還暦直前に心臓弁膜症(僧帽弁閉鎖不全症弁形成術体験記)

還暦を目前にして滋賀医大の浅井徹先生の執刀で僧帽弁形成術を受けました。
私の体験が同病の方の参考になれば幸いです。

夏至が過ぎましたが

2014年06月29日 | 雑記帳(その他)
暑さはまだまだこれからです。
ところで、今年の夏至は6月21日でした。夏至は昼の時間が1年で最も長い日のことですが、日の出が最も早く、日の入りがもっとも遅い日が夏至というわけではありません。
トータルで昼が最も長い日を指します。
逆に昼が最も短い日は冬至です。かなり前までは冬至の日が日の出がもっとも遅く、日の入りがもっとも早いと単純に考えていました。しかし、どうもそうでは無いようだ・・・・
日の出がもっとも遅いのは私の住んでいる地方では1月8~10日頃、冬至から2週間ほど後です。
日の出がもっとも遅い日が確認できたのは、冬期は日の出の少し前に出勤のため家を出ていたからです。そして日の入りの方は、冬至の日には少し遅くなっているのがわかりました。
それとともに宵の時間が長く感じることも。
それなら日の入りが最も早いのは、冬至から2週間前の12月5日頃なのでしょうか?

夏至も冬至と同様に日の出、日の入りが2週間ずれているのかと、これも単純に考えていました。6月21日の2週間前に日の入りがもっとも遅くなり、6月21日の2週間後に日の出が最も早くなる・・・・
この推測が正しいのかどうか、確認が難しいので国立天文台のサイトにアクセスしてみました。
そこに書かれていた内容を整理すると
日の出の最も早いのは夏至の1週間前、もっとも遅いのは冬至の2週間後
日の入りの最も早いのは冬至の2週間前、もっとも遅いのは夏至の1週間後
となり、夏至については私の推測と逆でした^^;;;

違う観点から書くと
夏至は日の出も日の入りも遅くなっている
冬至も日の出も日の入りも遅くなっている
面白いですね。つまり日の出が最も遅いのは冬至を過ぎ1月になってからで、最も早いのが夏至の少し前ですから、日の出が前日より早いのはおよそ160日で、日の出が前日より遅いのは205日ほどになります。
日の入りについては、前日より早いのはおよそ160日で、前日より遅いのは205日となります。
どちらも早まるのは早く、遅くなるのは時間がかかります。この差は大きいですね。

ところで、ずれがなぜ生じるのかの解説は、よく理解できていません^^;;;

同窓会コンサート♪

2014年06月27日 | 近郊・日帰り
昨日は同窓会コンサート
~あの日に帰る歌がある~
滋賀/彦根公演
に行きました。とにかく最高に楽しかったです~♪

出演者は(敬称略します)
尾藤イサオ、加橋かつみ、大野真澄(ガロ)、あいざき進也、晃(フィンガー5)、小川知子、あべ静江、西口久美子(青い三角定規)、伊藤咲子、LILIES(リリーズ)
そして特別ゲストが西城秀樹でした。

歌われた曲は各歌手のヒット曲や、出演者が最近共同で出したCD(カバー曲)から数曲、それから琵琶湖周航の歌もありました。
知っている歌は一緒に歌ってくださいね♪ とのことでしたが、歌詞のほぼ全部を覚えていたのは花の首飾りだけでした^^;;;
この歌は発売当時はB面で、A面は銀河のロマンスだったのですが、花の首飾りの方が人気が出て、途中からAB入れ替わったという経緯がありますが、Wikipediaには両A面と書いてあります。
1968年3月発売、私が高一でグループサウンズ全盛の頃でした。

フィナーレはYOUNG MANです。前半終了後の休憩中にステージから振りを教えてもらったので、全員立ち上がり歌いながら踊りながら、その時間を楽しみました。

多分私のもっとも古い記憶

2014年06月25日 | 雑記帳(その他)
ものすごく昔の記憶がありまして、果たしていつ頃の記憶なのか全然わからなかったのですが、ようやくかなりはっきりしたのでここに書き留めておきたいと思います。
私がまだ幼かった頃、生母の心臓弁膜症はすでにかなり悪く、寝ていることが多かったのです。というより、そもそも元気な姿というのを見た記憶がありません。保護者同伴の幼稚園の遠足も母は家で寝ていました。父は仕事に行き私は1人だったので、今思えば少し淋しかったくらいですが、両親の心中は辛いものがあったかもしれません。

それよりさらに何年か前のことです。私が小学校に入学する1958(昭和33)年春まで、父は独立前で親方の元で働いており、毎日自転車で通勤していました。
当時の父は30歳代前半~半ばでしたが、私の目にはもっと老けて見えました。
父は私を連れて隣町のお寺、大山寺という大山の中腹にあるお寺に、よくお参りしていました。途中吉野川という大きな川を渡りますが、渡し船で対岸に渡った記憶と、潜水橋(別名沈下橋)を父がこぐ自転車で渡った記憶の両方が有ります。橋は渡しの少し下流にありました。この記憶、これは果たしていつの記憶だったのか・・・・?

