prisoner's BLOG

私、小暮宏が見た映画のノートが主です。
時折、創作も載ります。

「ロング・ウェイ・ノース 地球のてっぺん」

2022年06月30日 | 映画
同じ監督の「カラミティ」同様に輪郭線を使わないで面の塗分けで表現するという方法で、クリスマスいわゆる(日本式の)アニメとはまた別の作画と内容がアニメーションにはありうることを、今さらながら教える。

あちらは開拓期の北米大陸、こちらは北極探検とおよそ違う風土を扱いながら、シンプルな画を自然のスケールと厳しさ、そして美しさに転換できるのが不思議でもあり、作者たちの腕前でもあるだろう。

「カラミティ」と同様、若い女性の、若さと性差別と両方を乗り越えるドラマとしても自然に組み立てられている。





「はい、泳げません」

2022年06月29日 | 映画
綾瀬はるかと長谷川博己という大河「八重の桜」で夫婦役で共演した組み合わせで売っているのだが、実は長谷川の恋愛の相手になるのは、阿部純子扮するシングルマザーの理髪師。狙ったわけではないだろうが、阿部さんが5月に結婚したという現実がかぶる。
綾瀬の方はもっぱら水泳のインストラクターの役で、泳ぎを通じて生き方についての示唆は与えるけれど、恋愛感情は潔いくらいない。
綾瀬、長谷川お二方とも肉体美。

理髪師というのも実はタイトルになっている泳ぎと関係しているのであって、つまり頭を洗う時に水をかけますからね、幼少期にいきなり叔父さんに海に放り込まれて溺れかけたため水が怖くなり泳げなくなったという長谷川の設定に対応している。

もうひとつ、長谷川と麻生久美子の元妻の間の子供が溺れて死んでいるという深刻な設定があって、泳げるようになるのとトラウマの克服が重なって描かれるのがドラマの骨子。
回想シーンで色を抜いて子供がゾンビみたいに見える工夫。
水は母親の胎内を満たしていた羊水であると同時に生死の間をつなぐ存在でもあるという構造がきっちりしている。

エンドタイトルに「納豆男」「納豆女」という役名がクレジットされる。どういう役かは見てのお楽しみ。
基本的に落ち着いた見せ方をしておいて、あちこちに鈴木清順かと思うようなケレン味がかった演出が入ってびっくりさせる。

「哲学監修」國分攻一郎なんてクレジットもあり。





「峠 最後のサムライ」

2022年06月28日 | 映画
かなり突飛な連想か知らないが、主人公の河井継之助が見ていてかつて黒澤明が「トラ!トラ!トラ!」で描こうとした山本五十六にかぶって見えた。
初めから勝ち目のない戦いを避けようとして結局その先頭に立たざるを得なくなるところから、武人としての生き方を貫こうとするところも。
小泉監督というと、黒澤明の弟子という印象が強くて、そこから抜け出す気配はない、というかより徹底した感がある。

もちろんまったく同じになるわけもなく、本家のハッタリ寸前のケレン味、ハデなショーマンシップというのは、およそない。

となると、おそろしく丹念で周到な映画作りが強調されるわけで、それはそれで悪いわけもないのだが、良く言えば几帳面で端正な楷書体、悪く言うと堅苦しくしゃっちょこばっているということになる。

主人公の河井がそういう堅苦しさを自ら掻き回すようなくだけた振る舞いをそれこそ山本五十六みたいにわざわざするのだが、周囲がそれでリラックスするわけではない。
どころか「まあだだよ」的な気まずさというか居心地の悪さが浮かび上がってくることになる。
山本とかぶるのは芸者遊び好きというところもだが、奥方をお座敷に呼んで芸者と一緒に踊るというのは、相当に挨拶に困る。

普通に撮ったら静的な会話シーンを背景に隊列が動き回ってダイナミックな画になるあたり、本当に黒澤調。
ラスト近くで河井が羽織る打掛が「乱」で仲代達矢が着ていた打掛そっくり。

西軍の権柄づくな司令官が吉岡秀隆で、満男役の頃の頼りない甘ったれたような喋り方はヒまったく影を潜めているが、表面は強面にしながら裏の怯惰さが透けて見えるのを狙ったようなキャスティング。

