ドレフュス事件を正面から扱った映画だが、主人公はドレフュスではなく(何しろ仏領ギアナの通称悪魔島に島流しされてそこから動けないのだから何もできず主人公になりようがない)、ドレフュスの教師であり事件のあと情報部の責任者に就くピカール中佐が主人公になる。
オープニング、整然と整列した軍隊の隊列の前(ヤンチョーばりの様式的な画面構成)で、スパイの汚名を着せられたドレフュスが軍帽、記章、ボタン、サーベルといった軍人の徴しを次々と剥ぎ取られて有罪判決を言い渡される。
軍人としてはこれ以上ない恥辱にまみれるわけだが、これに対する軍人としての任務を淡々と遂行するのがピカールという構図になる。
これと直接対置されるのが情報部生え抜きで自分が昇進するものと思っていたアンリ少佐(グレゴリー・ガドゥボワ)で、肥満した体躯も少しずつだらしない振る舞いもピカールとは対照的。
このアンリが、特に正義の士でも悪党というほどでもない当たり前のほどほど保身的な人間が、システムの中の歯車としておよそその望む逆の運命に叩き込む非情さとやりきれなさの象徴のようになる。
ピカールも正義の士というわけではなく人妻(演じるはエマニュエル·セニエ、監督のロマン·ポランスキー夫人)と不倫したり、ユダヤ人(ドレフュスはユダヤ人だ)が好きではないことは率直に認めるが、だからといってそれで成績を悪く採点したわけではないと言うし、その通りに振る舞う。
印象とすると軍人というより能吏という感じで、出入りする人間のチェックもしないだらけたシステムを立て直し、蓄積されているというよりただ乱雑に集めただけの証拠資料の整理に取り掛かると、特に気にかけていたわけでもないドレフュスの軍法会議の手続きのいい加減さが自然にあぶり出されてする。
このあたりのニュートラルで有能な感じがいい。
本来だったら軍と政府の上層部は判断の間違いを認めて差し戻し再審に付すのか当然でありそれ以外にありえなくもあり、結局軍と政府の信用を守ることにつながるはずなのだが、これが丸っきり真逆にいってしまう。
ピカールとすると単に任務を淡々とこなしてきただけのつもりだったろうが、そうして事実の積み重ねの末に浮かび上がってきた冤罪を認めるのは、権力の座にある者には単にその正当性(実質は単なるゴリ押し)を脅かす、無能無責任卑劣の証しとして排除の対象にしかならない。
力のあるものの矮小で陋劣で臆病なくせに傲慢な振る舞いは、うんざりするしかない日常茶飯事として日本の今にも敷き詰められている。
ゾラの文による告発(原題はJ'accuse 我、告発す)によって軍の上層部のひとりひとりの「顔」と「名前」が目に見えるものになると、漠然としたシステムの止められない働きのように思われていた悪が、単に彼らひとりひとりの無能と無責任の連鎖の産物にすぎないことを証しだてる。
つまり、あくまで過ちを認めず権力にものを言わせてコトを納め異論を唱えるものを黙らせようとする。ピカールがはっきり反抗者・告発者の側に赴くのはむしろ権力の傲慢と思い上がりと不正義と理不尽によってで、初めから批判的だったわけではない。むしろ軍人としての職務にはこの上なく忠実だ。
このあたりの権力の体質と構造というのは呆れるほど国も時代も問わない。つまり権力と批判者との本質をつかんだ作品ということになる。
そしてそういうムリを通して道理を引っ込めた歪みというのがいかに後顧に憂いを残すかという射程の長さを考えるとため息が出る。
このドレフュス事件によってむしろそれまでユダヤ人は「置かれたところで咲く」のがいいと考えていたテオドール・ヘルツルがユダヤ人差別の根の深さに衝撃を受け、自身の国を持たなければいけないとシオニズムに目覚め、それがイスラエル建国につながっていき、以後どれだけ中東情勢を不安定にしたか。
エミール·ゾラによる軍上層部の告発が、逆に司法によって名誉毀損のレッテルを貼られる。
言うまでもなく、司法も、というより司法こそ、法治国家のシステムそのものであり、しかし法治と言いながら実質の人治を覆い隠し誤魔化す一味に過ぎないことも明確に描き出す。
これもなんだか19世紀のフランスの話を見ている気がしない。
ポランスキーの演出はもともとカメレオン的というか舞台やモチーフに過剰なくらい適応するのだが、ここでは冤罪であることを信じたわけでも狙ったわけでもないのに、事実を調べてつなげる職務を忠実に果たすことで結果として証明してしまうアイロニーを、それ自身事実の積み上げとして淡々と描いて証明している。
映画を見る限り、ユダヤ人差別という背景さえやや後方に引っ込んだ印象すら残す。
これまで見たドレフュス事件のドラマ化としては、リチャード·ドレイファスDreyfuss(自身ドレフュスDreyfusの遠縁と主張している、ほとんどスペルが同じで、もちろん同じユダヤ人)が製作を兼ねてピカール役で主演、ケン⋅ラッセル脚本監督のテレビ用映画の「逆転無罪」(日本では一部劇場公開、のちビデオ化)があるわけだが、あれは「バイス」に先駆けるような「ドレフュス事件?あれは茶番劇だったよ」とうそぶく謎の語り手を通じて、作家のゾラすらほとんどバカ扱いする皮肉と揶揄に満ちた調子で描いていたが、こちらは極めて真面目な調子。
この「逆転無罪」という邦題(原題はThe Prisoner Of Honer=名誉の囚人)とか、「オフィサー…」の宣伝もだが、無実の罪を着せられた冤罪が晴らされる逆転劇みたいに思わせるのはどうかと思う。違うのだから。
ヘタにそれを期待したら、絶対すっきりしない。