prisoner's BLOG

私、小暮宏が見た映画のノートが主です。
時折、創作も載ります。

「デュオ 1/2のピアニスト」

2025年03月15日 | 映画
キャストを見ると、カミーユ・ラザが双子の姉のクレール、映画初出演のメラニー・ロベールが妹ジャンヌを演じたとある。
姓が違うから本物の双子ではないらしいが、どう見ても同じ顔をしている。「ソーシャル・ネットワーク」に出てきた双子は一人の俳優を二人分合成して増やしたのではなく、ひとりの俳優の顔をもうひとりの俳優にマスクよろしくデジタル合成で被せて作ったというが、その伝だろうか。
ときどきどっちがどっちなのかわからなくなる。

監督のフレデリック・ポティエとバランタン・ポティエは父子だという。 

父親が星一徹ばりに自分が水泳で達成できなかった世界のトップクラスに娘たちがピアノで達するのを要求するというのは、父親がピアノに挑戦していて挫折したわけでないから期待のかけ方がずれている気がするし、割とあっさり引き下がるのもモヤモヤする。
実際の双子はどうだったのだろう。

双子ならではのピアノというと連弾による演奏を期待するのだが、二台のピアノを使うので並んで弾く格好にはならず、互いの演奏に距離ができることになる。画としての収まりはいいが。





「Unloved」

2025年03月14日 | 映画
仲村トオルが起業家で、市役所に勤める森口瑶子が作った資料の質の高さに注目して自分のところで働かないかと誘うが、森口は今の身の丈の暮らしで満足していると断る。あきらめずに口説く仲村だが、森口のアパートの下の階に引っ越してきた貧乏人の松岡俊介の方に行ってしまう。

このあたりの「謎」が物語上の伏せ札のテクニックでなく、視線を合わさない人物配置、正面から対立するのではなく斜め上にロジックが展開していくような構造のダイアローグのサスペンスとして機能している。
ほぼ三人による会話劇で、おそらく16ミリフィルムによるカラー撮影(芦澤明子)。ミニマムな作り。

松岡俊介は2009年以降芸能関係の仕事をやめて、コロナ下で仙人のような生活をしていると伝えられた。
森口瑶子は「相棒」の小料理屋の女将役でレギュラー。
20年以上経つといろいろ変わる。




「プロジェクト・サイレンス」

2025年03月13日 | 映画
タイトルになっているプロジェクトというのはテロ対策に特化して訓練された犬たちのことで、途中から計画そのものが破棄されたという設定。

この犬が危険なシーンを演技しているところを見るとトレーナーが訓練して操っているのはありえずCGなのは見当がつくが、すごくリアル。
メイキングを見ると犬の役をブルーの扮装をした人間が演じているのが相当に可笑しい。

レッカー運転手役のチュ・ジフンは脱色したロン毛にしているのが棚橋弘至みたい。

主人公の韓国の国家安保室の行政官というのはどんな立場なのかよくわからないが、はじめ国の側に立場を置いていたのが大統領がプロジェクトにゴーサインを出していたのを知って裏切られたのを知る。もうひとりの行政官は知っていたというのは、後で考えると相当にご都合主義だが見ている間は気にならない。
娘が留学するはずだったのをあきらめるというのがどういう社会的意味づけなのかわかりにくい。

しかしあれだけ車がぶつかっていて、一向にエアバッグが機能しないというのは何なのでしょうね。
玉突き衝突に加えてヘリコプターは墜落するわ、吊り橋は崩壊するわで、スペクタクルは見ごたえあり。





「バッドランズ」

2025年03月12日 | 映画
テレビ放映でたしか二回、ビデオで一回見ているのだが、今回スクリーンで上映されたのはまるで別物。
前に見たときの感想はこちら

テレンス・マリック作品の常で撮影が素晴らしく、冒頭でわざわざゴミ収集車にマーティン・シーンが乗っているあたりはむさくるしいリアリズム寄りだが、シーンがウォーレン・オーツを殺すあたりから描かれる内容が血腥くなるのと反比例して画面と描写のタッチは美的かつ詩的になる。
後半のがらんとした平らな草原の一応緑に覆われ、動植物や天体にも彩られているが豊かな自然というには頼りない感じは、他ではあまり類を見ない。