井川比佐志が出てきたのにはちょっと驚いた。映画では「続・深夜食堂」(2016)以来の出演ということになる。





「ナワリヌイ」

2022年06月27日 | 映画
プーチンが公的な場でナワリヌイの名前を口にすることさえない、という図が問わず語りにプーチン自身の、これまでアピールしてきたマッチョイメージとは裏腹の怯惰と卑劣と陰険さをあからさまにする。
実はマチズモこそが本当には相手と向き合えず力任せに言うことを聞かせるしかない、弱さと卑劣と嘘とゴマカシそのものであることがわかる。

それにしてもプーチンのマチズモのヤバさをおもしろ物件として消費したのは本当にまずかった。正直自分も乗ってた部分があるので反省する。
日本でプーチンカレンダーを買ったの、どうしているのだろう。一定数そのままになっていると推測する。

逮捕しにくる警察がコロナに合わせてだろうが一様にマスクをしているのが外観のみならず実質の画一性・全体主義性をドキュメンタリーであるにも関わらず図式的に思えるまでに画にしている。

それにしても、ナワリヌイとその妻子たちが美男美女揃いというのも、なんかすごいぞ。
ちょっとクール・ハンド・ルーク役のポール・ニューマンを思い出したくらい。

暗殺のあまりにあからさまな証言をとれる場面、それこそ劇映画でやったらリアリティがないと言われるレベル。そういう信じられないようなことが平気で起きるのが事実。

これを撮ったのはウクライナ戦争が始まる前だろうから、しばしば挟まれるロシア人たちのデモの光景に胸が痛む。今ではおよそムリだろう。
ロシアのテレビのおそろしく陋劣な理屈のごまかし発言は外から見たら一目瞭然だが、翻ってみれば日本のテレビも大して変わっていないだろう。

日曜とはいえ、新宿ピカデリーは満席。コロナ禍でいいのかとも思ったが。

エンドタイトルにFACT CHECKという職能が出た。





「トゥモロー・ウォー」

2022年06月26日 | 映画
エイリアンに侵略されて人類滅亡の危機に陥っている未来から過去に兵士たちがやって来て、未来の侵略に備えなくてはならないと呼びかけ、たちまち世界中で徴兵制が敷かれる。
父親J.K.シモンズと不和で家を出て軍隊に入ってその特典で除隊後大学に行き、結婚して娘をもうけて溺愛しているクリス・プラットがその経歴を買われて軍に復帰させられ、仲間たちと未来に飛ばされて戦うことになる。

主人公にとっての「未来」がふたつあって、ひとつは愛娘で、もうひとつは自分の否定したい将来像であるところの父親。
その前者を守りたくて戦うのはありがちだが、後者との和解と組み合わせたかなり欲張った作劇。

「ターミネーター」や「エイリアン2」などあちこち先行作を連想させるけれど、Amazon Prime配信作品ながら、劇場にかからないのが不思議みたいなスケール感。




「トップガン マーヴェリック」

2022年06月24日 | 映画
クライマックスの作戦がまるっきり「スターウォーズ」なのにびっくり。
しかもそれを実写の戦闘機でやってしまうのだから、VFXかCGの世界が現実と見分けがつかなくなっているのに呼応して、皮肉にもできるだけ実写にこだわった結果、現実の方も仮想とされてきた世界に接近しているみたい。

光が機体に反射して動くところがおそらく合成では出しにくいのではないか。
「天国と地獄」で実際の特急こだまで撮影した黒澤明が、車体の金属部分に映る影がセット撮影では出ない、という意味のことを言っていた。

敵を黒いヘルメットをかぶって(ダース・ベイダーか)、まったく顔が見えない存在として描いて、特定の国や人種を非難する意図はないと言い訳できる煙幕を張っている。

さらには「ファイアーフォックス」式趣向まで出てくるとは思わなかった。
なんでロシア(でしょ)にアメリカ人パイロットが操縦できる戦闘機があるのだろう、敵国から鹵獲したのか、ミリタリー系に強い人だとわかるのだろうか。まあ気にしなければいい作りでもある。

一作目の仲間の死という劇的な要素を生かして、これだけ前作の内容に密着した続編というのも珍しい。
かつての「ハスラー2」におけるポール・ニューマンの役割にトム・クルーズがつくようになった感。

ヴァル・キルマーの出演場面は37年の時を隔てて万感の思いという言葉がそのまま画になった。咽頭がんで声を失ったヴァルが最後にちょっとだけ話すセリフを合成するのにどれだけ手間と費用をかけたか。

マーヴェリック(はぐれ牛→思想や行動において独自の方針を示す人 慣例や規則を守らない人)というと、オバマと大統領の座を争った軍人出身の故ジョン・マケイン上院議員の仇名でもあったわけだけれど、軍隊にそういうニックネームをつける慣例があるのだろうか。




