刑務所の囚人が老教師にピアノを教わって塀の外のコンクールに出る、というストーリーから善導教育ものかと漠然と思っていたら全然違う。だいたい、しきりと囚人のジェニーの扱いについて体制側が集まっては鳩首会議を開くように、どんな人間になればいいかという確立されたモデルがあるわけではない。
囚人も教師も共に女ということもあって「奇跡の人」を思わせ、また囚人のジェニーがおそろしく反抗的・暴力的なので教育というよりほとんど格闘みたいなやりとりになる。
ジェニーはベートーベンの「ハンマークラヴィア」を練習で弾くのだが、前に石井宏だかの文章でベートーベンからピアノ・ソナタの演奏法が変わり大幅に腕力の要素が入ってきて、レディが家で弾くようなものではなくなった、という記述があったのを思い出し、そりゃ囚人はレディじゃありませんよねえ、と思う。
背負っている過去が生徒も教師もやたらと重くて、戦う相手は刑務所=体制ばかりでなく、過去の体験と自分自身でもある。
フラッシュバックで老教師の過去がちらちらと小出しに出てくるが、ナチスがユダヤ人ばかりでなく同性愛者も収容所送りにしたのは有名だから設定はすぐ見当がつき、それがどの程度教師と生徒の関係に反映してるかという突っ込みはやや弱い。
老教師の部屋の壁にベートーべンと共にフルトヴェングラーの肖像がかかっている。最近
「カラヤンとフルトヴェングラー」(中川右介 幻冬舎新書)を読んだせいもあって、ナチスと音楽との関わりというのは単純に国家権力と芸術家の自由を求める意思との葛藤という図式で割り切れるものではなく、リーフェンシュタールが典型だが芸術家のエゴイズムと政治的利用主義の癒着と葛藤みたいなところがあると思うようになった。政治も芸術もすぐれて「人間的」な営為というか。
クラシックの譜面通りの演奏が体制的でフリー演技がそこからの解放、といった発想から組み立てられたクライマックスはやや疑問。譜面通りの演奏だって、それぞれ全部違う一回性のものだと思うので。譜面通りの演奏から完全なインプロヴィゼーションに移り、また譜面に戻ったりと融通無碍に出入りするのは、たとえばアストル・ピアソラの音楽では当たり前のこと。
さあ譜面を無視して弾くぞというところで、それ自体が型にはまってしまうという「前衛化」の罠が顔を覗かせた気かるする。
主演のハンナー・ヘルツシュプルング、モニカ・ブライブトロイともに好演。年齢が40も違うのだが、ハンナーは若い割りに小柄であまり上背が違わない。
(☆☆☆★★)