prisoner's BLOG

私、小暮宏が見た映画のノートが主です。
時折、創作も載ります。

「掟」

2006年11月30日 | 映画
1990年、ブルキナファソ スイス フランス合作。
製作・監督・脚本 イドリッサ・ウエドラオゴ。

舞台はサバンナ。
恋人を村に残して旅に出た男が二年後に戻ってきたら、恋人は長老である実の父親の妻になっていたというとんでもない話。
秩序を乱す男は弟に殺されかけるが見逃されて村を出、元恋人は彼を追って一緒になって妊娠もするが、どっちの子供なのかはよくわからず、男が母親の死を聞かされて村に戻ったところで弟に殺され、弟も村を追放される。

なんかもうムチャクチャな話で、一体、いつの時代だろう、銃が出てくるところや服装からすると現代か近い過去なのだろうかと思われるが、長老の権利・権限というのが、不条理なまでに高い。その割に長老の存在感は不思議と薄い。

それにしても、二年間も何しに行っていたのだろう、とか、あちこちスジがつかみにくい。
社会派風にアフリカの前近代性を告発している、というより一種神話的な唐突さ、残酷さ、という印象。
(☆☆☆)


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「ベニスに死す」

2006年11月29日 | 映画
中学生で初めて見た時は20分で退散した。
20分間、ストーリーがまるで動いていないのだから、こういうタッチに慣れてない人間にはナニゴトかと思ったぞ。何度も見ているうちに慣れてきたが。

名画座で見た時、間違えて紛れ込んできたオヤジが、「あいつ(主人公のアッシェンバッハ)は頭がおかしいのではないか」と、ひとしきり騒いでそのうち出て行ったが、美少年趣味といい芸術家の役割についての自問自答といい、わからない人間にはおよそ理解を絶しているには違いない。
正直、こっちにとっても接点はあまり見出せない。

最初の方、リドに上陸したアッシェンバッハがまとわりつく子供を傘で追い払うような仕草を見せる。
少しあと、ホテルでエレベーターに乗ろうとすると、男の子たちがわっと騒ぎながら走り出てくるのが神経に触る。
優雅一方ではなくて、ガサツな連中にも目が行き届いている。

タジオの兄弟は全員女の子で、やたらとおとなしくお行儀がいい。
その頂点にいて優雅をきわめているのがシルヴァーナ・マンガーノの母親で、この一行がベニスの街を歩き回る場面の、タジオのアッシェンバッハを意識しているようなしていないような、誘っているような無視しているような動きのつけ方は、演出芸術そのもの。
故・淀川長治氏は、汚染された物を燃やす炎と煙の向こうのタジオが一瞬悪魔とも見えると指摘していた。

後期のヴィスコンティ作品のカメラワークはズームとパンが目立つようになるが、これは特に頻出している。頻度からいけばニュー・シネマ(死語?)並だ。
極端に主人公の主観に密着している効果はある一方、画面の奥行きとか立体的構成感、といったものが損なわれる面がある。



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「大アマゾンの半魚人」

2006年11月28日 | 映画
ミリセント・パトリックによるデザイン、バッド・ウェストモアによる特殊メイク、スーツアクターのベン・チャップマン(水上)、リコー・ブラウニング(水中)による演技によって作られたギルマンが何より見もの。

ヒレのついた手だけ見せて恐怖を煽る技法、白黒ということもあるが、口が動いてちゃんと生き物っぽく見える感じ、そして何より全身を覆った着ぐるみを着て水中を泳ぎまわる姿が壮観。ずいぶん長いカットで十メートルはある深さにじいっとしているかと思うと、水面を泳ぐ美女をえんえんと水中から追っていくなど、人間技とは思えないくらい(ブラウニングは4分間くらい潜れたらしい)。

美女が悲鳴ばかりあげているのが昔のモンスター映画っぽい。なんかイヤらしいのだね。


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「それでもボクはやってない」

2006年11月27日 | 映画
日本の刑事裁判で起訴されたうちの99.9%が有罪になるとは知っていた。
検察が有罪に持ち込める案件しか取り上げないからだろう、それでとりこぼされる事案が出るのは問題だ程度には思っていたが、どうもそこらへんではないのだね。