「炎の少女チャーリー」

2022年06月23日 | 映画
最初の映画化も見ているが、ずいぶん変更している。
旧作ではジョージ·C·スコットが殺し屋役で、ジェリー·ゴールドスミスを真似たという白髪をポニーテールにするという変わった髪型が印象的だったのだが、今回の殺し屋は役者が変わった(マイケル・グレイアイ)のは当然として、ラストでやっつけられてスカっとさせるようなはっきりした悪役ではなくなったのはどんなものだろう。

悪役がやっつけられて溜飲を下げるというのはごく単純な娯楽映画の作り方だと思うのだが、それを避けて、だからといって新しいカタルシスの出し方に成功しているとも思えない。「殺しが静かにやってくる」ほどの逆手でもないし。
途中でずいぶん殺されなくてもいい人がばたばた殺されているのだから狙いなのだろうが、悪くひねった印象が強い。

時代が経過して特殊効果技術は別物といっていいくらいに進化したはずなのだが、炎の特殊効果というのは結局本物の炎か、それに見えるものからあまり外れられないらしく、高熱で空間が歪むような効果はアップしていても、全体としては意外と変わらない。

キャスティングで有色人種がずいぶん目立つようになった。
あと、日本映画かいなと思うくらいセリフが多い。多く感じるということは分量の問題であるよりあまり機能していないからと考えていい。





「FLEE フリー」

2022年06月17日 | 映画
アニメーションでありながらドキュメンタリーでもある実験的な一編。
つまり描かれている出来事は実話に取材しているが、当人を映すと危険が及ぶという理由からアニメを採用したという。

日本ではこういう大人向けのアニメがおよそ作られていないという片淵須直監督のは「FUNAN フナン」評でも紹介したが、アニメに限らずあらゆる媒体でそうなっていると思う。

ひどいボロ船に乗せられて海を渡り大きな客船に発見されてやれ嬉しやと思ったら客たちは写真撮るだけで助けてくれず、強制送還されてしまい、ボロボロの収容所(実写で映るが、トイレの汚いのなんの)に閉じ込められるという酷さ。

行進についていけない難民の老人を、足手まといだから殺してしまえばいいと平気で言い放つロシア人ブローカーや、モスクワにいた頃に警官が当然のようにカネをせびりカネがなければ腕時計で、女だったら体で払わせるというあたりの腐敗のひどさは今のウクライナ戦争でロシア兵の蛮行が伝えられる時期見るとなおさら生々しい。
先日閉店したロシアの第一号マクドナルド店の前でつかまるというのが偶然にせよアクチュアル。

これに性的マイノリティであることが重なり、それでも少しでもましな暮らしを求める一方で、つらい記憶に蓋をしがちなのを次第に話していく(それから同性パートナーの支え)など世界の今の問題そのもので、こういうアニメの作り方、使い方があるのかと思わせる。





「ALIVEHOON アライブフーン」

2022年06月16日 | 映画
ドリフトの追走という試合形式すら知らなかったのだから我ながらヒドイが、スピードを競うのではなく、二台の車がデュエットを踊るようなつかず離れずに走るテクニックと美的センスを競うというもの。
走りの映像は大いに魅力的。カメラがタイヤに踏まれるくらい接近したかと思うと、ドローンによる空中撮影に切り替わったりして多彩で、クライマックスの夜間走行など幻想的ですらある。
普通のぶっ壊しを旨とするカーアクションものかと思ったら、むしろ美的センスを見る(競技自体がそう)作り。

もっとも一方で釈然としないところもあって、ゲームのレースで日本チャンピオンになった青年が本物の車のドリフトを始めるというのが基本の話だが、まるで初期の碇シンジみたいなぼそぼそした喋りのコミュ障ぶりで、eスポーツでもチャンピオンになるくらいの存在ならもう少し堂々としていないかなと思った。
あとゲーム=シミュレーターでやっていたことがどの程度現実の走りに応用できるのか、実際にGがかかる中で筋力がどの程度必要なのかとか、通用するのかしないのか曖昧で、そんなものかとなんとなく納得するしかない。

ヴァーチャル世界に閉じこもっていた青年がリアルに出て行って生身の人間との付き合い方を学ぶという展開に一応なっている割に、またゲームに戻るというのもなんだか釈然としない。
ゲームは単純にリアルではないからダメとは今や言えないが(早い話、それでマネーが動くようになっている)、はっきりゲーム世界の価値を立てている感じでもない。





