prisoner's BLOG

私、小暮宏が見た映画のノートが主です。
時折、創作も載ります。

「セプテンバー5」

2025年03月07日 | 映画
描かれる範囲をスポーツ番組のクルーにかなり絞っていて、実在の政治家はSONYのテレビのブラウン管を通して描いている。テレビ中継という設定をうまく生かした。まだ国際的テレビ中継に良くも悪くも慣れていない時代色が出ていたと思う。
場面とキャラクターを絞っているだけに、直接警察が押しかけてくるくだりが短いが相当な圧迫感をもつことになった。

オリンピックとテロとのトラウマはミュンヘン以後定着して、最初の北京五輪からはテレビ中継にディレイ(遅延)技術を導入してテロがあっても時間差で切り替え、ごまかし通せるようになったという。
その切り替える技術の萌芽をここで見せている。

先日「あの歌を憶えている」で見たばかりのピーター・サースガードが実在の人物の再現という全然違う役作りのアプローチを見せていた。





「マミー」

2025年03月06日 | 映画
正直、オープニングのドローンショットとか、いくつかの点で技巧的な演出=作り物くささを入れたことでリアリティを損なうところがあったと思う。

林眞須美の冤罪を訴える内容なのかと先入観を持ってみたのも良くなかったかもしれないが、当然ながらそういう無実の立証がされたわけではなく、疑わしきは罰せずの原則に立って当然に無罪になるべきという、言うのは簡単だが世論も裁判の流れも流されてしまう怖さと無責任さに断固として踏みとどまる必要はある。ただしそれをシステムとして保障する歯止めは事実上存在していない。





「愛を耕すひと」

2025年03月05日 | 映画
エコ系かと思わせる邦題に比して相当に野蛮で残酷な描写がある。
マッツ・ミケルセンは「ハンニバル」もやっていたもので、暴力性を紳士的な裏で張り付かせていたのをさらに裏返して騎士としての顔を表に出す。

未開の原野を開拓していくのを映像化するのというのは、相当に手がかかったのではないか。

ミケルセンが疑似家族を作っていくまでのプロセスを簡単に済まさないで描き込んでいるのが見応えあり。






「あの歌を憶えている」

2025年03月04日 | 映画
ジェシカ・チャステインが自分にストーキングしてくる男ピータ・サースガードが表でぶっ倒れてびしょ濡れになっているのを何かそばにいても遠巻きにしているような微妙な距離感で表現していて、男がアルコール依存で断酒中というのを断酒が失敗したといったわかりやすい形でなくなんともいえない、実際にこういう表現が「正しい」のかわからない微妙な手つきで描いている。

チャスティンの部屋の扉の戸締りをいちいち丁寧に描いていたり女の修理人の頼んだのに男が来たのに不満を言うかと思ったら抑えたり、ディテールの齟齬感が細かい。

あたまからチャステインが反感や恐怖を表に出してもおかしくない





「ブルータリスト」

2025年03月03日 | 映画
オープニングのさかさまになった自由の女神像(このアイロニー!)から斜めに構えたエンドタイトルデザインに至るまでデザイン感覚で全編が貫徹している。

実在の人物の伝記かと思ったら、架空のキャラクターでしかも伝記的リアリズムというよりデザイン的センスで統一されている感がある。

フェリシティー・ジョーンズの妻の登場がかなり遅くてナラティブな構成だったらこうはしなかったろう。

大金持ち役がガイ・ピアースで最初に傲慢で嫌な感じで出てきたと思ったら案外寛容なのかなと思わせて、という展開が意外性狙いにとどまらない飛躍を見せる。







「どうすればよかったか」

2025年03月02日 | 映画
ほかにつけようもないタイトル、ということになる。

テレビの型はひとつの時代の変化の目安になると思うが(「寅さん」だと少し古い型のテレビを置いたという)、ここではかなり長いこと同じ型のテレビが置きっぱなしになっている。

二十年以上の歳月をなんなら空費したとも言えるかもしれないが、これを評しにくくしているのは作り手が患者(診断を受けたわけではないからそう言うのは本当は変だが)の肉親というところから来る倫理的問題、というよりデリケートの問題に触れたくない観客の側の警戒感に訴えたと思うのは考えすぎだろうか。

後記 精神科医の故・中井久夫氏の著者に「こんなとき私はどうしてきたか」というのがあるのを知り、中井氏が統合失調症にどう対するかについて医療者や看護師に実践的にレクチャーしたものだという。読んでみたい。





「聖なるイチジクの種」

2025年02月26日 | 映画
夫婦と娘ふたりの四人しかいない家の中で、父親に国から護身用に渡された拳銃が消える。外部に犯人などありえないのだが、妻はともかく娘たちは頑固に否定する。
この頑固さにぶつかりムキになった父親の意識と行動がエスカレートして、それまでのゴ体裁が剥がれ権力側の正体を見せていくのが怖い。