裁判官が無罪判決を書くということは、警察・検察に楯突くということで、国家権力という大きなくくりでいえば「お仲間」同士で事を荒立てるのは得策ではない、有罪になれば警察・検察の顔が立つが、無罪になったって喜ぶのは被告だけだ、というリクツなのです。冗談ではない、見ていて本気で腹が立ってきた。
弁護士にとっても、負けて当たり前、勝てば英雄というからある意味有利な状況ということだという。
裁判は法曹人や官憲のためにあるのであって、国民のためにあるのではないことをありありと教える。

この場合はまともな弁護士にあたるのだが、ひどいのにぶつかったらどうなるのだろうとも思わせる。いや、頭から無実を信じないで示談を勧めるひどいのも出てくるのだが、人格的な問題にとどまるのではなくそれなりの理由があってのことなので、なおさら困る。

ディテールの細かさ、充実ぶりがすごい。
護送の際、手錠に通した紐を抜く時うっかりすると摩擦熱でヤケドする、といった一見ストーリーとは関係ない微細な点まで丹念に描きこんであり、二時間半近い長尺なのだがおよそダレることがない。ほとんど全シーンにわたって何かしら知ることになる。
欲をいうと、裁判にかかる費用が全部でどの程度のものかわかると良かった。裁判そのものの生活に及ぼす有形無形のコストをまったく無視しているというのは、奇怪ですらある。

使われる言葉の特殊なことと言い、常識的な判断がまるで通じないことといい、およそ人の話を聞かない態度といい、法曹界というのは今同じ日本にあるとは思えないくらい異質な世界に見える。もっともカンケイないで済めばいいのだが、痴漢の冤罪などいくらでもありそうだ。
筆者は満員電車に乗る時、できれば両手でまわりから見えるように吊り革につかまるようにしている。そうもいかないことも多いけれど。

なお、裁判官はなぜ誤るのか 秋山賢三著の第五章によると、痴漢の八割までは常習者によるもので、彼らの犯行は巧妙でまず捕まるようなことはなく、もともと親告罪なのだから仮に捕まっても訴えられなければ起訴されないから示談で済ませようとするし、起訴されても五万円の罰金をさっさと払って釈放されてしまう。
あくまで無実を主張するのは、それまで真面目に生活していて裁判所を信頼している者で、それゆえに拘留が長くなり、物質的・精神的に甚大な被害を受けることになるのだから理不尽としかいいようがない。
(☆☆☆★★)


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「ギャベ」

2006年11月25日 | 映画
1996年、イラン・フランス合作のモフセン・モフマルバク監督作。

ギャベ、とは絨毯の意味であるとともに、ヒロインの名前でもある。
野に咲く花や夕焼けに手を伸ばすと、手がその花や夕焼けの色に染まり、さらに絨毯を染める染料の色につながる大胆なモンタージュ。

ヒロインが愛する男が具体的には姿を現さず、もっぱら狼のような鳴き声で存在を知らせる象徴的な効果。
遊牧に頼る素朴な生活のようでいて、衣装や調度品のデザインの見事なこと。

ときどき極度に画面がグラフィックに固定されるような感じが、パラジャーノフをちょっと似ているように思わさせたりする。
(☆☆☆)


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「ただ、君を愛してる」

2006年11月24日 | 映画
「決め」になる二人がキスしている写真、誰が撮ったんです? 写ってるどっちかってこと、ありえないよねえ。
半分寝て見ていたせいだろうか。(註・どちらかがセルフモードで撮ったとご指摘を受けた。やはり寝ていたらしい)。

大学の友人たちがまとまって出てくるシーン、ずらっと横並びで歩いてたりするのね。戦隊ものじゃないんだから、もう少し普通に見える芝居つけたらどうかと思うのだが。
林の撮影はキレイだけれど、ディテールのリアリティ他、画面の密度はどうも薄い。

お話の仕掛けが結構無理がある、結論から逆算してみると、好きな相手が出来た時、ああゆう行動をとるかぁ、と思ってしまう。

宮崎あおいが本当に成長してないように見えるのと成長しだした姿を演じ分けているのは、いい。
丸の内の劇場で見たのだが、工事の音がガガガガガとスクリーンの裏から響いてきたのには、呆れた。
(☆☆★★★)


