功成り名遂げたアメリカの実業家とその妻が第二の人生を楽しもうとヨーロッパに旅行するが、ずっと夫が忙しくしていた時には表に出なかったすれ違いや無理解が表面化してくるドラマ。1936年製作。
淀川長治・蓮實重彦・山田宏一の鼎談「映画千夜一夜」で淀川さんに他の二人に、え、見てないんですかといじられていたのだが、当時ビデオは出ていたから見られたと思うのだが。
一応VHSで見てはいたが、スクリーンで見たのはもちろん初めて。
公開当時淀川さんはユナイト映画の宣伝部員で芯から惚れ込んで宣伝したのだが、時代が時代(日中戦争になだれこんでいく時期だ)なのでまるで当たらず、文字通り悔し泣きに泣き崩れたと自伝に書いている。
歳の違いというのがかなり重要な要素になるのだが、夫役のウォルター・ヒューストン(ジョンの父親、鼻から口にかけて似ている)と妻役のフェイ・ベインダーはそれぞれ1883年と1893年生まれだから10歳違い、出演時の実年齢は53歳と43歳になる。
特にフェイの方はかなり若く見えるのだが、にもかかわらず軽薄にも再婚を望む没落貴族の末裔男の母親に厳しくあなたは貴族に必要な跡継ぎを産める歳かととがめられる。
ワンシーンしか出ないが、母親役のマリア・オースペンスカヤがすごい貫禄。
グレゴリー・ペック他がリメイクを希望していたが、それもわかるところがあって、あちこち今のジェンダー感覚からするとひっかかるところはある。
全編セット撮影と思しく(アカデミー美術賞 リチャード・デイ )、ヨーロッパの外景も第二班が撮ってきたっぽい。このあたりもリメイク欲をそそるか。
妻が家で奥さま連中と退屈な時間を過ごすしかなかったという設定は、女は経済力のある男と結婚するのが幸せという当時の価値観の上に成り立ったもので、だから昔のハリウッド映画はカップルの歳が親子ほど違うのが珍しくない。いまでも洋の東西を問わずそういう傾向はある。
元はシンクレア・ルイスの原作小説をシドニー・ハワードが脚色した舞台劇をさらにハワードが映画用に脚色した。
当時35歳(げっ)のウィリアム・ワイラーとしては得意の舞台的に集中したドラマで、画面の奥行を強調するいわゆる縦の構図はグレッグ・トーランドと組んだ時ほどあからさまではないがクライマックスの電話に出るか出ないかの電話を手前に置いた構図など効果的。
オープニング・タイトルで(昔の映画だからTHE ENDと出たらローリング・タイトルなしでさっと幕、気持ちいい)ワイラーの名前は最初の方で、トメに出るのはプロデューサーのサミュエル・ゴールドウィンの名前。
定年後のドラマを日本でやったら、夫はまず確実にこの映画のウォルターみたいにある程度泰然自若とはいかず、どうしていいのか持て余される話になってしまうだろう。
サム・ダズワース氏がそれだけの人物ということなのか、当時の男女感の反映なのか俄かには判定がつかない。