prisoner's BLOG

私、小暮宏が見た映画のノートが主です。
時折、創作も載ります。

「ぼくとパパ、約束の週末」

2024年11月27日 | 映画
小学一年生のとき、同級生に今思うと発達障害らしい子がいて、休み時間になってもどういうつもりか校庭でタイヤの味噌すり運動をじいっと凝視していて先生たちがよってたかって教室に戻るよう言ってきかせても全集中で、結局特殊学級に転校していった。
発達障害児を他の生徒と混ぜて教育すべきかどうか日本でも議論が存ずるところだが、ドイツではこうやって混ぜるのがどの程度一般的なのだろうと思った。いじめられるのは目に見えているもの。

肉体的な障害と違って一見他と変わらないのにわがままを言っていると思われ、実際列車の中でパスタとソースがきちんと分けられず少し触れているとパニックになって口うるさいおばさんに叱られる。
父親が板挟みになって気の毒とも思うが、へこたれそうなところをタフに乗り越えていくのが頼もしい。





「にっぽんぱらだいす」

2024年11月26日 | 映画
娼婦たちがプラカードを持って労働組合よろしくデモをするなんてシーンがある。労働者には違いないわけだが。先日見た「五番町夕霧楼」(1963)でも団結して交渉するシーンがあった。
彼女たちが大挙して引っ越していくラストでロシア民謡が流れるあたり、社会主義的なカラーが当時はかなり一般的だったのかなと思わせる。

菅原通済本人が字幕つきで登場するので、どんな人なのか調べてみたら小津安二郎のタニマチ的な実業家にして政治家。小津作品に出演もしている。麻薬・売春・性病の三悪追放を唱えて、そんなこと言えるのも自分が女遊びを堪能したからだろうなどと陰口を叩かれた。

売春禁止法が公布されたのが1956年、施工が57年で、この映画の公開が1964年だから、溝口健二の「赤線地帯」の1957年がもろに法律に制定をめぐって動いていた時期なのには及ばないが、タイムリーな企画だったとは言える。




「五番町夕霧楼(1963)」

2024年11月25日 | 映画
メインタイトルで早めに監督の田坂具隆と撮影の飯村正彦が二人並んでクレジットされ、最後に「そして」「佐久間良子」と締めくくられるのには驚いた。「そして」って何ですか。
いかに佐久間良子を売り出すのに力を入れていたかがうかがわれる。

クライマックスにあたる河原崎の吃音の見習僧が金閣寺に放火して火の手が上がるのを直接描かず、佐久間が誰がやったのかうすうすわかっていて火事を見ている姿で代えたあと、木暮実千代以下の女たちの会話に移って、佐久間は出てこなくなる。

佐久間に口止めされていたことを河原崎に言うのが木暮だからその分のうしろめたさも込めていたのかもしれない。
もとより木暮は立場からすると水揚げの四割を天引きする女将という悪役になっていてもおかしくない一方で遊女たちの面倒をみなくてはいけない立場でもあるわけで、千秋実の水揚げする無責任な客とは対照的。

さるすべりの赤い花の使い方が印象的。


「グラディエーターII 英雄を呼ぶ声」

2024年11月24日 | 映画
前作はもう四半世紀前で、それに対応して劇の内容も丸一世代経ち、適当に前作のフッテージが顔を出す。
作品のルックを保ちながら前作のオープニングの林の野戦から戦艦と砦を舞台にした海戦へと、それに合わせて闘技場の中を水で満たすという新趣向を同居させた。
画面の色あいなどはそれほど変えてないが、映像技術は相当に高度になったのだろう。水など必ずしも本物は使ってないのではないか。「ゴジラ-1.0」であれだけリアルな水の表現ができたのだから。

デンゼル・ワシントンがシェイクスピア劇の数々の役を彷彿させる複雑多彩でどう展開するかわからない顔を見せる。
コニー・ニールセンが唯一前作と共通する役で出ているわけだが、前作より芝居の見せ場は多いくらいで、当人も納得できたでしょう。

