prisoner's BLOG

私、小暮宏が見た映画のノートが主です。
時折、創作も載ります。

「人生タクシー」

2017年03月31日 | 映画
基本的なカメラアングルはタクシーの運転席、助手席、後部座席を、前方を写すよう装着された四か所だけ、そこにスマホやデジカメで回した映像が加わる、という世にもミニマルな構え。

イランの街を走るタクシーを運転するのはこの映画の監督である世界的な映画監督のジャファル・パナヒ。何度となくイラン当局に公開禁止をくらっているので、生活のためにタクシー運転手をやっているのか、と思わせもする(余談だが日本の映画監督でタクシー運転手をしている人は実在する)。

しかし見ていくうちにちょっとづつ変なところ、違和感を覚えるところが混ざってくる。
あまりに淀みなく人の出入りとやりとりが間断することなく続くあたり、あまりによくできているし、固定されたフレームから外れずちゃんと位置に入る。

フェイクドキュメンタリーなのか、と思っていると、DVDのバイヤーが監督=ドライバーと交わす会話で、これは映画の撮影でしょうといった発言が混ざり、映画の中でこれが作られた映画であることに言及するメタ構造が入ってくる。
黒澤明がどうこうというセリフがあって、イランではどう受容されているのだろうと思う。

映画を学んでいる学生がネタを探して映画を見たり本を読んでいるというのに対してパナヒが、その見た映画はすでに撮られたものだし本はすでに書かれたものだ、それまでにないものだったら他を探さないと、とアドバイスするのだが、この映画自体がこの言葉を体現している。

小さなタクシーひとつが映像を通ることでイランの一面を切り取るばかりでなく、何を写すことができないのか、権力によって何を見せられなくなっているかを暗示し、さらに世界に繋がってしまう。
邦題から想像させるような人生の一コマを切り取ってくるといったニュアンスはなく、混沌とした世界をまるごとつかみ取ってくるような力技を見せる。

ミニマルな造りにいくつもの位相を重ね、検閲をかいくぐりしかもまったく小難しく見せない作者の頭の良さが冴える。すごい。
(☆☆☆☆)

人生タクシー 公式ホームページ

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3月30日(木)のつぶやき

2017年03月31日 | Weblog

「誘拐の掟」

2017年03月30日 | 映画
主人公がアルコール依存症でAA(アルコホリック・アノニマス=無名のアルコール依存症者の会)に出席しているのだが、この会の基本はアルコールに依存するのを自分を超えた大きな力すべてを任せるという形で酒への執着を断ち切る、あるいはすり替えるという方法で、つまり基本にキリスト教的な発想がある(ただし、参加するのに宗教的な縛りはない)。

ただ、これは酔って上の過失でたまたまそばにいた少女を誤射して死なせてしまった元刑事の探偵が誘拐された少女を助け出すことで贖罪する物語なわけで、クライマックスにAAの12のステップが朗読されるのがかぶさるのだが、ここではっきり大きな力を神と訳しているのは本当は行き過ぎなのだが、ぴったり合い、文学的なテイストを出した。

プロットが一直線に進むのではなく、ちょっと動いてはぶつかるハードボイルドにして本格的なミステリのテイストもある。原作の力も大きいのだろう。

リーアム・ニーソンは歳に似合わないやたら強い役と歳相応のややくたびれた役とをうまく混ぜてキャリアを編んでいると思う。

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映画『誘拐の掟』 - シネマトゥデイ



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3月29日(水)のつぶやき

2017年03月30日 | Weblog

「なまいきシャルロット」

2017年03月29日 | 映画
出演当時14歳のシャルロット・ゲンズブールが一躍注目されセザール賞の新人賞を史上最年少で受賞した映画。

ストーリーでひっぱっていくのではなく、シャルロットがひと夏のバカンスの間に体験するこまごまとしたエピソードをひとつひとつ味わうフランスらしい性格の映画。

南仏のさんさんとした明るい光の画面が魅力。ではシャルロットが光輝いているかというとそういうわけではなくて、冒頭からむくれたような顔をし続け、笑顔を見せないし媚びも売らない。
それと恋愛がらみのエピソードがなくはないが少ない。少なくともメインではない。

一種の憧れの対象になる同年輩のピアノの天才少女と、シャルロットにやたらとなついてどこにでもついてくる隣の年下の女の子という、同性で同じ軸の上と下にいるかのような二人との関係で揺れているわけで、家族とか恋人といった濃厚な関係からやや離れた他人との関わりを思春期前期のドラマとして組んでいるのが珍しいし、なんか家族から離れていたい、機嫌の悪い姿と重ねって見える。

