豆豆先生の研究室

ぼくの気ままなnostalgic journeyです。

佐藤春夫「小説永井荷風伝」

2024年10月16日 | 本と雑誌
 
 佐藤春夫「小説永井荷風伝 他3篇」(岩波文庫、2009年。単行本は新潮社、1960年)を読んだ。
 佐藤春夫の書いたものを読むのは初めてである。若い頃はまったく関心がなかったが、今回は荷風への関心から読んでみることにした。

 慶応義塾予科での出会いから、市川での葬儀、雑司ケ谷での納骨までを描く。たんなる評伝ではなく、語り手であり登場人物でもある佐藤による小説というより回想録のようなもの(佐藤の頻用する言葉でいえば「あんばい」)である。
 荷風自身が記述するところ、巷間に流伝するところ、佐藤自身が見聞したことを三脚として、これに真偽定まらぬ伝説、佐藤の感情移入、思い出などを交えて書いたことが「小説」を標榜した所以のようである。中村光夫との論争で表明した「荷風=エディプスコンプレックス説」などはエピソードの一つに過ぎない印象だった(88頁~)。
 佐藤は、荷風を「自叙伝作家」とでもいうべきものであるとし、その「作品史」がそのまま「伝記」と精妙な一致をみるという。ただし、佐藤のこの評伝はなぜか「断腸亭日乗」をほとんど援用しない点で、他の評伝に比べて出色である。「日乗」から援用を始めると「日乗」の摘録になってしまうからではないか。

 佐藤は、少年時代から文学者としての荷風に心酔し、慶応予科では学生として謦咳に接し、その後も「荷風読本」の編者に推挙されるほどの信任を得ながら、やがては子弟の縁を切られるという数奇な関係を閲している。評伝を書くにふさわしい著者である。 
 佐藤の見立てでは、荷風は、一方では都会の育ちのよい律儀で礼儀正しい純粋な性情の人間であり、もう一方では、その良家、厳父の桎梏からの解放を願った反社会的人間でもある。また、一方で天性の詩人にして、もう一方で「異常な色情の人である」(12頁)という。
 荷風にまつわるエピソードの取捨や評伝全体からも、上のような荷風の二面性が浮かび上がってくる。佐藤の筆からは、荷風に対する強い憎しみも感じないかわりに、強い哀惜の念も感じられない。そういう意味では公平な評伝という印象を得た。

 以下エピソード風に印象に残ったことをいくつか記しておく。 
「花火」における幸徳秋水の大逆事件を契機に戯作者になったという荷風の言葉を額面通りに受け取るべきではない、自ら流布した伝説であるという説を卓見という(68頁)。
 芥川が偏奇館の文学は「西遊日誌抄」にとどめを刺すとして、(昭和初年には)荷風を無視したこと、文士は閑居してゴシップを好む者たちであり、芥川門下と同様「日乗」にも度々出てくるように荷風もゴシップ好きだったという(96頁)。
 荷風が社会や政治に関心が深かったことを示すエピソードとして、何かの折に「近衛文麿はだんだん悪相になって行くね」と語ったという。近衛の顔の変化など、きちんと新聞でも読んでいないと分からなかっただろう。先日NHKテレビ「映像の世紀」で、近衛がヒットラーに扮した写真を見たが、「悪相」というより呆れ果てた。

 現地を見ないかぎり執筆できないという荷風の実地踏査主義の結果として、荷風は(売春に関する)一種の風俗史家ということができると佐藤はいう(124頁)。また、「大久保だより」や「日和下駄」などは「東京歳時記」というべき作品であり、荷風の東京風土研究であるという(併載の「永井荷風」273頁)。
 荷風が戦後に一時期寄寓した小西茂也が深川あたりの米問屋の裕福な息子で、最初は荷風の崇拝者だったが、自宅の空部屋を提供して同居するうちに幻滅し、荷風が死んだら全て暴露すると宣言しつつ(佐藤も出席した「三田文学」の座談会でそう宣言した)、荷風より先に亡くなってしまった(173頁)。小西の暴露は何かで読んだような気がする(小西の家屋の室内で七輪で古原稿を燃やしたという話が出ていた)。ぜひとも暴露話を読みたかった。
 荷風の偽書事件などをめぐる平井程一らとの一件について佐藤は、紀田順一郎「日記の虚実」とは違って、平井らを悪者として描いている。平井ら二人は一時期佐藤のもとにも出入りしていたという。筆先は荷風との関係を取りなすよう佐藤に依頼したことがあったというKにも及ぶ(132頁)。Kは久保田万太郎らしい。

 佐藤が荷風に縁を切られたのは、「荷風読本」(三笠書房、昭和11年)の印税をめぐってであるという批判に対して、佐藤は「日乗」にある三笠書房との紛糾の内容は採録する作品をめぐっての対立であり印税の問題ではないと反論し(144頁)、佐藤が戦時中の言動を理由に荷風から排斥されたのは昭和16年のことであると訂正する。
 半藤「荷風さんの昭和」でも引用していたが、本書でも、佐藤が荷風を「規格外の愛国者」であると評したことが荷風の不興を買った原因だったとして、「日乗」の同年5月16日付の記事を援用している(146頁)。荷風は「日乗」で佐藤を「田舎者」と書いているが、「田舎者」は荷風最大の蔑称である。佐藤は戦後になっても、荷風は国土を愛し、国語の純化をこころざした「愛国者」であったと信ずると書く(1960年)。ただし、佐藤は、荷風の不興を買った戦時中の言動のうち、壮士然として皇道文学を吹聴したことなどについては黙している。
 なお、併録された「永井荷風」によると、米仏から帰朝した荷風は一部ジャーナリズムから「非国民」呼ばわりされたというが、ここでも佐藤は、荷風を「故国に文明を切望する無二の愛国者であった。・・・ただその愛国の観念は軍人と同一でなかっただけである」と書いている(259頁~)。佐藤はどこまでも荷風を「愛国者」にしたいようである。戦時中に「非国民」呼ばわりされた荷風(併載の「最近の永井荷風」219頁)を佐藤は「汚名」と考え、何とかその汚名を雪ぎたいと思っているようだが、荷風本人は「非国民」呼ばわりなどむしろ名誉とさえ思っていたのであり、「愛国者」などと呼ばれることこそ不本意、不愉快なことだっただろう。

 荷風の文化勲章受章、芸術院会員就任を正宗白鳥が皮肉ったらしいが、佐藤も受賞は不当ではないが不自然だったと書く(165頁)。久保田万太郎の推挙によると何かに書いてあったが、佐藤もKの推挙であると書いている(194頁)。芸術院会員も文化勲章も兎角の噂がたえない賞だから、荷風に限らず誰が受賞しても異論は起こるだろう。正宗も佐藤も久保田も(!)文化勲章を受章したらしい。
 荷風の不遇の死を、佐藤は「宿望たる陋巷の窮死を自然死の利用による自殺」の遂行であったと見る(188頁)。その葬儀をKが取り仕切っていることを同道した瀬沼(茂樹?)は不快に思うが、佐藤は誰かがやらなければならいのだからよいではないか、と取りなしている(192頁~)。その席で、弟威三郎が荷風に仇敵視された理由に思い至っていないことを知り、気の毒に思うと書いている(196頁)。

 巻末に荷風に関する佐藤の小論3篇が併録されている。「永井荷風ーーその境涯と芸術」は荷風生前に書かれた評伝だが、「あめりか物語」から「濹東綺譚」に至る初期作品の中から当時の荷風の真情が現われた個所が引用されていて、読まずに済ますことができた。ちょうど川本編「荷風語録」によって戦後に発表された作品を読まずに済ますことができたのと同様である。
 それにしてもなぜここまで荷風に引きずられるのか、我ながら不思議である。川本さんに始まって、吉野、半藤、紀田、秋庭、平野、佐藤と芋ずる式である。
 もうそろそろ、平野謙「昭和文学私論」で興味をもった高見順、尾崎一雄あたりに乗り換えていいだろう。
 
 2024年10月15日 記

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平野謙「昭和文学私論」補遺

2024年10月12日 | 本と雑誌
 
 平野謙「昭和文学私論」(毎日新聞社、昭和52年=1977年)の補遺。

 10月11日(金)夜、ようやく全巻を読み終えた。面白かった。
 永井荷風「断腸亭日乗」から昭和の日本経済史を顧みる吉野俊彦「断腸亭の経済学」もよかったが、平野の本書はそれよりさらに深く昭和の文壇という側面から昭和史全体を概観することができた。荷風の日記からは昭和史のごく限られた一面しか顧みることができないのに対して、本書からは、政府、軍部による言論弾圧という昭和史の重要な一面を回顧することができる。
 本書で、ぼくが読んでみたくなった本は以下のようなものである(順不同)。
 「あの日この日(上・下)」尾崎一雄(平野481頁)
 「故旧忘れ得べき」髙見順( 〃 288頁)
 「昭和文学盛衰史」高見順( 〃 )
 「十年」里見弴( 〃 437頁、昭和10年~20年の回顧だが、平野は戦後20年の意味を考える)
 「悲しみの代価」横光利一( 〃 12頁)
 「土と兵隊」火野葦平( 〃 346頁)
 「麦死なず」石坂洋次郎( 〃 306頁、石坂が元プロレタリア派だったとは!)
 「晩年/道化の華」太宰治( 〃260頁)
 「鮎・母の日・妻/贅肉」丹羽文雄( 〃 251頁)
 「再建、盲目」島木健作(〃231頁)、「囚はれた大地」平田昭六(〃238頁)なども。