劇の構造とすると、かなりシンプルな貴種流離譚にまとめられることに気づく。

スコット・フリーのロゴのタイトルがそのままメインタイトルのバックになるのは驚いた。あれをデザインした人を意識したことはなかったが、今回ジャンルイジ・トッカフォンドという人だと知った。





「ベルナデット 最強のファーストレディ」

2024年11月23日 | 映画
初めに字幕で、これは実在のシラク夫人ベルナレッドを主人公にしているけれど、ホントかどうか保証の限りではありませんよと意味の一文が出るが、あとで果たせるかなウッソだあーと言いたくなる展開になる。
エンドタイトルのコーラスの使い方など、ギリシャ悲劇のコロスのパロディ的な扱いですね。
カトリックの告解の制度の扱いなども、相当にふざけている。

カトリーヌ・ドヌーヴが貫禄。無敵感、ハンパない。
そういえば、フランスには女性大統領って出ていない。首相は出ているけれどNo.1の座についたのは、今のところいない。これがアメリカや日本だと不公平感が出るけれど、これ見てるとフランスではそうでもない(気がする)。

ミッテランだったか、一時期本妻のほか愛人が五人くらいいて、愛人と元愛人
の誰がどの順番で並ぶか決めておいたという逸話を聞いたことあるけれど、シラクはどんな塩梅だったかな。





「陽のあたる坂道(1958)」

2024年11月22日 | 映画
裕次郎の背中を丸めてポケットに手を突っ込んでいる姿はこの映画の製作の3年前の1955年に公開された「エデンの東」のジェームス・ディーンそっくりだなと思うと同時に(公開当時もよくそう言われたらしい)、ディーンとは対照的な根っからの向日性というか、ひねくれそうでひねくれない明るさ、屈託のなさは他の登場人物が形容する通り。

もっともそれはかなり場面が進行してからで、初対面の女性の胸をさわって「僕の憲法」などと言う出だしなど、裕次郎の兄かと思うようなふるまいでいささか呆れた。
さわる相手が裕次郎と結婚する前の北原三枝ではあるのだが。
そこから始まって気がついたらわざとらしくなく移行しているのだから不思議。

タイトルバックで文字通り陽の当たる坂道を下ってからまた上がって屋敷に着くのがどこか象徴的。

メインタイトルで監督の田坂具隆の名前が撮影の伊佐山三郎と連名で出るのは「湖の琴」の飯村雅彦に先立っているが、製作会社はあちらは東映でこちらは日活なのだからおそらく監督の一貫した方針ということになる。

医者が患者の前でぷかぷかタバコをふかしているのだから、時代の違いというのは驚くべきもの。




「動物界」

2024年11月21日 | 映画
オープニングの車の中のシーンで、ポテトチップを食べる息子にそんな塩分が多い身体に悪いもの食べるなと言う父親自身がタバコを吸っているのが、おまえが言うかを地でいっていて、さらに「自然」なものとは何かというテーマにもつながっている。

人間が別の生き物になっていくのを爪が抜けたり喉の奥から鳥?の羽を吐いたりと粘液感覚を重視してデジタル技術はあまり使わず特殊メイクを採用しているのが、アナログSFX時代の「ザ・フライ」を思わせる。
別の生き物になるというのがどういう寓意なのか、一意的には解釈できないようにしてある。「ザ・フライ」がエイズの象徴だといった解釈が公開当時に一部で流布したが、それに収まらないように。

息子が動物に変わっていくのはわかるのだが、その動物が具体的に何なのかははっきりしない。
変身した母親「らしい」動物は出てくるが、実際にそうなのかはあまりはっきりしない。

音楽というか、音響が素晴らしい。





「ヴェノム ザ・ラストダンス」

2024年11月20日 | 映画
三部作できれいに終わったわけだが、それだけにいい加減エンドタイトルに予告入れるのには食傷気味。ユニバースを続けるのはわかってるんだから、残尿感というか、余韻を損ねていけない。

