ムファサとスカー(タカ)の兄弟がいかにして仲がよかったのが不仲になったのかを描く前日譚。
ときどき前作(といっても2Dアニメと3DCGアニメの二通りある)のコメディ・リリーフキャラが揃う現代のパートが挟まり、その時点では子ライオンのシンバが親の代の話を聞くという構成になっている。
どこまで発達するのだろうと思わせる、CGで骨格からつくるのから始まって筋肉をつけ皮膚を張り付けて毛を生やし、さらに光を当てて徹底的にリアルな画像に仕立てる技術は壮観。背景も実写では逆に不可能なくらいの再現度を誇る。
ただリアルすぎて2Dアニメでは使えたマンガ的なデフォルメが乏しく、ライオン同士があまり見分けがつかない。何よりスカーの顔に傷がついているという一番目立つ違いが最後に来ている。
ムファサとスカーはハムレットの父王と叔父のクローディアスからとったらしいが、逆にクローディアスの役の裏設定に応用できそう。
監督のバリー・ジェンキンスは実写でもカラーリングを徹底的に施した「ムーンライト」が出世作になったわけだが、広い意味のデジタル技術の応用という点ではつながっているということになるか。
2Dアニメと3DCGアニメの前作二本で共通してムファサの声をアテたジェームズ・アール・ジョーンズ(今年2024年の9月9日に亡くなった)に対する献辞が冒頭に出る。ここで声の出演をしているわけではないのだが、功績全般に対する敬意と受け取った。
吹き替えでなく字幕版で見たので、セリフと口の動きが合っているのがわかる。ライオンのセリフというのも妙だが、英語圏の映画の作り手は「デイブ」の昔からリップ・シンクにこだわるのだね。
いかにもな大作。
上映時間の長さに贅沢な美術衣装、色彩の美しさと艶やかな光、戦闘シーンの隊列の様式的な動きとリアリズムの並立。さらにセリフがやたらと朗々として声を張っている。
アンジェイ・ワイダとしては黒澤明の「影武者」「乱」にあたるようなものか。
可笑しいことに日本映画(の鬼門)ばりに熊まで出てきた。
ワイダの多彩さを証しだてる一編。
中田秀夫監督と知って、一応Jホラーの代表選手がなんでまたと思いかけたが、考えてみるとホラー以外のスリラー寄りだったりはっきりドラマ寄りだったりといろいろ使い分けているのであり、これがコメディだったりしたらはっきり裏の顔と捉えることもできるだろうが、職人的に多才なところを見せていると考えた方がいい気がする。
上白石萌音が悪役やってるとこ、話は古いがむかし佐伯日菜子が「らせん」でいきなり文字通り化けたのを思いだした。
あれと思ったのは出てくる大学名が実名だったことで、早稲田、慶応、立教、一橋、法政、明治ということになる。これ野球の六大学のうち東大が同じ国立の一橋に替わっているので、つまりほぼ六大学に対応している。
どこも一流大学で、それで就職試験の最終選考まで残っておいて、私なんか何のとりえもないなんて弱気なことを言うって、なに言うとんじゃと思う。東大だけないのは偏差値が良すぎるから外したということか。
最初のうち六人とも通るかもしれない、いや通るだろうと噂して和気藹々としたムードで互いに引き立てあう感じでいたのが、やはり一人だけに絞りますというメールが会社からいきなり来て状況は一転、しかしあくまで利他的なポーズは崩さず六人のうち当人だけ外したメンバーのうち一番ふさわしい学生に投票して集計するというルールが成立する。
さらにその学生たちの過去にどんな汚点があるのかを密告する内容の謎の封筒が置かれ、イヤミス的趣向が盛り上がる。
よく考えてみると(みなくても)一番イヤなのは選考する会社のはずで、このあたり創業者の体質の突っ込み不足含めてスルーしているのがなんかひっかかる。
浜辺美波だけスマートフォンの手帳機能でなく紙の手帳を使うほか差別化しているのだが、他でもひとりだけ特別扱いなところがあって、当然という気もする一方、なんかモヤモヤする。
お肌がつるつるすべすべなのにほとんど恐れ入った。
あと正直、女子ふたりと眼鏡をかけた男子以外の三人の男子学生の顔の見分けがつきにくい。キャリアが浅いせいもあるのだろうけれど。
幼児の裸にボカシがかかるのに呆れた。ペドフィリア対策ということか。イヤな世の中になったなあ。
