prisoner's BLOG

私、小暮宏が見た映画のノートが主です。
時折、創作も載ります。

「ライド・ライク・ア・ガール」

2021年06月30日 | 映画
走る馬の列の隙間を抜ける、というのが男社会の中で女性が抜きん出ることのメタファーになっている。

男ばかりの騎手たちが浸かっているバスタブに女一人で浸かる居心地悪さが可笑しい。

競馬シーンでおそらくドローンを使って上から追っていくアングルが新鮮。




「ボクシング・ジム」

2021年06月29日 | 映画
3分を刻むのがゴングではなくアラームなのがどこか無機質な感じ

女性や年配の人、太っちょなどボクシングとは縁遠そうな人たちがそれぞれ練習に励んでいるのが意外。
日本で言う若者、それも男が栄光を目指すハングリー・スポーツの感じとは違う。

それぞれどういうつもりでジムに通っているのか知りたくなるがフレデリック・ライズマンの作り方だとインタビューとかはしない。





「RUN ラン」

2021年06月28日 | 映画
身体の不自由な障害者を追いつめるサスペンスはこれまでもいくつもあったが、これはそれに毒親問題と薬を使って人工的に身体を不自由にしていくという要素が加わってなんとも嫌ぁな感じが強くなった。

描写でなぜそうなっているのかを伏せておいてぱっとわからせる(たとえば屋根の上を這って進むヒロインのほっぺたがなんであんなに膨れているのとか)話術のメリハリが効いていて登場人物が極端に少なくても飽かせない。






「モータルコンバット」

2021年06月26日 | 映画
冒頭、見覚えがある顔がぬっと出てきたので誰かと思ったら篠原ゆき子でした。出ているの知らなかったのでちょっとびっくり。逆に出てくるのを知っていてどこに出ているのかわからなかったのが浅野忠信。エンドタイトルでどの役かわかってびっくり。
真田広之と篠原の日本語の芝居はあちらの映画としてはまとも。

真田さんは全体とすると出番少ないのだが一番おいしいところをさらっている。タイトルでもAND HIRORUKI SANADAと、こちらでいうトメの扱い。
立ち回りも久しぶりに本格的に見せてくれます。他の出演者も激しく動いているのだが、素人が言うのもなんだが型が綺麗で一味違います。

ゲームの映画化だとキャラクターが設定のまま動かないかレベルアップしても他のキャラクターとの関わりというのはあまりない気がする。少なくともこれはそう。今さらドラマがどうこういうのもヤボだけれど、いくら派手なアクション見せられてもやはりキャラ自体が動かないとちょっと物足りない。

血しぶきあげての残酷描写は相当なもの。





「クワイエット・プレイス 破られた沈黙」

2021年06月25日 | 映画
原題はストレートにA Quiet Place PART2。

一作目と基本的な設定に変わりはないので、どう変化をつけたかというと途中から家族が別れ別れになってそれぞれ別の場所にいるようにして、ラストで意外なかたちで二つが一つに結び付くようにしたのが趣向。
クライマックスのカットバックは力が入っている。

ただそれが成り立つための布石の置き方が不十分で、それでいいのかなあという疑問は覚える。

聾唖の娘の主観に合わせて映画自体から音が消えるのが「プライベート·ライアン」的な悪夢感覚を出した。
どうせならクライマックスで再現して、音が消えるのが怪物など怖くないぞという表現に使ったらよかったとも思った。

あの怪物、心なしか諸星大二郎「妖怪ハンター」のヒルコと似ている気がする。

スピード感と音のメリハリが強烈。




「いのちの停車場」

2021年06月24日 | 映画
東京の大病院の救急で働いていた吉永小百合が、事故で負傷した小さな女の子に医師でもないのに点滴した松坂桃李の行為の責任をとって辞め、金沢市内にいる在宅看護の人たちの面倒をみる小さな医院に勤めることになる。

それぞれの家庭の看護事情のスケッチが綴られて、それぞれいろいろな事情があるものだとは思うが、それだけに最終的にどう田中=吉永父娘にはね返ったのかという過程はよくわからない。

松坂桃李の進路も、人の役に立ちたいなら医者以外の道もあるのではないのと疑問を覚える。

吉永小百合が同い歳の田中泯と父娘の役を演じるのはムリと聞いていたが、まあ渡辺謙と夫婦役よりはましという感じ。

金沢が舞台なのだが、コロナ前に最後に観光で行ったのが金沢だったので、あそこ知ってると思ったりいろいろ親しみが湧いた。




「ブラックバード 家族が家族であるうちに」

2021年06月23日 | 映画
途中からドリュ·ラ·ロシェル原作、ルイ·マル監督、モーリス·ロネ主演の「鬼火」を裏返したみたいな構造だなと思いながら見た。

つまり初めに(自殺か安楽死かの違いはあるとはいえ)死ぬと決めた人間が親しい、あるいは親しかった人間と再会して自分の人生を確認してから決めた通りに死ぬという話という点では一緒。