 平野によれば、昭和の文学はプロレタリア文学 vs 新興芸術派(ないし新感覚派文学派)で始まり、小林多喜二の拷問死、ナップ解散以降のプロレタリア文学派は、転向文学派、戦争(国策)文学派、私小説派に分かれたが、尾崎は私小説派の代表のようである。プロレタリア文学こそ日本最初の「近代文学」だったと平野はいう。
 尾崎「あの日この日」は、文学史の峰々の頂に輝く文学者ではなく、その裾野で朽ち果てた人びとへの鎮魂歌であり、このような作品が可能だったのは、尾崎自身が志賀直哉という頂に生涯憧れつつ、危うく裾野で朽ち果てかかった一人だったからであるという(484頁ほか)。
 ぼくはなぜか数十年前に尾崎の「単線の駅」という小品集(随筆だったか?)を読んだ。井伏鱒二の「荻窪風土記」と前後して読んで、両方ともその淡々とした記述が気に入った記憶がある。ただし、豆豆先生2019年7月26日付によると、「単線の駅」はその頃断捨離してしまったようだ。そんな老境に達するまでの尾崎の前半生もぜひ知りたくなった。
 
 上に列挙した本は平野の紹介が面白そうだったので読んでみたくなったのだが、平野の紹介、評価にもかかわらず、北原武夫、林房雄などは今さらもういいだろうと思う。
 平野が旧制高校で本多秋五と同級生だったこと、出版社の校正係などをしながら生活していたこと、召集された高見順の代わりに作品集を編集したこと、プロレタリア派から転向後は大政翼賛会の情報局嘱託として日本文学報国会創設にかかわったこと、同会文化部長に岸田国士が就任したのは軍人・官僚に文学統制をさせないために、河上徹太郎が一縷の望みをかけて岸田を防波堤にしようとしたこと(416頁。岸田の部下にはぼくが大学でフランス語を習った小場瀬卓三さんの名前もあった424頁)、中里介山はただ一人入会を拒否したこと(429頁、どんな理由だったのか?)、戦後平野が埴谷雄高と再会したのは本郷の白十字だったこと(466頁。ぼくの先生は東大時代に白十字のウェイトレスに恋したことがあったと聞いた)、などなど平野の回顧談も含めて、これまで文学史上の人物として名前と代表作しか知らなかった作家の生身の姿を知ることができた。

 この本の中の文章で、ぼくの心に響いたのは次のような中村光夫の一文だった。昭和17年に「文学界」が主催した「近代の超克」座談会のために中村が提出した討論用資料の中の文章である。
 「いはば当時(開国時?)の西欧はあたかも19世紀後半に実用化された科学文明によって我国を威嚇し眩惑した。当時の西洋文明の移入とは極言すればその根本において機械の輸入とこれを運転する技術の修得にすぎなかった」。「出来合ひの知識をあまりむやみに詰め込まれれば、僕等の頭脳はそれだけ自分で物を考へる能力を喪はざるを得ない」と中村は書いている(447~8頁)。
 前半部分は今は措くとして、後半部分にぼくは強く共感した。これはそのままわが国の法律学にも当てはまるのではないか。20世紀後半、21世紀の法律家すべてがそうだとは言わないにしても、その人自身の頭で何を考えているのか理解できない場合がある。
 「下手の考え休むに似たり」ともいうが、やはり「学びて思わざれば則ち罔し」で、最後は自分の頭で考えるしかない。

 2024年10月12日 記

 ※ きょうで「豆豆研究室」のトータル訪問数が100万人を突破した。1,000,429 UU とある。いまだに「UU」というのが何のことは分かっていないのだが、延べで100万人以上の人が「豆豆研究室」を訪れてくださったと理解している。若い頃に雑誌編集者として紙媒体の出版に携わったものとしては100万人というのは信じがたい数字である。なお、トータル閲覧数は 2,250,645 PV となっている。
 最近は研究らしいことは何もしていないので、「研究室」という看板は下ろそうかと思っている。しかし、次は何という名前がよいか、どうやったらブログ名を変更できるのかも分からないので、しばらくはこのまま羊頭狗肉でいくしかない。

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平野謙「昭和文学私論」

2024年10月06日 | 本と雑誌
 
 平野謙「昭和文学私論」(毎日新聞社、昭和52年、1977年)を読んでいる。

 川本三郎さんの講演会をきっかけに永井荷風に関する本を何冊か読んだが、どうしても荷風という人物がぼくの中で納まりが悪い。
 先日別件で物置の中を漁っていたら、断捨離を免れて残っていた平野謙のこの本が目にとまった。ほとんど読んだ形跡はなかった。とくに荷風も登場する昭和初期の部分はまったく読んでいなかった。荷風の部分だけを読もうと思ったが、せっかくなので冒頭の横光利一から始まる第1章「昭和初年代の潮流」までを読んだ。
 旧制中学時代から文学青年で、文学雑誌を何種類も定期購読していた著者自身の読書遍歴を披歴しながら、昭和の各時代を象徴する作家や作品、関係事件を回顧する。

 昭和初期の時代について、平野は、円本ブームという社会現象よりも「文壇」が「文学者集団」から「文学サロン」に変質していったことを特徴として指摘する。
 当時の「文学サロン」は知らないが、昨今の「文学サロン」というものの雰囲気は、筒井康隆「文学部唯野教授」、映画「騙し絵の牙」などを読んだり見たりしたぼくにも了解できる。数日前にどこかのテレビ番組で北方謙三を特集していたが、その中で直木賞発表会か何かのパーティーの場面があった。選考委員の浅田次郎の隣りの席に元委員の北方がふんぞり返って座っていると、大沢在昌が近寄ってきて「委員でもないのに何を偉そうな顔して座ってんだ」と因縁をつけて笑っていた。次の場面では川上未映子と嬉しそうに立ち話をしていた。あれが「文学(?)サロン」なのだろう。
 あんな「文学サロン」が昭和初期にもう成立していたのだろうか。あれでは、荷風が「文士」や「文壇」を忌み嫌う気持ちがよく分かる。

 無駄話はさておいて、平野の荷風論である。
 荷風は、谷崎潤一郎のデビュー作「刺青」を三田文学の文芸評で激賞したという。この雑誌を買った谷崎は、両手をぶるぶる震わせながら神保町の電車通り(!)を歩きながら読んだという。明治43、4年のことである。谷崎はこれで確実に文壇に出られると思ったという(72頁)。 
 谷崎には、荷風と自分を比較した随筆があるそうだ(「雪後庵夜話」所収)。荷風にならって自分も結婚してはならないと一時は決意した谷崎だったが、それを実行できなかった理由を分析した内容である。その理由として谷崎は、荷風のような独身、孤立主義を貫くためには豊かな資産が必要だが、自分には養うべき両親や幼い弟妹があり、荷風のような「放縦な性生活」を営むには制約が多かったこと、自分はフェミニストで恋愛に関してはファナティックだが、荷風は常に女性をみおろし、玩具物視するきらいがあること、などを挙げているという(74、5頁)。
 谷崎の小説は何も読んでいないので判断できないが、荷風については納得できる。

 荷風の女性関係について、平野は秋庭太郎「考証永井荷風」に依拠して論ずる。大震災から昭和改元までの数年間に発表された荷風の随筆考証(という文人趣味)を「昔の美人が皺の目立った顔に白粉を塗っているような感じ」で、鴎外の行った考証に遠く及ばないと評した正宗白鳥の言葉に激怒し、また、山形ホテルのボーイを怒鳴りつけ、タイガーに3時間居座り女を虐待した云々という「文藝春秋」掲載のゴシップに怒って、「濹東綺譚」のなかで文藝春秋に一矢報いたりしたが、昭和5年頃の荷風はもはや過去の人であったと平野は書く(77、8頁)。かつて荷風に激賞されて文壇デビューした谷崎と荷風の地位は昭和6、7年頃には逆転していて、谷崎が書いた荷風「つゆのあとさき」(昭和6年)を褒める書評を、平野は「過褒」であるという(78頁)。

 「濹東綺譚」についても、平野は荷風の錯誤を指摘する。すなわち、荷風はこの小説の作者を「大江匡」として、作中人物の作家種田某が「失踪」という小説を執筆するために玉の井を探索すると設定しておきながら、荷風自身がしゃしゃり出て、自分が小説で苦心するのは背景となる場所の選定であるとか、実はそれが書いてみたいためにこの一編(「濹東綺譚」)の筆を執ったなどと書いていることを指摘する。
 平野は、これらを私小説的手法のゆきすぎによる手法上の破綻と断罪する(83頁)。60歳近い老人が海千山千の私娼に言い寄られ、彼女の真情を弄ぶに忍びないのでそっと身を引くというストーリーを「いまどき阿呆らしい話」とまでいい、この小説が一般読者に受けたのは、日中戦争勃発前の悪気流にたいする作者と読者の狎れあいによるものだったと解釈する(84頁)。
 ぼくは大江匡が荷風本人であり、「濹東綺譚」には「失踪」の作者種田某と大江匡と荷風自身という三人の「作者」が登場することに何の違和感も感じなかった。といより大江匡に存在感がなさ過ぎて、作者荷風(時々大江匡)と荷風の筆に翻弄される種田某の二人しか印象に残らなかった。それより、ぼくには「濹東綺譚」最終章の大江匡(荷風)の「身の引き方」は、ただの男というか小説家の狡さにしか感じられなかった。