傷つきやすい桃の実が無惨に累々として破棄される。
父親はあまり表情を変えず仕事しているのだが、それでもイラついているのがわかるし、しなくていいつまらないミスをする。
画面は自然豊かだけれど、一枚下はピリピリしている。
絶対に損する価格で買い叩く大企業というのはどこでも変わらないと知らされる。
体内の血球たちの働きとその主である人間とを並行して描き、しかもその人間を父親と娘の二人にした脚色に感心する。
ある程度「ミクロの決死圏」「インナースペース」の二元描写を参考にしたのかもしれないが、さらにその先に行っている。
これは輸血して血球が移動することになるなと思ったら、果たせるかな期待通りになる。
原作はマンガそれからアニメなのを、赤血球や白血球が永野芽郁や佐藤健にキャラクター化して思い切ってマンガチックな表現に移行している。
「翔んで埼玉」の武内英樹監督の面目躍如といったところ。ちなみに監督の名前がエンドロールの最後にぴたりと止まる。
永野の華奢な身体つきが気弱なキャラクターに、佐藤の身体能力の高さ(「るろうに剣心」シリーズの大内貴仁がアクション演出を担当 )が戦う白血球細胞にそれぞれはまっている。
文字通り単純明快な色分けが娯楽映画にふさわしい。
ものすごい数のエキストラを使っていて、どの程度デジタル処理しているのか目をこらしたが、当然ながらわからなかった。相当に実際に数集めたのではないかな。
生まれたての血球や血小板に小さな子供を使っているのが可愛い。その中からガン化するのが出てくるのを、なぜなのかわからず、どうしようもないこととして描いているのがフェア。一日5000個もガン化しているとは知らなかった。
血球が負傷すると赤い血が出るというのはどういう理屈なのかよくわからないが、まあ記号的表現と割り切ればいいでしょう。
見るからにミスマッチなタイトルで、しかもどうしても鉄砲の方に重きを置いてしまう。ブータンというと「幸福度No.1」の国というレッテルが気になるのを巧みに利用している感あり。
選挙という近代化、平等主義の象徴が無条件に良きこととは受け止められず、ブッダでも国王でもなく自分で決めなくてはいけないというのは相当に面倒ではある。それを底に沈めておいて本音と建前とを巧みに使い分けている。どちらかひとつだけでも不十分なのだね。
お坊さまが何を思ったのか007が使っているからととぼけたとことを言って所望する銃がソ連製のAK47で、ライセンス生産されているコピーが世界中に出回っている銃でもある。ソ連⇔アメリカ→銃大国と連想がひろがる、銃の世界的蔓延に対応しての設定だろう。
それが対照的にのんびりした、肩ひじ張らない調子に収斂していくのが逆にしたたかな平和主義でもあるだろう。
マーベルコミックの世界観の一部をなしているらしいのだが、そうなるとラストが勧善懲悪的には決着がついていてもあとにつなげる必要が出てくるわけで、なんだか締まらない。
コミックについては何も知らないのだけれど、キャラクターとか舞台とかロシア絡みのが多いのがなんだかシャレにならない。
動物がCGなのがけっこうバレバレ。
開巻劈頭、ベートーヴェンの「運命」が何の衒いもなくジャジャジャジャーンと鳴り響いたのには驚いたというより恐れ入った。
衒いがないというと偉ぶらないとか気取りがないといった類義語があるが、ジョン・ギールグッドがまあ偉そうというより実際に偉い、気取りが身についているのが役にも当人にも当てはまる。
むかし指揮者のギールグッドがクリスティン・ヤンダ(「大理石の男」)の母親に言い寄っていて、ヤンダは今は彼の指揮下のオーケストラでヴァイオリンを弾いている。
夫アンジェイ・セベリンは何をやっているかというと何やっていいのかわからないでいるところにギールグッドの代役で臨時で指揮をやらされ、ほとんど錯乱状態になってオーケストラの団員の信頼も何もなくしてしまう。
ギールグッドが颯爽と背筋を伸ばしてステッキを振りながら列をなしている庶民に紛れるあたり、エリート意識を見せないエリートっぷりが板についている。
で、ラストも「運命」で締めくくられる。画面が黒くなってもしばらく鳴ってるからいつ終わるのだろうと不安になった。