それにしても14歳のしてこの脚の長さよ。



3月28日(火)のつぶやき

2017年03月29日 | Weblog

「ラ・ラ・ランド」

2017年03月28日 | 映画
実際の高速道路で車を止めての群舞をワンカットという、どうやって撮ったのかと思わせるオープニングから、全体にとにかくミュージカル・ナンバーが長回しのワンカットで収められているのに一驚する。

背後にハリウッドの夜景が広がり、山の稜線が黄昏の光に縁どられている微妙な時間帯を狙ってのデュエットのこれまたワンカット撮影など、ミスしたらまるまる一日、天気が変わったらもっと待たなくてはいけないところではないか。撮影はフィルムでもポストプロダクションでデジタル技術で作ったのかもしれないが、基本は撮影の一回性に賭けている。

今どきわざわざ35mmフィルム撮影を採用する一方で、自由自在に動き回れるおそらく最新の移動機材を使って踊りをカットを割らず、昔のフレッド・アステアのソロをカットを割らずに移動して収めるために特製の移動機材をスタッフが開発したのを思わせて、とにかく流麗に動きながら(しかも動き過ぎるのがうるさくならない)演者を追い続ける。

実をいうと歌や踊りそのものは、もちろんあちらの役者のことだからちゃんとやっているけれど、それ自体が見ものになっているかというとやや疑問。
ミュージカルの良い意味でロマンチックで現実離れした魅力というのは見る側がスレてきている現在では成立しにくいのだけれど、バカ正直にミュージカルの再生を目指したボクダノヴィッチやコッポラよりは計算している。

ラストシーンが「未来世紀ブラジル」の順番を逆にしたみたい。公開前に編集でかなりいじったというけれど、この順番が逆になったらすごく後味悪くなっただろう。恋愛の夢うつつの時期と幻滅の時期のうち幻滅を重く描き過ぎないように苦心しているし、だから受けているように思う。

色の合わせ方がまことに徹底していて色がそれだけで売り物になったテクニカラー時代の色彩設計の徹底ぶりを思わせる。
(☆☆☆★★★)

ラ・ラ・ランド 公式ホームページ

映画『ラ・ラ・ランド』 - シネマトゥデイ

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3月27日(月)のつぶやき

2017年03月28日 | Weblog

「レッド・ファミリー」

2017年03月27日 | 映画
ひとつ屋根の下に暮らす中年の男女と若い男女の四人、一見韓国の普通の四人家族、実は互いにまったくの赤の他人で全員祖国に家族を人質にとられている北朝鮮の工作員たち、という設定一発でほぼ完成してしまったみたい。

四人のうち若い女が一番階級が高くて父親みたいな歳の男に恫喝的な「指導」を行うあたりの転倒した感じ、といったものがまず来て、隣の資本主義的、というか享楽主義的な一家をいちいち批判するあたり、相当にブラックなおかしさが出る。

もっともそういう不自然な状態を続けるのは難しくて、いかに本当の家族を人質にとられているとはいえ、一緒に暮らしていれば情は移るし、そんなに厳格に訓練されている風でもなくてやることは相当に隙だらけ。
隣の音がこちらに筒抜けになっているということは、こちらの音も隣に筒抜けになっているということではないか。

というわけで後半はだいたい予想通りの展開になる。北朝鮮だから、という興味本位から離れているので、どういう政治的評価を受けるについてはわからないが。
脚本はキム・ギドク。自分が監督する時より良くも悪くも常識的になっている感。






3月26日(日)のつぶやき

2017年03月27日 | Weblog

「ラビング 愛という名前のふたり」

2017年03月26日 | 映画
異人種(つまり黒人と白人)間の結婚が認められていない公民権運動前のバージニア州出身の男女が隣のワシントンDCで結婚してバージニア州に戻るが、州はふたりが一緒に結婚生活を送ることを許さない、という目に合う。

結婚した二人がいきなり投獄されるシーンはショッキングで、本来家族でどこに住んでもそれだけで逮捕されていいわけはなく、公民権運動前の状況でまかり通っていた南部の法制度の理不尽さがわかる。

ただそこから二人が州と法律的な戦いを繰り広げるかというとそうではなくて、バージニアには一緒に住めないので生まれてきた子供も含めてワシントンDCに住み、夫は州境を超えて仕事に通い、妻はワシントンで子供の世話をする、という生活を送るわけで、一見して仕事場と住居が二つの州にまたがっているだけで普通の生活をしているわけで、家族が引き離されて生きなくてはいけないというほど悲劇的な状態になるわけではない。

ここが若干ドラマとすると肩透かしをくった気分になった。あと、州が違う(正確にいうとワシントンDC=District of Columbia コロンビア特別区は全米で唯一どこの州にも属さない)ということが画としてきっちり示されていないのは手落ちだろう。場所によってルールが変わるというのがきちっと見る側に打ち込まれない。

