prisoner's BLOG

私、小暮宏が見た映画のノートが主です。
時折、創作も載ります。

「ヒトラーの忘れもの」

2019年11月30日 | 映画
デンマーク・ドイツ合作ということ自体が内容と照らし合わせて意味を持つ。つまり第二次世界大戦でナチスが海岸に大量の地雷を敷設して、終戦後デンマークに捕虜になったドイツ軍の少年兵たちがその処理を命じられる。

手で探りながら地雷を探すのだから、「恐怖の報酬」的なイヤなスリルが全編にわかって持続する。

敵国、ましてナチスドイツが相手ということでデンマーク側の指揮官が復讐心もころてきわめて厳格にふるまう一方で、ドイツ軍といっても子供に過ぎず、恐怖にさいなまされてボロボロになっていくのに平気ではいられない。そのアンビバレンツがドラマの次元として優れ、戦争が戦闘行為は終わってもその後始末が本当に大変であることを教える。




11月29日 のつぶやき

2019年11月30日 | Weblog

「アンドレア・ボチェッリ 奇跡のテノール」

2019年11月29日 | 映画
視力障害を抱えながらオペラ歌手として成功するまでの紆余曲折を描く実話ものだけれど、苦難を強調し過ぎず周囲の親切と協力の方が目立つので安心して見られる代わりにややフラットな感じもある。

いったん歌をあきらめて弁護士を目指すのはちょっと驚いた。そちらの方がむしろ難しそうに思えるのだが。
「椿姫」の「乾杯の歌」を歌って実力を見せつけるところは曲調と共に胸がすく。

監督をイギリス人のマイケル・ラドフォードが務めたのはどういうわけか知らないけれど、前にイタリアを舞台にした「イル・ポスティーノ」を作った縁もあるかもしれない(アル・パチーノ主演の「ヴェニスの商人」なんていうのもあるが)。
ただセリフが英語なのは特にオペラにつながる時に興を削ぐ。

アントニオ・バンデラスが人間的な大きさを感じさせる導師・マエストロを自然に演じている。何歳かと思ったら59だからそれほどでもない。「沈黙の音楽」(これが原題)に耳を傾けよという教えが何だか東洋的に思えた。
恋人から結婚相手になる女性を演じるナディーヌ・カゼッリが美人。




11月28日のつぶやき

2019年11月29日 | Weblog

「ヘンリー・フール」

2019年11月28日 | 映画
ゴミ収集車に捨てられている本を拾って読むような貧乏で本好きな青年ヘンリーの前に吟遊詩人のような詩人が現れヘンリーに物を書く術と心構えを教えるが、「スター誕生」のようにヘンリーが大手出版社から本を出せるようになり次第に地位が逆転していって、というドラマ。

しかしドラマの結構とは裏腹に、両者とも詩人としての体質を変えず、世間的な意味で出世したか否かを最終的に意味をなくしてしまうのが、貧乏生活の悲惨さとともにじんわりユーモアが浮かび上がっているところとともにアメリカ・インディーズの雄ハル・ハートリーならではのところと思える。

アメリカでの詩人というのは日本の私小説作家みたいなニュアンスもあるのかとも思った。




11月27日のつぶやき

2019年11月28日 | Weblog

「殺さない彼と死なない彼女」

2019年11月27日 | 映画
光の使い方が独特で、間宮が出てくる最初のカットでほとんど顔が影になっている他、ふわっと画面全体に靄がかかっているようだったりなのでエンドタイトルを注目していたら、なんと照明担当のスタッフの名前が出てこない。

同じ部屋で時刻が違うのを光の違いで表現していたりするので人工的な照明をしていないとは思えないが、手持ちの長回し主体のカメラワークといい、作為を見せないようで作為的な画作り。

よくあるキラキラ映画かと思うと、気恥ずかしさを感じさせることはあまりなく、セリフの多くが真情と逆のことを言っていて(殺すぞ、とか)、ズラして笑わせたり、回り道をしながら結果ストレートに好きだと連呼するのに持っていく。

