prisoner's BLOG

私、小暮宏が見た映画のノートが主です。
時折、創作も載ります。

「SHADY GROVE」

2022年10月31日 | 映画
出だしでなんでもないような野原と林の風景が写る。
そのうち、ヒロインの部屋に貼られている写真の風景であることがわかる。
一週間+その一か月後という構成をとっているのだが、その合間に林の風景が挟み込まれる。
どういうわけか、もっぱら捻じれたりひねこびたりした木が写される。
この野原と林が世界というもののひとつの象徴らしい。

そう思えるのは、上映後のトークで脚本で製で監督部の佐藤公美氏が朗読した黒沢清監督が本作の封切り時のパンフレットに寄稿した文章から。同時に黒沢監督の発想の方も物語っているよう。
木の捻じれ方がなんともいえず刺激的。

終盤の自動車の後部座席にヒロインを乗せて走らせながら一方的に話し続ける、そのえんえんたる長セリフにひたすらヒロインのアップが暗くてよく見えないのも構わず長回しで捉え続ける演出がすごい。撮影は田村正毅。16ミリフィルムだろうか。
あるいは終盤で唐突に脇のキャラクターの探偵のナレーションに入れ替わる、などなんだろ、これと思わせる話法。

恋愛ものというより、それが始まる前の話といった意味のことを言っていたと思う。
ちょうど1999年とバブルがはじけた頃の製作で、ワインがどうたらといった
話題はまだ景気が良かった名残ということになるか。出てくる携帯がアンテナのついたタイプのガラケーで、しかもJ-PHONEという今ではソフトバンクに受け継がれて消滅したブランドというのが時代です。

地に足がつかないままふらふらしていて一方で不安感が貼りついているいるような空気は時代のものであるとともに、監督のものでもあり、今でも受け継がれているところがあるという話になる。

トークで、ディレクターズ・カンパニーが潰れるちょっと前、万田邦敏監督になぜかセクシー系のビデオを撮らせる話が来て承諾したのはいいが、主演の女性グループをばらばらにして別の屋上でバックダンサー入れて撮りだしたものだから依頼主に拒否されて完成していないとか、宮坂進社長がすまんギャラは払えない、と頭を下げられて普通は逃げるから偉いともいえるけれど、いささか腹立ったとか、笑いごとではないのだけれど笑ってしまう。

佐藤氏が脚本・製作で関わった青山作品が十五本とかあるというのだが、お蔵入りしたのが何本もあるらしい。おそらくディレカン全体ではもっとあるのではないか。黒沢清監督のカラオケビデオで出来が良すぎて(つまり歌うのにジャマになるので)納品拒否されたのとか。青山作品の「こおろぎ」みたいに発掘できないものか。

ふたりの男の名前が小野と甲野と韻を踏んでいるみたいなのが、英語字幕だとONO KONOともっと端的にわかる。

探偵とヒロインが話す背景に自由の女神(のレプリカ)が見えるが、あれは1998年にお台場に建てられたものらしく、つまり製作当時とすると最新に近いスポットだったわけだろう。バブルっぽい建造物でもある。




「ビルとテッドの地獄旅行」

2022年10月30日 | 映画
なんとなく見たつもりでいて実は見ていなかった映画というのがけっこうあって、これもその一つ。というか、このシリーズ自体見ていなくてこれが二作目だということを知らないで間違えて先に見てしまった。別に一作目を見ていないとわからないという作りではないと思うが。

一番悪い奴の役でとうに故人になっていたと思っていたジョス・アックランドが出てきたもので、ずいぶん前の映画だなと思ったら、94歳で存命中でした。失礼。

白塗りの死神がタマを握られたりして(死神はやはり男か)笑わせるのだけれど、誰かと思ったら「ダイ・ハード2」の悪役のウィリアム・サドラーでした。
ちょっと「第七の封印」の死神風でもあります。あれも意外とコミカルだった。