 幸徳秋水の大逆事件に対する荷風の(「花火」に書かれた)真情についても、平野は疑問視する。大岡昇平は「花火」を、事件にかこつけて自己の無為を正当化したものであり、その後治安維持法の犠牲者には何の同情も示さなかった荷風は花柳界の他に自己の表現対象を見い出せなかったのだと批判したそうだ。平野は、その後の荷風を私娼とそのヒモに月給を与えて「実演」に興ずるような性的デカダンスに陥っていったと評する(~87頁)。
 荷風が当時の政府や軍部に協力、迎合しなかったことは間違いないが、さらに治安維持法の被害者に対する同情を示すことまで要求できるだろうか。ぼくは、その筋のお達しによりすべての「男は糞色服にゲートル」姿になったと、国民服のカーキ色のことを「クソ;色服!」と言い放って(「断腸亭日乗」昭和18年3月10日。半藤一利「荷風さんの昭和」172頁)、政府や軍部だけでなく国民服にゲートルなど巻いた一般国民をも冷ややかに見る荷風の眼差しも忘れられない。

 平野謙のこの本は、ぼくが生れ育った昭和の時代をふりかえる一書として、敗戦の昭和20年に至る残りの第2章以下も読むことにした。断捨離しないでおいてよかった。

 2024年10月6日 記

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G・シムノン「名探偵エミールの冒険」

2024年10月04日 | 本と雑誌
 
 ジョルジュ・シムノン「名探偵エミールの冒険1 ドーヴィルの花売り娘」(読売新聞社、1998年、長島良三訳)を図書館で借りてきて読んだ。
 シムノンは久しぶり、メグレ警部ものではないシムノンはさらに久しぶりである。
 「名探偵エミールの冒険」シリーズは全4巻で、すべて長島良三訳。原書は1943年の刊行で14作品を収めた1冊本だったようだ(G・Simenon,“ Les Dossiers de l'Agence O ”,GALLIMARD,1943)。

 第1巻には、「エミールの小さなオフィス」「掘立て小屋の首吊り人」「入り江の三艘の船」「ドーヴィルの花売り娘」の4つの短編が入っている。かつてメグレ警部の部下の刑事だったトランスが(名目上は)所長を務める私立探偵事務所の実質的経営者にして名探偵のエミールが主人公。
 メグレものの気だるいパリの街並みや気候の描写を期待して第1話「エミールの小さなオフィス」から読み始めたが、期待はずれだった。犯罪は宝石強盗で、犯人はまるで怪盗ルパンのような名人芸、対するエミールはまるで名探偵ホームズのような名推理と大活躍、といった話なのである。
 「ドーヴィルの花売り娘」は表題になっているくらいだから一番良いのかと思ったが、これもタネ明かしにがっかりした。
 
     

 せっかく図書館で全巻借りてきたのだから、せめて各巻1話だけは読んでから返却することにした。各巻から1つ選ぶなら、表題になっている作品がいいだろう。
 第3巻は「丸裸の男」を選んだ。警察による売春バーの一斉摘発でホームレスのような姿の男が警察署に拘引されて来た。そして丸裸かで身体検査を受ける。この男、実はパリでも有名な弁護士だったのだが、たまたま署内で見かけたトランスに助けを求める。なぜ彼はそんなのところで捕まることになったのか、といった導入から話は始まる。
 「巨匠シムノンの知られざる野心作」と表紙の帯(その一部分が切りとって扉に貼りつけてあった)の惹句は言うのだが、残念ながらぼくにはそうは思えなかった。
 
 第4巻は「O探偵事務所の恐喝」。表題作であり、第4巻そしてシリーズ全体の最終作である(全1巻の原書でも14作の最後に収録されていた)。O探偵事務所を訪ねてきた依頼者とエミールとの相談内容が外部に漏れてしまい、これをネタに事務所が恐喝される。事務所の信用が失墜しかねない事態に陥ってしまうのだが、この危機を救ってくれた事務所の秘書嬢とエミールが結ばれる(らしい)という結末でシリーズは終わる。表紙の帯には「濃厚に漂うパリのムードと繊細巧緻な人間描写」とあるが、そうだったかな・・・?
 第4巻巻末の訳者解説によると、シムノンは第2次大戦のパリ解放後にアメリカに移住し(なぜか?)、英語で読んだダシール・ハメットの私立探偵ものに影響を受けて、このシリーズを書いたという。カリフォルニアの乾いた風土と、パリのどんよりと雲った空気は違うだろう、どうせなら舞台もカリフォルニアにしてしまえばよかったものを、と思う。

 最後に第2巻「老婦人クラブ」が残った。この巻は題名からして読む気になれないのだが、読んだほうがいいだろうかと読む前の段階からすでに悩ましい。読まないことになるかな・・・。

 40年以上昔に、白いアート紙のカバーがかかった集英社版「シムノン選集」全4巻(だったか)を古本屋で見つけて買ったことがあった。この時もメグレものの雰囲気を期待したのだったが、第1巻「雪は汚れていた」を読んだが、メグレ警部のようには面白くなかったので(内容はまったく覚えていない)、それ以降の巻は読むのをやめ、結局4冊まとめて古本屋に売ったか捨ててしまった。
 シムノンは生涯で2、300冊の小説を書いたというから(第4巻の訳者解説によれば、メグレもの84編、その他の中編200冊、短編は1000編以上も書いたという!)、中には凡作、駄作も多かっただろう。
 ぼくはメグレもの以外のシムノンは好きになれなさそうだ。

 2024年10月4日 記

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秋庭太郎「永井荷風伝」、半藤一利「荷風さんの昭和」

2024年09月30日 | 本と雑誌
 
 秋庭太郎「永井荷風伝」(春陽堂書店、1976年)、半藤一利「荷風さんの昭和」(ちくま文庫、2012年、単行本は1994年)を読んだ。
 秋庭の本は、荷風伝の第一人者による評伝で、かなり詳細に荷風の人生を辿っている。荷風とは絶縁した弟威三郎側からの情報提供があったと思われる記述も散見される。生前の荷風は威三郎と和解することはなかったが、威三郎は荷風の葬儀委員長を務め、墓を永井家の墓所内に建立して弔ったことなどが紹介されている。秋庭は日大の図書館長を務めた人物で、威三郎は日大農学部の教授だったというから、日大で接点があったのかもしれない。

 ぼくが本書でいちばん興味をもったのは、荷風の死後に起った佐藤春夫と中村光夫の論争の紹介であった。佐藤春夫は荷風の慶応義塾教授時代の教え子(第1期生)で、偏奇館への出入り自由が許されるほど荷風の寵愛を受けていたという。ところが日中戦争に従軍作家として同行するなどその戦争協力の言動が荷風の怒りを買って破門された。
 その佐藤が「小説永井荷風伝」を発表したところ、中村がこれを痛罵したのである。出版社の商魂にのって「小説」などと冠したことが怪しからん、評伝なら「評伝」で行くべきだ、そもそも「小説」と銘うつだけの創作性がないという趣旨だったらしい。
 これに対して、佐藤は、「荷風=エディプス・コンプレックス説」を打ち出したところが佐藤の創見であり、それが「小説」と銘うった由来であるなどと応酬した。中村は、荷風は母の危篤臨終に際しても会いに行くことなく、他方で毎年元旦には亡父の墓参りをしている、そのような荷風の生涯をエディプス・コンプレックスで説明するのは危険であると反論した。これに対して佐藤は、エディプス・コンプレックスは当人が意識しているわけではない、彼の作品に母親のことが書かれていないからといってコンプレックスがなかった証拠にはならないなどと反論している(554頁~)。
 アメリカ、フランス留学中から始まり、最晩年の玉の井通いまで変わらなかった荷風の女性関係(買春)、常人の想像を絶する色欲を思うと、エディプス・コンプレックス説もぼくには了解できない仮説ではない。むしろ荷風に好意的な仮説ではないか。佐藤の荷風伝も読んでみたくなった。