ただし方向としては真逆で、「鬼火」の主人公アラン·ルロワはかつての知人愛人との間にどんな価値も見出せないのを再確認して自殺するわけだが、ここでは家族の間で何を知っていて何を知らないかを再確認していくことになる。

元は戯曲だというが、なるほど伏せてある札を徐々に開けていくよう展開は計算が確か。
登場人物はきっかり八人で、それ以外は写りもしない。その分ムダがなく緊張感が続く。
当然、演技アンサンブルが見ものになる。

登場人物全員を入れ込んだショットはおおむね全員にピントが合っているのに対して、二、三人程度に寄せたショットだと思いきって中心の一人以外をボカして撮っているのが印象的。俳優の配置からして左右で焦点が合う位置が違うレンズを使っているのではないか。
撮影時にピントを外しているだけでなく、後処理でもいじっているのかもしれない。

隠された家族の秘密を明かしていくことが家族といえどもほとんど何も知らないことがわかり、また家族もそれぞれの生を生きていて母親が安楽死を決めたことでその価値やあり方を逆照射する構造になる。
それは当然観客も無関係ではいられない。





「好奇心」

2021年06月21日 | 映画
母親と息子が肉体関係を持つというスキャンダラスになりそうなモチーフが良くも悪くもなんともあっけらかんと明るく軽快に描かれている。
母親役のレア・マッサリがすこぶる色っぽく水気たっぷりなせいが大きいだろう。

ルイ・マルは少女娼婦という今だったら製作自体が危ぶまれそうな題材の「プリティ・ベイビー」でもおよそあっけらかんとした調子でジャズの発祥の地ニューオーリンズという背景と併せて描いていたが、今回のチャーリー・パーカーの音楽起用も明るさに拍車をかけた。

フランス有数の財閥の出身という大ブルジョワの出であるところのマルがまことに自然な調子でブルジョワの生活を実感をこめて描いている。
物質的な贅沢さ、仮に問題が起っても問題など存在しないようにやり過ごしてしまう、偽善と事なかれにすらならない無風体質など、なかなかこうぬけぬけとは描けないのではないか。




「国宝 鳥獣戯画のすべて」

2021年06月21日 | 映画
緊急事態宣言で前に予約したのはパー、改めて粘って予約して最終日に滑り込んだ。

これまで知っていたのが甲乙丙丁の四部のうちほとんど甲でしかなかったのがわかる。
鳥獣とはいっても人間を描いているのもあれば、獏や麒麟といった空想上の生き物を描いているのもあって、ずいぶんバラバラ。ネコもいたのね。
むしろなぜこの四巻がまとめられたのか不思議になるくらい。

動く歩道に乗ってゆっくり絵巻物を追っていくのは流れに身を任せて展開を追っていくようでどうしてもとぎれとぎれに部分部分を切り取ってみていた習慣から離れる面白い体験だった。

中には絵巻物の一部を切り取って写して掛け軸に仕立てた作品の展示としてのもあって、ずいぶんと融通無碍なのだなという気もした。

グッズですみっコぐらしのキャラクターとカエルやウサギがコラボしているのは面白かった。




「映画大好きポンポさん」

2021年06月21日 | 映画
ナタリー·ウッドワードとは凄い名前だなあ。ナタリー·ウッドとジョアン·ウッドワードを足して二で割ったわけか。

身も蓋もない言い方するけれど、編集段階で作品を客観的に見られないと苦しむのだったら、第三者の専門の編集者を立てて文字通り客観的に見てもらえばいいではないか。
現にそうしている現場の方が普通だろう。この映画自体そうしているわけだし。
映画は一人で作るものではないと何度も繰り返されるのは何のためなのかと思ってしまう。

一般論になるが、監督が脚本や編集を兼ねるのはあまりいいことだとは思わない。
やはり同じ人間がやっていると単純再生産か下手すると縮小再生産になりがち。

90分という縛りのある映画だったら、予算やスケジュールにも同じ縛りがあるわけで、そうそう破っていいものではないだろう。
その中でなんとかやりくりするのも、モノ作りではないか。作家性と枠を生かすのとは両立するし、させなければ仕方がない。
映画は間に合わせの芸術である、というフランソワ·トリュフォーの言もある。

