prisoner's BLOG

私、小暮宏が見た映画のノートが主です。
時折、創作も載ります。

「アジア映画の大衆的想像力」 四方田 犬彦

2007年10月31日 | 


中国の「梁山伯と祝英台」、韓国の「春香伝」、タイの「メー・ナーク」、そして日本の「忠臣蔵」といった国際映画祭の類には乗らないもっぱら国内の一般客向けの“ローカル・フィルム”がリメークを繰り返されるうちどう進歩を遂げるかを追う縦糸と、それらが国境を越えて交感し合っている様子を活写する横糸からなる、汎映画史。

なぜウルトラマンがタイで作られたことがあり、また作られているのかというと、監督が日本に留学して個人的にだが円谷英二から許可をもらってたからなのね。タイ製ウルトラマンというのは、えんえんと兄弟でタイ舞踊を舞い続けるというから、なんか見たくなる。ウルトラマンがホトケのイメージというのは、納得。

「タロットカード殺人事件」

2007年10月30日 | 映画
アレンの回春映画というのか、昔の養女と関係するスキャンダルまでネタにして若い女から元気をもらおうとしているみたい。
スカーレット・ヨハンソンの女王さまぶりやオヤジ殺しぶりはさんざんゴシップ誌をにぎわせてきたが、水に濡れた姿の撮り方など、まあいやらしい。

手品師という設定はフェリーニ、死神はベルイマン風ではあるけれど、こっちはまあお印程度。
(☆☆☆★)


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2007年10月に読んだ本

2007年10月30日 | 
prisoner's books
2007年10月
アイテム数:9
死の壁 (新潮新書)
養老 孟司
10月10日{book[' rank' ]
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「フィラデルフィア・エクスペリメント」

2007年10月29日 | 映画
1984年製作。
マイケル・パレは「ストリート・オブ・ファイヤー」だけでは一代のカッコマンぶりを見せていたけれど、他はもう感心するくらいしょーもない映画ばかり。これは中ではマシな方。
新作の一つが「ニンジャ・チアリーダース」ですからねえ。それでも年に何本かの割りで出ているらしい。
ナンシー・アレンは「キャリー」「ミッドナイトクロス」で共演した縁からかトラボルタがらみの番組でテレビに2004年に出たのが表に出た最後らしい。

あれで主役二人が実生活でもくっついてたらしいが、もちろんすぐ破局したと知っててみると味わいが深く…ないな。

フィアデルフィア実験というのは一応実話ネタなのだけれど、もちろん映画みたいなホラ話ではないけれど、裏話の方がトンデモがかったところあり。

ドライブインでついているテレビでやっているのは「モンスター・パニック」かいな。第二次大戦中から三十年後にとんでしまってカルチャー・ギャップを受ける映画としては適当。
特殊効果が今風のデジタル処理ではなくて光学処理をしていますという感じ。どこがと言われても説明は難しいが。ラストの方で「2001年宇宙の旅」のスターゲイト風の光の通路といったイメージが出てくる。


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「字幕屋は銀幕の片隅で日本語が変だと叫ぶ」 太田 直子

2007年10月28日 | 


げっ、と思ったのは配給会社の方で「感動」しやすいように原語では言ってもいないことを言わせたり史実を曲げた内容にするようにしたりするよう要求が来るというくだり。
配給会社の姿勢も非難されるべきだが、一方それだけ安直に「感動」したいバカが多いということ。どうも原語で言っていないことが字幕に出ることがあるけど、なんでかと思ったらそんな事情があったとは。

「デパートを発明した夫婦」 鹿島 茂

2007年10月27日 | 


実に150年前のパリで現代の大衆消費社会を生むきっかけとなったデパート「ボン・マルシェ」を築いたブシコー夫妻の経営戦略が、あまりに現代に通じているので驚かされます。

展示スペースそのものを祝祭化し(それが万博にまでつながる)、わざと入り口を狭くして混雑を演出して客を呼び込む手法から、当時劇的に交通が発達したために増えた外国客相手の通信販売に至る商法、商法のみならず社員管理と福利厚生まで含めた会社のあり方、さらに下層出身者でも努力と会社への忠誠によって社会の上層に上り詰めていく階層としてのサラリーマンを生んだというに至る影響の大きさとそれを描いていく筆致の面白さ。