陪審員の中でニコラス・ホルト一人だけ無罪の票を投じるのは「十二人の怒れる男」のヘンリー・フォンダ同様だが、およそフォンダのように「正義」「真実」「不偏」な側に立っているわけではなく、その対極にある。
陪審員たちが面倒くさそうに早く切り上げて帰りたがるのは一緒。
ジョージア州というとイギリスから独立した時の十三州のひとつで、何といってもアトランタがジョージア州だ。イーストウッド作品とすると「真夜中のサバナ」もジョージア州が舞台だったが、土地柄というのがあるのだろうか。
酒場とその周辺でスマートフォンの動画を含めてさまざまな角度で雨の中の痴話喧嘩の様子の映像が切り取られて編集されているのだが、「羅生門」式に内容が変わっているわけでもないのに同じことの繰り返しという感じがしない。
法廷、陪審員室のフレームと編集の切り取り方の的確なこと。
ホルトがアルコール依存症で、断酒するのかどうかがひとつのヤマになるのだが、飲んで紛らわせられるのを通り越した境地になる。
「許されざる者」の主な舞台になる街の名がビッグ・ウイスキーで、主人公のウィリアム・マニーはアルコール依存症だったのではないかという説を見たことがある。アルコール以上の地獄に足を踏み入れている以上、比較には意味がなく、ただ空恐ろしい。
事故?の場面は直接描かれないのがひとつのキーになるだろう。
背景がどこで探してきたのかと思うような明らかに日本とは違うロケセットで、エンドタイトルで日台合作なのがわかる。その前から中村映里子のセリフに中国語?訛りがあるのに気付いた。
初めから台湾だと知ってから見たらまた別の趣があったかもしれない。
原作はつげ義春で、作中で成田凌が描くマンガの絵柄もつげにほぼ合わせてある。
イメージなのか現実なのか戦争シーンが執拗に入ってきて、自動車のナンバープレートに「北」の文字が見えるところも南北朝鮮の対立や、台湾ならではのそれ以上の暗示がなされていると思しい。
ただ、目覚めたら悪夢式の繰り返しがいささかしつこく単調で、正直なかなか終わらないなとじりじりした。
その割に締めくくり方が弱い。
つげ式のエロや貧乏くささ、小旅行の感じはよくつかんでいる。
今年の5月に日本公開された「胸騒ぎ」という映画のリメイクらしい。
ずいぶんオリジナルとリメイクの間をおかない公開です。オリジナルの監督・脚本のクリスチャン・タフドルップとマッズ・タフドルップ が脚本に
参加しているのが珍しい。
それを知らないで見たもので、田舎の孤立した農家が主な舞台という設定からしてかなり「わらの犬」っぽいと思った。
窓ガラスを割ったり猟銃をぶっ放したりといった暴力が表に出るまでじりじり焦らす構成もそう。というより、そちらがむしろ眼目だろう。
スクート・マクネイリーが一家の主としてジェームズ・マカヴォイに対抗しなくてはいけないのに「わらの犬」のダスティン・ホフマン同様かなり弱虫で、妻役のマッケンジー・デイヴィスが178cmと長身なこともあって比較するとどうも頼りない。
これまた懦夫奮起せば、的展開にはなる。
半ば人質になっている口のきけない子供の扱いがきつい。
ワイダという監督もさまざまなスタイル・作風を使い分ける人で、これなどすごくきっちり結構が整ったドラマ。
ダニエル・オルブリフスキが川を渡ってやってきて始まり、また川を渡って去っていくところで終わる。川を渡るというのがひとつの区切りになっていて、再生の象徴にもなっている。
会いに来た女性がすでに亡くなっていて、入れ替わり立ち代わり現れるさまざまな女性たちがあとを埋める。
死を前にしているだろう叔父や対照的に猟銃(=死)を手にして弄んでいる若い女など、さらにサブ的な人物配置のバランスが巧み。
原作者のヤロスラフ・イヴァシュキェヴィッチがさらに最初と最後の列車の中で特別出演するのが恭しい扱い。
ナチスの収容所に向かう列車が止まり、扉が開いて子供たちが解放されるイメージで締めくくったラストが、現実にあったであろうこととコントラストをなしている分、痛ましく美しい。
ロビー・ミュラーの白黒撮影が、フィルムのグレインが輝くばかり。
脚本がアグニエシュカ・ホランド なのね。
日本だと加藤剛が演じた役だけど、似合いそう。