中ほどで出てくる六人編成の特殊部隊が宙に並んで姿勢を崩さずに釣られている姿が気に入った。





「イマジナリー」

2024年11月19日 | 映画
母親が黒人なのに娘たちが白人というのに(?)となるが、娘たちは父親=白人の連れ子で、前妻も白人というのがだんだんわかってくる。このあたりの設定の説明がどうも手際が悪くて、不必要に混乱する。

イマジナリーフレンドというと子供には見えているが大人には見えないというのを想像するのだが、この場合継母には見えていてそれ以外の大人には見えない、のかな、と思うとベビーシッターの男の子には見えたりするのだから、これまた混乱する。

継母の回想が冒頭とラスト近くに置かれていて、隣に住む老婦人がその内容に踏み込んだ解説をしたりするのだけれど、もうちょっとシンプルにいきませんかね。老婦人が解説役なのかと思うと、これまたひっくり返ったりする。

視点がほぼ継母に置かれていて、こういうと何だが継母というのは仇役になることが多いのを、あえてかどうかひねった分、なんだか座りが悪くなった。
前妻=実母の出番が少なすぎ。





「本心」

2024年11月18日 | 映画
エンドタイトルで真っ先に、監督より前にどーんと「原作 平野啓一郎」と出たのには驚いた。あまり例がないのではないかな。

三吉彩花が当人役というわけでもないのに「三彩花」という役名で出ているのも珍しい。耳で聞く限り、ミヨシアヤカ、とまったく区別がつかない。

本編では「本心」のタイトル文字のそばにThe Real Youと出る。

ここではVF(Virtual Figure)と呼ばれる仮想キャラクターはもっぱら視覚と聴覚を置き換えた錯覚の上に成り立っていて、他の三つの感覚、特に触覚は仮想に対する実体を代表する位置づけを占めていると言っていいだろう。
下世話な発想になるが、触覚=セックスを代行できるようになったらどうなるだろうと思った。「ソラリス」のステーションを訪れる“お客”は性交可能だった。
三好は元セックスワーカーで、それで逆にじかに触るのに拒否反応が出るようになったらしいが、割とそのあたりは曖昧。

隅田川沿いは昔はホームレスがたむろしていたものだが、その代わりにウーバーを思わせるリアル・アバターと呼ばれる若いよろず代行業がたむろしている。
面白半分に好き勝手で気まぐれな指示を出してくる、しばしば姿も見せないお客の言うことを聞かねばならず、聞いたら聞いたであからさまに見下してくる。こっちまで腹が立ってくるが、手の出しようがないのがまた腹が立つ。

そう考えると、もっぱら視覚と聴覚にうったえるという点で、映画の機能をほぼなぞっているのに気づく。
高級レストランでお客がアバターに食事を代わりにさせたりするのだから、味や香りがわかった方がいいでしょうね。それはまた別の話になるが。





「ルート29」

2024年11月17日 | 映画
詩集の映画化というのは「夜空はいつでも最高密度の青空だ」以来か、あまり例はないと思う。

がっちりとした構図、抑揚をつけないセリフ、それ以前に間と沈黙を重視した作り、独特の省略法、など独自の演出スタイルをすでに持っているのをうかがわせる。
同じ森井勇佑監督の「こちらあみ子」に続いて大沢一菜が準主演しているのが、姉妹編的な位置づけと共に妙な言い方になるが韻を践んだ感じ。

難解というのではないが、ふっと気を抜いたら場面がとんで、だからといって退屈して眠くなったわけではなく、ふっと睡魔に囚われてそのまま意識がとんだ。
タルコフスキーで眠ったことはないと記憶しているのだが、眠るときはこんなものかと思う。