「ウェイ・ダウン」

2022年06月15日 | 映画
難攻不落の金庫に隠され厳重な警戒のもとに置かれたお宝を、チームが知恵と工夫の限りを尽くして奪うという、いわゆるケイパーもの。

定期的に作られているけれど、2010年のスペインvs.オランダのワールドカップという実際のイベントを背景にしているのが珍しくもっともらしい。

金庫を難攻不落にしている仕掛けがハイテクとアナログを混ぜたみたいで、画とするとアナログの方がわかりやすい。
ものすごい財宝そのものは重すぎるので、その隠し場を示す座標を記した三枚のコインにしたのも工夫。
今だと大金ほどデータ化された数値だけがデジタル空間を行きかっているだけみたいで味気ないのだけれど、大航海時代のお宝と結びつけたのがいい。

フランスとスペイン合作。世界市場向けのせいか主演に英語圏の俳優を連れて英語のやりとりも多いが、スペインの場面はスペイン語の方が多いくらい。

何よりワールドカップに興奮する大群衆をこのコロナ禍にどうやって画にしたのかと思う。
群衆の興奮を随所にはさんで映画自体を煽る編集も上手い。

強盗団のキーマンが天才的な頭脳を持ちながらカネ儲けには興味がない変人的な大学生で、犯罪者としては素人だからハラハラさせられるところもある。

ムリなところもあるが、ラファ・マルティネス、アンドレス・M・コッペル、ボルハ・グレス・サンタオラジャ、 ミシェル・ガスタンビデ、 ローワン・アタリー と実に五人がかりで相当に知恵と工夫を絞ってシナリオを練った(ああ、これが伏線になっていたのかと驚くところあり)拾い物的な娯楽映画には嬉しくなる。





「ヘカテ」

2022年06月13日 | 映画
おかしな言い方だが、映画みたいな映画。

こういう植民地みたいな土地で男が異国の謎めいた女に出会い、激しい恋愛とアンニュイな日々を代わる代わる過ごすみたいなある種のパターンを祖述したみたいで、よく考えてみるとそういう具体的なモデルがあるかというと、ありそうでない。

存在していないが存在しているような気がする映画をさらに再現しているような不思議な映画。

ラストで男の「何を考えているんだ」という問いに「何も」と女が答えて去っていくのが、全体の縮図になっている。

撮影、美術、衣装などの美意識の統一が凄い。

謎の女がアメリカ人で、扮するのがいかにもアメリカ人らしいモデル出身のローレン·ハットン。

歯に隙間があるのは幸運の徴しなんて言い伝えあるらしいが、この人は割りと目立つ。監督とすると逆手を行っているのかもしれない。
ちなみにモデルの仕事でロマンチックな表情をするときは歯に目立たないように詰め物をしたとのこと。







「オフィサー・アンド・スパイ」

2022年06月12日 | 映画
ドレフュス事件を正面から扱った映画だが、主人公はドレフュスではなく(何しろ仏領ギアナの通称悪魔島に島流しされてそこから動けないのだから何もできず主人公になりようがない)、ドレフュスの教師であり事件のあと情報部の責任者に就くピカール中佐が主人公になる。

オープニング、整然と整列した軍隊の隊列の前(ヤンチョーばりの様式的な画面構成)で、スパイの汚名を着せられたドレフュスが軍帽、記章、ボタン、サーベルといった軍人の徴しを次々と剥ぎ取られて有罪判決を言い渡される。
軍人としてはこれ以上ない恥辱にまみれるわけだが、これに対する軍人としての任務を淡々と遂行するのがピカールという構図になる。

これと直接対置されるのが情報部生え抜きで自分が昇進するものと思っていたアンリ少佐(グレゴリー・ガドゥボワ)で、肥満した体躯も少しずつだらしない振る舞いもピカールとは対照的。

このアンリが、特に正義の士でも悪党というほどでもない当たり前のほどほど保身的な人間が、システムの中の歯車としておよそその望む逆の運命に叩き込む非情さとやりきれなさの象徴のようになる。

ピカールも正義の士というわけではなく人妻(演じるはエマニュエル·セニエ、監督のロマン·ポランスキー夫人)と不倫したり、ユダヤ人(ドレフュスはユダヤ人だ)が好きではないことは率直に認めるが、だからといってそれで成績を悪く採点したわけではないと言うし、その通りに振る舞う。