久しぶりに思い出して調べたところ、1954(昭和29)年に潜水橋ができて渡し船が廃止されたと、地元の国交省河川国道事務所の記録にありました。私は1951年12月生まれなので、この渡し船に乗った記憶は3歳になる以前のものであること、つまり2歳の頃の記憶であることがわかって驚きました。驚きましたが、これで疑問が解けました。
この潜水橋、当時は川全体に架けられた橋ではなくて、水が流れる南半分にだけ架かっていて、北半分は河川敷を整備した道路(と言っても未舗装)になっていました。お盆に墓参りに帰る予定なので、橋のたもとまで行ってみたいと思います。

このお寺ですが、母も一緒に三人でお参りに行ったことがあります。いつものように麓の民家に自転車(※この頃は多分自転車オートバイ)を預けて(三人乗りしてました)、そこから山道を登っていきます。半分も登ったかどうか、見晴らしの良いところで母は1人休憩することになりました。父と2人でお参りを済ませ、再び母と合流しました。
・・・・と書きましたが、私が覚えているのは、母を残して父と2人でお参りに出かけるところまでです。この日は晴れて良い天気でした。
※この頃、自転車にエンジンを後付けした、自転車オートバイというものが流行し、親父も近所の自転車店でエンジンを取り付けてもらいました。
自転車オートバイの写真を載せておきます。一例ですが・・・・

写真はここから引用しました。

潜水橋とはこんな橋ですが、少し前のNHKのクローズアップ現代で数秒間だけ映りました。吉野川には7つの潜水橋がありますが、最下流の高瀬潜水橋が最長です。番組構成上においても、これが昔よく通った橋ではないかと思います。

ボストン美術館浮世絵名品展 北斎

2014年06月20日 | 近郊・日帰り
神戸市立博物館で開催中の、「ボストン美術館浮世絵名品展 北斎」 に昨日行きました。
22日までの開催でちょっと押し詰まっていたわけですが、平日にもかかわらず入場者多数で、館内に入ってから最初の展示室に案内されるまで、45分の待ち時間がありました。もっと早く来れば良かったんですが・・・・展示作品数は140点を数え、見応え十分でした。
葛飾北斎の有名なシリーズに富嶽三十六景があり、なかでも神奈川沖浪裏は特に有名で代表作とも言われています。


これです。肉筆画ではなくて版画なのでたくさんあります。数千枚は摺られ、現存するだけでも数百枚はあるそうです。復刻版を何年か前に買いました。赤富士にするか迷ったんですが・・・・
北斎は生涯において30回ほど改号していて、富嶽三十六景制作時には北斎ではありませんでした。為一「いいつ」へと改号しています。さらに晩年には画狂老人と称しています。

駅から博物館まで歩いて10分あまりですが、その駅から逆方向に少し歩くと、茜屋珈琲店という1966年開店の老舗喫茶店が有り、こちらを先に訪ねました。何ヶ月か前新聞で紹介された店ですが、これはと気になったのでメモっておきました。
あらためて場所を調べると、博物館と日程を合わせられることがわかったのでラッキーでした。
店の看板

店は2階にありますが、階段上がり口にかかった案内板です。


店内の写真は撮りませんでしたが、食べログなどには多数掲載されています。席はすべてカウンター席、シックな内装でLPレコードによるクラシック音楽がゆったりと・・・・入店時はヴィヴァルディのヴァイオリン協奏曲が流れていました。カップは200客ほど用意されており、客に合わせて選んでくれます。家でもあんなカップで飲みたいと思いました。
奥様との会話も弾み、1時間があっという間に過ぎてしまいました。我が家でも週末に飲む珈琲は、豆で買って淹れるときに挽きますが、手挽きと機械挽き、粗挽きと細挽きの違いを教えていただきました。
また阪神大震災時には、カップがすべて落ちてダメになったそうですが、ビルは健在だったため三ヶ月後に再開できたそうです。周りの新しいビルが軒並み壊れたとおっしゃってました。レコードは数枚しか被害に遭わず、大半傷も付かずに助かったそうです。
ふと気がつくと、バッハのフルートソナタに変わっていました。誰の演奏かと聞くとニコレとのこと。私はランパルの演奏でLPを持っていますが、もうレコードは手に入らないかもしれません。

