prisoner's BLOG

私、小暮宏が見た映画のノートが主です。
時折、創作も載ります。

「見えない目撃者」

2019年09月30日 | 映画
韓国映画のリメークだそうだが、作りは「らせん階段」「見えない恐怖」「暗くなるまで待って」といった昔からある盲人が狙われる古典的スリラーの系譜上の作品といった趣がある。

伏線の張り方と丹念な回収、ヒロインが肉体的ハンデと共に精神的なトラウマの克服というドラマをきっちり組み立てているのも最近珍しいウェルメイドな作り。

主演の吉岡里帆が眼が見えない人を演じるのに目をつぶったり視線を固定したりいった具合にことさら記号的に強調せず、まったく見えないわけではなく物の輪郭くらいはわかる設定もあって、それほど見えている人と違わない演じ方をしていて、それだけ感情表現も枠がはめられないでいる。

それが犯人に追われるところで階段を駆け下りるのに足元を見ないのに感心した。何でもないようにやっているけれど、相当に危険だし難しいだろう。
ここぞもいうところで目が見えない設定を生かすメリハリがついた。

犯人が正体がバレる前から堂々と画面に映っているだろうに観客の目にはとまらないようにして、バレてから急に浮き立って見えてくるあたりもうまくできている。

盲導犬が実におとなしくいるのかいないのかわからないくらいで、エンドタイトルに「実際の盲導犬はしないこともしています」云々と出ているが、本当だと吠えもしないということか。

犯人に追われるところでスマートフォンを使って遠くにいる通話中の健常者に周囲の様子を見せながら逃げ道を教えてもらうというのは今風のガジェットを生かすいい工夫。これまたエンドタイトルで「列車の中でスマートフォンを持って歩くのは禁止されています」云々の字幕がご丁寧にも出るのに苦笑する。

ロケ地が先日同じ東映系で見た「影に抱かれて眠れ」と一部かぶっていた。



「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ザ・ウェスト」

2019年09月29日 | 映画
果てしなく時間が引き伸ばされるような感覚。おおげさに言うと、プルーストが記憶の中の愛着のある部分をえんえんと言葉の限りを尽くして描写しついには前後関係も曖昧になって浮遊しているような時間感覚と通じるようなものを感じる。
愛着の対象は実際に体験したものではなく映画や想像から生まれた夢の中のアメリカ西部であり、それを定着するために映画にした観もある。

今までテレビでは出だしとラストの決闘くらいしか集中して見ていなかったのだが、ウッディ・ストロードがspecial guest starとタイトルで冠されているのにちょっとびっくり。オープニングだけしか出ていないのだが。

三人の男たちの要にクラウディア・カルディナーレがいるわけだが、男たちが通り過ぎていったという感じではなく、それぞれ違う車線を平行に走りながら交錯していって、最後に残ったにブロンソンとカルディナーレがおそらく過去と未来に別々の道を走っていく、といった構造。

オープニングに出てくる駅舎のオープンセットの床が枕木を敷き詰めて造られているらしいのに、開拓にあたって鉄道建設するのに使う枕木の一時的な置き場所を兼ねているのだろうかと思った。

長い長い待ちの時間はモリコーネの音楽が鳴りわたるまでのタメの時間でもあって、風車の軋みや足音など効果音の付け方の緻密さがおそらく修復でよくわかるのがありがたい。
ブロンソンの持っているハーモニカの使い方といい、先に音楽を作って撮影現場で流しながら撮るという(という話が、上映後の宇田川幸洋×江戸木純の対談で出る)以前にシナリオ段階でモリコーネの音楽を想定しているのだろう。「心中天網島」の武満徹のようにシナリオ段階で事実上参加していたのかもしれない。

ヘンリー・フォンダの悪役というのが異色なのだが、シルエットに見せる脚の長さや「荒野の決闘」で見せた花道を歩くような歩き方などの恰好の良さをちゃんと生かしている。

西部劇の聖地といえるグランド・キャニオンが映る。ユタ州とアリゾナ州でロケしたとエンドタイトルに出るが、スタジオはチネチッタで、マカロニでよく使ったスペインでもロケしているらしい。

工場みたいな所で東洋人おそらく中国人たちが働いているのがちょっと見える。西部開拓鉄道建設に中国人労働者が使われたのは有名だが、そちらのシーンでは東洋人っぽい姿はわからなかった。








9月28日のつぶやき

2019年09月29日 | Weblog

「ノーマ・レイ」

2019年09月28日 | 映画

もろにブルーカラーそのものの工場労働者の女性がよそからやってきたオルグの男の影響を受け労働組合の結成を呼びかけるに至る話なのだが、イデオロギー色は薄く、働いているのだから生活を支えられるまともな報酬を支払えという呼びかけとそのためには団結が必要だという明快で説得的な線でまとめている。

アメリカの映画やドラマを見ていて感心するのはそのリアリズム演技の見事さで、出てくる労働者役の役者がみんなブルーカラーになりきっている。若い時からのキャリアとバート・レイノルズとのカップルで可愛い子ちゃん的なイメージだったサリー・フィールドがいきなり演技派に転身して熱演というのではなく、へちゃむくれで幼な顔が残ったままで傍から見た時の自分とその周囲のおかしさに気づくあまりアカデミー賞的でない演技でアカデミー賞主演男優賞。
服装の汚れ具合も工場の映像も一瞬も説得力を失わず、しかも美的でもある。この生活感があってそれを支えるのに必要ななものもわかる。