印象とすると軍人というより能吏という感じで、出入りする人間のチェックもしないだらけたシステムを立て直し、蓄積されているというよりただ乱雑に集めただけの証拠資料の整理に取り掛かると、特に気にかけていたわけでもないドレフュスの軍法会議の手続きのいい加減さが自然にあぶり出されてする。
このあたりのニュートラルで有能な感じがいい。

本来だったら軍と政府の上層部は判断の間違いを認めて差し戻し再審に付すのか当然でありそれ以外にありえなくもあり、結局軍と政府の信用を守ることにつながるはずなのだが、これが丸っきり真逆にいってしまう。

ピカールとすると単に任務を淡々とこなしてきただけのつもりだったろうが、そうして事実の積み重ねの末に浮かび上がってきた冤罪を認めるのは、権力の座にある者には単にその正当性(実質は単なるゴリ押し)を脅かす、無能無責任卑劣の証しとして排除の対象にしかならない。

力のあるものの矮小で陋劣で臆病なくせに傲慢な振る舞いは、うんざりするしかない日常茶飯事として日本の今にも敷き詰められている。
ゾラの文による告発(原題はJ'accuse  我、告発す)によって軍の上層部のひとりひとりの「顔」と「名前」が目に見えるものになると、漠然としたシステムの止められない働きのように思われていた悪が、単に彼らひとりひとりの無能と無責任の連鎖の産物にすぎないことを証しだてる。

つまり、あくまで過ちを認めず権力にものを言わせてコトを納め異論を唱えるものを黙らせようとする。ピカールがはっきり反抗者・告発者の側に赴くのはむしろ権力の傲慢と思い上がりと不正義と理不尽によってで、初めから批判的だったわけではない。むしろ軍人としての職務にはこの上なく忠実だ。
このあたりの権力の体質と構造というのは呆れるほど国も時代も問わない。つまり権力と批判者との本質をつかんだ作品ということになる。

そしてそういうムリを通して道理を引っ込めた歪みというのがいかに後顧に憂いを残すかという射程の長さを考えるとため息が出る。
このドレフュス事件によってむしろそれまでユダヤ人は「置かれたところで咲く」のがいいと考えていたテオドール・ヘルツルがユダヤ人差別の根の深さに衝撃を受け、自身の国を持たなければいけないとシオニズムに目覚め、それがイスラエル建国につながっていき、以後どれだけ中東情勢を不安定にしたか。

エミール·ゾラによる軍上層部の告発が、逆に司法によって名誉毀損のレッテルを貼られる。
言うまでもなく、司法も、というより司法こそ、法治国家のシステムそのものであり、しかし法治と言いながら実質の人治を覆い隠し誤魔化す一味に過ぎないことも明確に描き出す。
これもなんだか19世紀のフランスの話を見ている気がしない。

ポランスキーの演出はもともとカメレオン的というか舞台やモチーフに過剰なくらい適応するのだが、ここでは冤罪であることを信じたわけでも狙ったわけでもないのに、事実を調べてつなげる職務を忠実に果たすことで結果として証明してしまうアイロニーを、それ自身事実の積み上げとして淡々と描いて証明している。
映画を見る限り、ユダヤ人差別という背景さえやや後方に引っ込んだ印象すら残す。

これまで見たドレフュス事件のドラマ化としては、リチャード·ドレイファスDreyfuss(自身ドレフュスDreyfusの遠縁と主張している、ほとんどスペルが同じで、もちろん同じユダヤ人)が製作を兼ねてピカール役で主演、ケン⋅ラッセル脚本監督のテレビ用映画の「逆転無罪」(日本では一部劇場公開、のちビデオ化)があるわけだが、あれは「バイス」に先駆けるような「ドレフュス事件?あれは茶番劇だったよ」とうそぶく謎の語り手を通じて、作家のゾラすらほとんどバカ扱いする皮肉と揶揄に満ちた調子で描いていたが、こちらは極めて真面目な調子。

この「逆転無罪」という邦題(原題はThe Prisoner Of Honer=名誉の囚人)とか、「オフィサー…」の宣伝もだが、無実の罪を着せられた冤罪が晴らされる逆転劇みたいに思わせるのはどうかと思う。違うのだから。
ヘタにそれを期待したら、絶対すっきりしない。






「帰らない日曜日」

2022年06月11日 | 映画
予告編からは身分違いの恋の話かと思ったら、まるで違うわけではないが、どちらかというと、何も持たない者の強さ、というのをヒロインが自覚して一人の作家が誕生するまでの物語といった趣でした。
原題のMothering Sundayは自分を育んだ日曜日(の情事その他)とでもいった意味か。
予告編でも印象的な全裸でびっしり埋まった本棚の前を歩くシーンが官能と知性の往来といった位置づけになるのだろう。