融資をとりつけるプレゼンにあのやり口はアンフェアではないかなあ。




「はるヲうるひと」

2021年06月20日 | 映画
佐藤二朗が主宰する劇団ちからわざで上演した芝居を脚色監督を兼ねて映画化。

時代設定は現代っぽいのだが、外国人も訪れるらしいおおっぴらに置屋だらけの島というのはさすがに現実では考えにくくて、舞台ならではの世界と考えていいだろう。

置屋のマネージャーが山田孝之、オーナーが佐藤二朗で、春を売る女たちが集まっている感じは色彩や光のテクスチャー、何より女優陣の演技に溝口健二っぽいねっとりした密度がある。

オーナーが女たちやマネージャーを暴力で支配しているのはありがちだけれど、家に帰るとよきパパというのは映画だとどうもウソくさく、途中からの伏せてあった事情が明かされるストーリーテリングも映画でやると浮き上がる。難しいところ。

同じテアトル新宿で見た「くれなずめ」も舞台の映画化だったが、舞台の現実離れを踏まえて改めてレンズによるリアリズムに晒す方法の映画があちこちから期せずして現れてきた感。
映像のリアリズムが前ほど信じられるものではなくなっているせいか。

笠原和夫がしきりと日本映画の監督はリアリズムが身に付いてないと繰り返していたのが頭をかすめた。




「グリーンランド 地球最後の二日間」

2021年06月19日 | 映画
それまで観測されなかった彗星が突然比較的近くの宇宙空間に現れて地球に破片が降ってくるというのもずいぶん乱暴な話で、サスペンスを初めから放棄しているに近い。

隕石が降り注ぐスペクタクルはもちろんあるが、この手の災害ものでありがちなこれでもか式の見せ場とまではいかない。

ジェラルド・バトラーが若年性糖尿病の七歳の息子と一度浮気して裏切った妻との関係を修復する家族再生ドラマではあるけれど、通りいっぺんといった印象は否めない。

通してみるとノアの方舟のアナロジーみたいになっているのだが、選ばれて救われる人間と選ばれずに死ぬ人間との究極のコントラストがいつの間にか軽くなってしまう。

飛行機に乗りそびれた人間たちの車を飛行機から見下ろしたカットなど、ずいぶん非情なのだが、作り手の方が非情であることをどこまで認識していたのか曖昧な分、なおさら選民主義みたいな印象が強くなって、微妙にすっきりしない。

スコット・グレンがずいぶん老けて出てきた。




「茜色に焼かれる」

2021年06月18日 | 映画
冒頭のオダギリジョーが認知症の元高級官僚の運転ミスで事故死したというのは明らかに池袋の事件をもとにしている。

しかしそこから後は創作になって、残された妻の尾野真千子が元官僚の葬式に行ったら嫌がらせに来たのかと被害者面の遺族に忌避されるのだが、現実には元官僚は存命中で家族も含めて上級国民だから特別扱いされたのだとバッシングされたと思う。

それに仮に葬儀に来たとして、遺族としては内心は圧し殺して入れることは入れるのではないか。
ああいう形で「世間に迷惑をかけた」からには「上級国民」であっても、というかむしろある方が厳しい指弾は免れない。
「上級国民」を嫌らしく描く方が先行しているような感じすらあって、リアリティという点では疑問を持った。

セックスワークを描くのにヌードもほとんど出ないのは妙に各方面に気を使って腰が引けている感じ。

ロクでもない連中、特に男がわさわさ出てくる。
ごまかし笑いを浮かべる教師に対して臆病で無責任な奴ほどそういう笑いかたするといったセリフがあるが、たとえばネットで笑とかwとか付けている発言などそんなのだらけと思い当たる。

そういうロクでなしの描写で上手くいっているのもあるが、中では息子をいじめる三人組の描写など不快な連中を不快なまま描いていてどうも芸がない。
それにあいつらのやったことはれっきとした犯罪で警察が出てこないとおかしいのだが、なぜかスルーされる。一方的に主人公一家が理不尽な目に合うのが当たり前みたいになっているのは感心しない。

ヒロインの同窓生の笠原秀幸やの夫の元バンド仲間の芹沢興人のクズっぷりのリアリティは傑出していた分、ムラが目立つ。

理不尽な扱いをされた人間が怒らず変な笑いかたをするのは、日本では珍しいことではなく、他の国ではどうなのかよく知らないが、とにかく明らかにこの国では怒るべきところで怒らないことが多く、尾野真千子のヒロインも曖昧な笑みを浮かべたり時には場違いな大笑いをしたりするのだが、内心のむかむかが手に取るようにわかる。