法律的な戦いを繰り広げるのはこの事例をむしろ公民権運動に絡めて政治的に利用しようとしていると思しき弁護士たちで、費用も夫妻が負担する必要はないと聞かされた夫がタダの弁護士なんて信用できるか(ごもっとも)、とぼそっと言うほか全体としてあまり乗り気ではない。せっかく一応平穏に暮らしているのがことを荒立ててまた逮捕されるなどということになりかねないからで、もっともな懸念だ。

妻の方が平穏無事を望まずおそるおそるではあっても司法長官に手紙を書いたり弁護士たちの提案に乗ったり、とリードしているのはやはり差別される側の黒人だからということになるのだろう。夫が黒人の仕事仲間たちと酒場で、おまえは離婚したらそれで済むと言われて苦い思いをするシーンとも対応している。

結局弁護士たちの魂胆と行動がよくわからないので、異人種の結婚を禁止する法が廃止されて結果オーライにはなるけれど、主人公たちはダシにされた格好で主体的に動いているわけではないので、役者はうまいし当時の風俗の再現ぶりも堂に入っているけれど、どうもすっきりしない。
(☆☆☆★)

映画『ラビング 愛という名前のふたり』 - シネマトゥデイ

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3月25日(土)のつぶやき

2017年03月26日 | Weblog

「話す犬を、放す」

2017年03月25日 | 映画
あまり芽が出ないまま出るより教える方にまわっている女優が、旧知の人気俳優の紹介でいい役がつきそうになったところで、母親がレビー小体型認知症というアルツハイマー型の次に多い型の認知症になって板ばさみになる。

この型の認知症の初期症状は幻視を見ることなのだそうで、ここでは大昔飼っていた犬のシロの幻視を見ることになる。
母娘の関係にこの実在しない犬が絡んでくるのが映画的な工夫で、幻視の表現のセンスがオープニングの草原の固定ショットに犬が飛び込んでくる「地獄の黙示録」のミニチュアみたいなカットとか、赤ん坊を抱きあげてあやすところで強いバックライトが入るなどなかなかいい。

ただドラマの追い込み方が正直淡泊すぎて、介護をおどろおどろしく描きたくないのはいいとして、母親がやらかすトラブルというのも内容も描き方も腰がひけているみたいな印象を残す。
こういう性格だから役者として芽が出なかったということなのかもしれないが、もう少し板挟みの間で無理してジタバタしてみないと話として十分に膨らまない。犬の絡ませ方もやはり淡泊。

最初の方の演技クラスでしきりと生徒に「反射してますか」と問いかけるが、これは溝口健二が俳優に絶えず問いかけていた言い方で、要するにセリフをいう順番を待っているのではなくてその役の人物になって相手のセリフを聞いて反応するアメリカの演劇クラスだったら当然受ける訓練だそうだけれど、その反射している芝居とそうでないのとを並べて違いを見せるというのは至難の業で言葉だけが上滑りしていて今ひとつ実感がない。

つみきみほ、今いくつだろうと思ったら45歳。「櫻の園」から27年経つのだな。
(☆☆☆)

映画『話す犬を、放す』 - シネマトゥデイ

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3月24日(金)のつぶやき

2017年03月25日 | Weblog

「ふたりのイーダ」

2017年03月24日 | 映画
実は原作の名前は知っていたが内容はまったく知らず、児童文学ということで「ふたりのロッテ」みたいなのかなと思っていたら、まったく違っていた。

ふつうに子供たちが田舎で夏休みを過ごす描写が続いていたら、小さな幼児用の木の椅子が出てきて、これがひとりでに歩きだしたのは驚いた。
ファンタスティックな展開もだが、その動き自体が操り人形風に素朴で種を明かすとすごく単純なトリックなのかもしれないが表面上は粗が見えず、それでいてちょっとギクシャクしていて良く出来過ぎていないのが、ちょっと大林宣彦がわざと自主映画っぽい手触りを残したりするのに結果として似たような不思議な感覚を出している。
タイトルバックにいわさきちひろの画を作っているのと合っている。他のいくつかの特撮シーンも同様。

後半、なんと話が原爆の方にシフトしていくのも意外のようで、こういう描き方もあるのかと思わせる。
子供に見せるための方便というだけでなく、原爆は悲惨すぎてリアリズムでは迫り切れないところがある。

監督・脚本 松山善三。主演の(本当の主役は子供たちだが)倍賞千恵子が当時35歳。「幸福の黄色いハンカチ」の前の年の1976年製作。リアルな一方で古い洋館におとぎ話風のテイストを盛り込んだ美術は村木忍。

ふたりのイーダ (講談社青い鳥文庫 6-6)
クリエーター情報なし
講談社