1885年に設立された、有志共立病院看護婦教育所(現:慈恵看護専門学校)が日本初の看護学校だそうです。
歴史秘話ヒストリアというNHKの歴史番組で紹介されていました。
設立したのは有志共立東京病院(現:東京慈恵会医科大学附属病院)長の高木兼寛ですが、資金を調達したのは大山捨松(旧姓:山川)という会津出身の女性でした。
捨松は幕末の会津戦争の時城に籠もって、新島八重(戦争当時は川崎八重)らと共に新政府軍と戦ったそうですが、当時彼女は10歳くらい。けが人の手当などに従事していたようです。
八重は当時最新式のスペンサー銃で応戦し、後に幕末のジャンヌ・ダルクと称されました。
その後明治になり捨松はアメリカに10年間の官費留学をしますが、一緒に行ったなかに女性では津田塾大学創設者の津田梅子らがいました。
ちなみに捨松の兄、健次郎も同時に留学しています(後の初代東大総長)。
10年の留学を終え帰国命令が出ますが、捨松は留学をさらに1年延長し、看護学校に通い看護婦の資格を取りました。
22歳で帰国した捨松はしかし、なかなか活躍の場を見いだせずにいました。そうしたところ、会津戦争の時の新政府側の砲兵隊長で、その後伯爵になっていた大山巌から結婚(大山は再婚)を申し込まれますが、父親代わりの長兄大蔵(あるいは改名して山川浩)は断固拒否しました。しかし大山も諦めず何度も手紙を送り、やがて根負けした兄は捨松に話を持ちかけました。西郷隆盛の弟(従道)が間を取り持ったらしい・・・・
兄から話を聞いた捨松は、会ってみないことには返事できない・・・・会うこととなりました。
こんな経緯でデートが実現しましたが、当時は極めて珍しいことだったと思われます。
さて、2人は会ったものの会津弁と鹿児島弁では全く通じない。さて、どうしたものか…捨松は得意の英語で話しかけてみたら、ヨーロッパ留学経験のある大山はフランス語で返したそうです。
多分通じたのでしょうね。それから3ヶ月の後に2人は結婚しました。
捨松は伯爵夫人となり、外交の場に登場、その後大活躍しました。鹿鳴館の花と謳われたそうです。
ある時、有志共立東京病院を見学した捨松は、看護婦がいなくて雑用係の男性が病人の世話をしているのを目の当たりにします。
捨松は病院長に、看護婦の養成をするよう看護学校の開設を提言します。高木院長も看護婦の必要なことは早くから理解していましたが、資金がない・・・・
問題は資金難にあることを知った捨松は、1884(明治17)年6月12~15日の3日間、鹿鳴館でチャリティバザーを主催しました。
この3日間で8000円、現在の貨幣価値ではなんと一億円を集めたのでした。
この資金により1885年に日本初の看護学校:有志共立病院看護婦教育所(現:慈恵看護専門学校)が設立されました。
ところで、捨松は幼名をさきといいました。アメリカ留学が決まったときに母が「娘のことは一度捨てたと思って帰国を待つ(松)のみ」という思いから「捨松」と改名させたそうです。
捨松は会津出身ですが、今年の大河ドラマ「八重の桜」の舞台も会津です。
主人公は幕末のジャンヌ・ダルクと称された新島八重ですが、捨松も登場するはずです。
理由は、将来の夫となる大山巌が出ているからという単純な理由ですが、過去の幕末ものでも大山巌はほとんど出ていなかったんですよね。いずれ捨松が出る伏線と思います。
もう一つの伏線、それは新選組の斉藤一の出番の多いこと。いつもの新選組なら近藤、土方、沖田の3人が看板で出てきますが、今回は彼らを押しのけるほどというか沖田は元々出ていない、とにかく斉藤がもっともよく出ています。実は斉藤一は会津入りして会津戦争を会津藩と共に戦いますが、生き延びます。そして明治になり八重の幼なじみの高木時尾と結婚します。元会津藩主の松平容保が仲人を務めたそうです。
その後藤田五郎と改名し、警視庁に就職します。後に西南戦争に参戦、大活躍し会津戦争の敵(?)を取ることとなります。
大山巌は会津戦争では官軍の砲兵隊長ですが、1日目に怪我をして戦いの場から退いています。この場面はスペンサー銃を操る八重の弾が命中するように描かれるのでしょう。
八重の桜のもう1人の主人公とも言える、八重の兄覚馬は京都に行ったきり、会津に戻ることはありませんでした。山本家には覚馬は捕縛後に処刑されたと報告されましたが、やがて兄生存を知るところとなり、一家を挙げて京都に移住します。
しかし覚馬の妻は会津に残り、2人は離婚します。娘は京都に行ったようです。
覚馬は頭角を現し、京都府議会議長となり、新島襄とも知り合い、同志社英学校の開設に協力します。
今後どのように展開されるのか毎週とても楽しみです。
新島襄は32歳の時、同志社英学校を開きますが、46歳で永眠します。死因は急性腹膜炎だったそうですが、比較的若い頃から心臓が悪く心臓発作を起こしています。狭心症だったのでしょうか?