いわゆるおバカ映画には違いないけれど、タイムパラドックス扱うのに辻褄合わせるのには相当合理的なアタマが要ると思う。

キアヌ・リーヴスがいかにも若い。今でも若く見えるけれど、やはり本当に若い時とは違う。





「チンピラ」

2022年10月29日 | 映画
国立映画アーカイブの小ホールの青山真治監督追悼特集にて。

金子正次の原作からは川島透監督、柴田恭兵、ジョニー大倉主演の「チ·ン·ピ·ラ」がすでにあるわけだが、そこからよくこれだけ違うリメイクができたもの。

六尺ちりめんぱらりと散って、と主人公の大沢たかおがずうっと呟き続けていて、金子正次の「竜ニ」の三尺ちりめんぱらりとと散ってのもじりらしいが、ダンカンが大沢たかおに、おまえ六尺あるんじゃないかと言う(大沢たかおは実際は183cm)のに妙につながってくる。そし六尺ってどれくらいだと聞かれたダンカンが181cmとが答えて、工業高校だったかに通っていたんだよなと問わず語りに語る。

Vシネマの一本として作られたわけだが、フィルム撮りなのでスクリーンに写すと一瞬おっと思うくらい普段シネコンで見ているデジタル上映と違う。
違いにはフィルムの傷も入っているわけで、いいことばかりではないのだが、そうだこの手触りなのだったと改めて確認。

出演者の片岡礼子と甲斐真樹プロデューサーのトークが上映後にあって、意外なようだが別の監督で準備していたのが途中で変わったのだという。
Vシネのフィールドで一種の暴力エンタメを担ったわけで、クールな肌触りや光石研、寺島進といったキャスティングは結果としてだが北野武映画に受け継がれることになる。

ラストシーン近くのワンシーン内、あるいはワンカット内の時間の巻き戻しの技法など、ちゃっかり映画的実験をやっている。

製作当時の1996年の歌舞伎町の風景が今とかぶるが違う。コマ劇場がまだあるし、ゲームセンターのゲームがいかにも古い。




「アフター・ヤン」

2022年10月28日 | 映画
父親は白人、妻は黒人、娘(養女)は東洋人という人種が一通り揃った一家に東洋人の姿をしたロボットがあり、それが故障=死んだらどうなるか、という話らしい。

らしい、というのはおよそストーリーを語ろうという作りではないから。むしろ作者の興味はもっぱら思索と美的世界の構築に向かっている。
複雑に時制が交錯するのもむしろ時間が無効化されている禅的な世界を描こうとしているように思える。

だから正直いわゆる面白いという映画ではない。むしろまがりなりにも商業ベースでよくこういうの拵えたとすら思う。
西洋から見た東洋的世界というのを改めて東洋人が見るとなんだかむずむずするような感じになる。





「千夜、一夜」

2022年10月27日 | 映画
失踪して戻ってこない人間の周囲の人間たちのドラマ。
ドラマというのは、ある人間集団に異質の人間が入ってきてそこから生まれる軋轢を描くのがひとつの定型になっているわけだが、その逆といっていい。

今村昌平監督の「人間蒸発」は、実際に蒸発した男とその婚約者が男を探すのを追っていくドキュメンタリーなのだが、婚約者がカメラを意識しだして案内役の露口茂に怪しい目を使いだすという劇映画の垣根を越えるのがテーマみたいな脱線気味の展開になってしまったわけだが、これは劇映画なのでそういう脱線はしない。

夫が失踪している女ふたり(田中裕子と尾野真千子)が出会ったところからドラマが発火するわけだが、空白になっている人間同士は接触しようがないわけで、展開の仕方はどうも鈍い。
もともと派手な展開でひきつける性格の映画ではなくて、じっくり残された者たちの心情を描き込んでいくタイプの映画ではあるのだけれど、失踪していた人間が帰ってきてもこなくてもどうも座りが悪い。それはもともとモチーフ自体が内包していたものだろうけれど。

田中裕子が若い頃、白石加代子に似た顔立ちだなと思っていたのだが、なんとその二人が共演。
安藤政信が髭面で登場したら、一瞬滝藤健一かと思った(に、しては男前すぎるなとも思った)。