「夏の嵐」

2006年11月23日 | 映画
ヴェルディの「トラヴァトーレ」の「武器をとれ! 武器をとれ!」という劇中の歌詞と、現実のオペラ座の三階席からイタリア独立を訴えるイタリア国旗に対応した三色のビラを撒く行動とがだぶっているように、リアリズムと様式感が、ヴィスコンティにもあまり類のない形で結合している。
(NHK BS-2の放送ではこの歌詞が訳されていなかった)

ロングに引いた絶妙なカメラ・ポジションから、ロケーションでもベネチアの街並み全体を巨大な装置のように見立てて人物を動かすセンス。
膨らんだヒロインのスカートや、中尉の軍服のマントなどの揺れ具合が、割と長めのカットの中で独特の優雅さな動きを見せる。

あるいは広壮な屋敷の中で奥行きを強調したアングルから、奥へ奥へと人物が動いていくのが、自然と自分を追い込んでいく姿になっている。
装置と衣装と役者の動きを全体として掌握している舞台演出的センスと、映像のリアリズムと、絵画的な色彩とが、渾然一体となった分厚い演出。

ストーリーはメロドラマ的だが、終始中尉の俗物性や臆病さ、安っぽさから目をそらさず、にもかかわらず彼に溺れてしまうヒロインの愚かしさからも目をそらさない厳格酷烈なリアリズム。
ヒロインの愚かしさが、人間性の深い部分からの激情から来ているのをありありと感じさせる。
蒸し風呂のような馬車の中でもベールを取らずに汗を拭っていたヒロインがベールを取られるクライマックスの効果。
アリダ・ヴァリの終盤の表情は、後年のホラーの魔女役より余程コワい。

もう少し英雄的に扱われそうな独立運動家のウッソーニ侯爵が、戦闘の中でなんだかあいまいに消えてしまうのが不思議な感じ。相当に当時の検閲で切られたせいだろうか。
(☆☆☆☆)


「息子の部屋」

2006年11月22日 | 映画
死んだ子の歳を数えるという言葉を映画にしたみたい。

もっともそれはやっても仕方のないこと、という意味だから、主人公を精神分析医にして(イタリアにもいるのね)、他人の悩みは分析できても自分のはどうしようもないというコントラストは作っているが、「哀しみが終わるとき」みたいにうんとコワい展開にするのでもないと、他これといって展開のさせようがない。

室内の色彩の配置のモダンな感覚。
(☆☆☆)



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「カオス」

2006年11月21日 | 映画
銀行強盗が発端でも、現金を盗むのが目的ではなくて何重にも裏がある話という点で、偶然だろうが「インサイド・マン」と共通している。

こっちの方が映像や音の処理が平準的だし、適当にドンパチや爆発も入れているので、エッジが鈍く感じられるけれど、肝腎の話がなかなか工夫を凝らしていて飽きさせない。
チエのある感じの拾い物。

カオス理論や仏陀の言葉などが散りばめられているのも、一見アクセサリーのようだが、シナリオも書いた監督からすると、結構マジメに意味を込めているのではないか。
(☆☆☆★)


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「ウンベルトD」

2006年11月20日 | 映画
年金が足りず、家賃をためた挙句にアパートを追い出される老人の悲劇。
ヴィットリオ・デ・シーカ監督としては珍しく、世界的にコケたらしいが、無理もない感じ。気持ちよく泣いて済む話ではない。

素人俳優と犬を主役にして、ラスト近くの犬を飼うことができなくなり、捨てるに捨てられなくなるあたり、さすがに映画的なうまさを見せる。
犬をアパートで飼う方が当たり前、ベッドで一緒に寝るというのは、今の日本の感覚でいくと何だか逆みたい。