このお店、料金は決して安くはありませんが、今後も是非立ち寄りたいと思いました。

体組成のデータ

2014年06月18日 | 雑記帳(心臓と関係有り)
僧帽弁閉鎖不全症で入院したのは4年前の2010年9月7-24日ですが、術後3日目から心臓リハビリが始まりました。もっとも初日は、説明と体組成のデータを取るだけで終了しています。術後十日目に退院したので、それに合わせ心臓リハビリはたった3回で終了しました。
それで、あらためてこの体組成データを見てみると、いろいろ興味深いことが載っています。
測定した機械はこれでした。スポーツジムなどにも置いてあるようですね。


おおざっぱに言うと筋肉全体は体重の80%強で、骨格筋は体重の約半分でした。残りの筋肉は内臓筋ですが、脳や骨髄、血管などは内臓筋に分類されているようです。
さて、当時の数値から少し体重の増加した現在(55kg)の体組成を推定してみました。体重の増えた分はすべて脂肪(^凹^) として計算すると
体重に対する筋肉の比率    80%
体重に対する骨格筋の比率  45%
体重に対する脂肪の比率    14%
体重に対する無機質の比率   6%
体重に対する水分の比率    64%
BMI                 20.6

と推定されます。無機質量と水分比率は変わらないものとしました。
体脂肪は14%と、日本人の平均値よりはかなり低いですが、許容範囲です。BMIはやっと20以上になりました。今の体重が維持出来たらベストです。若い頃はやせの大食いと言われいくら食べても太りませんでしたが、今は食べたらしっかり体重に表れるようになりました。

測定時点で内臓脂肪は少なく、脂肪の大半は皮下脂肪でした。VFA(Visceral Fat Area)で表される内臓脂肪面積は58cm^2で、内臓脂肪過多となる100cm^2より小さいので一応安心できます。VFAが80以上で注意を要するらしいです。
筋肉は左右上腕、左右下肢とも110%以上有りました。胴体は104%。
測定値的には筋肉がよく付いているというわけで、体型判定は低脂肪筋肉型という、目を疑うような結果でした。というわけで意外に筋肉質らしいことを、退院後4年もたって初めて知りました。ずっとずっと何十年も体つきは華奢だと思ってきました。
ちなみに45%という骨格筋量は20歳代のレベルらしいです。測定値は正しいのか、疑いたくなります。しかし低脂肪筋肉型と言っても、おなか周りは少したるんでいます。50歳になるまでは締まっていたのですが・・・
実を言うと、30歳半ばでお腹は一度たるみかけてきたんです。週2~3回のバドミントンでは追いつきませんでした。ところが35歳から2年間自転車ツーキニストを実践して、腹回りはぺったんこになりました。そしてその状態が10年ほど継続しました。おかげで? 体年齢は49歳と判定されました。測定当時は58歳だったので、体は実年齢より9歳若いという結果でした。何とかこれをキープしていきたいと思います。

しかし半面、実は無機質量が少し足りていません。無機質量の測定値は3.2kgでして、基準に0.2kg足りていません。無機質とは骨と体内の電解質の合計のことですが、骨が少ないのか電解質が少ないのかはわかりません。男性で体重が60kg以下では推定骨量が2.5kgとなっているので、骨量をこのままとすると電解質が700gあることになります。電解質の内訳は血液や体液中のカルシウム、鉄、ナトリウムなど各種金属(ミネラル)を指します。それにしても2.5kgとは・・・・体中の骨はもっと重いと勘違いしていました。
体脂肪も不足と判定されていますが、こちらは気にしないでおきます(^O^)

それと、左右の足の筋肉量がアンバランスと判定され、弱い方の筋肉を増やす運動をしなさいと書かれています。アンバランスといっても3%程度なんです。腕の方は5%も違うのにバランスは良好と・・・・?
足の方が問題なんですね。ちなみに腕は利き腕の左が筋肉が多く太いですが、足は利き足の右が少ないという結果でした。