インディーズ系の日本映画では監督が脚本を兼ねることが多いけれど(監督・久保田直 脚本・青木研次 )、これは珍しく違う。
田中がラジカセで聞いていた古いカセットテープが切れたので安藤が修理して再生したら途中でぷつっと音が途切れただけでなく思わぬ音まで再生されるシーンが象徴的。

田中は水揚げされたイカをさばく仕事をしていて、韓国の操業者が拿捕されたりする土地なのでどこかと思ったらロケ地は佐渡と本土の新潟らしい。





「愛する人に伝える言葉」

2022年10月26日 | 映画
原題はde son vivant=生前。

このところ日本映画でホラーでもないのに骨壺が出てくるのを三本続けて見たかと思ったら(「マイ・ブロークン・マリコ」「川っぺりムコリッタ」「アイ、アム、まきもと」)、フランスからは末期ガンで若くして余命いくばくもない男とその周囲の話がやって来た。

もともと死にどう相対するかというのは究極の問いで正解があるわけではないからいくらでもできるのだが、それにしてもこう続くと少なくとも先進国ではどう生きるかと共にどう死ぬか周囲はどう対応するかというのがタブーではなくなっている、というか関心事になっているのがうかがわれる。

主人公は売れない俳優で俳優志願の若者たちを指導しているのだが、生徒たちには一定の信頼と好意を得ている様子。
そして生徒たちの指導に人間に対する関心と価値の追求がおのずと出てくるという構造になっている。
誰の言葉か忘れたが、芸術家は芸術を生み出そうとするが、俳優は自分が芸術になろうとする、というのがあって、演出家兼演技教師としては今までの自分を客観的に見るのにつながってもきているのだろう。

ただし彼には元妻と息子がいるが、今は完全に没交渉になっているというか、元妻には縁を切られている様子(英語で喋っているので外国人らしい)で、女生徒に下心混じりの誘惑をされたりして、男性的魅力はあるが、というかあるから長いこと生活を共にするには向かない男らしい。
その会わないでいた息子の扱いがメロドラマ的ではないリアリティを持っていてそれでいてカタルシスがある。

授業の中で俳優の存在感の話が出てきて、これが俳優の価値にとどまらず人間の生きていた理由と目的と価値の話に結び付く。そうして俳優としては成功しなかった自分に価値を見いだせない状態との葛藤が大きなウェイトを占める。
裏返すと成功したとして死んだらどの程度価値があるのか、少なくとも当人にとってという話でもある。





「もっと超越した所へ。」

2022年10月25日 | 映画
予告編にあったように四組のカップルの男たちが揃いも揃ってクズ揃い、という話ではあるけれど、その組み合わせがずっと続いているものではなくて、大きく二つある時間軸でたとえば女1234に対して男ABCDだったのがBCDAになるみたいにずれている、という趣向。

で、相手が変わってもクズのありようは変わってもクズっぶりはどれも変わらない。
そのクズっぷりの描写がこまごまとしていて辛辣で多彩で容赦なく、原作舞台とこの映画のシナリオの作者が女性だとは知らされているので、さすがにかなわないなあと首をすくませる。

面白いのは四人の男の中にゲイが一人入っていることで、ふつう言う男性性とかマチズモの問題よりもう少し広い、甘えとか余計なプライドとか傷つくのを怖がり過ぎといった一般的なコミュニケーションを阻害する弱っちい心構えの問題になってくる。男らしさ、男の「立場」の呪いの問題ともいえる。

しかしそうなるとそういう問題って男だけのものか、ともなるので、最後の方で女たちが集まってそこからタイトル通り飛躍する、というかかなり強引に飛躍しようとする。
舞台だととことん落ち込むような内容でもラストで強引に盛り上げてハッピーなテンションで終わらせることが多く、それを映画化にも持ち込んできたわけだが、あくまで影である映像では生身の人間が出てくる舞台みたいなわけにはいかない。