他に気になるのは、ドラマが半ば近くになってもまだ会津戦争が始まってもいません。多分6月末で会津戦争終結することになりそうですが、その時で八重はまだ23歳くらい。
八重は86歳の生涯を全うしますが、はるかに長い残りの63年を半年で描こうとすればものすごく駆け足になってしまいそうです。
歴史秘話ヒストリアというNHKの歴史番組で紹介されていました。
設立したのは有志共立東京病院(現:東京慈恵会医科大学附属病院)長の高木兼寛ですが、資金を調達したのは大山捨松(旧姓:山川)という会津出身の女性でした。
捨松は幕末の会津戦争の時城に籠もって、新島八重(戦争当時は川崎八重)らと共に新政府軍と戦ったそうですが、当時彼女は10歳くらい。けが人の手当などに従事していたようです。
八重は当時最新式のスペンサー銃で応戦し、後に幕末のジャンヌ・ダルクと称されました。
その後明治になり捨松はアメリカに10年間の官費留学をしますが、一緒に行ったなかに女性では津田塾大学創設者の津田梅子らがいました。
ちなみに捨松の兄、健次郎も同時に留学しています(後の初代東大総長)。
10年の留学を終え帰国命令が出ますが、捨松は留学をさらに1年延長し、看護学校に通い看護婦の資格を取りました。
22歳で帰国した捨松はしかし、なかなか活躍の場を見いだせずにいました。そうしたところ、会津戦争の時の新政府側の砲兵隊長で、その後伯爵になっていた大山巌から結婚(大山は再婚)を申し込まれますが、父親代わりの長兄大蔵(あるいは改名して山川浩)は断固拒否しました。しかし大山も諦めず何度も手紙を送り、やがて根負けした兄は捨松に話を持ちかけました。西郷隆盛の弟(従道)が間を取り持ったらしい・・・・
兄から話を聞いた捨松は、会ってみないことには返事できない・・・・会うこととなりました。
こんな経緯でデートが実現しましたが、当時は極めて珍しいことだったと思われます。
さて、2人は会ったものの会津弁と鹿児島弁では全く通じない。さて、どうしたものか…捨松は得意の英語で話しかけてみたら、ヨーロッパ留学経験のある大山はフランス語で返したそうです。
多分通じたのでしょうね。それから3ヶ月の後に2人は結婚しました。
捨松は伯爵夫人となり、外交の場に登場、その後大活躍しました。鹿鳴館の花と謳われたそうです。
ある時、有志共立東京病院を見学した捨松は、看護婦がいなくて雑用係の男性が病人の世話をしているのを目の当たりにします。
捨松は病院長に、看護婦の養成をするよう看護学校の開設を提言します。高木院長も看護婦の必要なことは早くから理解していましたが、資金がない・・・・
問題は資金難にあることを知った捨松は、1884(明治17)年6月12~15日の3日間、鹿鳴館でチャリティバザーを主催しました。
この3日間で8000円、現在の貨幣価値ではなんと一億円を集めたのでした。
この資金により1885年に日本初の看護学校:有志共立病院看護婦教育所(現:慈恵看護専門学校)が設立されました。
ところで、捨松は幼名をさきといいました。アメリカ留学が決まったときに母が「娘のことは一度捨てたと思って帰国を待つ(松)のみ」という思いから「捨松」と改名させたそうです。
捨松は会津出身ですが、今年の大河ドラマ「八重の桜」の舞台も会津です。
主人公は幕末のジャンヌ・ダルクと称された新島八重ですが、捨松も登場するはずです。
理由は、将来の夫となる大山巌が出ているからという単純な理由ですが、過去の幕末ものでも大山巌はほとんど出ていなかったんですよね。いずれ捨松が出る伏線と思います。
もう一つの伏線、それは新選組の斉藤一の出番の多いこと。いつもの新選組なら近藤、土方、沖田の3人が看板で出てきますが、今回は彼らを押しのけるほどというか沖田は元々出ていない、とにかく斉藤がもっともよく出ています。実は斉藤一は会津入りして会津戦争を会津藩と共に戦いますが、生き延びます。そして明治になり八重の幼なじみの高木時尾と結婚します。元会津藩主の松平容保が仲人を務めたそうです。
その後藤田五郎と改名し、警視庁に就職します。後に西南戦争に参戦、大活躍し会津戦争の敵(?)を取ることとなります。
大山巌は会津戦争では官軍の砲兵隊長ですが、1日目に怪我をして戦いの場から退いています。この場面はスペンサー銃を操る八重の弾が命中するように描かれるのでしょう。
八重の桜のもう1人の主人公とも言える、八重の兄覚馬は京都に行ったきり、会津に戻ることはありませんでした。山本家には覚馬は捕縛後に処刑されたと報告されましたが、やがて兄生存を知るところとなり、一家を挙げて京都に移住します。
しかし覚馬の妻は会津に残り、2人は離婚します。娘は京都に行ったようです。
覚馬は頭角を現し、京都府議会議長となり、新島襄とも知り合い、同志社英学校の開設に協力します。
今後どのように展開されるのか毎週とても楽しみです。
新島襄は32歳の時、同志社英学校を開きますが、46歳で永眠します。死因は急性腹膜炎だったそうですが、比較的若い頃から心臓が悪く心臓発作を起こしています。狭心症だったのでしょうか?
他に気になるのは、ドラマが半ば近くになってもまだ会津戦争が始まってもいません。多分6月末で会津戦争終結することになりそうですが、その時で八重はまだ23歳くらい。
八重は86歳の生涯を全うしますが、はるかに長い残りの63年を半年で描こうとすればものすごく駆け足になってしまいそうです。