アパートの壁やベッドの中に蟻がいるというのが、何かヘン。本来ゴキブリなのが、まともに描くのが憚られたのだろうか。


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「地下鉄(メトロ)に乗って」

2006年11月19日 | 映画
原作は読んでいないが、地下鉄を通っていくうちに過去に通じてしまうという、ジャック・フィニィの「レベル3」ばりの話。

主人公堤真一が半蔵門線永田町駅のホームで生きているとは思わなかったくらい高齢のはずの元教師に会うあたりは、田中泯の異様な眼光や佇まいから自然に現代ばなれした雰囲気が出ていて、その後、死んだはずの兄を追って地上にまで出て行くまでは永田町駅の構造を正確に捉えたリアルなつなぎなのに、地上に出た途端、衆議院議長公邸につながる246の坂道の横に出るはずが、中野新町に出てしまうという飛躍が割とうまくいっている。

もっとも、途中から地下鉄のトンネルを走るイメージ・ショットがはさまるとぽんと過去に行ってしまうというちょっとサボリぎみの処理になって、父親との和解がドラマの核なのだか、主人公が生まれる前の父親は理解しても、「現在の」父親と和解したわけではないから、どこかすっぽ抜けた印象が残る。

焼け跡などの美術セットは大掛かりに凝っているが、あまり荒れた雰囲気は出ていない。
丸の内線を、今使われていない全体が赤い車両のをちゃんと走らせている(写真参照)のは良い。

いつも主人公が商品見本の衣料品を詰めた大型のケースを持って歩いているのが、「旅」をしているような雰囲気を出していて良い感じ。
(☆☆☆)


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「父親たちの星条旗」

2006年11月18日 | 映画
「プライベート・ライアン」以来、戦闘シーンの“リアリティ”は格段に向上したが、客席に銃弾が本当に飛んでくることは、当然ながら、ない。
この映画の全体にモノトーンで統一された画面では血や内臓の毒々しい色は目立たない。
代わりに最も赤が目をさすのは、宣伝で作られた兵士たちのケーキにストロベリー・ソースがかけられるカットという具合に、生理的な残虐さを強調することで戦争の悲惨さを描いたつもりでいる幼稚さは、この映画とは無縁だ。

また、どれほど戦争の悲惨さを言葉で表そうとしたところで、最大の被害者である死者たちには語る口はない。
戦争を、特にその悲惨さを映画で描こうとすると、必ずこの解けない難問が立ち塞がる。
兵士たちが口をつぐみがちなのと無関係ではないだろう。

体験していない人間には「わかったつもり」にしかなりようがないわけで、だからといって「わかるわけがありません」でうっちゃるわけにはいかない。
モラル上の心構え、という問題ではなく、近代戦が経済力・技術力・情報収集力・宣伝力ほか社会のすべての成員の能力を総動員して行われる以上、関係なしでいられる人間はありえないということだ。
それは、戦争に参加しなかった人間、戦後に生まれた人間も例外ではない。戦争を社会の中で位置づける能力もまた、問われているからだ。

だから前線である硫黄島が地獄ならば、銃後や戦後もまた自ずと地獄となる。

星条旗が立てられたのが勝利と征服のシンボルに見えるのとは裏腹に、戦いが終わったわけでもなんでもない、という皮肉に典型なように、ここでの戦場はゲーム的な構造や発展性のある陣取り合戦ではおよそない。
国債集めのための宣伝旅行に駆り出される三人の兵士たちの脳裏に閃くフラッシュバックとして描かれ(イーストウッド作品とすると「バード」の構成に近い)、「衛生兵はどこだ」という言葉が繰り返され、敵である日本軍は姿をおよそ見せないのも、悪夢のような不定形なニュアンスを強める。

インディアンの兵士に対する、あからさまに差別的か「政治的に正」しそうな態度との違いはあっても、不自然に接し方が一通り揃っている。

戦友とはどんな存在なのか、というのが今ひとつつかめないのが隔靴掻痒の観。
(☆☆☆★★)


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花園神社の見世物小屋

2006年11月17日 | Weblog


新宿花園神社の二の酉の市に古式ゆかしい見世物小屋が出ていました。
札幌中島公園の見世物小屋と同じ小屋でした。
ただし、出演者はいくらか変わって、口上によるとハタチの小雪太夫という若いヘビ女がヘビを齧ってました。おミネさんは今回はヘビは齧らなかったけれど、同じように火を噴いてました。



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