映画と舞台とをハイブリッドする飛躍を試みたわけだが、正直上滑りしている感はある。難しいものです。





「アイ・アム まきもと」

2022年10月24日 | 映画
予告編を見たところでは、モリエールの「人間ぎらい」みたいにおよそ空気の読めない、あまりに本当のことしか言わないものでトラブルを起こす男の話かと思ったらそういうわけでもなくて、基本は「おみおくりの作法」の日本版リメイクだという。

しかしこのところ、「マイブロークンマリコ」「川っぺりムコリッタ」と骨壺がむき出しで、つまり無縁仏が出てくる日本映画が続く。単純に現実の反映だろう。
特殊清掃人という、亡くなった跡の後始末をする仕事があるのだが、それを公務として半ばすすんでやっているのが主人公。

個人的には仇役である市長の、人は死んだら終わりで葬式や墓など必要ないという考えに近いのだが、この主人公のように過剰なおせっかいなくらいに亡くなった人の弔いをしたがる人がいるのは理解できなくなもない。
ほとんど何も残さずに死んだ人ような人でも周囲から固めるように描いていくと、それなりの人のつながりもあることがわかってくるのが後半の眼目になっている。

はっきりとは描いていないが発達障害みたいな感じ。一度に処理できる情報量が限られていて(しきりと、自分が視角狭窄になっているのを自覚して身振りで伝える=写真↑)、しばしば言外の意味を理解できずコトバそのまんまの意味で受け取ってしまうとこなど。

庄内市という実在の市の設定というのにちょっと驚いた。
田園風景や鶴が飛んでくる姿など郷土色を内容に織り込んでいる。

宇崎竜童がほとんど写真だけの出番でラストとエンドタイトルの歌でさらってしまうのは、なかなかズルい。





「ダウントン·アビー 新たなる時代へ」

2022年10月23日 | 映画
シリーズの要であり続けたマギー・スミスのヴァイオレットお婆さまの恋多き女だった若い時の姿を暗示するフランスの貴族の別荘の遺贈劇と、世代交代の継承劇とを重ねた、ひとつの区切りになるような劇場版第二作。

ただ、若い世代の方もけっこう年食ってきていて、もっと若い十代二十代の世代の描写が欠けているのはシリーズ自体が長く続いたから仕方ないのだが、見た目の上ではちょっと、特に大スクリーンではふだん日本の若い出演者のゆで卵に目鼻みたいなつるんつるんの肌を見慣れているとキツイ所もある。

「スペンサー ダイアナの決断」と続けて見ると、同じイギリスの上流階級を扱っても貴族はまだ王室よりは気楽だし、カジュアル。裏に回るとオンボロなところもさらけ出されている。けっこう下世話なのです、このシリーズ。

ずいぶん大勢のキャラクターを編むように話を進めていくのに、回想を使って説明したりしないでセリフに落としこんでわからせていく腕は相変わらず冴えてます。

ダウントンを映画の撮影用に貸してほしいという申し込みがあって、屋敷の維持費に頭を痛めている長女メアリー(完全に伯爵に代わってダウントンを仕切っている)が承諾する。
前の年にアベル・ガンス監督の「ナポレオン」が作られた、という設定なので、1928年の話、まだ映画がサイレントの時代。
ということは、この翌年の1929年にはウォール街の大暴落に始まる世界恐慌が待っていることになる。さらに続きが作られるとなるとかなり波乱含みにならざるを得ない。
ダウントンの近くの街で上映されているThe Terrorという映画は1920年の製作なのでずいぶん前の映画を上映していることになる。テレビなどない時代でもあるが、田舎ということなのでしょうね。

このシリーズで人気を博して観光客がダウントンのロケ地ハイクレア城におしかけるようになった収益で維持している面があるわけで、一種の楽屋落ち的な趣向でもある。
前年の1927年にトーキー第一作の「ジャズ・シンガー」が作られて大ヒットしたもので、撮影中の映画も途中からトーキーにしてしまえという相当に乱暴な軌道修正が図られる。
出演者もサイレントなものだから訛りや声の良しあしなど関係なしにやってきたのがいきなり対応しなくてはならなくなるという、「雨に唄えば」式の展開になる。