「つぐない」みたいにヒロインが年取って大物作家になった姿がラストに出てくるのだが、それに扮しているのがエンドタイトルを見たらグレンダ・ジャクソン。
「恋する女たち」「ウィークエンド・ラブ」で二度にわたってアカデミー主演女優賞を受賞し、イギリスの文部大臣も務めた大物です。
ずいぶん久しぶりなもので誰だかわからなかった。
調べてみると映画出演は1990年のKing Of The Wind以来、日本公開作では「レインボウ」1989年以来だから30年以上間が空いている。







「ハケンアニメ!」

2022年06月09日 | 映画
派遣アニメ=派遣社員がアニメ業界のブラック労働に翻弄される話かと思ったら、覇権アニメ=視聴率トップをとって業界に覇を唱える方だったのね。

もっとも、前者の意味がないかというとそうでもなく、相当ムチャな労働をやっている。
労働が深夜に及ぶので尾野真千子のプロデューサーが制作進行していた頃と同じように自らお握りを作って差し入れる(と、進行がなんとか間に合うという名誉なんだか何だかわからない伝説つき)わけだが、ということは過重労働がかなり長いこと続いているわけだ。

神作画と呼ばれる人にやたらと仕事が集中して、結局なんだかんだ言いながら引き受けてしまうあたり、あるあるだけれど、いいのそれ、という視点は特にない。
アニメ業界にしては常識なのかもしれないけれど、今現実ではいろいろ問題になっていることも確か。ないものねだりではありますが。

吉岡里帆の子供時代をやっている子役がそっくりなのは笑ってしまう。
余談だけれど、「愛と追憶の日々」のデブラ・ウィンガーの顔のアップから引くと体が子供(別人の子役)なので仰天したことがある。

見ている間は普通に楽しめていたのだけれど、後で考えてみると?となるところはある。
メインスタッフで吉岡をあからさまに女だからダメだという言い方でこき下ろしていたのに対して吉岡が後で言い返すくだりのロジックがズレてないか。
スタッフのキャラクターがキャスティング含めて一癖も二癖もあるのが面白く描けている一方で微妙にブレているのが散見する。

それらのスタッフにそれぞれの癖に応じて指示が出せるようになるのに監督としての成長を見せるのがよく描けている。

作中のふたつのアニメにそれぞれ別班をふたつ立てて本格的もいいところの作画・演出で作っているのは贅沢。
もっとも作中アニメの設定とか展開は、映画全体の原作者でもある辻村深月 が書いているわけだが、今のアニメのごく一部しか見ていない身としては、なんだかわかってようでわからない。音の記憶がなんでロボットと関係あるのか、素朴に疑問。

タブレットなどデジタル機材を使うのと紙と鉛筆のアナログなやり方とが混在している。
天才などと持て囃されていてもやることは机にしがみついて描くしかない、というのは本当にそうだと思う。

吉岡の新人監督が変に謙遜しないで、近所の子供に自分の作品を面白いから見て、というのはそうでなくちゃねと思わせる。

これも作り手は承知の上だろうけれど、最終回の脚本を全面改訂するのにどちらも脚本家との折衝はなし。出崎統(ちらっと「あしたのジョー」の小ネタが出てくる)など、脚本家としょっちゅう大喧嘩していたらしい。下手な情景描写などやってないで、気の利いた詩でも書いてこい、そうしたら映像にしてみせると豪語していたとか。

基本になっている、子供の時の自分を救ってくれたようなアニメを作りたいというのに共感しながら(刺さる人も多いらしい)微妙に違和感もある。
それだと、今が実際そうなっているように昔の作品の再生産に、資本主義の論理からしても陥りはしないか。

スポンサーやテレビ局が突き付けてくる大人の事情と闘いながら、自分の核となる部分は守るという点で、新人監督も天才という定評をすでに得た監督も変わりはなく、視聴率で競い合いながら(それ自体をアニメで見せるセンス、よし)クライマックスで両者の作品がほとんど一体化する流れははっきりしている。





「冬薔薇(ふゆそうび)」

2022年06月08日 | 映画
行き場のない田舎町の中で老いも若きもジタバタするしかない状況をうまく描いているとは思うけれど、どうもすっきりしない。
チンピラがケンカ強そうで割と弱いのがリアル。