犯人の割り方とその後の展開にミステリ的なひねりを効かせた技巧を使っていて、説明抜きで見ればわかるように作ってあるのが上手い。

娘たちが二人とも母親似だが、俳優には血のつながりはないみたい。姉は直毛で妹は縮れ毛と一目で見分けがつく。

妹の方が世界一版権にうるさい会社のキャラクターをプリントしたシャツを着ているのだが、いいのかな。
脱線するが、竹田青嗣「陽水の快楽」に井上陽水の歌詞が引用されてるのだが、例の©️がついていない。どうなっているのか。

イランという強権体質の国家を他人事のように思えたが、今やアメリカが率先して強権をふるい日本も追随するであろうのが目に見えているのが憂鬱。





「阿修羅のごとく」(Netflix版)

2025年02月25日 | 映画
向田邦子のオリジナルのテレビドラマ版に比べて70年代を表現するのにあたって、ディテールの意識的な再現が細かい。

広瀬すずと同棲しているボクサーの本棚に「風と木の詩」「ローティーンブルース」の単行本が並んでいたり、「あしたのジョー」の単行本を尾野真千子の息子が読んでいるといった具合。
オリジナルの製作時には時代色の再現という意識は働かなかっただろう。

灰皿が至る所に置かれているとか、新聞(宅配の!)の挿絵の絵柄、東京の電話番号の03の後が今みたいに四桁でなく三桁になっているのが芸が細かい。

本木雅弘が浮気相手と間違えて家の電話にかけてしまって浮気がバレるなど、携帯が普及した今ではありそうにない。
四姉妹の名前に綱子・巻子・滝子・咲子と~子とつくのが、昭和だなあと思う。

乾いてヒビが入ったた餅を見て母親のかかとを思いだすって、アカギレ自体がほぼ見られなくなった今では遠くなった感覚だろう。
向田邦子のエッセイでもこういう当時でもやや古い感じのする言葉をよく使っていた。

四人姉妹というのは「若草物語」から「細雪」からキャラクターを取りそろえるのに便利な設定なのか。
是枝裕和監督とすると「海街diary」に続く四姉妹ものだが、広瀬すずだけだぶっている。




「野生の島のロズ」

2025年02月24日 | 映画
今のところ吹き替え版しか見ていないのでもともとロッサムという言葉が使われているのかどうかわからないが、ロボットという言葉を初めに作ったカレル・チャペックの戯曲「ロッサム万能ロボット会社 」Rossumovi univerzální robotiからと考えていいと思う。
もともと「ロボット」の語源は、1920年、劇作家カレル・チャペックがチェコ語の強制労働「ロボータ」と、スロバキア語の労働者「ロボトニーク」を合わせてつくった言葉で、人間の代わりに働かせるという含意がある。
「ロッサム万能ロボット会社 」は青空文庫で読めるが、ここでのロボットは金属の人形というよりけっこうレプリカント寄りだったりする。

綾瀬はるかのちょっと作り物っぽい声が合っていた。
ロボットのデザインが宮崎駿のラピュタと似ているなあと思ったら、まあ誰でもそう思います、監督が意識してそうしたのだそう。

正直、キラリが飛び立って島から出ていく、親離れ子離れするところで終わらせてよかったんじゃないかという気もする。
それだけ家族回帰熱を強くしないといけない想定される観客の事情もあるのか。





「ザ・ルーム・ネクスト・ドア」

2025年02月23日 | 映画
たしか単にAlmodovar Filmとタイトルには出て、Pedro Almodovar Filmとは出なかったと思う。名前を省略するのはたとえば黒澤作品と一般名詞化するようなものか。

色彩がいつものアルモドバル作品よりは抑え気味。
マーサの娘役がティルダ・スウィントンそっくり。
作家役のジュリアン・ムーアは今まで意識したことなかったけど、左利きなのね、サイン会で左手でペンを持っていた。

アルモドバル初の長編英語作品っていうけれど、短編だがティルダ・スウィントン主演の「ヒューマン・ボイス」は英語でしたね。

末期ガンに侵されたスウィントンが肉親より親しいとも言いにくい関係のムーアに看取りを頼むというのもわからないではない。
ムーアの行為が、どう判断されどう裁かれるのかという点の描き方は、アルモドバルの出身地スペインでは安楽死が認められているけれど、アメリカでは州によって違い、ここで舞台になっているニューヨーク州では非合法になる。そのあたりも齟齬感になったか。