うるさいことを言うと、当時のフィルムではロケ先でも撮れるほどの感度はなかっただろうし、高熱を出すライトを国宝級の屋敷で使うわけにはいかないし、持ち運びできるような録音設備もなかっただろうが、その辺りは映画のウソということで大目に見られる範囲。

階級社会であるイギリスで、上と下の階級とを平行して描きながら時に交錯する展開を入れてきていて、ここでも映画のウソを利用した逆転した画を作って見せるのがニクい。





「スペンサー ダイアナの決意」

2022年10月22日 | 映画
オープニング、軍隊の車列が朝の田舎道を爆走するシーンから始まり、そのタイヤすれすれの地面に鳥の死骸が転がっていて、今にも轢きやしないかひやひやする。
ラスト近く、やはり軍用車が走り、その車体すれすれに雉が飛び立つ。そして、雉撃ちの儀式で映画はクライマックスを迎えることになる。雉が軍=国に踏みつぶされそうになる存在=ダイアナのひとつのシンボルになっているのは明らかだろう。

冒頭で軍が運んできたトランクを開けると、食材が入っている。この屋敷でのクリスマスパーティが戦争とまではいかなくても、国事行為として位置づけられていて、食事もその一環であるのが端的に示される。
殺されて食べられるもの、としての雉にダイアナが自分を重ねているようで、それに対応するように拒食症の症状を見せる。

豪華なクリスマスディナーが用意される一方でいくら要求しても断固として暖房は入れられず、豪華で優雅な牢獄といった趣。
この優雅さを演出する撮影・美術・衣装のすばらしさ。

完全に古典的な三一致の法則に徹した作劇で、三日間のパーティーにしぼっただけでなく極端にダイアナの主観に寄せていて、強迫観念と実際の無形の圧力はほとんどニューロティックスリラーの感を呈している。

ダイアナはヘンリー八世の二番目の、夫の命によって断首された妃アン・ブーリンとも自分を同一視していて、ブーリンの伝記が何者かによってダイアナの枕元に置かれたりしている。本にハンス・ホルバインが描くところのヘンリー八世の肖像画が収録されているだけでなく、同じものが晩餐のホールにもかかっているというのはリアリズムからは外れているだろう。

ヘンリーは最初の妃のスペインから政略結婚で迎えたアラゴンのキャサリンとの間に当時の慣習として跡継ぎになるべき男の子が生まれなかったのを口実に別れてアンと再婚したがったわけだが、当時のイギリスはカソリックだったので離婚は認められなかったのを、強引にカソリックを離脱して英国国教会を作ってしまう、ところがそうやって再婚したものの女の子は生まれても男の子は生まれず、ヘンリーは結局アンを断頭台に送るわけだが、皮肉にもその女の子こそエリザベス女王となり大英帝国の礎を築くことになる。ただし処女王の異名をとるように生涯独身で過ごした。
ダイアナの子供たちがふたりとも男の子というのがまた皮肉で(今のダイアナの銅像にはもう一人象徴的な子供がつけ加えられているという)、彼女の強迫観念を和らげるのに息子たちが大きな役割を果たしたと推測される。

雉撃ちのシーンで、明らかに飛び立った雉が途中で撃ち落とされている(ように見える)。エンドタイトルで「この映画で動物を傷つけたりしていません」の定番の字幕が出た気がしなかったが、本当に撃っているわけもないがどうやって撮ったのか。

クリステン・スチュワートはさほどダイアナと似てはいないのだが、第一声はじめあちこちで四文字語を吐くなどフィクションでないとありえないアプローチで籠の鳥的な女性のプレッシャーと苛立ちにさいなまされる典型的なイメージを作って見せる。
それにしても脚が細くて長くて(実物のダイアナがこれだけ脚を見せたことあっっけ)古い表現だが、カモシカのような脚とはこのことという感じ。

