prisoner's BLOG

私、小暮宏が見た映画のノートが主です。
時折、創作も載ります。

「ぬいぐるみとしゃべる人はやさしい」

2024年02月29日 | 映画
ぬいぐるみサークル(略してぬいサーというのが今っぽい)の部室というのが狭くて薄暗くて、あまりぬいぐるみという可愛くてふわふわしたイメージとはそぐわない。実際内容もそうで自閉的で内向き、葛藤を避けると言うのは簡単だが、ぬいサーに紛れ込んだみたいな男子の反応見てると他のマチョであることを疑わない男子たちの中で居心地悪くしている。

こういう人とこういう人の組み合わせなら恋人とか友だちとか仲間というレッテル貼りを外して人間関係を描いている。
ただやや自分で少し後ろめたく感じすぎではないかとは思う。そんな必要あるかと開き直るのも必要ではないか。





「夜明けまでバス停で」

2024年02月28日 | 映画
エンドタイトルで一瞬、国会議事堂が爆破されるイメージカットがはさまる。
実際、今の政府与党の人を舐め切った態度を見ていると爆発しない方が不思議なのだが、そうならないくらい相互自粛が浸透している。

「滑り台社会」という言葉が登場したのはいつ頃だったか調べてみたら、2008年にはもう「滑り台社会からの脱出」という湯浅誠の著書が出ている。
著書より先に概念があっただろうから、もう20年近い。失われた30年を考えてみると不思議はない。

滑り台を滑り落ちるように滑り止めになるセーフティーネットがない状態を形容した言葉だが、いっそう加速度がついた感がある。
コロナが「終わった」今でも事態はいっこうに良くならない。藁をつかみたい気分だが、つかんだら本当に藁だった繰り返し。

高橋伴明は以前連合赤軍を撮影中の映画としてカッコに入れた形で描いた「光の雨」を撮っていたが、今回はどストレートに現在進行形。

「ソウルメイト」

2024年02月27日 | 映画
中国映画の「ソウルメイト 七月(チーユエ)と安生(アンシェン)」のリメイクだそうだが、そちらは未見。リメイクだということも知らなかった。

初めのうちと自由人タイプのミソと堅実タイプのハウンの二人の仲良しの女の子がじっくり描かれる。じっくりしすぎてお話がなかなか動かずどう動かすつもりだろうと首を傾げかけたらかなり斜め上に動きだした。

男がひとり登場して三角関係になるのかと予想したら、女二人の関係には影響しない、というか途中から性格付けがそっくり逆転してしまう。あくまで磁石がくっつきあうように引き合うソウルメイト=魂の友だちであって、想像しがちな同性愛への接近も避けている。

突飛なようだが、ジェーン・フォンダとバネッサ・レッドグレーブ主演の「ジュリア」を思い出したくらい。女同士の友情を自然に描いていることばかりでなく、男ぬきではできないことをしているところとか。

惜しいのは終盤の時間経過が混乱気味なことと、男の出番の収まりがどうも良くないこと。





「オルメイヤーの阿房宮」

2024年02月26日 | 映画
ジョセフ・コンラッド原作というだけあって、「闇の奥」(「地獄の黙示録」の原作)同様、川とジャングルに囲まれている。

「地獄の黙示録」の「ワルキューレの騎行」の向こうを張ってか?ワーグナーの「トリスタンとイゾルデ」より「愛の死」が流れる。

おしまい近くになると、わざとのようにというか、わざとに決まっているのだが、ワンカットの中の時間が果てしなく引き延ばされるようになる。
スローテンポというのとまた違う時間感覚。ソクーロフに近いか。あるいはプルースト「逃げ去る女」。





「ボーはおそれている」

2024年02月25日 | 映画
前半にボーは掌と脇腹に傷を負うのだが、キリストが掌に釘で打ちつけられたのと、脇腹を槍で刺されたのと、位置が一致している

母親のもとに帰ろう帰ろうとし続けて先に進みかけたと思うとリセットされたように振り出しに戻る感覚は悪夢そのもの。
母親の存在が出ていない時でも絶大な割に父親はいるのかいないのかわからない。