利き手のこと

2014年06月15日 | 雑記帳(その他)
私はボールなどを投げる手は左、バドミントンやテニスのラケットを握るのも左なので左利きと思ってきました。野球など打つのも左です。なお、自転車に乗るのも他人とは逆で、普通は左側から乗りますよね。私は右から乗っていました。このように生まれつきは左利きなのですが、小さい頃に矯正されたので右を使う動作も結構あります。

箸、文字や絵を書く、マウス、ハサミは右しか出来ません。彫刻刀は基本左ですが、切り出しだけは右です。ラケット持つ手はなぜか卓球だけ右です。ハサミについては普通のハサミは右利き用なので、左ではとても使いにくいです。
いくつかある利き手テストをやってみると、意外なことに両手利きまたはクロスドミナンスと判定されました。ちなみに両手利きとは、どんな動作も左右どちらでも出来ること、クロスドミナンスは左右ともよく使うが、動作の内容によって使う手が決まっていること、です。
左右とも同じくらい使える動作はドライバーでネジの開閉、歯ブラシ、箒、マッチで火を付ける、ライターの点火、リモコンの操作などです。

利き手テストによると、私は左利き気味のクロスドミナンスとなるので、実生活においては意外に右も使っているようです。
また文字を書いたり箸を持つのが右なので、右が器用かというとそうでも無くて、ひげを剃るのは左ですし、櫛も左です。携帯をスマホに変えるまでは、ほとんど左手でいじっていました。というわけで、結構支離滅裂なところがあります(^O^)

自転車については、小学校高学年になった頃、父から「左から乗れー」と指導(?)を受け、左から乗るよう直しました。その後何十年も右から乗っていないためか、今は右からケンケン乗りしようとすると転けそうになります。

再び水回りのトラブル

2014年06月11日 | 日記
3月9日に水回りのトラブルという記事を書きました。風呂の方は4月12日の記事のように問題解決したのですが、洗面所の排水がまたまたというか・・・・ほとんど詰まってしまいました。
2週間くらい前からやばくなってきたのですが、ままごとキッチンにかまけていて、こっちの方はおろそかになっていました。
そろそろなんとかしないと・・・・洗面台の引き出しを取り外して、前回同様トラップ下部のふたを外してゴミの詰まり状況を見てみましたが、芳しくありません。工具を使わずに簡単に点検できるところと言えば、他に1つだけあります。赤で囲ったパイプジョイントネジです。これを外して、針金を使って汚れを掻き出してみました。
すると・・・・出るわ出るわ(笑)
バケツに塊のヘドロ状になった汚れが溜まりました。これがトラップを塞いでいたのです。
黄色で囲った部分に溜まっていたと思われます。

排水パイプを元通りにして水を流してみると、新品時と同様に勢いよく流れます。今度こそ、当分は大丈夫です。

ままごとキッチン贈呈

2014年06月09日 | 日記
まもなく孫が2歳になるので、先週土曜日娘の家に押しかけて誕生会がてら、ままごとキッチンを贈呈しました。心境としては間に合って良かった(^O^)

場所を決め設置すると、もう孫は大はしゃぎでテンション上がりっぱなし。道具類はずいぶん前に買い揃えていたようです。


お料理作ってるとかちょっと待ってねとか、まだ残ってるなど、いろいろしゃべりながら夢中で遊んでいました。




あれだけ遊んでくれれば、作った方もうれしいです。出来映えは、作った側としてはうまくいかなかった部分が気になるのですが、娘も「かわいいーー」と言って、すっかり気に入ってくれました。
娘の想像よりは良く出来たようで・・・・日頃の私をよく知っているので、期待値が低かったのかもしれません(^O^)

さて、この日は誕生会でしたが、ケーキのローソクは1人でしっかり消せました。

ままごとキッチン完成

2014年06月05日 | 日記
ようやく完成しました~♪
披露します(^O^)




カーテンのアップ

孫とウサギを並べ、下にHappy 2nd Birthday!と刺繍しています。
このサイズの写真だとかわいく見えませんねぇ。何で?

かかった費用は材料費だけで、6000円くらいです。キッチンパネル用の合板、それに釘やネジ、工具等は家にあるもので間に合いました。買った材料は以下の通りです。
3段ボックス
910×910×9ミリの合板1枚(店でカット)
蝶番、マグネットキャッチ、ドアノブ
ゴトク、コンロつまみ、水道蛇口、タオル掛け
ステンレスボウル(直径20センチ)
ワイヤーネット、ワイヤーフックおよび取り付け金具
水性白色塗料(1/5リットル)
突っ張り棒
布地
刺繍糸

土曜日に贈呈しますが、果たして遊んでくれるでしょうか?