 荷風をめぐっては、もう一つ、平野謙と江藤淳との論争があったことも紹介されている。こちらは、荷風の死にざまを出発点とした論争だったらしい。
 荷風は昭和34年4月30日の未明に吐血し、背広姿のまま万年床にうつ伏せで倒れているのを、朝になってから通いのお手伝いさんに発見され、駆けつけた医師が胃潰瘍の吐血による窒息死と診断した。検死直後の写真がアサヒグラフ誌に掲載されたという(545頁)。秋庭の本書には、亡くなった際に荷風が来ていた背広が衣紋掛けに吊るされた写真が載っているが、上着の襟や前身頃のあたりに(おそらく吐血をふき取った)跡が残って白くなっているのが分かる(510頁と511頁の間)。
 川端康成が「うつぶせの亡骸の写真」に定着された死と表現した(らしい)荷風の死に方に平野かショックを受けたと書いた。これに対して江藤は、「あの醜悪な屍骸に詠嘆するとは何たることか・・・私にはそれは一個の屍骸にすぎない」といい、さらに荷風を「芸術家」としてではなく「一個の年金生活者(ランティエとルビが振ってある)、ないしは個人主義者として規定しようとした」評論を書いた(553頁~)。荷風の死に際しては、死亡それ自体ではなく、その死に方も話題になった様子である。荷風は亡くなる2か月前に浅草で発病したが、その後亡くなるまで一度も医師の診察を受けていない。秋庭はこれを「覚悟の死」ではなかったかと推測する(544頁)。ぼくもそう思う。
 
 なお、余談ながら、戦後になって、荷風の「四畳半襖の下張」が流通して荷風も警察の取調べを受けたことが報じられた(朝日新聞昭和23年5月7日付)。これが神保町すずらん通りの露天商によって売り買いされていたという(509頁)。
 すずらん通りには、三省堂書店からはじまって東京堂書店、東方書店、内山書店などの書店が並び、出口近くには喫茶店サボウルがあった。社会科学系の紀要類のバックナンバーがそろっていた東邦書房という古本屋もあった。バブル前の1980年代にはまだ映画館も1軒残っていたが、その後地上げにあって解体されてしまった。あのすずらん通りに、戦後は露店の本屋が並んでいたのだ。ぼくは野坂昭如編集の「話の特集」(だったか「面白半分」)に掲載された「四畳半襖の・・・」を入手したが、面白くなかった。友人に貸したら返ってこなかったが、あまり惜しいとも思わなかった。

 もう1冊の本、半藤一利「荷風さんの昭和」は、前に読んだ「荷風さんの戦後」より以前に出版された本だが、「荷風さんの戦後」と同様に、荷風に対して距離を置いた位置から、冷やかな眼で観察している。
 荷風は「処女を犯したことなく、道ならぬ恋をしたこともない」旨を「日乗」で自慢(言い訳?)しているが(昭和3年12月31日付)、本間雅晴の妻(白鳩銀子、別名田村智子)と関係を持っており、この言葉には嘘があると半藤は指摘する(88頁)。ただし彼女は多情奔放な女性だったらしいから、荷風は彼女を「素人」とは考えなかったのかもしれない。
 そう言えば、荷風は「日乗」の中で、半藤の義父である松岡譲が夏目鏡子から聞き書きした「漱石の思い出」が漱石の精神病などにまで言及したことを厳しく批判していた。半藤と荷風とはそんな因縁もあったのだ。
 ただし半藤は、荷風の「日乗」の中に見られる社会批判(とくに政府や軍部軍人批判)の鋭さ、世界情勢を見きわめる慧眼ぶりを随所で指摘する。そして、荷風は新聞雑誌を一切読まなかったという「日乗」の記述に疑問を呈している。ぼくも「摘録」を読んだだけだが、荷風はけっこう新聞や雑誌に目を通していたのではないかと推測した。当時の新聞は大本営発表の垂れ流しだったから、「改造」や「世界文化」「日本評論」「セルパン」などの雑誌を読んでいないと、友人からの伝聞や世間の噂話だけではなかなかあそこまでの観察、記述は難しかったのではないかと思う。

 この本にも荷風の最期に関する記述がある。
 半藤は、荷風死去の報を受けて真っ先に荷風宅を訪れた1人だったという。当時半藤は創刊間もない週刊文春の記者で、検視がすんだ直後に駆けつけた彼は、納棺の一部始終をまじかで目撃した。そして週刊文春の昭和34年5月18日号に記事を書いている。その記事では、警察が準備した棺桶が小さかったため長身の荷風の遺体が収まらず、葬儀屋の手で「荷風の脚は折れんばかりにまげられた」という観察が記されている(11頁)。
 先日川本三郎さんの講演会を聞きに行った時も、フロアからの質問者が「荷風はカツ丼のどんぶりに頭を突っ込んで死んでいたというのは本当か」と質問し、川本さんがそんなことはないと回答していた。秋庭の本によると荷風は死の前日まで八幡駅前の大黒屋で菊正宗1本とカツ丼を食べた(飯す)というから、その辺りからカツ丼伝説が生まれたのだろう。その講演会の帰り道で、一緒に聞きに行った旧友が、「棺桶に収まらなかったので、荷風の脚を折ったという話だ」と言っていたが、カツ丼伝説よりは真実に近い話だった。友人も半藤の本を読んでいたのかもしれない。

 この本でぼくがもっとも興味をもったのは、荷風と佐藤春夫の関係を語った個所だった。半藤は雑誌記者としては荷風と交流はなかったようだが(荷風の嫌悪する菊池寛、文藝春秋の記者だったから当然か)、佐藤とは親しく接する機会があり、荷風との関係を直接聞いている。
 荷風から破門された佐藤本人が破門の理由を語った個所がある(234~6頁)。軍人嫌いの荷風は戦争協力を一切拒否して「戯作者」として暮らしたが、慶応義塾教授時代の教え子だった佐藤が従軍作家になったり、右翼壮士風の姿で皇道文学を吹聴することなどを苦々しく思い、「日乗」にも苦言を記している。
 佐藤が戦後に発表した「小説永井荷風伝」によると、2人の関係破綻が決定的になったのは、戦時中の時事新報で、佐藤が荷風を評して「祖国の風土を愛し国語の純化を努むる荷風の如きは蓋し規格外の愛国者か」と書いたことにあったらしい。荷風がもっとも嫌う「愛国者」などと評されたことに腹を立てたのであると佐藤は回顧している(235頁)。時局に無関心を装いながら、開戦当初から日中戦における日本軍の敗北を予見するなど、荷風の戦局の見立てはきわめて正確である(236頁)。
 ぼくが読んだ「摘録・断腸亭日乗(上下)」では、荷風は「愛国者」とか「非国民」といった言葉を一切用いていないかったと思う。奴隷の言葉としても「文学によって国に報いる」式のことも一切書いていない。誰かが引用した宅孝二の回想の中に、自分や荷風や菅原夫妻の集まりを「非国民」の集まりと書いているのを見たくらいである。佐藤の主観では、軍部に睨まれている恩師の風よけになってやろうくらいのつもりだったかもしれないが、「愛国者」呼ばわりしたのでは荷風の逆鱗に触れるのもやむを得ないだろう。

 佐藤は半藤に向かって、荷風は親しかった誰に対しても「愛のはてに憎悪しかみない」寂しい人でしたと評したという(同頁)。弟威三郎、従弟生杵屋五叟らの親族から始まって、平井程一、小西茂也、菅原明朗夫妻、そして佐藤春夫に至るまで、一時は親しかったり世話になったりした周囲の人々と最後には確執を生ずることになったあれこれのエピソードが思い浮かぶ。
 詩人としての才能を荷風に認められたかつての愛弟子によるうえの言葉は、ぼくの腑に落ちる評言であった。佐藤は荷風を「偏狂人」と書いているが(同頁)、戦争協力は論外としても、ややこしい師匠に応接しなければならなかった弟子の側にも言い分はあっただろう。

 2024年9月30日 記

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永井荷風「断腸亭日乗(一)」

2024年09月29日 | 本と雑誌
 
 永井荷風「断腸亭日乗(一)大正6ー14年」(岩波文庫、2024年)を図書館で借りてきたが、同時に借りた吉野俊彦「断腸亭の経済学」(NHK出版)を読み始めたら面白くて、「日乗(一)」のほうは読まないうちに返却期限が来てしまった。
 この7月以来、これまでに川本三郎さんの「荷風と東京ーー『断腸亭日乗』私註」(都市出版)その他を読み、吉野「断腸亭日乗の経済学」を読んで、「観察者=見る人」荷風の様々な側面が見えてきた。

 磯田光一編「摘録・断腸亭日乗(上・下)」では省略された個所に何が書いてあるのか気にはなるが、今後毎月1冊づつ刊行されるらしい岩波文庫版の「日乗」の第2巻以下を全文を通読する気力はない。
 第1巻については、巻末の中島国彦「総解説」だけを読んで、ひとまず返却することにした。 
 第2巻以降は昭和に入るが、昭和の日記は、玉の井や銀座、浅草通いや、家計簿的な記述の部分は読みとばして、世相というか社会批判(軍人官僚警官嫌い、菊池寛田舎漢嫌い)に目を向けて荷風の昭和史を眺めることにしよう。
 それと、日付けの上に付された ○ 印、● 印に、今回の文庫版の校注者たちがどのような注釈をつけるのかも興味がある。吉野によれば、その日に性交渉があった場合が ● 印らしいが。