アリ・アスターはここでの主人公と母親との関係はユダヤ人的なものだとインタビューで言っていたが、もともとユダヤ教徒かどうか判断するのに母親がユダヤ教徒かどうかを基準にするとか、父親の存在が薄いのは殺されたりどこかに連れていかれるので基準にならないからだとか聞きかじったことはある。
キリストに対する父ヨセフのようでもある。

キリストはユダヤ人(にして元ユダヤ教徒)ですからね。なんでキリスト教徒がキリストはユダヤ人が殺したと言って差別するんだか。

理不尽といえば、この映画全体の構造がそうで、ボーはキリスト以前に理不尽な目にあい続けるという点でヨブのようでもある(カーク・ダグラス=ユダヤ人は自伝でヨブ記を読んでなんでヨブはこんな酷い理不尽な目に合わなくてはいけないのかと怖くてたまらなくなったと書いている)。

ユングは「ヨブへの答え」で分析したが、ヨブは神の暗黒面を表出させたきっかけであり、キリストの登場は神の人間化なのだという。

ホアキン・フェニックスはあちこちでフルチンになるのだが、初めのうちよく見えないなりに修正は入ってないのが、終盤ぶわっとボカシがかかる。
なんですか、これ。どういう判断で修正したりしなかったりしたのか。
判断基準がいっぺんに逆コースに乗ったみたい。





「ポワロと私 デビッド・スーシェ自伝」

2024年02月24日 | 
スーシェのポワロは初めからポワロものを全部コンプリートするつもりだったのかとなんとなく思っていたのだが、考えてみるとそんなわけはなく、一シーズンごとに人気を見て決めていたのがわかる。

なんでそう思っていたかというと、本書のP232で書かれているようにポワロものは全作コンプリートするつもりだと2000年に初めてスーシェがはっきり発言したのが日本だったかららしい。 
先だって製作されたジェレミー・ブレットのホームズがコンプリートを目指して果たせなかったというのも頭にあったと思う。

継続が決定するまで気をもみながら他の仕事を、時に経済的事情から時に役そのものに惹かれて引き受けるわけだが、映画はともかく舞台は見ることがかなわないのは仕方ないが残念。
「アマデウス」のサリエリや「オレアナ」のジョンなど、見てみたかった。

同じ英語圏でもイギリスのテレビとハリウッド映画は全然勝手が違っていて「エグゼクデッブ・デシジョン」を見たというハリウッドのプロデューサーがあなたのアラビア語は見事だったと称えられて、きょとんとしてしまう(プロデューサーのくせに吹替という技術を知らんのか)などホントかよと思うようなエピソードもある。

ポワロを演じるにあたって、まずそのさまざまなクセや習慣を97項目にわたって書き出し、さらにそこから外堀を埋め内堀を埋めるようにポワロの人間性そのものに迫っていく。ポワロだったらこんなことはしないとわかるようになる。
つまるところ、スーシェ=ポワロの人間性そのものの豊かさが魅力の核心ということになる。

スーシェは繰り返し、自分は性格俳優であってスターでもセレブでもないと書く。ただし自分のポワロとしての人気が大勢の客を主に舞台に呼ぶのに役立つことには意識的でもある。それだけポワロ以外の顔を見せられる自信も実力もあるということだろう。



「一月の声に歓びを刻め」

2024年02月23日 | 映画
なんでしょうね、舞台もモチーフもバラバラの三話プラス最終話という構成で、オムニバスとしてもまとまりがなさ過ぎるし、短編集というには話が変わっても気分が変わらない。

前田敦子が主演で哀川翔とカルーセル麻紀が助演なのかと思ってたら全員主演で、ただし全員共演するところがない。
どうにも挨拶に困った。





「カラーパープル」

2024年02月22日 | 映画
市長夫人(もちろん白人)が傲慢な態度をとるのに反発した黒人女ソフィアが怒りの言葉を投げつけると代わりにしゃしゃり出てきた(レディファーストのつもりか)市長に殴られたので殴り返す。その市長が殴られる瞬間をスピルバーグ監督版だと前をトラックが横切って瞬間自体は見せない。