ずいぶん熱心なファンがついている映画らしいけれど、そこまで熱心にはなれないが付箋はつけておこう。






11月26日のつぶやき

2019年11月27日 | Weblog

「殺しが静かにやってくる」

2019年11月26日 | 映画
勧善懲悪を破ったラストで有名なマカロニウエスタンで、中島らものエッセイでは誇張はあるにせよ上映後の映画館が暴動寸前になったとか、双葉十三郎や都筑道夫の評でも悪く懲りすぎて後味が悪すぎるいった否定的な評価が主だった。
それがだんだん熱心なファンが支持し続けて評価が上昇してきて、マカロニというのがジャンルとしては滅びたせいもあって新しい文脈で見られるようにもなっているようだ。
あと、バッドエンド映画が増えて前ほど反感を買わなくなっていることもあるかもしれない。

改めて見直すと善玉のトランティニャンと悪玉のクラウス・キンスキー以外の第三者、野盗扱いされている集団があまり悪そうに見えず賞金をかけられて一方的に、それも山場の決闘の後に殺されてしまうのが妙に目立つ。

設定が冬山というのが特異なマカロニウエスタンなわけだが、監督のセルジオ・コルブッチが実はコミュニストだと聞くと、彼らに山に隠れるパルチザンめいたニュアンスを感じてしまう。

「山いぬ」(原作はイタリアリアリズムの代表作家ジョヴァンニ・ヴェルガの「グラミニアの恋人」)なんかでも理不尽な法制度の改変で土地を取られ怒りに任せて暴力をふるいそのまま山に逃げ込んだ男が描かれていたが、山というのが身を落とさざるを得ない一般人の一種のメタファーになっている可能性もある。

ほとんど凍り付いたような冬山で全編が展開するのが一種特異な美的感覚を見せている。




11月25日のつぶやき

2019年11月26日 | Weblog

「エンド・オブ・ステイツ」

2019年11月25日 | 映画
これくらい爆発シーンでぽおんぽおんと人間が派手に宙を飛ぶ映画も珍しい。
爆発シーンがあるのはアクション映画では当然だけれど、吹っ飛ばされた人間をいちいち見せて、しかし身体がバラバラになるようなことはないのだね。
身体がバラバラになったら残酷味が強くなりすぎて単純明快な娯楽の範疇から外れるからだろう。

ストーリーからすると、「24」ばりのアメリカ中枢の至るところにスパイが潜りこんで裏切りが連続して主人公が陥れられてというややこしいものになっても不思議はなかったのだが、そこはもう懲りすぎず良くも悪くもきちんと収まるところに収まる。

ニック・ノルティの父親の、息子に輪をかけたムチャクチャぶりが笑わせる。
ただ親子の和解劇の押し込み方が強引でラストシーンの座りが悪いのは困ります。

モーガン・フリーマンの米大統領が本物のプーチンや習近平と並んでいる合成カットなど、こういうまともな大統領が本当にいればいいのにと思わせる。

原題はAngel Has Fallen、ジェラルド・バトラー扮するマイク・バニングを主人公にしたシリーズの第三作で、これまではOlympus Has Fallen、London Has Fallenといった具合にFallenシリーズとでもいったタイトルのつけ方をしてきて、今回は主人公が堕天使に見立てられるといった趣向。そんなにものものしい内容ではありませんが。




11月24日のつぶやき

2019年11月25日 | Weblog

「i 新聞記者ドキュメント」

2019年11月24日 | 映画
不愉快なのがわかりきっているのでネットやテレビではできるだけ見ないようにしていた菅官房長官の会見場面を映画館となると逃げようがなく見せられるわけで、たびたび繰り返される答弁の映像は内容(がないの)はわかっているのだからこんなにいちいち見せんでええわと正直思った(個人の感想です)。

考えてみると、会見で撮られている映像というのがおそらくほとんど長官のアップしかないからそうならざるを得ないわけで、森達也監督がしきりと会見場での望月記者と官房長官との(おそらく入れ込んだ引きの)画を撮りたがるのともつながってくる。