 形式面では、今回の岩波文庫版は、例の岩波文庫現代表記化の方針に従って随分誌面がすっきりした印象になった。しかし他方では、あの難しい旧字体の漢字に埋まって黒々とした荷風の日記の雰囲気は薄れてしまった。
 10年ほど前にサマセット・モーム「アシェンデン」の新訳(新潮文庫)を買った時には、その誌面がすかすしていたのに驚いた。その後いよいよ小さい文字を読むのが困難になったのに、今回の「日乗」は、そのすっきりしすぎた誌面が荷風らしくないと不満に思う。年寄りは天邪鬼である。
 せっかく行間を広くとった版面(はんずら=振り仮名)になったのだから、どうせならもっとルビをたくさん振ってほしかったが、ルビはほとんどない。荷風の文中に出てくる「購う」に「あがなう」と振り仮名を振った本も、「かう」と振った本もあるから、振り仮名を振るという作業は案外難しいのかもしれない。
 反漢字主義者の山本有三が編集した小学国語教科書で漢字を習いはじめ、中学校の国語教科書(光村図書)に載っていた芥川龍之介「魔術」で日本の小説に目覚め、しかし中学生になってもルビと注釈が(巻末には読書指導も)ついた偕成社版「少年少女文学全集」で漱石、鴎外などを読んでいた晩生の少年は、老年になっても漢字に苦労している。 

       
 読めない漢字をまたぞろCASIO電子辞書「漢字源」の手書き入力で調べながら読むのは煩わしい。せめて旺文社文庫版の「ふらんす物語」(上の写真)くらいにルビを振ってもらうと助かるのだが。岩波文庫の読者は、あの程度の漢字ならルビなしで読むことができるのだろうか。

 2024年9月28日 記

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吉野俊彦「『断腸亭』の経済学」

2024年09月27日 | 本と雑誌
 
 吉野俊彦「『断腸亭』の経済学ーー荷風文学の収支決算」(NHK出版、1999年)を読んだ。
 図書館で借りてきて読み始めたのだが、内容が面白かったので古本屋で探して買ってしまった。送料込みで609円だった。定年退職後は本は増やさない方針なのだが、この本は手元に置いておきたいという思いを抑えられなかった。

 著者は日銀所属のエコノミストだが、鴎外研究などをものした著述家でもあった。しかも著者は、晩年に荷風が暮らした市川の生まれ育ちで、昭和20年代に自宅近くの八幡駅前で何度か荷風を見かけたことがあったという。さらに荷風の疎開先である岡山で勤務した経験から、同地での疎開生活の記述にも地理勘がある。
 そして、「断腸亭日乗」に見られる印税、預貯金、株式・不動産売買などの収支、日用品の価格、交通費から買春、身請けなど女性に要した出費などの詳細な記述の中に荷風の経済観念の鋭さを読み取り、昭和経済の変動をうかがう昭和経済史の第一級の資料として「断腸亭」を読み解いたのが本書である。
 大正・昭和初期、準戦時期、戦時期、戦後期の時系列で書かれているが、各時代の冒頭にその時代の経済情勢の簡潔な記述があり、高校日本史の復習にもなった(131頁金融恐慌、202頁井上デフレなど)。戦後の金融緊急措置例の経過では、戦前の預金が戦後の預金封鎖で紙切れ同然になってしまったといっていた亡父や、終戦後に大学の1か月分の非常勤手当で吉祥寺駅北口から10分、東京女子大近くの売地が買えたのに(買わなかった)という亡母の嘆きを思い出した(386頁)。

 表紙の帯に書かれた「抱いた、書いた、儲けた。」という惹句が、荷風の女性関係、文筆活動、経済生活というまさに本書の内容を要約している。
 <抱いた>について。 
 荷風の女性関係は、基本的に売買春である。著者は、その頻度や費用を「日乗」から丹念に広いあげる。昭和4年5月4日以降の「日乗」の日付欄には「●」や「○」の印がついていることがある(190頁)。岩波版第2期全集の後記にもこの印について詳細な言及があるが、その意味については説明がないという。著者は、これは荷風がその日に性交渉があったことを示す印だろうと推測する。
 荷風が関係を持った女性の氏名と関係をもった期間は荷風自身が「日乗」に列挙しているが(本書520頁以下に一覧あり)、著者は、「日乗」から「○」「●」印をすべて洗い出して、昭和4年(荷風50歳)41回(/年間)から、昭和19年(65歳)28回までを一覧表にしている(192頁)。最後にこの印がついたのは昭和32年3月18日(荷風78歳)の日記の「○」印だった(449頁)。
 そして荷風が一時期妾とした山路さん子や関根うたを身請けした際の代金がともに1000円だったことも日記に記されている(194頁)。荷風が通った玉の井(戦後は小岩や海神にも出没したらしい)などの私娼の料金は、戦時中は一晩30円だったのが(214頁)、終戦後はショート100円、泊まり400円に上昇したとある(373頁)。いずれにしても、印税だけで数億円を稼ぐ年もあった荷風にとっては痛くも痒くもない出費だっただろう。

 <書いた>について。
 荷風が書いたことについては、これまでの荷風関連書でも十分に論じられているが、著者独自の考察として、荷風の出版物の定価や部数が詳しく記録されている点がある(後の<儲けた>と重複する)。例えば大正末期から昭和初期にかけての改造社版および春陽堂版円本の対比(141、152頁)、岩波文庫に収録された荷風作品の増刷部数の一覧表などがついている(270頁)。
 「日乗」に見られる荷風の斜に構えた世相批判の指摘も随所にある。関東大震災を、それ以前の(第一次大戦)戦後の浮かれた世相に対する「天罰」であると書き(108頁)、自分の春陽堂版全集が売れるのは「世を挙げて浮華淫卑に走りし証拠」などと書いている(116頁)。戦時中に軍部が戦地の兵士の慰問用として「腕くらべ」の増刷を要求してきたことを荷風は「何等の滑稽ぞ」と記している(296頁)。

 <儲けた>について。 
 経済面では荷風は相当裕福な一生を送ったが、荷風を「ランティエ」とする見方に著者は異論を述べる。ランティエとは年金や預貯金の利息などで仕事もせずに生活できるフランスの富裕層を意味するが、荷風は確かに親から相続した不動産や預貯金、株式などを豊富に持っていた。しかし、荷風の経済基盤は相続した株や不動産の売却益などの不労所得よりも、荷風自身の文筆活動による印税収入によるほうがはるかに大きかったと著者は見る。当初は借地だった「偏奇館」敷地の買取りの経緯などでも、銀行を相手にした荷風の経済感覚の鋭さが指摘される(343頁)。
 とくに昭和初期に起った円本ブームの頃(昭和2年)の日記には、荷風の所得税額は「2万6千円以上」と書いてある(157頁)。この「所得」とは実際の収入から経費を差し引いた金額であり、当時の税務実務では文筆家は収入の50%を経費として控除することが認められていたから、実際の収入は倍の5万円以上あったはずで、その額は現在の貨幣価値に換算すると数億円に上ったという。荷風は相続した余丁町の不動産売却や株への投資などでも儲けているが、その経済基盤はけっして「ランティエ」のようなものではなかった(401頁)。
 ただし、晩年の荷風は文化勲章による年金と、芸術院会員としての俸給が支給されることを楽しみにしており、昭和27年12月16日の文化勲章年金証書受領の記事から、亡くなる1か月前の昭和34年4月2日の「年金45万円受取」まで毎年年金受領の記事があるから(477頁~)、晩年の荷風は「ランティエ」といっても差し支えないだろう。

 そして、本書最終章「荷風とケインズ」では、著者は、恩師中山伊知郎のエッセイを引用する。中山は、経済学者にとどまらず企業家、投資家でもあり巨万の財産を有したケインズと、(当時の作家の中では富裕層とみられた)荷風との共通点を指摘する。それは二人の蓄財の目的である。
 中山によれば、2人の蓄財に共通していた目的は、「いやな仕事をしないための自由」「一切の世間的な付合いを絶って勝手に生活できる自由」の確保であった。そのためには金なしで生きる生活もありうるが、2人はこの自由を得るために金銭的に備えた点で共通するというのである(517頁)。
 著者も中山の説に共感し、荷風が(残高2000万円以上ある)預金通帳を常に持ち歩いていて紛失したり(新聞記事になった)、亡くなった際の枕元にも通帳入りのバッグが置いてあったことを揶揄する意見があったが、これらのエピソードは 荷風の精神的自由を象徴するものであったとして本書を結んでいる。
 
 最後に今回も、miscellaneous な話題をいくつか。
 まず驚いたのは、戦前の荷風が長年住んだ麻布の「偏奇館」に「ペンキ館」とルビが振ってあったことである(15頁)。どこかに荷風自身が、ペンキ塗りの建物なので「ペンキ館」と呼んだことが紹介してあった。「へんき館」だとばかり思っていた。
 つぎに、売春防止法以前の売買春に関して、誰も解説してくれないので分からなかったことを知ることができた。
 売買春が行われる場所である「待合」「料亭」そして「芸者家」(芸者置屋?)を「三業」といい(「自宅」「別宅」の場合もある)、待合は場所を提供するが賄い施設はもたず、食事はすし屋などから出前を取るが、料亭は自前の賄い施設をもっているという違いがあること、芸者を呼ぶ場合には芸者家ではなく検番を経由しなければならないことが説明してあった(85頁)。
 それらの場所にやってくる女性のうち、芸を売るのが芸妓(体を売る場合もある)、体を売るのが娼妓だが、その他にカフェ女給、素人もいた(81頁)。娼妓は、公認されているが性病検査などの義務がある公娼と、非公認の私娼に分かれる。実際には私娼も黙認されていたが、時おり抜打ちの取締り(臨検)があった。「ひかげの花」はそのような私娼がモデルである(229頁)。
 著者の説明で、荷風「濹東綺譚」や「日乗」の背景はかなり理解できた。