「日曜日には鼠を殺せ」

2007年10月26日 | 映画

原題は「蒼ざめた馬をみよ」Behold the Pale Horseなので、「日曜日には鼠を殺せ」というのはどういう意味だろう、と思って調べたら、以下のブログに出ていました。

http://movie.tatsuru.com/archives/001120.html

(以下引用します)
Richard Braithwaite (1588 - 1673)という人が“Barnabee Journal”というところで引用していたもので、そのさらにオリジナルもどこかにあるのだろうが、それは不明。
こんな戯詩である。
To Banbury came I, O profane one!
Where I saw a Puritane-one
Hanging of his cat on Monday
For killing of a mouse on Sunday.
「不信心なおいらがバンベリーに行った。
そこでおいらは清教徒のやつが
月曜日に猫を吊しているのを見た。
日曜日に鼠を殺したからなんだって」
(たぶん、そんな意味だと思います)
バンベリーがどういうところかは寡聞にして知らないけれど(バンベリー・バンという挽肉入りケーキが名物らしい)、安息日の日曜には猫が鼠を捕っても涜神行為とみなされるほどにストリクトな清教徒の街だったようである。
そこから転じて、「日曜日に鼠を殺した猫は月曜に清教徒に吊される」というのは「諸行無常、盛者必衰」を意味する英語の格言だったのである(嘘です)。
というわけで、映画『蒼ざめた馬を見よ』(Behold the Pale Horse)の原作小説のタイトルKilling a mouse on Sundayは『日曜日には鼠を殺せ』じゃなくて、『日曜日に鼠を殺すと』だったらよかったんですね。
(引用終わり)

なるほど。

それとは違いますが、スペイン市民戦争もの、というのは手探りで知識を得ながらぽつぽつと見た映画をつないでいくような見方になりますね。

オマー・シャリフの神父に対してグレゴリー・ペックが頭から憎悪を見せるのがよくわからなかった。バチカンがフランコ政権を支持したからだ、とは見た後で調べてからわかった。
ルイス・ブニュエルの作品に見られる猛烈なカソリック批判にもつながっているのでしょうね。

ピレネー山脈のシーンは監督フレッド・ジンネマンの遺作になった「氷壁の女」を思わせ、他、それぞれの都市でもロケ効果は見事なもの。

元スペイン人民戦線の闘士が20年後にはギャングと大して変わりなくなって一般人に対する強盗をしたりしながらごろごろして暮らしている痛さ、というのは20年戦って権力側は小揺るぎもしない徒労感、という点では日本の反体制運動でも少しわかるような気もする。ギャングは戦前の日本共産党もしていたが。

シーンによって主役が変わってしまうような構成なので、全体が渾然として盛り上がるというわけにはいかない。サッカーボールの使い方も早朝の町を弾みながら遠ざかっていくカットなど素晴らしいが、若干何の象徴だろうと考えこんでしまう感じ。

子供でも歩いて渡れる川が国境になっていて、歩いてスペインとフランスを行き来するだけで合法非合法が違ってしまうという奇妙さを端的に出す。
(☆☆☆★)

「バイキング」

2007年10月25日 | 映画

ラストの高い塔での一騎討ちを見ていて、戦う二人が肉親であること(を片方だけ知っていること)、片手を切り落とされているところ、など「スター・ウォーズ 帝国の逆襲」みたいだな、と思った。
「ジェダイの帰還」のラストみたいな荼毘のシーンもある(これは映画評論家の森卓也が指摘していた)し、参考にしていても不思議はないね。

残虐な描写が多いのだけれど、製作が約半世紀も前の1958年となると、今の目で見ると直接描写は少ない。

リチャード・フライシャーの演出はゆったりしたテンポの割りに不思議と飽きず、まったく早送りしなかった。
異教徒対キリスト教徒との対立という要素もあることはあるのだが、セリフは全部英語(もっとも現代英語にはかなりバイキングの言葉が入っているはずだが)。