監督が赤狩りにひっかかったことがあり赤狩りにひっかけたウディ・アレン主演(で珍しく監督していない)コメディ「ザ・フロント」のマーティン・リットということもあってか、労働者仲間の離反や村八分的な態度の描写も入ってくるが、最終的には「UNION」と書かれたボードをヒロインが掲げるところでぱっとまとまる。組合という意味以上に団結という第一義が

オルグの男(ユダヤ人)とノーマが恋愛関係にならなくても信頼を築けるのも不自然でなく描けている




9月27日のつぶやき

2019年09月28日 | Weblog

「アナベル 死霊博物館」

2019年09月27日 | 映画
ガラスケースの中に封印されていた呪いの人形が外に出されて祟ってまわるというおなじみといえばおなじみの話だが、これまでのシリーズに出てきたらしい設定や人物やアイテムがどんなものだったか思い出せずかといってビデオではないから止めて確かめるわけにもいかず困った。
シリーズが進んでユニバース化すると一回しか見ていないとどんな世界観だったのか忘れてしまうことが多いので、隔靴掻痒という気分になる。

見せ場はいろいろ工夫しているのだけれど、全体のストーリーを貫く芯がばられ気味で、いじめっ子が出てきたので何かストーリーに絡むのかと思うとなんでもなかったりする。

日本の鎧兜がおどろおどろしい雰囲気を出していて、アップになった時に何か日本語のささやきが聞こえた気がした。多分入れているのだろう。






「アド・アストラ」

2019年09月26日 | 映画
ぼそぼそとした調子の内省的なナレーションの多用といい、父と息子の関係と宇宙とを直接結びつけた構造といい、同じブラッド・ピット主演の「ツリー・オブ・ライフ」の姉妹編かと思うような作り。

オープニングの事故と宇宙エレベーターの描写はスリリングなのだが、脈拍がどんな時も80以上に上がらないという主人公そのままに以後危機に見まわれることは多いのにそれをおよそセンセーショナルに盛り上げようとしたりしない。
だから映像的に壮大だったり深みがあったりしても、正直、相当に眠い。

クライマックスの再会も何かモヤがかかったようで、父親と息子の関係というのは、そこまで直接的に描きにくいものかなあとも思った。人によってはそうなのかもしれないが(特に両方が同じ仕事をしていて、父親が大物だったりすると)、いくらなんでもまわりくどすぎはしないか。





9月25日のつぶやき

2019年09月26日 | Weblog

「殺人の告白」

2019年09月25日 | Weblog

日本映画「22年目の告白 -私が殺人犯です-」のオリジナルの韓国映画。何気に互いにリメイクしあっているのだね。

リメイクに比べアクションシーンが多い、というかはっきりアクション映画で日本映画ではなかなか真似できないところでもあるし(だからメディアの問題などテーマをずらした)、さらに連続殺人犯の被害者家族が執拗にチームを組んでアグレッシブに復讐を試みるのも日本では再現しにくい。というか、リメイクが独創性を発揮していたのが逆にわかる。

毒蛇の使い方などおどろおどろしいのか笑わせようとしているのかわからないくらい。



9月24日のつぶやき

2019年09月25日 | Weblog

「ガーンジー島の読書会の秘密」

2019年09月24日 | 映画
最近珍しいくらい主演女優のリリー・ジェームズを、特にアップを丁寧に撮っている。下ぶくれで必ずしも造形的に完成した美人というわけではないのだが、肌のきれいなところとか表情などを丹念に捉えているのは最近ちょっと珍しい。

「ダウントン・アビー」の従妹のローズ役で有名になった人だけれど、他に三女シビル役のジェシカ・ブラウン・フィンドレイやクローリー夫人役のペネローペ・ウィルトン、ヘンリー・タルボット役のマシュー・グードとダウントン組が三人も出ている。
読書会の長老がトム・コートネイなのに驚く。

エンドタイトルを見ていてあれと思ったのは、assistant to Miss Jamesとかdriver to Miss Jamesという表記が出てきたこと。最近は既婚未婚を問わない男でのMr.にあたるMs.を使うことが多いので、なぜ今どきとも思った。

離れ島で戦争中に催された読書会に若い女性作家が招かれて、そこで過去に起きた出来事を知っていき、それがヒロインの人生観にも影響を与えていくというまわりくどいといえばまわりくどい語りだが、自他をはっきり分けながらそれでも伝わるものはあるし伝えなくてはならないことがあると思わせる。
両者をつなぐのがチャールズ・ラムの詩集(シェイクスピア物語が出てくるだろうなと思ったら果たせるかな出てくる)で、手紙や分厚い原稿の束などと共に紙に書かれた言葉、あるいは読み上げられた言葉は画になる。

原題はThe Guernsey Literary and Potato Peel Pie Society 。このポテトピールパイが不味いとわざわざいうのがいかにもイギリス的な可笑しさ。



「海底47m」

2019年09月23日 | 映画
タイトル通り47mというかなりの深さにサメよけの檻ごと降下してしまった姉妹がサメと空気不足と負傷と窒素酔いに打ち勝って海上まで行きつけるかというサスペンス。

前半はどうでもいいような尺の水増し的な場面が続くが、いったん事故が起きるとまったく途切れずにあの手この手の危機が続く。ただワン・シチュエーション・サスペンスになりそうでかなり色々詰め込むことで飽きずには見られるがサメも彩りのひとつに見えるようにポイントがぼけて全体とすると印象はやや弱い。
水中場面を手抜きなく撮っているのは見ている以上に手間と危険が伴っただろう。

マスクをしっぱなしで顔が見えにくくいのは苦しいところ。あと水中だというのに日本語吹き替えのせいか悲鳴が元気良すぎ。





9月22日のつぶやき

2019年09月23日 | Weblog