 荷風の慧眼ぶりを示す例として、中央公論社版全集刊行の経緯がある。岩波と中公がともに全集刊行の申し込みをして競い合ったが、結局中公での刊行が昭和15年11月に決まり、中公は5万円の手付けを支払っている。驚くのはその契約書で、中公側は刊行開始時期を「昭和20年12月1日以降」と明記しているのである(274頁~)。まるで4年後の昭和20年8月の終戦を見越したような日程である。
 しかも、実際に終戦になった翌日の8月16日に、荷風は中央公論社長の嶋中雄作宛てに手紙を出しており(367頁)、さっそく嶋中は熱海に疎開中の荷風を訪ねている。おそらく全集についての話合いであろう。その後、中公の内紛(林達夫氏が退社した!)、社長の急死などもあったが(428頁)、中公版全集は完結した。
 戦後の荷風は寡作で、見るべき作品もないが、著者はその理由として、心身(色欲)の衰えのほか、「荷風全集」の刊行に集中したことを指摘している。「日乗」の記述も、昭和24年のドッジラインによるインフレの終息以降は経済生活の記述は姿を消し、経済史的資料としての価値は消滅したとする(472頁)。

 戦後になって市川に荷風を訪ねてきたかつての愛妾関根うたへの荷風の対応はきわめて冷淡である(500頁)。これも荷風の「いやな世間と付き合わない自由」の行使なのだろうか。映画「放浪記」のラストに、戦後に売れっ子作家になった林芙美子のもとに金を無心に来る親戚や慈善団体を林が追い返す場面があったが、あのような事情でもあったのだろうか。

 2024年9月27日 記

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紀田順一郎「日記の虚実」

2024年09月16日 | 本と雑誌
 
 紀田順一郎「日記の虚実」(ちくま文庫、1995年。元は新潮社、1988年)を読んだ。
 川本三郎「ミステリと東京」の紀田の紹介欄でこの本の存在を知って、さっそく図書館で借りてきた。永井荷風「断腸亭日乗」が取り上げられているのではないかと期待したのだが、期待通り載っていた。しかもかなり荷風に対して辛口の評価である。荷風「日乗」を客観的に読むうえでも役立ちそうである。

 紀田によれば、本書が刊行された1988年頃、わが出版界で「日記ブーム」が起きたという。一般に作家の日記は文学評論の対象として作品論が展開されてきたが、紀田は、日記は「日記論」ないし「日記研究」の視点から検討する必要があるとして、本書を書いたという(263頁~、296頁)。
 作者はなぜ日記を書いたのか(動機)、日記に何を書いたのか(内容)、その日記は記録なのか、創作なのか、内容の真偽はどのように確定するかなど、「日記」は「日記」という形態の特殊性から解読する必要がある。紀田は、日記を書く動機として、わが国の学校での日記教育(大宅壮一「青春日記」など)、海外生活の経験(荷風「日乗」など)、人生の展開、転機など(徳富蘆花、竹久夢二の日記など)があるという。
 最初は荷風「日乗」の章だけを読むつもりだったが、面白かったのでついついほぼ全部を読んでしまった。

 その日記が公開を予定して書かれたのか、公開を予定ていなかったかも重要である。
 樋口一葉は公開を予定していなかったが、一葉の没後に妹が添削を加えて発表したことが明らかになっている。
 紀田は「一葉処女説」論争に最大の関心を寄せる(そんな論争があったとは!)。一葉は小説の師匠である半井桃水と観想家久佐賀義孝という二人の男と交渉があった。半井との間には性的な関係はなかったとするのが通説のようだが、久佐賀との関係は日記からは明らかでない。紀田は、経済的に苦境にあった一葉が久佐賀から60円(現在の金額で180万円くらい)の借金をした以降の8か月間に及ぶ日記が欠けていることに注目する。この間は一葉が日記を書かなかったのではなく、久佐賀との間の微妙な内容が書いてあったので妹が抹消したのではないかと推測する(46頁)。
 この論争には、塩田良平、吉田精一など、ぼくが高校大学受験の頃の国語参考書や辞典の著者、監修者として名前を知った人たちが登場する。荷風も、一葉は桃水の妾だったという説を和田芳恵に吹聴した人物として登場する(56頁)。

 紀田の「後書き」は、本書で取り上げた日記の中で永井荷風「断腸亭日乗」をもっとも愛着を抱いてきたと書く(296頁)。しかし本文中の記述は「断腸亭」の「虚実」に集中する。
 荷風は佐藤春夫の門弟だった平井程一を気に入って懇意にしていた時期があった。最初の荷風全集が岩波書店ではなく中央公論社から刊行されることになったのも、平井と中公嘱託社員猪場毅の貢献があったからだという(101頁)。
 しかし、平井が荷風の偽書を作ったことをきっかけに両者の関係は断絶する。荷風は「日乗」の中で平井を批判しただけでなく、平井をモデルにした「来訪者」という小説まで執筆して、平井と思しき人物を「淫蕩」「強慾冷酷」な人間などと扱き下ろしているという(106頁~)。
 戦後になって、紀田は平井やその愛人(?)と面談する機会があったが、到底荷風が描いたような人間には思えなかったという(戦後の平井は荷風を「色の聖」と評したという)。荷風がそこまで平井を憎んだ理由は、平井の偽書の中に「四畳半襖の下張」が含まれており、これが官憲の目に入って自分が追及されることを恐れたためではないかと推測する(115頁~)。荷風「日乗」はこのことにまったく触れていないが、まさに書かないことによる「日記」の「虚」を示す一例である。紀田は偏奇館焼失によって「日乗」は終わっていると評する(117頁)。

 徳富蘆花の日記は、家族制度の下で自分を抑圧した父親の臨終に際して、葬儀に出席しない決意をした時から書き始められている(70頁~)。人生の転機である。日記には、父親や兄蘇峰に対する蘆花の憎しみ、同志社時代の一歳年下の女性(新島襄の姪)や同居人琴に対する思いなどがつづられている(63頁)。蘆花の妻は夫の女性関係を憎み、お互いに相手の日記を盗み読むかと思えば(79頁)、夫婦間の交合を書き残すなど(85頁)、微妙な愛憎関係が記されている。
 40年以上前に蘆花公園で、蘆花の生存時のままに保存された居室を見たが、刺繍の施された色褪せた洋式寝台のベッドカバーが印象的だった。あれがこの日記に記された愛憎劇の現場だったのだろうか。
 岸田劉生の日記は、従来からも指摘されていることのようだが、遺伝的な精神疾患や、身体的な異常への劉生の恐れが底流に読み取れるという(136頁~)。それが麗子像の変遷にも反映されているという。
 竹久夢二の日記は、博文館から立派な日記帳をもらったので書き始めたということだが、内容は、荒畑寒村を介して幸徳秋水の大逆事件に関与した嫌疑をかけられ、警察から常に監視されつづけたことによる不安が底流にあったという(156頁~)。夢二の描く絵や商業的な成功とは裏腹に、日記に記された彼の内面はかなり不安定だったらしい。大逆事件という冤罪の捏造は幸徳秋水らの生命だけでなく、荷風や夢二にまで影響していたのだ。

 野上彌生子の日記には、中勘助に対する終生変わることのなかった思い(182頁)、自分の留守中に岩波茂雄が訪ねてきたというだけで嫉妬する嫉妬深い夫豊一郎に対する不満(息子素一よりもフランス語会話力がなかったなどと夫を詰る記述もある。187頁)、志賀直哉、芥川龍之介、武者小路実篤、与謝野晶子、平塚雷鳥、宮本百合子らに対する強い反感、否定感情などが書かれている(193頁)。辛気臭そうで読む気にもならなかった野上彌生子の日記だが、意外に人間臭い内容もあるようだ。しかし読みたいとは思わない。
 古川ロッパは、ぼくはその名前を目にしたことがあるだけで、どんな人物かどんな演劇だったのかはまったく知らなかった(声帯模写の始祖だったらしい)。日記よりも、ロッパが自由民権論者から国権主義者に転向した加藤弘之の孫であり、浜尾四郎の弟であるという素性にびっくりした(242頁)。加藤は嫡子一人だけを自ら養育し他の子たちはすべて養子に出したという。養子に出されたロッパは早稲田を中退し小林一三に見出されてデビューするが、座付作者にすぎなかった菊田一夫がやがて脚光を浴びるようになると、彼に対する軽蔑と嫉妬をあらわにする(255頁)。「所詮は百姓」などと侮蔑的な言葉を浴びせる(257頁)。
 日中戦争、太平洋戦争中の日記の代表として伊藤整の日記が取り上げられているが、この時期の作家の日記はとくに「虚実」が怪しいので、読みとばした。引用された中では高見順の日記がもっとも率直な印象を受けたが・・・。
 ぼくが読んだ戦争中の日記では山田風太郎「戦中派不戦日記」(講談社文庫、1973年)が一番印象深い。引っ張り出してみると、「日記は自分との対話だ」というが、年齢相応の青臭さや噴飯物の観察や意見もある、とくに自分でも閉口するのは「妙に小説がかった書き方をした部分である」と書いている(529頁「あとがき」)。そして小学校の同級生34人中14人が戦死したという現実の前にはこの日記の空しさを感じると書き、「人は変わらない。そしておそらく人間のひき起こすことも」と結んでいる(531頁)。