スピルバーグ版が公開された当時、「シネマレストラン」で荻昌弘は
「このトラックはナカナカ南ア的に老獪であります。私はアメリカ映画の革命とは、白人を殴る黒人女が現れるより、こういったハリウッド類型トラックがなくなることを、呼びたい」
と言っていたが、今度のミュージカル映画化は堂々とぶん殴られる瞬間を写している。
なんでもないようだけれど、「黒人女」が「白人男」を殴るというのはタブーだったのがまがりなりにもそれが撤去されたのは「進歩」なのだろう。
スピルバーグ版で助演していたオプラ・ウィンフリーがここでは製作総指揮にあたっているのも、それだけの月日をかけて発言力を得たからには違いない。

スピルバーグのシリアス作品というのは今やコメディでないウディ・アレン作品同様そっちの方が普通になっているのだが、この「カラーパープル」の時は柄でもないことをして、という受け取られ方だった。

黒人が住んで働く場所を前作では主に綿畑にしたが、今回は川辺あるいは沼地に作られた酒場にデザインされた。
それからいかにもアメリカ南部という風情の、根をはり、枝を広げ、蔦が垂れ下がった大木。

ルイス・ゴセットJrがエンドタイトルにミスターの父親(O’Mister)クレジットされる。「愛と青春の旅立ち」でアカデミー助演男優賞を受賞して、私見だけれどその後鬼軍曹役ばかりが続いて役柄が固定されていた印象だったが調べてみたら出演作はテレビが多くてそうでもなさそう。





「風よ あらしよ 劇場版」

2024年02月21日 | 映画
伊藤野枝に大杉栄といった大正時代のアナキストについては、先日「福田村事件」で関東大震災のどさくさに紛れて自警団が朝鮮人を虐殺したのを描いていた(ただし福田村で殺されたのは日本人)が、こちらは憲兵の甘粕正彦が大杉と野枝を虐殺するのが山場になっている。

甘粕正彦が野枝(吉高由里子)と大杉(永山瑛太)を連行する時に大杉の甥(橘宗一 6歳)も連行するのだが、こちらがどうなったのか描き方が曖昧。
子供を殺すところはテレビでは描けないということか?
実際当時でもすでに子供を殺すなんてと非難轟々で、憲兵という地位にいた甘粕に対してもさすがに当局は逮捕して裁判にかけることになった(ただし7年あまりに減刑されてフランスに渡ったのち満州で満映理事長に就任したのは有名)。
NHKのドラマ版は見てないのでどの程度異動があるのかはわからない。

野枝の中学の教師だった辻潤(稲垣吾郎)が初め野枝に対するメンター的な役割だったのが大杉にその座を奪われる格好で曖昧に姿を消す。
野枝もいつまでも導かれる側ではないのだが、はっきり自立独立する前に殺されたみたい。

吉田喜重監督、山田正弘脚本のATG映画「エロス+虐殺」(1970年)では大杉、野枝に加えて「青鞜」編集の神近市子が三角関係になり、クライマックスの日蔭茶屋事件では事実通り神近が大杉を刺すのと、野枝が刺すのとふたり一緒に刺すのと仮定の想像を二通り足して膨らませ、フリーラブという建前と嫉妬という真情の葛藤と、さらにそれに70年当時の若い学生たちのアナキストとは対照的に倦怠感にまみれて緊張感を欠いたフリーセックスを重ねるというおそろしく手のこんだ作劇をしているのだが、ここでは刺されたという結果だけ投げ出している。誰が刺したかもはっきりしない。
彼らが求めた「自由」とは何かという基本的にして抽象的な問題はややこしくなるので、官憲による虐殺という敵役を設定して単純化した感。

なお佐野眞一「甘粕正彦 乱心の曠野」によると、割と最近大杉の検死報告が見つかって、それによると大杉の肋骨はほとんど粉々になっていたという。明らかに複数人の激しい暴行によるもので、甘粕一人で出来たことではないと推測される。





「瞳をとじて」

2024年02月20日 | 映画
冒頭の室内シーンは製作途中で中断した映画のワンシーンのはずなのだが、冒頭に置かれているのでそれ自体映画中映画という文脈からは微妙に外れている。