冒頭に「田中良子(ヒロイン)は芝居が上手だ」という字幕が出るのだが、芝居の才能のムダ遣いでもある。

それが最後に爆発するのかというと本当にキレたら犯罪になるので、永瀬正敏の風俗のマネージャー(要するにヤクザ)が汚れ仕事を引き受けることになるのはどうも都合がいい。

オダギリジョーが読書家という設定でずいぶんたくさんの本を残しているが、中ではトニ·モリソン「青い目がほしい」サリンジャー「ライ麦畑でつかまえて」などが目立つ。ともに世間に対する反発を描いた作品とまとめられるだろう。

中学生の息子は明らかに携帯を持っていない。公衆電話をかけるなんてシーン、久しぶりに見た。電話代40円。
自転車も乗ったことがないわけで、物質的にはおよそ恵まれてないのがわかる。

使われる金額がいちいち字幕で出るのが貧しい人間にとってはいちいち身を切る感じなのがわかる。中では老人を預かる施設の料金が桁違いに大きいのが目立つ。




「キャラクター」

2021年06月17日 | 映画
絵は上手いがキャラクター特に悪役が描けない漫画アシスタントが本物の殺人鬼を見てそのキャラクターを漫画にしてヒットさせる、といった予告編でわかるストーリーは面白そうだったのだが、実物はかなり困った出来になった。

まずその殺人鬼を目撃する段だが、主人公の菅田将暉が幸せそうな家を描いてこいという師事する漫画家の相当なムチャぶりな指示を聞いて、夜中にある大きな家の外景をスケッチしていたところドアが開いて中から大音量のオペラが響いてくるものだから隣人が警察呼ぶぞと怒り、そこで家に上がり込んで惨劇を見つける、という段取りがすでに変。

まだ事件があったのかどうかわからないのに見ず知らずの家にずかずか上がり込むか?
さらに警察呼ばれるかもしれないのだから、面倒なことになる前にそうそうに立ち去るだろう。

その後目撃した犯人の人相を警察で描いてもらえないかと頼まれて断るというのもわからない。
すでに漫画のキャラクターにするつもりになっていたのかもしれないが、この段階ではそんなことはわからない。

何より、師事する漫画家の言だと人が良すぎるから悪人が描けないことになっているのだが、ここまでの行動は善良とはいいにくいところがある。
善良なのが変わっていくのではなく、最初から変。

たとえば電車の中でキャラクターとして使えそうな人のスケッチをこっそりしているわけだが、これなどかなり失礼な話。
ちばてつやが実際に電車の中でそっと乗客のスケッチをしていたら気づかれて凄い怒られたと漫画にしていたくらい。

対する殺人鬼の方のシーンも二度目の犯行で乗り捨てた車の脇を家族連れの車が通りかかってわざわざ頼まれもしないのに止まって乗せてやろうというのだが、親切すぎて乗せる方が怪しいくらい。ヒッチハイクのポーズくらいとったらどうか。
おしなべて細かいところの芝居のつけ方や設定がもう変なところだらけ。

何より困るのは、実際の殺人鬼を漫画のキャラクターにしたことにより主人公側が創作面でどう突き抜けたのか、また殺人鬼側がその漫画を読んでどう思ったのかという大事なところの具体的な描写が抜けていること。

代わりに小栗旬と中村獅童の刑事コンビがしゃしゃり出てきて場面を埋めるのは意味不明。
誰が主役なのか。

なぜか親子四人揃った幸せそうな家族を狙うという性癖があるのだが、幸せかどうかなんてそれこそ見かけでわかるものかだし、人数に関するトリックもムリありすぎ。ネタバレになるから具体的には書かないが、なんで第三者に人数がわかったのかというところがある。

色調やメインタイトルの出し方からして明らかに「セブン」だが、犯人がどうやって生きてきたのかさっぱりわからない。というより、「セブン」だとうまく伏せて描いていたからバレなかった無理がもろにバレている。




「ローズメイカー 奇跡のバラ」

2021年06月16日 | 映画
素晴らしいバラを育てるやり方が、人間でいうエリート主義ではなく、かなりのポンコツ部隊(不良と女と年寄り)の力の結集の結果というのが、具体的な展開にうまく組み込まれていて説得力がある。

早送りで何ヵ月分かの薔薇畑の生育の様子を見せていくシーンが、実際にバラを育てて撮っているのだなと画面の信用を高めた。

字幕が最近の学術的決定に従って、昔で言う優性劣勢を顕性潜性と表記してあった。遺伝学はともすると(人の)優劣を先天性のものとして正当化するのに利用されてきた面がある反省からでもある。