ガレージに入れたまま動かさない車にかけた保険金を横領した保険会社員が、その車が盗まれて事故を起こしたので着服した分を補填するために、遺産が入ったジョン・レノンとジャニス・ジョプリン狂の親類から、二人が甦ったとそっくりさんをでっちあげて遺産を巻き上げようとする、というプロット。
アメリカ映画だったら、二人の扮装や歌をどれだけもっともらしく作るかとか(レノン?役をやる雇われ役者がデ・ニーロ命という設定)、狂いっぷりを強調して喜劇味を出すとか、金を巻き上げるあの手この手に工夫を凝らすだろうが、これはフランス映画なので、いささか勝手が違う。正直、終盤近くまでは、あまりのウス味ぶりにいらいらしていたが、終盤のツイストで、遅ればせながらやっと作品の性格がわかる。遡って考えてみると、そっくりさんといってもフランス語を話しているのだ。
大詰めの歌はジョプリンのそっくりショーとは違う主人公二人自身の自己解放の表現(そこにレノンとジョプリンという選択の意味がある)であり、同じことが車の持ち主にもいえる。ガレージに入れっぱなしの車という寓意。
あまりに老けていたので、車の持ち主がジャン=ルイ・トランティニャンだとは、しばらく気付かなかった。娘のマリーが主人公夫婦の妻をやっている。親類役のクリストファー・ランバートは、別れた元妻のダイアン・レインとは対照的にずいぶん脂が抜けた感じ。
アメリカ映画だったら、二人の扮装や歌をどれだけもっともらしく作るかとか(レノン?役をやる雇われ役者がデ・ニーロ命という設定)、狂いっぷりを強調して喜劇味を出すとか、金を巻き上げるあの手この手に工夫を凝らすだろうが、これはフランス映画なので、いささか勝手が違う。正直、終盤近くまでは、あまりのウス味ぶりにいらいらしていたが、終盤のツイストで、遅ればせながらやっと作品の性格がわかる。遡って考えてみると、そっくりさんといってもフランス語を話しているのだ。
大詰めの歌はジョプリンのそっくりショーとは違う主人公二人自身の自己解放の表現(そこにレノンとジョプリンという選択の意味がある)であり、同じことが車の持ち主にもいえる。ガレージに入れっぱなしの車という寓意。
あまりに老けていたので、車の持ち主がジャン=ルイ・トランティニャンだとは、しばらく気付かなかった。娘のマリーが主人公夫婦の妻をやっている。親類役のクリストファー・ランバートは、別れた元妻のダイアン・レインとは対照的にずいぶん脂が抜けた感じ。