登場人物の年齢が上がったのはエリセ自身が歳をとったということだろう。探し求められる少女の若さ美しさがそれに対置されるわけだが、作り手のスタンスは「ミツバチのささやき」からは遠く離れているのがアナ・トレントの出演によってより明確になっている。
ミゲルが持っている携帯がスマートフォンではなくガラケーなのがふさわしい。

監督と主演男優の二人が元水兵で、おそらく若い時世界を共にまわってきたであろう時間が、二人が離れていた時間と重ねられる。

映写技師が扱う手と映写機の間でフィルムのモノとしての存在感を改めて教える。

「ミツバチのささやき」を品田雄吉は「これは詩的な映画なのでなく、純粋な詩そのものなのだ」と評したが、ここで主に映画関連のさまざまな引用が散りばめられているのは詩に対する注釈のようなものだろう。
長い時間をかけて降り積もってきた感情の現れとも言える。

ラストでまた映画中映画が枠を飛び越えて「ミツバチのささやき」の「フランケンシュタイン」のように直接見る者=映画中映画を見る観客だけでなく、それを見る我々の感情をわしづかみにしてくる。





「梟 フクロウ」

2024年02月19日 | 映画
17世紀、中国が明から清に代わった頃、日本では徳川時代の初め頃の朝鮮半島の話。
目が不自由で明るい場所ではモノが見えず、暗い、それも真っ暗な場所だと見えるという(だからフクロウになぞらえられる)鍼医が主人公。
朝鮮王朝時代の記録物「仁祖実録」に記された“怪奇の死”にまつわる謎をモチーフにしているから実録ものにして伝奇ものといったところ。

隣の大国の王朝が代わったあおりをもろに受けた激動の中、朝鮮宮廷ではあらゆる疑心暗鬼と陰謀が跋扈する。
その中で「見て見ぬふり」をしないと生き延びられないという苦しい立場を維持し続けるというのは、一種象徴的な表現ということになる。

画面はほぼ全編ロー・キーで通していて、暗いなりに鮮明に写っている。
ロウソクの炎を吹き消して真っ暗になり、他の者が見えなくなると見えるようになるというのもアイロニカル。

人間性を失った宮廷の人間模様には、ちょっと息をひそませるものがある。





「ヴィーガンズ・ハム」

2024年02月18日 | 映画
肉屋が過激なヴィーガンに引きずられる格好でヴィーガンのふりをして肉屋を襲撃するところから始まり、ヴィーガンを殺して肉にしてしまうブラックな展開を見せる。

相当にヴィーガンに対する悪意が丸出しで(原題はBarbaque)、逆に言うとそれだけ肉食が身近な文化圏の話で、そこまで日本ではなじみがないせいか見ていてブラックさにひきつるようなところがある。

ちょっと捕鯨禁止になって失業した漁師が観光客を殺しまくる「レイキャヴィク・ホエール・ウォッチング・マサカ―」みたい。
生活がかかっているわけでもない人間が何だ偉そうに、という感情ね。




「ファイブ・ナイツ・アット・フレディーズ」

2024年02月17日 | 映画
なんか思っていたのと違う。
予告編だと大型のぬいぐるみみたいなのが「プー あくまのくまさん」みたいに襲ってくるルーティンなホラーな印象だったけれど、そちらはかなり脇に下がって、主人公のうだつが上がらない青年が年が離れた妹(娘かと思った)と一緒に住んでいるのだが、その誘拐されたまま行方不明の弟とその仲間みたいなのが幻想的に出没する。

いやに芸術的な表現で、弟とその仲間がイメージシーンから抜け出てきて主人公に危害を加えたりする。
弟の話の方は先延ばしにして続編がありそうな締めくくりになるのはなんだかまわりくどくてちぐはぐ。

メアリー・スチュアート・マスターソン(「恋しくて」のショートカット姿には惚れましたね)が実年齢通りのおばさん役で出てくる。





「Firebird ファイアバード」

2024年02月16日 | 映画
エストニアが舞台なのだがセリフは英語。
エストニア・イギリス合作。実話に基づく。

スタッフ・キャストの経歴を見ると監督ペーテル・レバネ はエストニア出身で交換留学生としてイギリスのオックスフォード大学に留学し、それからアメリカのハーバード大学と南カリフォルニア大学で学んだとある。

