬ誘拐団一味が、大金持ちの娘を誘拐して幽閉したつもりでいたら、自分たちの方が囚われの身になっていた趣向は面白い。
もっとも後で考えると、誰がなんで少女を誘拐させて身代金を要求させたのかわかったようでわからない。
見ている側が疑問に感じたりボロが出る前にとっとと話を進めることに決めたということだろう。

前半のいとも優雅に「白鳥の湖」を踊っていたか細い少女が誘拐され怯えて泣きじゃくるところから一転してギャアッとなるタメがいい。

後半はピーター・ジャクソン「ブレインデッド」の次くらいに思い切って血糊をまき散らす。

誘拐団の一人がシャーロック・ホームズばりにそれぞれの他のメンバーの素性を言い当てるところからキャラクターづけを始めるあたりも工夫されている。

吸血鬼が噛むのと食いちぎるのとで、あとで噛まれた方も吸血鬼になるのかならないのかの違いが出るらしい。

アリーシャ・ウィアーは可憐な顔ととんでもない顔と両方見せて楽しい。





「加藤隼戦闘隊」

2024年09月20日 | 映画
昭和18年、もろに戦時中の製作。
陸軍省協力とあって、物資は豊富で、金もかかっている。

実際に飛行機を飛ばしたカットと、円谷英二によるミニチュア特撮との組み合わせも見事で、前方から戦闘機を撮ったカットなど、どうやって撮ったのかと思う。
パラシュート降下を上から撮った画もさりげなく新鮮。

「ハワイ・マレー沖海戦」同様、スタッフ、キャストの名前が全然出てこない。作り手の存在より、まず国策としての顔が前面に出ている。
監督は山本嘉次郎、撮影は三村明といった超一流スタッフに、主演は藤田進。
藤田進はウルトラマンなどの長官役の印象が強いのだけど、軍人役のイメージを受け継いだわけね。



「憑依」

2024年09月19日 | 映画
なんだか安い意味でマンガチック。
インチキ祈祷師がインチキのつもりで本物を招いてしまうというありがちな話で、コメディともホラーともアクションともつかず、中途半端。

チェ・ミンシクが出てないな?と思ったら「破墓 パミョ」と混同していた。





「シサㇺ」

2024年09月18日 | 映画
全体とすると「ダンス・ウィズ・ウルブス」のように異人異文化にその外側にいるマジョリティから接近した一人の男が、初めは異文化に反発する=されるがやがて理解し同化しかけるも中途で曖昧に挫折し、しかし諦めはせず記録者として後世に理解を委ねて生きることを決めるという流れになる。

1552年にスペイン出身のドミニコ会士であるバルトロメ・デ・ラス・カサスが著した 「インディアスの破壊についての簡潔な報告」を思い出した。
類型としては先住民が住む土地に侵略し占領し略奪した植民地主義の一環として世界史の至るところに通じる。

鮭の漁の場面があるのだが、以前、アイヌ初の国会議員になった萱野茂氏の講演で、当時アイヌが鮭を捕る許可をとるのに必要な書類を積み重ねたら身長を超えてしまうくらい(ちなみに萱野氏はかなりの大男)必要だったと聞かされ、さらに日本で言うなら主食の米にあたる鮭を食べるのを禁じられ許可を得るのに膨大な量の書類が要求されるのは世界的にあまり例がないと言われた。
この映画でアイヌが和人に武力で制圧された後に舐めた苦難は直接には描かれないが、想像を絶するものだったろう。

見たことはないが、アイヌが出てくる日本映画としては高倉健主演、内田吐夢監督の「森と湖のまつり」があって、配役表を見たら三國連太郎が出ていた。この「シサㇺ」の主演の寛一郎の祖父ですね。

日本人のことをワジンと呼んでいたので魏志倭人伝の倭人かと首をひねったのだが、字幕で和人と出たのでなーんだと思った。

北海道・白糠町のロケ効果が大きく、エンドタイトルで町長の棚野孝夫氏への謝辞が出る。

ただ、アイヌ役の役者が実際のアイヌではないのは気になる。アイヌの職業俳優がいないから仕方なくはあるのだが。





「ママと娼婦」

2024年09月17日 | 映画
ママと娼婦というのは男にとっての女の二類型ということになるだろうが、ここに出てくる女たちは反語的に類型にはまっていない。

ジャン・ピエール・レオがスカーフみたいな幅広のネクタイ(実際にスカーフかもしれない)を途中から結んでいる。なんだか孔雀みたい。
アパルトマンの床にじかにマットレスを敷いて靴を履いたまま寝転ぶ。床には酒瓶が置いてあるし、どうもむさくるしい。

「白夜」のイザベル・ヴェンガルテン相手の会話でロベール・ブレッソンの映画に出てる云々の楽屋オチあり。

作中の会話で自殺について触れてるところがあるが、現にこれに出演した女優のひとりと監督が自殺している。

とにかくえんえんとセリフが続く。相当程度監督の自伝的内容らしく、キャラクターと一体化して、役者が代弁している分饒舌になっている感あり。