「キャプテン・アメリカ ブレイブ・ニュー・ワールド」

2025年02月22日 | 映画
平岳大が出てることもあって「SHUGUN  将軍」以降の日本像にはなっているとは思うけれど、昔とは違う意味でトンデモな日本像を描いているという気もしますね。
ああも堂々とアメリカにモノ申せる首相って、ホメ殺しって感じ。中国出すわけにもいかないし。

ハリソン・フォードみたいにヒーロー像そのものみたいなアイコンをアカくするというのが相当に当惑させられます。

正直、こちらの記憶が欠落していることを差し引いてもMCUの全体像を把握するのは相当に難しい。端的に言ってこうも配信を含めてシリーズものが並び立っていると時間がないのよ。




「第五胸椎」

2025年02月21日 | 映画
主役がカビ、というのに興味を惹かれて見たのだけれど、まぁワケのわからん映画でした。

生まれてから☓日というタイトルが出るのだけれど、ヤボか知らんがカビに意識があったらそういうカウントの仕方するかな。というか、カビが主役というのも解説がそうなっているだけで、そうなのかどうかなんだかモヤモヤしている。
画面もしばしばモヤモヤしてそれに混ざってドビュッシー「月の光」がシンセで流れたりする。冨田勲?

62分という上映時間はさぞ見辛い代わりに短くしたのかと思ったら、案外普通の作りなのに、逆に拍子抜けした。





「ファイアーブランド ヘンリー8世最後の妻」

2025年02月20日 | 映画
残されている歴史とは男の戦争の歴史である、といった字幕が最初に出て、では残されていない歴史に想像を広げてみましたという作り。

ヘンリー八世の六人の妻のうちドラマで取り上げられるのは、ヘンリーに斬首刑に処されたのと、のちのエリザベス一世の母親になるので二番目の妻のアン・ブーリン(「1000日のアン」「ブーリン家の姉妹」)が多いと思うが、これは6番目、つまり最後の妻のキャサリン・パーを取り上げている。

困ったのは、脇役でアンという名前のキャラクターが出てきたことで、後で調べたらAnne Askewアン・アスキューというプロテスタントの説教者で作家で詩人だという。実在の、それもかなり重要人物だから仕方ないが、混乱した。

もともとヘンリーがアン・ブーリンと結婚するために離婚を禁じたカソリックから離脱して自ら英国教会の首長の座についたわけで、キャサリン・パーのプロテスタントというのはまた宗派が違っていて、このあたりなじみがないせいもあってどうもややこしい。
会話でプロテスタントの創始者マルティン・ルターの名前がちょっと出てきたりする。

冒頭のタイトルで示されたように、えっ?と思うような展開があるが、案外こんなものだったかもねと思わせる。
キャサリンのアリシア・ヴィキャンデルはジュード・ロウのヘンリーともどももっと臭くなってもよさそうだが、かなり抑え気味の演技。
撮影・美術・衣装もカネかかってますよという感じではない。





「ファーストキス 1ST KISS」

2025年02月19日 | 映画
時間旅行を扱った宮部みゆき「蒲生邸事件」ではどういう風に過去に介入しても結果はさほど変わらないという認識を示していたけれど、これも似たところがあって、なんとか決定的に悲劇的な結末を避けようとするのだが、なかなか変えることができない。

時間がループする映画というのは、コメディ「恋はデジャヴ」、ホラー(「ハッピー・デス・デイ」) SFでは「オール・ユー・ニード・イズ・キル」とあったが、といろいろあるが、どう変わるかを積み重ねて見せるのがふつうだが、喪失感を抱えることになる不安と闘うモチーフでまとめている。

松たか子がや設定では45歳だが、実年齢は47歳。若い時の姿が本当に若く見えるが、デジタルメイクでもしたかどうか、あまり違わないあたりに抑えている。





「誰よりもつよく抱きしめて」

2025年02月18日 | 映画
脚本がイ・ナウォンという韓国名なのにあれと思って調べたら、幼稚園から小学3年まで筑波で過ごしていて、芸大大学院では坂元裕二に師事していたとのこと。

久保史緒里がファン・チャンソンが忘れていったスマートフォンを見つけるのだがそこに女の名前から電話がかかってきて久保がそれに出ちゃうけど、ほとんど初対面の男のところに誰ともしれない女からかかってきた電話に出るかぁ?

三山凌輝が手をやたらと洗うのをはじめ手袋をずっとしていたりビニールで家具を覆ったり、ゴボウやネギを「洗剤で」洗ったりと病名は何と言うのかうろ覚えだがいわゆる強迫神経症的で、他人に接触することができない。
同棲している久保とも接触できず、抱き合うこともキスすることもできない。
それでなんで同棲してるのかと思わないでもないが、そこがドラマなのだろう。

水たまりに三山が手を突っ込んで久保の靴を拾うところでタバコの吸い殻が見えるのが芸が細かい。