クライマックスの城攻めの長いプロセスを丹念にセリフなしで描いたカットの積み重ね方が的確。
いよいよ攻め入ろうという直前、男どもの髭面の面構えのアップをずうっと移動で押えたショットがぴたっと決まった。

北欧の海にバイキング船が浮かんだ風景など、雄大でぴたっと構図の決まった撮影はジャック・カーディフ。
(☆☆☆★★)

「カラシニコフ」 松本 仁一

2007年10月20日 | 


単一の工業製品としては史上最も大量に生産された「製品」である自動小銃、カラシニコフ。存命中の設計者カラシニコフのインタビューは収穫。トカレフが師匠にあたるとは知らなかった。設計に取り組んだ動機や、名高い耐久性と故障の少なさはどこから来ているのかという解説も面白い。
しかし何より「失敗国家」の悲惨とそれを支える国際社会の構造にAK47という自動小銃を切り口にして描いたのが朝日新聞連載とは思えない面白さ。

不機嫌なメアリー・ポピンズ―イギリス小説と映画から読む「階級」  新井 潤美

2007年10月19日 | 


ポピュラーな英国小説とその映画化を取り上げて、英国の階級意識が「マイ・フェア・レディ」のように「言葉」の内容よりむしろアクセントに現れているのを指摘しています。正直、こっちには英語のアクセントがどんなものなのかさっぱりわからなので、へーっそうなんですかと思うばかり。

原作と映画の比較では世界を相手にする映画化にあたってはおおむねローカルすぎる階級性の問題は水増しされることを具体的に教えてくれます。題名になっている「メリー(メアリー)・ポピンズ」が原作ではおそろしくつんけんしていて映画のようにやさしくはないことなど、典型。なぜそうする必要があるかも解説されています。

「アジアのなかの日本映画」 四方田 犬彦

2007年10月18日 | 


昔、蓮実重彦門下と目されていた著者が、名ざしこそしていないものの、はっきり批判を打ち出している一節が面白い。
蓮実当人が自作年譜で自分の言説は左翼運動の影響を受けているのだが、あまり指摘されたことがないと書いていたが、ポストモダンと左翼の挫折と「意味」のはぐらかし、という図式がやっとわかってくると、意味付与を拒絶する言説に対して批判が出てくるのも当然。

「複眼の映像 私と黒澤明」 橋本 忍

2007年10月17日 | 


かつてない角度から黒澤作品の系譜に内在する論理を摘出して見せた書。もちろん橋本忍以外の誰にも成し得なかった業。

世界にも例を見ない一流ライターを競争させての共同脚本作りの論理が何を生み、どこに無理を生じ、そして解体に至ったか、それ自体きっちりと縦糸横糸を編み上げたドラマになっている。

ちらっと登場する野村芳太郎、城戸四郎といった人たちのおよそオブラートにくるまれない発言の数々もすこぶる興味深い。

「弓」

2007年10月16日 | 映画
全編、海の上の船が舞台で、登場人物もほとんど老人と若い娘だけ、セリフもほとんどないという抽象的な作り。
釣り客を乗せるのと、船の腹に菩薩が描かれていて、その前で娘がブランコをこいでいるのに向って弓を射て、矢が当たった位置で運勢を決める、という妙な占いで収入を得ているらしい。
娘の排泄シーンとか水浴びするシーンとかはあっても、何食べているのかよくわからない。

爺さんが菩薩の絵柄のカレンダーに、「結婚」という文字(ハングルではなくて漢字なので読めるのが不思議な感じ)を娘の16歳の誕生日に書いて、その日が来るのを待ち望んでいる、なんてフェミニストが見たら怒るんじゃないのかと思わせる。キム・ギドクの作品っていつもそういう感じがするが。

娘が菩薩に喩えられていて、矢のセクシャルな象徴性と暴力と対応している格好。
図式的すぎるくらいだが、娘役のハン・ヨルムの撮り方がもろに作り手の欲望を感じさせてエロくていけません。

クライマックスがかなり突飛で、よく考えたと感心する一方でちょっと笑ってしまう。
(☆☆☆★★)