「私や妻が関係していたということになれば、それはもう私は、それは間違いなく総理大臣も国会議員も辞めるということははっきり申し上げておきたい」という安倍晋三発言がそっくりそのまま出てくるのには驚いた(ただし、発言者の顔は出てこない)。
これが官僚の作文をはみ出た、言わなくてもいいのを不用意に格好つけて言ってしまった発言であることがはっきりわかり、それを糊塗するために公文書を改竄せざるを得なくなる筋道が明快。
そしてもともと公務員としての誇りと責任感を持った中堅公務員にしわ寄せが来て、公僕として最もやってはいけないことを強いられる苦悩はこれまでも報道から容易に想像されたことだが、生身の俳優(吉岡秀隆)によって表現されると重さと手応えが違う。
伝えられた元ネタをなぞることが即ドラマとしての軸になっている。
映画版で、現実に起こったことをあえてそのまま表面的になぞる、リアリズムというよりはポップアート的な方法をとっているのに比べるとかなりドラマにおとしこんでいる。
かつての「コミック雑誌なんていらない!」が時事ネタだらけでロス疑惑の三浦和義当人を出して(サッカーのカズではないですよ)楽屋オチをやらかして、それでも外国で受けたらしいが、これはどう受け止められるか。
やや疑問に思ったのは、米倉涼子の記者が官房長官の記者会見で執拗に質問を繰り返すところで、あれだと質問を一人占めしているように見える。
また、他の記者クラブ所属の男性記者が政権となあなあの馴れ合いの質問しかしないというのもわかりにくい。見ている方の“ご存知”に頼っている感もある。
これは世界配信なのだから、もっと日本の記者クラブの特異性を強調しておく必要があったのではないか。
記者クラブとの関係だけでひとつのドラマが作れそう。
米倉涼子だったらもっとヒロイックに描けるだろうところを、途中からはかなり憔悴した感じに作っている。
“原案”のイメージは映画版同様に注意深く離しているように思える。
検察のはっきり勝つ見込みのない時のやる気のなさよ。
国会の場面は基本的にテレビを通して描かれ、たまに直接描かれるとなると「お答えを控えさせていただきます」の連呼。
「記憶にございません」以来の日本の伝統芸みたいなものだが、このあたりの法的欠陥も分析してほしかった。なぜあんなのがまかり通るのか、屁理屈がわかるだけでも違う。
五輪絡みでメディアのトップを飴と鞭でまとめたとユースケ・サンタマリアが語るのが不快にしてリアル。懶惰と強権に染まった組織人役は「踊る大捜査線」の腐敗版みたい。
大学生がまるで新聞を読まない、というのはかなりの程度そうなのだろうけれど、それが社会に目を向けるようになっていくドラマは図式的な感は免れない。しかし大学生に限らなければ日本社会全体のひとつの通奏低音になる。
世界同時配信なわけだが、予備知識のない外国人がいきなりこれを見てどう映るか興味がある。
政治腐敗そのものとしてはありふれているのだが、特殊性としてメディアや司法が特に独裁制に縛られなくても忖度で自主規制していることが目立つ。
ずいぶん前(竹下・金丸時代)だったが、外国人記者が政治腐敗はどこの国にでもある、日本の特殊なところは同じ腐敗が何度でも繰り返されることだ、と語っていた。
つまり、メディアや司法、学者といった本来ならば腐敗の浄化機構であるべき存在が政権のお友達化して実質機能せず、しかもそれが最近とみに酷くなっている。
現実にはこれに若者の浄化機能不全が加わるわけだが、さすがにこれはドラマだから浄化の必要性と可能性は手放さない。
何よりこれは現在進行形の話だ。
後半、綾野剛の官僚までトカゲの尻尾として切られる。
切る側の顔として佐野史郎らが並ぶが、一番悪い奴らは顔を出さない。
昔の山本薩夫の社会派娯楽映画だったら、そういう巨悪に新劇の重鎮たちをキャスティングしてそっくりショー兼欲にまみれた連中のこってりした芝居で楽しませただろうが、今だと実物のワルたちが権力あるくせに巨悪というには矮小で、せいぜいアメリカ本店のご機嫌をうかがう中間管理職の支店長心得程度の貫目しかないせいか、顔を出さない昔からあるひとつのルーティン表現が、大物と呼ばれる政治家そのものが顔を失っている状態をはからずも写し出した。
当然ながらこれはドラマであり、現実に似てはいるがそのものではない。というか、現実そのものを映像が表現するなどありえない。
画にせよ音にせよすこぶるスタイリッシュであり、かつての日本映画にありがちな泥臭いリアリズムからは遠い。ただ新しいリアリズムを生み出しているかというと疑問なしとしない。
にも関わらず、虚構と現実とを混同しているといった非難が誰を相手にしているのかわからないままばらまかれている。
作品そのものを見ず、気に入らない相手を叩くためのダシとしか見ない言説はおなじみとはいえ、やはり貧しい。
現実の浄化機構が機能していない中のこのドラマの存在は、それ自体が現実に刺さったトゲみたいなものになる。表現としてどこまで自立しているか、むしろ自立させないでいるのが表現になっているようなところがある。
アメリカ映画で実話ネタは多いが、良くも悪くも完全にハリウッド的娯楽商品の骨法の素材として使われるのに対して、これはやはり良くも悪くもそこまで座りがよくない。
Netflixは利用者に直接課金することで豊富な資金とスポンサーに囚われない表現を確保したわけだが、似たことが新聞ないしメディア全般でできないか。
小規模にはやっていることだが、個々人単位だとやはりカバーできる範囲は限られる。
ツイッターは明らかに本物のツイッター画面が出てくるのに、新聞社その他は仮名というのは中途半端。