そのシーンがオーツを殺す場面のあっけなさ、はマリックの次作「天国の日々」でリチャード・ギアがサム・シェパードの胸にまるで意思とは関係ないようにドライバーを刺してしまう一瞬につながる。
音楽センスがまた素晴らしく、ぎりぎりで宗教的になるのを躱して透明で美しい。

シーンが帽子に拘るのはジェームス・ディーンに似ているという自意識があってのことか。ディーンの帽子とは違うデザインの気もするが。

シシー・スペイセクが十五歳という設定で(実年齢は二十四)、タバコは喫っているが酒は飲まずミルクを飲んでいる。

ちなみにこの「バッドランズ」の美術監督(最近のようにProduction Designer ではなくArt Directorとクレジットされていた)のジャック・フィスクとスペイセクは撮影の後で結婚して、今でも一緒。「キャリー」の時は結婚間もない夫婦でカメラの前と後にいたわけだが、例の血のバケツのシーンで着色したシロップを使うアイデアはフィスクが出したもので、髪の毛がべたべたして往生したとスペイセクは「スクリーン」誌のインタビューで言っていた。

エンドタイトルの献辞にアーヴィン・カーシュナーやバート・シュナイダー、アーサー・ペンの名が見える。

ふたりの主演者の「声」がともにフューチャーされていて、スペイセクは最初からナレーションを担当し、シーンはしきりと駅などにあるEP録音機に声を吹き込んでいる。

シーンのゴミ収集仲間で今は管理人をしているケイトー役のラモン・ビエリはどこかで見た覚えのある顔だと思ったら、「恐怖の報酬」の石油会社の現場担当者役。






「ジュ・テーム、ジュ・テーム」

2025年03月11日 | 映画
実験動物のモルモットが出てくるのでアラン・レネ作品としては「アメリカの伯父さん」とどっちが先かと思ったら、こちらは1968年、「アメリカ」は1980年と一回り違ってました。

増村保造「盲獣」みたいなマット状の柔らかく起伏のある素材で作られているかなり変わったデザインのタイムマシンを使ってタイムリープを試みるのだが、これが作られた頃は字幕でいうタイムリープって言葉は一般的になっていたろうか。

特定の時点に被験者を送り込む仕掛けをしてあって、何度も何度も繰り返し似たような、しかし微妙に違う出来事がループする。
それが必ずしも比較対応したりしているわけでなく、タイムマシンの造形そのままに構造がぐにゃぐにゃしている。

「去年マリエンバードで」がものすごく造形的な大理石製みたいな画面で組み立てられているのとは対照的というかまるで異質。
画面の肌触りに関してはアラン・レネは作品によってずいぶん多彩で硬軟いろいろ工夫している。





「ひき逃げ」

2025年03月10日 | 映画
1966年製作とあって、交通量も運転の乱暴さも今では考えられないくらい。横断歩道で旗を出しているのに自動車が止まりませんからね。

息子をひき逃げされた貧乏人の母親高峰秀子が、ひき逃げした金持ちの司葉子のところに家政婦の紹介所を介して勤務する(今だったらすぐ身元がバレるだろう)。
復讐を考えていたらしいのが途中から息子と年恰好が近い男の子に情が移ってしまうのが、意外と甘くなく描かれる。

松山善三のオリジナル脚本は太い幹から話を広げていくより「野獣狩り」ばりに人物それぞれに細かい展開を施していくといった趣。

成瀬巳喜男の演出はオーソドックスな画作りにときどきハイキーな明かりを当てたりカメラを斜めにしたりとケレンを入れてくるのが、意外な感じもする。

「天国と地獄」でも大会社の重役のしょぼくれた運転手をやっていた佐田豊が、ここでも尻拭いを押し付けられる運転手役。とことんついてない役回りです。




「ゆきてかへらぬ」

2025年03月09日 | 映画
中原中也と小林秀雄と長谷川泰子の三角関係を扱ったドラマ。といっても長谷川泰子という女優は寡聞にして知らなかったし、小林秀雄が登場するのはかなり遅いしで、いわゆる有名人の三角関係というわけでは必ずしもない。