「湖の琴」

2024年11月16日 | 映画
途中で幻想シーンのような黄色一色のお堂のシーンがあり、ヒロインの佐久間良子が出てこないこともあってやや場違いな印象もあって、どこかで見たようだなと思ったらバックを菜の花の黄色で埋め尽くした内田吐夢監督の「恋や恋なすな恋」(1963)で、この「湖の琴」は1966年だからこちらの方が後。
どこまで影響があるのかは不明だが、同じ東映京都ではある。

蚕の繭から茹でてとった絹糸を干すのにおそろしく長細い建物を用意したのはずいぶん贅沢なセットの使い方。絹糸が何かの縁に見えてきたりする。

佐久間良子の白い着物の生地がスクリーンで見ると、ものすごく良いものであろうことがわかる。
二代目中村鴈治郎が毎度ながらのねっとりしたヒヒ爺を好演。

樹木希林が悠木千帆名義で出演している。




「アイミタガイ」

2024年11月15日 | 映画
伏線というかパズルのようにエピソード間の対応関係を編むのが丹念すぎてややうるさく感じるきらいはあるが、思いがけない結びつきに驚かされる。

中村蒼がいまどき満員電車の中でカバーをかけた文庫本を読んでいるのが珍しく(私もやっているが)、あとでそれが思いがけず役に立ったりする。

水路や川に隔てられている場面が多く、それが逆に人と人の間を半ば偶然のようにつながっていないようでつながっていることを想像させる。

亡くなった藤間爽子のスマートフォンに黒木華が送るLINEメッセージを、西田尚美が見ているのだから「既読」がついているはずだが、それを特に強調しないのがいい。





「ロボット・ドリームズ」

2024年11月14日 | 映画
中盤、遠くにニューヨークのツインタワー、世界貿易センタービルが見えたと思ったらそれきり出てこない、と思ったら終盤まとめて出てきた。
あれが存在しているということは20世紀なのか、あるいはパラレルワールドなのか。
ロボットが途中から胴体を大型のツインテープレコーダーにして、アースウィンド&ファイアーの「セプテンバー」をかける。

犬とロボットとが互いに出てくる夢を見て、それが現実かと思わせて夢、といういわゆる夢オチを繰り返す。
ふたりのうち、どちらが主になるというわけではなく平行したままくるりくるりと入れ替わる。

住所のプレートに「DOG」と書いてあるのがなんだか可笑しい。
バーベキューセットのそばに置かれていたドレッシングの瓶のレッテルに「…OWN」と書いてあった。ポール・ニューマンの「Newman's Own」のもじりですね。

ニューヨークが黄色い道の向こうに見える緑(エメラルド)の街に見立てられているのは「オズの魔法使い」だろう。
背の高い花が一斉に踊り、上から見ると犬の顔になるのはバズビー・バークレー調。

ハロウィンで犬のアパートに「Trick or Treat」と押し掛けた子供たちが双子、というのは「シャイニング」ですなあ。小ネタがかなり仕込まれている。





「レッド・ワン」

2024年11月13日 | 映画
封切がクリスマスよりだいぶ前の11月8日だったのだが、むかしむかし「サンタクロース」という映画がクリスマスシーズンに合わせて公開され、クリスマスを過ぎたらどーんと客足が落ちたという故事があって、わざわざ合わせてもはじまらないということになったかな。

世界中の子供たちにプレゼントを配ってまわるって、サンタはどうやってそんな離れ業をやってのけるのかと考えるのは子供だけというか子供でもやらないだろうが、代わりに大人が商売でやることになる。「サンタクロース」もそうだったが、かなりひねた話にならざるを得ないのも一緒。
クリスマスシーズンというと画面が雪で白くなっている印象が強いが、かなり文字通りダーク。

プレゼントを縮小しておいて魔法をかけると(あるいは解くと)膨張するというのは、スノードームに縮小した人間を入れるのと一緒に発想が出たのかもしれない。

Red Oneというのは米軍の第1歩兵師団のことを肩章にちなんでBig Red One(映画「最前線物語」の原題でもある)というところからつけたのだろうし、ドウェイン・ジョンソンというマッチョスターがやる意味もあるというわけだろう。