 本人が日記の公開を予定していたか否かに拘わらず、今日公開されている日記を読むわれわれの側に、他人の日記を「盗み見る」楽しみがあるのは間違いないだろう(香山リカの解説は「スリルや興奮」という)。本書で紹介された、樋口一葉の支援男性との関係、徳富蘆花の蘇峰に対する憎しみ、永井荷風と平井程一の絶縁をめぐる虚実、岸田劉生、竹久夢二らの内心の悩み、野上彌生子、古川ロッパのライバルに対する敵愾心など、いずれも他人の日記を合法的に「覗き見」る面白さがなかったと言ったら嘘になるだろう。
 紀田は、日本人の日記の特徴として天候に関する記述が多いことと、俳諧的であることを指摘する(289頁~)。内容の真偽、虚実はともかく、荷風の「日乗」の気候描写がその日の荷風の心象までを表わしており、その漢文調の流麗で簡潔なな文章は漢詩の訓み下し文を読んでいるような印象だったことが想起される(ただしぼくの知っている漢詩は教科書に載っていた李白、杜甫、孟浩然などごくわずかだが)。

 ぼく自身は、1964年(中学3年生)から3年間は旺文社の「学生日記」で、その後の約10年間は大学ノートに日記を書きつづけた。1974年に編集者になってからは出版団体が毎年発行する小型の「Books」という日程表に日々の予定や出来事をメモに取り、教員になってからは所属大学が発行する日程表に日々の予定や行動をメモしてきた。
 ぼくが日記を書き始めた動機は、旺文社の学習雑誌の広告を見たからだと思うが、その後の大学ノート時代は、思春期・青年期の自分を老後になってからもう一人の自分がふり返る楽しみ、ノスタルジックな回顧趣味のためだった(紀田も、日記には後から自省したり回顧する意味があるという。282頁ほか)。
 日記を書いてきた唯一の実益は、大学を定年退職する際に学内紀要に「業績目録」というものを掲載してもらう際の資料として大いに役立ったことである。大した「業績」もなかったが、教員時代の「自分史」を作るつもりで30年弱の日記(日程帳)を全頁読み返して、「業績」といえるかどうか分からないが、教師(その前の編集者)としての活動を洗いざらい列挙した。
 この「豆豆先生」は2006年から書き始めたが、2020年の定年退職後はこの「豆豆先生」だけが唯一の「日記」になってしまった。いやいや、「お薬手帳」と「血圧手帳」もあったか。

 2024年9月16日 記

 ※ 参考文献欄(300頁)の「秋葉太郎」は「秋庭太郎」の誤り。
 

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川本三郎「ミステリと東京」

2024年09月14日 | 本と雑誌
 
 川本三郎「ミステリと東京」(平凡社、2007年)を読んだ。
 ミステリー小説のたんなる舞台や背景としての東京ではなく、その小説のテーマにもなっている「東京」に着目して読み解く評論集である。「ミステリー小説に現われた昭和の東京」といった内容だが、時系列にはなっていない。
 興味のある作家と作品だけをつまみ食いで読んだ。取り上げられる小説でぼくが読んだのは宮部みゆき「理由」と、広瀬正「マイナス・ゼロ」、松本清張「張込み」、その他数冊しかなかった。

 島田荘司「火刑都市」には、明治初年から22年頃の東京を、たんなる江戸の延長ではなく、しかし病める近代東京でもない幸せな時間だったとする小木新造「東亰時代」(NHK出版、1980年)論に依拠した記述があるらしい。明治 6年九州生れのぼくの祖父は、戦後になってからも東京を「東亰」(とうけい)と言っており、語頭にアクセントを置いて発音していたと亡母から聞いた。高校の同級生に小木さんの縁者がいたので、「東亰時代」が出版された時にはその旧友を思い出した。
 宮部みゆき「理由」は、深川生まれで「下町っ子」を自称する宮部が描く下町小説。川本さんは東京は東東京が中心の「水の都」だったというが、宮部は江東を「ゼロメートル地帯」という。ぼくの印象でも下町は大雨のたびに浸水が報道される浸水地帯だった。
 桐野夏生「水の眠り 灰の夢」は、所謂「草加次郎」事件を下敷きにしている。昭和38年頃から始まった連続爆破事件の犯人が自らを「草加次郎」と称したのだが、中学生だったぼくは、いつどこで電車の網棚に爆弾が仕掛けてあるかわからないという恐怖心を抱いた覚えがある。草加次郎は鰐淵晴子にも脅迫状を送ったという(105頁)。
 昭和30年代の千駄ヶ谷は「旅館」(ラブホテル)の並ぶ町だったと川本さんは書くが(110頁)、ぼくが信濃町の出版社に勤めていた昭和50年代になっても、千駄ヶ谷駅北口と新宿御苑の間にはその手の「旅館」がまだ残っていた。湯島辺りのその手の旅館とは違って、千駄ヶ谷の旅館は本当に「ご商談」をする人でも利用できそうな隠れ家風の旅館だった。川本さんは、「出張校正」という言葉は「今や死語か」と書いている(98頁)。出張校正が死語とは・・・。1974年から9年間、毎月末の数日間を板橋小豆沢の凸版印刷で過ごしたあの日々を何といえばよいのか。

 広瀬正「マイナス・ゼロ」は、わがブログ「豆豆先生の研究室」の出発点となった小説である。
 本書に出てくるタイム・マシンのあった場所は、何と、ぼくが生まれた世田谷豪徳寺(玉電山下)の隣りの梅ヶ丘なのである。ぼくは梅ヶ丘駅北口の根津山(根津家の所有する山だったのでそう呼ばれていたのだろう。戦争中は斎藤茂吉の青山脳病院が疎開していたと北杜夫のエッセイに書いてあった。最近は羽根木公園というらしい)にしょっちゅう遊びに行ったが、おっちょこちょいだったぼくがそこでこのタイム・マシンに乗ってしまった可能性は否定できない。
 昭和20年5月25日に東京山の手を襲った空襲のことも出てくる(127頁)。世田谷も被災したこの空襲の思い出は父母からよく聞かされた。当時わが一家が住んでいた松原の家は幸い被害を免れたが、四谷軒牧場の近くに撃墜されたB29が落ちたのを見に行ったという。パイロットはまだあどけなさの残る少年のような死に顔だったと母が言っていた。1945年5月に世田谷の松原(赤堤)で生涯を終えたアメリカ青年がいたのである。
 川本さんは荷風を「ノスタルジーの作家」と性格づけていたが、本書では、この小説も広瀬の東京へのスタルジーが強く表れているといい(134頁)、タイムマシンはSF小説というより「ノスタルジー」小説であると結んでいる(139頁)。ぼくもそう思う。タイムマシンだけでなく、「時をかける少女」や「謎の転校生」なども、ノスタルジックなSFである。
 ぼくのこのブログは「気ままな “nostalgic journey” です」とサブタイトルをつけてあるが、玉電山下や軽井沢の思い出を書いたものだけでなく、読んだ本や見た映画の感想を書いたものも、いつの間にか失われた過去を懐かしむ気持ちがにじみ出てしまう。

 小杉健治「土俵を走る殺意」は、東京オリンピックの頃に集団就職で秋田県から上京してきた3人の若者が主人公。彼らが休日に見に行った「成人映画」(後に「ピンク映画」と呼ばれるようになる)の第1作が香取環(懐かしい!)主演の「肉体市場」(1962年)だったと川本さんの薀蓄が聞ける。主人公の一人は相撲取りになるのだが、折から秋場所の最中、大学卒の力士や相撲名門高校出身の力士がずらりと並ぶ番付は隔世の感がある。中卒で入門したという熱海富士でも応援するか。※と書いたら、念力が通じたのか、この日(9月14日)の取組で熱海富士は翔猿に快勝した。
 小杉「灰の男」は、向島生まれの小杉による東京大空襲の被害者に対する鎮魂歌。

 久生十蘭「魔都」は戦前(1937年)の作品。「魔都」東京の地下は、張りめぐらされた地下水道の「迷路」(ラビリンス)になっている(294頁)。東京の下水道は、明治か大正の時代に、東京でコレラか赤痢が流行した際に皇居を感染から守るために整備されたと、学生時代に柴田徳衛さんの「現代都市論」で聞いた。地下の迷宮といえば森達也「千代田区一番一号のラビリンス 」(現代書館)を思い出す。あれも久生を参考にしたのだろうか。

