ずいぶん前にテレビで見ていて、これはちょっと、と思っていたし世評もよくなかった。その後、長いことソフト化されておらず幻の映画になっていて、その間に再評価の声も聞こえたような気がした、海外の評価も高かったりしたので再見したが、やはりダメでした。
玉三郎をまんま女形でやらせたことといい、冨田勲のシンセサイザーの既成曲をまんま使ったことといい(なんで新曲じゃないんだ)、「妖怪大戦争」かと思うような作り物っぽい妖怪のメイクといい、舞台ならそれなりに効果的だったかもしれないことが映画でやると上滑り通り越して、自分はナニを見ているのか不安になるレベル。
見せ方として顔を出すまで気をもたせた分、玉三郎がアップで出た時、ぷぷっというか、むむっというか、とにかく違和感ばりばりだった。
加藤剛が登場する時に総白髪というか銀髪で登場するのがまた面妖な感じ。
クライマックスの大洪水のあと、いきなり南米のイグアスの滝の実写になるのもイグアスそのまんま過ぎて時空がワープしたみたい。
リアリティラインが凄く変なのです。これが松竹系の劇場でかかるようなシネマ歌舞伎かオペラみたいな初めから舞台を映像として見せる前提の作りだったら納得できたかもしれないが、通常の映画のカメラのリアリズムが常に足をすくう。
もとより玉三郎の二役は人間、すくなくとも常識的な人間を離れた役だから女形を配するというのは頭ではわからなくもない。
というか、頭で考えたところで止まっている。
篠田正浩監督作にありがちなのだけれど、これは特に極端。
冒頭の顔を白塗りにした葬列は寺山修司っぽい。
寺山を映画(「乾いた花」の脚本)に引き込んだのは篠田だったな。
松竹の玉三郎がいる演劇部門と映画部門はもともと仲が悪くてなんとか垣根を越えて主演映画を完成したはいいが興行的に失敗、仲がまたこじれたせいか他の理由もあってかずいぶん長いことソフト化されていなかったらしい。
出来の個人的な評価はともかく、ソフト化が実現したのは慶賀すべきこと。
余談だが泉鏡花の原作戯曲はゲアハルト・ハウプトマンの「沈鐘」を元にしていて、同じ「沈鐘」をアレンジしたのが「大魔神怒る」(二作目)。
だからというわけではないが、クライマックスの洪水シーンの矢島信雄特撮監督による特撮は見もの。
こういう大々的なミニチュアワークやレイアウトがきっちりした合成は今では逆に見られない。
合掌造りの民家の茅葺き屋根が大量の水で吹っ飛んだり、壁が破れて大量の水がなだれこんでくるカットなどモノの量感質感が魅力的。