ティモシー・スポール、サリー・ホーキンスといったマイク・リー監督の常連がお付き役で並んでいるのが目を引く。

しかし、これだけ突っ込んだ創作作品を日本の皇室で作れるかといったらちょっとムリだと思えるし、そう思ってしまうのはなぜかとも思う。
あれだけ周辺は(最近では小室圭氏とか)ほじくり回しているのにね。
後注·10月21日に小室氏は弁護士試験合格。





「カラダ探し」

2022年10月21日 | 映画
学校に限られた人数の生徒たちが閉じこめられて一人づつ殺されていくパターンと、一日が何度でもループして出られなくなるパターンと、それに非業の死を遂げた少女のバラバラになった体を集めて一つにまとめるといったパズラー的なパターンとを組み合わせているというハイブリッド的なホラー。

というと聞こえがいいのだが、くっつけただけで繋がっておらず、さらにそれに波打ち際で若者たちがはしゃいで飛び跳ねているキラキラ映画的な要素も加えているのだから、一体これは何を見せられているのかと当惑する。
それからイケメンがヒロインを名前を呼び捨てにしたりして、いやに横柄な口きくのもお約束か知らないがひっかかる。

なんでループするようになったのか、殺して回っているのはなぜなのか、といったロジックなしで、悪い意味でゲーム的に思いつきをそのまま設定しただけで、納得できないまま見ている側を勝手に置いてけぼりにして先走って展開してしまうのだからたまらない。
ゲームだったらプレイヤーとして参加できるからいいのだろうけれど、この場合そのゲームのルールも後でとってつけたようなのだからノリようがない。

彼らが一日一回殺されて、その体験や恐怖がちっとも積み重なっていかない、という以前に恐怖を感じているかどうかもはっきりしない。惨殺されるのを観客として傍観しているだけで、体験を共有できるように描かれていないから。

なんでこの六人が選ばれたのか、とキャラクターの方で言い出すくらいで一応オチがつくのだが、意味がよくわからん。

スラッシャー描写は結構エグめ。モンスターのアタマが三つにはじけるように割れて口になるって、どこかで見たようだなと思ったら「物体X」ですね。これもパターンになってるかもしれないが。

ループから抜けたのを外に雨が降っているという描写一発でわからせたのは上手い。
予告編で印象的な、井戸みたいな穴から赤い手がうわっとキノコみたいに出ている場面って結局なんなのか。





「バッドガイズ」

2022年10月20日 | 映画
憎めない泥棒集団が主役となるとどうしても「ルパン三世」みたいに見えてしまいますね。次元も銭形も不二子もいるし。五右衛門が複数に分かれたみたいではある。
マネしていてもおかしくないし、もともとグッド・バッド・ガイ(改心した元悪党)というのはアメリカのサイレント映画時代の定番だったらしい。

パトカーの大群とのチェイスシーンもそれっぽいが、ハリウッド製らしくよりボリュームアップしている。

動物を擬人化したキャラクターと人間のキャラクターとが当たり前に共存しているけれど、特に法則はないらしい。





「“それ”がいる森」

2022年10月18日 | 映画
森にアレがあるところで"それ"ってアレではないかと思ったらアレでした。
後の展開含めて1950年代にアメリカで流行った✕✕ホラーみたい。

それにしても森で人が一人ならず死んだり行方不明になっているというのに、警察も子供たちもろくに怖がりもしなければ警戒もしないという手抜かりというかリアリティーのなさは、ちょっと唖然とするレベル。

ジュブナイル式に子供たちの世界にウェイトを置いているのだが、子供の芝居がすごく雑なもので描写がヌルくなっただけだし、松本穂香の先生が子供たちを守らなきゃと頑張るのも空回りすることになった。

父と息子の対立と和解みたいなサブプロットもあるのだが、息子の方があんまり危険を省みずムチャなことするもので、親に心配かけさせておいてイバるなという気分になる。

なんというか、基礎工事がガタガタで、途中から見続けるのがかなり苦痛になった。




「ソウルフル・ワールド」

2022年10月17日 | 映画
音楽教師としてやる気のない生徒に音楽を教えている男が演奏家としてチャンスをつかんだと思った矢先にマンホールに落ちて死んでしまう。