男ふたりが女ひとりをはさむ関係というのは実際にはともかくフィクションだと「冒険者たち」「明日に向って撃て!」みたいに爽やか寄りになるが、これも二人の男は互いの文学的才能には敬意を表している。厳密にいうと詩人と評論家なのだからもっと対立してよさそうだけれど、そうはなっていない。

実名を使っているのは映画.comのインタビューで根岸吉太郎監督も語っているが、昭和初期(映画でいうとサイレント期)は半ば時代劇という認識かららしい。
最近でいうと「シンペイ~歌こそすべて~」みたいに楷書体の演出向きということになる。

脚本の田中陽造は「ツィゴイネルワイゼン」や「ヴィヨンの妻」で内田百閒や太宰治といった特定の作家のいくつかの作品を組み合わせていく作風が印象的だったけれど、日活の人脈からロマンポルノにつながりデビュー間もない根岸吉太郎監督とも「女教師 汚れた放課後」で組んでいる。

作中のサイレント映画の再現ぶりには不満が残る。感度の低い白黒フィルムの質感の再現自体が難しくなっている。





「シンパシー・フォー・ザ・デビル」

2025年03月08日 | 映画
登場人物はニコラス・ケイジとジョエル・キナマンのほとんどふたりだけで、
ケイジがキレ散らかしている芝居とキナマンの耐える芝居で通していて、プロットにも一応ひねりもあるのだけれど、一応もいいところでそれも割と簡単に見当がつく。

映像もサウンドトラックもかなりスタイリッシュなのはいい。
それにしてもケイジも借金は返したらしいけれど、仕事のペースは戻ったかと思うとまた変になったりで、他人事ながらはらはらする。





「セプテンバー5」

2025年03月07日 | 映画
描かれる範囲をスポーツ番組のクルーにかなり絞っていて、実在の政治家はSONYのテレビのブラウン管を通して描いている。テレビ中継という設定をうまく生かした。まだ国際的テレビ中継に良くも悪くも慣れていない時代色が出ていたと思う。
場面とキャラクターを絞っているだけに、直接警察が押しかけてくるくだりが短いが相当な圧迫感をもつことになった。

オリンピックとテロとのトラウマはミュンヘン以後定着して、最初の北京五輪からはテレビ中継にディレイ(遅延)技術を導入してテロがあっても時間差で切り替え、ごまかし通せるようになったという。
その切り替える技術の萌芽をここで見せている。

先日「あの歌を憶えている」で見たばかりのピーター・サースガードが実在の人物の再現という全然違う役作りのアプローチを見せていた。





「マミー」

2025年03月06日 | 映画
正直、オープニングのドローンショットとか、いくつかの点で技巧的な演出=作り物くささを入れたことでリアリティを損なうところがあったと思う。

林眞須美の冤罪を訴える内容なのかと先入観を持ってみたのも良くなかったかもしれないが、当然ながらそういう無実の立証がされたわけではなく、疑わしきは罰せずの原則に立って当然に無罪になるべきという、言うのは簡単だが世論も裁判の流れも流されてしまう怖さと無責任さに断固として踏みとどまる必要はある。ただしそれをシステムとして保障する歯止めは事実上存在していない。





「愛を耕すひと」

2025年03月05日 | 映画
エコ系かと思わせる邦題に比して相当に野蛮で残酷な描写がある。
マッツ・ミケルセンは「ハンニバル」もやっていたもので、暴力性を紳士的な裏で張り付かせていたのをさらに裏返して騎士としての顔を表に出す。