原作者でもある主人公セルゲイ・フェティソフを演じるはイギリスの王立演劇学校出身のトム・プライアー 。脚本にも参加している。
セルゲイは2017年というからかなり最近まで生きていたとエンドタイトルで知らされる。

相手役のロマン役のオレグ・ザゴロドニーはウクライナ出身。
三角関係(といっても男をはさんで男女が関係する)の一角をなすルイーザ役はロシア人のダイアナ・ポザルスカヤ。
他エストニア他旧ソ連各国とイギリス俳優の混成ということになる。

男同士で愛し合う話で、日本では18禁だがそれほど扇情的な描写は出てこない。
軍隊では同性愛は五年の刑で、何が目的なのか上層部にチクる謎の密告者もいる。

その密告者の素性を忘れかけた頃明かすところや、至るところでフィルムで撮影される写真(時代は大体においてソ連のアフガニスタン侵攻前)を小道具として使うところなど、脚本構成は緻密なもの。

エストニアは旧ソ連の民族共和国で、今では行政のデジタル化が世界最先端というのでも知られる。
こう言うと何だが、エストニアみたいな小国が最先端と言われると違和感を感じるが、実は小国「だから」デジタル化が進んだとも言えるわけで、ソ連あるいはロシアみたいにバカでかい国がそばにあったらいつ呑み込まれるかという不安は常にあるだろうし、現に最近まで呑み込まれていたわけで、そのために行政上のデータをデジタル化して独立させ大国でも手がつけにくいようにしている、利便性だけではなく、独立を担保する手段になっているというらしい。

そういう独立志向は、同性愛というモチーフを旧ソ連圏であるにも関わらず堂々と押し出している今回の映画の実現にも資しているのではないか。

エンドタイトルの最後にロシアでは同性愛が非合法に「なった」と出るので、昔は非合法だったが今は合法になったのかと勘違いしかけた。

除隊したセルゲイはモスクワの演劇学校で学び、「ハムレット」の上演風景も出てくる。舞台装置に盛り上げた砂を使うなどなかなか面白い。

タイトルのファイアバードとはもろにストラヴィンスキーの「火の鳥」のことで、作品中主人公二人が見に行くのとラストのコンサートの演目でもあるし、大尉が戦闘機乗りというのにもかけているのだろう。戦闘機が事故を起こしかける描写もある。





「夜明けのすべて」

2024年02月15日 | 映画
PMS(月経前症候群)とかパニック障害といったあまりなじみのない症状を一応モチーフにしているのだけれど、それらについて啓蒙しようとか理解を求めるといった作りにはあまりなっていない。

上白石萌音がかなり大きな会社に勤めていたのがPMSが原因で辞めざるを得なくなり、いくつかの臨時雇いを転々としてからミニチュアのようなプラネタリウムを作っている会社に再就職し、そこでパニック障害を抱えた青年松村北斗 と出会う。

その出会うところからストーリーが動き出すわけではなく、青年が障害を抱えているのを観客に伏せて何だか態度の悪い男という具合に提示しておいて、男が服用している薬の種類をヒロインが見て心当たりがあったので困っている男に届けるというなんでもないような親切というより当然に思える反応から入っていく。そのなんでもないようなことが、両方ともハードルになっているのだろう。

アメリカ映画の作劇だったら「ストーリーエンジンがついてない」と言われるだろうなと思った。つまり主役の男女が出会うところからストーリーが動き出すわけではなく、というより動かそうとあまりしていない。

精神科医がやたらとたくさんの本を背景に入れている。わかりきったようなことしか言わない先生だなはじめは思うのだが、そのうちわかりきったことを繰り返すのも患者を安定させる手かなと思えてくる。

プラネタリウムというのがだんだん重要なモチーフであることがわかってくる。プラネタリウムそのものがミニチュアというのが、星空のミニチュアを映写する機能とだぶる。
星座を考えた人たちにとってはあまりに茫漠とした星空から星座という関連づけを考えたのだろうが、それ以前のカオスから聖書の光あれではないが夜明けが来るというより根本的な発想がある。