そこで死の世界に本格的に連れて行かれる前にソウルになっている世界で“きらめき=存在意義というか”を見つけ出さないといけないという、それまで当たり前になっていた目標を取り上げられた上で答えろみたいな無茶ぶり的なミッションを与えられる。

“きらめき”なんてものあるかいという態度のニヒリスティックな22番というソウルがいて、彼が相棒的な役割を果たすのが、半ば主人公自身というか、誰しも陥りがちなニヒリズムを表していて、生きる意味は人それぞれなのを自然に落とし込んだ展開が秀逸。

ソウルの世界からいったん現実世界に戻るが間違えて猫にソウルが入ってしまったりといったドタバタもそつがない。
音楽の演奏シーンがもうやたらと本格的。

ソウルの世界の案内役のキャラクターがピカソの素描みたいなタッチみたいなのが面白い。





「川っぺりムコリッタ」

2022年10月16日 | 映画
こういうとなんだが、荻上直子監督作というとエコでスローで癒し系という印象が強くて、実際に割と見るのにもやや半身で見ていた感じだったが、今回はかなりあれと思った。
つまりかなり、というかはっきり死の影が強くなっていたから。

ムショ帰りでおばさんたちに混ざってひたすら塩辛用のイカを捌き続ける労働についている松山ケンイチが主人公なわけだが、どうやら長いこと絶縁状態にあった父親が孤独死しているのがわかってくる。

平屋の見るからに家賃の安そうな(しかしその家賃もまともに払っている住人は少ないと大家の満島ひかりが言う)アパートの個性的というかヘンといった方が早い住人たちの集団劇でもある。

ムロツヨシのむさくて図々しい中年男がまずわかりやすくずがずが松山の生活に侵入してくる。野菜を自家栽培しているのがエコといえばエコだが、大丈夫か(たとえば台風が来たらひとたまりもない)とも思わせる。

吉岡秀隆が子供連れの墓のセールスマンで誰にでも墓を売りつけようとするあたり、やはり死のモチーフがあからさまに出ている。
満島ひかりの設定はほとんど「めぞん一刻」の響子さんだ。
柄本佑の市役所員が見せる孤独死して役所が保管している人間の骨壺の数の多いこと。

たとえば自殺相談の電話の向こうからのセリフの繰り返しで、あるキャラクターの過去を暗示するなど、映画作りの腕がこなれている感じ。

松山が電話をかけるのが公衆電話で、川っぺりに破棄された公衆電話の山の周囲で女の子が縄跳びの縄をぐるぐる回して宇宙人と交信するあたり、道具か古めかしい分異世界に通じている感じが出ていて、その宇宙人が応えたみたいに登場?するシーンが、日本映画で「NOPE ノープ」みたいな大がかりなCG使えるわけもないが、アナログだが不思議な感じを出したやり方で対抗してうまくいっている。

出てくる携帯がガラケーで、時代が少し前なのかと思うと、金持ちが住んでいる丘の上に風力発電の風車が回っているのがロングショットではあるがはっきり見える。
さっき書いた文字通りお高くとまったエコでスローな生活ができる層がいる格差があからさまな現代の話なのだな。
乱暴にまとめると、そのあちら側にいたような印象が強かった荻上作品の視点がこちら側に移ってきたとも言える。貧乏リアリズムには決して行かないのだが。

ホームレスや孤独死みたいにすぐそばに死があるような底辺の世界で、カネはないが人にたかってでもとにかくメシは食っていれば生きてはいる。
そう開き直るわけでもなく、すぐそばにある死を淡々とおどろおどろしくならず半ばメルヘンチックなタッチで描きながら、しかし身近にある感覚は手放さない。
川っぺりという設定が自然と此岸と彼岸とを暗示する。姿は見せないホームレスのブルーシートも同様。