未開の原野を開拓していくのを映像化するのというのは、相当に手がかかったのではないか。

ミケルセンが疑似家族を作っていくまでのプロセスを簡単に済まさないで描き込んでいるのが見応えあり。






「あの歌を憶えている」

2025年03月04日 | 映画
ジェシカ・チャステインが自分にストーキングしてくる男ピータ・サースガードが表でぶっ倒れてびしょ濡れになっているのを何かそばにいても遠巻きにしているような微妙な距離感で表現していて、男がアルコール依存で断酒中というのを断酒が失敗したといったわかりやすい形でなくなんともいえない、実際にこういう表現が「正しい」のかわからない微妙な手つきで描いている。

チャスティンの部屋の扉の戸締りをいちいち丁寧に描いていたり女の修理人の頼んだのに男が来たのに不満を言うかと思ったら抑えたり、ディテールの齟齬感が細かい。

あたまからチャステインが反感や恐怖を表に出してもおかしくない





「ブルータリスト」

2025年03月03日 | 映画
オープニングのさかさまになった自由の女神像(このアイロニー!)から斜めに構えたエンドタイトルデザインに至るまでデザイン感覚で全編が貫徹している。

実在の人物の伝記かと思ったら、架空のキャラクターでしかも伝記的リアリズムというよりデザイン的センスで統一されている感がある。

フェリシティー・ジョーンズの妻の登場がかなり遅くてナラティブな構成だったらこうはしなかったろう。

大金持ち役がガイ・ピアースで最初に傲慢で嫌な感じで出てきたと思ったら案外寛容なのかなと思わせて、という展開が意外性狙いにとどまらない飛躍を見せる。







「どうすればよかったか」

2025年03月02日 | 映画
ほかにつけようもないタイトル、ということになる。

テレビの型はひとつの時代の変化の目安になると思うが(「寅さん」だと少し古い型のテレビを置いたという)、ここではかなり長いこと同じ型のテレビが置きっぱなしになっている。

二十年以上の歳月をなんなら空費したとも言えるかもしれないが、これを評しにくくしているのは作り手が患者(診断を受けたわけではないからそう言うのは本当は変だが)の肉親というところから来る倫理的問題、というよりデリケートの問題に触れたくない観客の側の警戒感に訴えたと思うのは考えすぎだろうか。

後記 精神科医の故・中井久夫氏の著者に「こんなとき私はどうしてきたか」というのがあるのを知り、中井氏が統合失調症にどう対するかについて医療者や看護師に実践的にレクチャーしたものだという。読んでみたい。





2025年2月に読んだ本

2025年03月01日 | 
読んだ本の数:19
読んだページ数:5146
ナイス数:0

読了日:02月28日 著者:村田 らむ


読了日:02月27日 著者:水谷 豊,松田 美智子


読了日:02月23日 著者:濱口竜介


読了日:02月22日 著者:沖田 ×華


読了日:02月22日 著者:沖田 ×華


読了日:02月22日 著者:沖田 ×華


読了日:02月20日 著者:織田忍


読了日:02月19日 著者:井上 荒野


読了日:02月15日 著者:竹中 労


読了日:02月14日 著者:福永 耕太郎


読了日:02月11日 著者:打越 正行


読了日:02月10日 著者:横田 増生


読了日:02月09日 著者:新庄 耕


読了日:02月08日 著者:萩尾 望都


「日本人とユダヤ人」の批判書。もともとイザヤ・ベンダサン著、山本七平訳という体裁で出版されたのがいつの間にか山本七平の著作になっている不透明さ含めて、内容の非論理性、事実関係の無視、はてはごく初歩的な語学力に至るまで徹底しているが、これだけ徹底した批判書が書かれながら再販され山本賞という評論賞に名を遺したりしているのだから、石が浮いて木が沈む世になったと思わざるを得ない。 著者の浅見氏は40年後の現在も存命中だが、今の世相を見てどう思うだろう。
読了日:02月07日 著者:浅見 定雄

読了日:02月07日 著者:秋本治


読了日:02月05日 著者:鈴木 宣弘,森永 卓郎

読了日:02月04日 著者:小林 信彦


読了日:02月02日 著者:秋本治