静止写真だが、最前列にパソコンを前にした記者たちが壁のように横一線に並び、離れた後ろの席で望月記者が手を挙げている画はこの場の力関係と構図を典型的に示していた。

ただ、長官とその眷属と押し問答ばかりしていても埒が開かないのも確かで、映画とすると会見に出ている他の記者たちは望月記者をどう思っているのか、自分たちはジャーナリストとしての仕事をしているつもりなのか、など個別の記者に当たって聞いてみればいいのにと思った。

ただかなりの程度、ひたすら沈黙か問答にならないやりとりしか成り立たない、警備の警官から補佐官の類と似たようなのっぺりとした反応が返ってくるような気もするが、それでも確認はしてほしかったし、特に日本の人民日報化が著しい読売新聞(余談だが、望月記者は場合によっては転職の時読売に入社する可能性があったのが皮肉)には聞いてもらいたかった。記者に聞いてはいけないというルールはないだろう。むしろ自分が取材される側にまわった記者が一般にどんな反応を見せるか興味がある。

そうしなかった一つの理由は森監督がとにかく望月記者個人(と、自分自身)を追うことに賭けたからかもしれないが、記者が個人としての思いで動くのはいいとして、一方で視野狭窄に陥る可能性もあるわけで、そこはこの映画自体にも表れてはいないではない。
会見があまりに不快なので、狙った対象だけでない、ドキュメンタリーならではの“写ってしまった”ものを読み取ろうと苦心したのだがさっぱり見えないのもそのせいかもしれない。

それにしても、沖縄で住民を騙して自衛隊が武器庫を作ってしまうデタラメさは予定地の大きさを映像で見せられると衝撃。
いかに一般のメディアの報道から沖縄がこぼれているかもわかる。

前川元文科省事務次官が安倍内閣は国民を完全に舐めているのだと思うと言ったのは本当で、舐められるような国民なのだと言ってしまえばそれまでだが、いい加減シニカルになってられる余裕などない。

出るメディアが吉田豪とパックンとに挟まれたローカルテレビ番組とかネット番組とか、いかにもマイナーなのが、NHKとか読売といったメジャーほど忖度の度合がひどい(もちろんメジャーを押さえた方がメディアコントロールが効くから)のと好対照。

“大きなもの”ほど、一見確かで頼り甲斐があるようで、実際には傲慢で無責任で理不尽でもあるというのは、単純な真理。

ラスト近くアニメを入れたり、ナチスから解放されたパリでナチスと仲良くしていた女たちが頭を丸刈りにされて晒し者になっているキャパによる有名な写真が出てくるのは意味がわからない。

姿を現さない、子供の世話をして妻の弁当も子供のついでといいながら作る夫というのはどんな人だろうと思った。

イヤホンみたいな電話を使いながら駆けずりまわる姿は「24」をジャック・バウアーばり。どの程度使われているものなのか。

“本筋”とは関係ないが、ビン・ラディンのマトリョーシカなんてあるのだな。




11月23日のつぶやき

2019年11月24日 | Weblog

「ブライトバーン 恐怖の拡散者」

2019年11月23日 | 映画
裏「スーパーマン」みたいだな、と思った。それもクリストファー・リーヴが主演した第一作の前半、麦畑が広がる古き良きアメリカと善良な両親に育てられる実子でこそないが愛されて育った地球外から来た子供がとんでもないスーパーパワーを発揮するようになる、というくだりの、そのパワーをもっぱら悪い利己的なことに使うような話で、力は強い、空を飛べる、目からビームを出す、自分の生まれた星で産出した物質に弱い、などなど共通点は多い。

最近かなり目立つ疑似家族ものでもあるわけだが、愛し合っていれば家族といえるという理屈の裏返しで、では親は愛していても子供はどうなのかというのを見も蓋もなく描いた格好。

身も蓋もなさすぎて、個々の見せ場は派手にやっている割にラストなど捻りが効かなくなってしまったり、カメラを初めから動かしすぎて、ここぞというところでかえってアクセントが効かなくなるなど、退屈はしないが色々とあらは探さなくても見える。

細かいところだが、銃が出てきても発射しない、とか、伏線を回収するのかと思うと中途半端なところで止まってしまうなど、詰めが甘いところがある。