昔のNHKラジオドラマ

2014年06月01日 | 雑記帳(その他)
今日はちょっと懐かしいお話を書きます。小学校の高学年になった頃(1960年代前半)、夕方6時頃に放送されるNHKのラジオドラマをよく聞いていました。もっとも今でもしっかり覚えているタイトルは
応答せよゼノン、走れ源太、一丁目一番地ぐらいです^^;;;
ドラマ1本15分で、確か1日4本放送されていました。締めくくりは一丁目一番地でした。
他はSF、時代劇、身近な生活ドラマだったかな。4月に始まり、翌3月に終わるという1年続く長丁場でした。一丁目一番地は数年間続きました。
一丁目一番地の主な登場人物(声優)は
名古屋章(お父さん)
岸旗江(お母さん)
黒柳徹子(お父さんの妹で役名はさえ子)
千野光男(この家の子供で愛称ター坊)
ドラマの途中でター坊に弟が生まれました。名前は一彦か一雄か・・・あまり自信がありませんが、かずなんとかです。一と書いてかずと言うのよ、という台詞がありました。

応答せよゼノンは、主題歌の一部を覚えています。
誰かが呼ぶゼノン
応答せよゼノン
明日を夢見るゼノン
紺碧のうねり遙か
********果てなく
********(メロディは覚えています)
明日(あした)に向かって呼んでみようゼノン
********の部分は忘れました。
このドラマが描いた時代は当時(1963年度)から見て20年ほど未来、地球人口は40億人という設定(当時の地球人口は20億人台でした)、火星からクラゲかアメーバ状をしたケプレ人が来襲して、地表が次々に砂漠化して人類絶滅の危機に。その人類全員を干上がらせた日本海に集めて救うが、さらなる危機に襲われるというような話でした。

走れ源太の主題歌の記憶はもっと断片ですが、遊星王子の青春歌謡つれづれで見つけました。
雲が飛ぶ 雲が飛ぶ
きらめくは 剣(つるぎ)の林
こだまする 鬨(とき)の声
吹きすさぶ 風より早く
走れ源太 走れ源太
(ここまでは速く勇ましく、ここからはスローバラード)
草に寝て
空を仰げば 揚げ雲雀(ひばり)
ふるさとの 土の香り
源太 源太
どこへ行く 源太

時代劇では、主人公が太田道灌の少年~青年時代を描いたドラマもありました。ドラマでは幼名が鶴千代、元服後に源六郎と名乗っていますが、Wikipediaによると鶴千代→資長→道灌となっています。ちなみに父は資清(すけきよ)と言います。
時代劇では他に緑のコタンというドラマもありましたが、主題歌の歌詞はラストしか記憶にありませんが、メロディはだいたい覚えています。
身近な生活ドラマでは、いそべろくたという少年を主人公にしたドラマがありましたが、タイトルも内容も覚えていません。ただ舞台は和歌山だったかも。
SFものでは応答せよゼノンの前年が宇宙から来た少年、彼の乗るロケットの名前はベーター号、3人以上乗ると光速より速く飛ぶことが出来ませんでした。
応答せよゼノンの翌年が、百万の太陽だったようです。地球人の主人公の1人は「ユキ」だったような。

他に、21世紀への道という番組もありました。ドラマ仕立てだったような気もしますが、あまり明るい内容ではなかったように思います。歌詞のないヴォカリーズのような主題曲が新鮮でした。

カラオケに収録されていれば、緑のコタンを歌いたいものです。
同様に遊星王子の青春歌謡つれづれで見つけました。

一 波のしぶきと 氷の岩よ
   風も冷たい 北海の
   嵐にむかい まっしぐら
   緑のコタンを 夢にみて
   ああ 若き勇者 勇者はすすむ
   緑 ああ ああ ああ緑のコタン
 二 ほえる狼 手負いの熊よ
   声も届かぬ 原始林
   嵐にむかい まっしぐら
   緑のコタンを 夢にみて
   ああ 若き勇者 勇者はすすむ
   緑 ああ ああ ああ緑のコタン

今更こんなことを書いたのは、これらのドラマ(当時は連続放送劇と称していた)に触れた記事が散見されるので、私も知っていることだけは書いておこうと思ったからです。誰かがまとめてくれるとありがたいなあと(^O^)