 紀田順一郎「古本屋探偵の事件簿」は神田神保町が舞台。ガラス張りのエレベーターの古書センターのビニ本屋(!)の向かいに開業した小さな古書店主が主人公(355頁~)。紀田には「日記の虚実」という著書もあるらしい。荷風「断腸亭日乗」の虚実も出てくるのだろうか。※出てくる!
 逢坂剛は「カディスの赤い星」だけ読んだ。ヘミングウェイ「誰がために鐘は鳴る」から始まって、斉藤孝「スペイン戦争」(中公新書)、石垣綾子「オリーブの墓標」(立風書房)など、「スペイン内戦」はかつてのぼくの関心領域の一つだった。当時5歳だった息子がこの本の背表紙を見て「カディスの赤い星」とたどたどしい文字でなぞって書いたので、とくに印象に残っている。
 逢坂は駿河台下にあった中大法学部の卒業で、神保町に近いので博報堂に入社したそうだ(375頁)。文化学院、駿台予備校、山の上ホテル、カザルスホール(かつては主婦の友社!)から、天ぷらの「いもや」(小豆島のかどやごま油の揚がる匂いが店内に漂っていた)まで、懐かしい場所が出てくる。ぼくは一度だけ神保町のどこかの古書店に入っていく逢坂の姿を見かけたことがある。散歩日和の昼下がりだった。

 その他いくつか。
 藤原伊織の中で、新宿紀伊國屋書店の改築の話が出てくる(346頁)。東京オリンピックの頃だったらしい。ぼくは改築前の建物が取り壊されて更地になっていた時にその前を通ったことがあった。土の色が妙に濃いこげ茶色だったのが印象的だった。改築後の紀伊國屋の2階のレコード店から聞こえてくる音楽のエピソードは川本さんの他の本でも読んだが、ぼくは紀伊國屋というと、エスカレーターで2階に上がるといつもリンガフォンが宣伝のために流していた英会話テープの音声が聞こえてきたのを思い出す。リンガフォンは今でもあるのだろうか。
 藤村正太「孤独なアスファルト」は、東京オリンピック前夜の吉祥寺、井の頭公園が出てくるらしい。
 髙村薫「照柿」の舞台は拝島、福生あたりである(410頁)。昨年来旧交を温めている高校時代の友人の本拠地が福生なので、二度訪問して横田基地周辺から東福生まで歩いたので多少の地理勘がある。
 中井英夫には「黒鳥館戦後日記 西荻窪の青春」という著書があるらしい(424頁)。「西荻窪の青春」というサブタイトルは胸に刺さる。
 本書のどこかに、典厩五郎なる著者の「名探偵大杉栄の正月」というのが挙がっていた。山田風太郎の明治伝奇物のような内容だろうか。ちょっと興味をひかれたが読む時間はないだろう。

 結びは松本清張で。
 松本清張の原作を映画化した「張込み」に関して、石炭ストーブの話題が出てくる(446頁)。川本さんの杉並第一小学校は石炭ストーブだったと書いているが、ぼくも小学校、中学校ともに石炭ストーブだった。この辺は川本さんと「同時代」を生きている。ちなみに映画の「張込み」のロケ地は祖父が生まれた佐賀だった。
 松本は上京して最初に練馬区の関町に住み、やがて上石神井に転居したので、西武線沿線の練馬区や豊島区がよく出てくるという(449頁)。そう言えば、石神井公園内にある練馬区郷土館(?)に地元ゆかりの有名人として松本清張の名が出ていた。
 松本の「歪んだ複写」には調布の深大寺が出てくるらしい。「波の塔」で検事が人妻と密会する場所も深大寺だそうだ(466頁)。軽井沢在住作家たちが作品の中で密会場所として小瀬温泉を選ぶようなものか。映画化された「波の塔」には深大寺ロケのシーンが登場するという。深大寺周辺もその後宅地化が進み、武蔵野の面影はかなり失われてしまった。あそこの蕎麦屋さんの姪がゼミ生にいた。

 今回も川本さんの読書量に圧倒された。
 しかし、やっぱりぼくは西東京(旧田無市には非ず)が舞台でないと気持ちが入らないようだ。

 2024年9月14日 記

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半藤一利「荷風さんの戦後」

2024年09月13日 | 本と雑誌
 
 半藤一利「荷風さんの戦後」(筑摩書房、2006年)を読んだ。
 川本三郎さんとは違った角度から見た永井荷風の違う側面を知りたいと思ったのだが、それなら荷風の天敵菊池寛の創業した文藝春秋の編集者だった半藤の書いたものがふさわしいのではないか。
 半藤は自らを「歴史探偵」と称するが、「傍観者」といいながら軍人や軍国主義者に対する反感、憎悪の感情(「田舎漢」!)をあからさまに日記に記した荷風が、戦後の日本社会に対してどのような関心を持っていたかに興味があったので、半藤の本書も面白く読んだ。半藤の書いたものを読むのは今回が初めてだが、もっと硬い文章を書くのかと思っていたので、江戸っ子風の文体は意外だった。
 半藤は、「断腸亭日乗」の中から、荷風の好色さ(「日乗」の日付の上に付けた「○」だの「●」だのという印はその日の性的事項の有無を暗示するものだそうだ)、勘定高さ、吝嗇ぶりを示すエピソードなどを紹介するだけでなく、「日乗」には戦後史の何が書いてあり、何が書かれなかったかを検討し、さらには「日乗」以外の文献から「日乗」には書かれなかった荷風の戦後の言動を紹介する。

 川本さんの描く荷風には、「東京」の「風景」を発見した「見る人」としての荷風、江戸情緒と近代人の二面性を持つ「明治の児」としての荷風に対する川本さんの敬愛の念がにじみ出ているのに対して、半藤の描く荷風には、好色で奇行の目立つ老作家荷風に対する皮肉で冷ややかな視線が感じられる。荷風のことをしばしば「爺さん」と揶揄的に呼んだりもする。
 ただし半藤も、戦後間もなくの学生時代に中公版「荷風全集」の「日乗」で読んだ「時流に流されぬ堅固な姿勢と、日記を書き続けるゆるぎない筆力と、流暢な、あまりの名文に」は舌を巻いたのであり、敗戦後の物資不足の折に「断腸亭日乗」を含む「荷風全集」を刊行した中央公論社への感謝を記している(157頁)。
 本書の著者は川本さんとはそりが合わないのだろう、川本さんの浩瀚な著書「荷風と東京」はまったく引用されることなく(参考文献欄にも載っていない)、わずかに市川時代の荷風の日常生活を支援した青年に関する川本さんの随筆を引用するだけである(164頁)。 

 「摘録・断腸亭日乗」(岩波文庫)を読んだときに、ぼくは荷風は昭和天皇のことをどう思っていたのかということが気になった。とくに難波大助事件の伏字と13行だったかの削除部分に何が書いてあったのかが気になった。本書でもその回答は得られなかったが、昭和20年の天皇とマッカーサーの会見の写真が新聞紙に掲載されたことに対する荷風の感想が記されている。
 荷風は、「余は別に世の所謂愛国者と云う者にもあらず、また米国崇拝者」でもないが、「日本の天子が米国の陣営に微行して和を請い罪を謝するが如き」ことがあるとは思わなかった、幕府瓦解の際に慶喜がとった態度は今日の陛下よりはるかに名誉あるものだった、これに反して、昭和の軍人官吏の中には勝海舟に比すべき良臣がいなかったと書いている(9月28日)。
 「荷風は、思いもかけぬ天皇好きであったのだろうか」と半藤は評しているが(46頁)、ぼくは必ずしも「思いもかけぬ」とは思わなかったが、戦前の「日乗」もきちんと読まなければ判断はできない。

 「摘録・断腸亭日乗」(したがって岩波全集版「断腸亭日乗」)の昭和22年5月3日の項は、「米人の作りし日本新憲法今日より実施の由。笑ふべし」となっている。おそらくこれが「日記」の原文なのだろうが、昭和31年に発表された「葛飾こよみ 荷風戦後日暦」の同日の項では「日本新憲法今日より実施の由なり」と書き改めていたという(105頁)。
 ぼくは「摘録・断腸亭日乗」を読んだとき、この「笑うべし」の真意が何だったのかに引っかかった。つい先日までは「鬼畜英米」とか言っていた連中が、手のひらを返すようにアメリカ人におもねる姿を笑ったのか、それともアメリカ嫌いの荷風であったから、アメリカ人の作った憲法を笑ったのか。
 それでは昭和31年の改変はどういう意図だったのか。昭和31年といえば日本の逆コース化、対米追随がますます明確化する時期である。この時期に「米人の作りし」憲法とか、「笑ふべし」といった文言を削除した荷風の本心はどこにあったのだろうか。

 荷風「日乗」がふれなかった戦後の事件が列挙されているのも興味深い。
 荷風が無視した事件としては、例えば、昭和22年では、ヤミ米拒否の山口良忠判事の餓死事件、極東軍事裁判の審理開始などは一切記載がない。昭和23年には、帝銀事件、菊池寛の死去、太宰治の情死などは無視されるが、極東軍事(東京裁判)で「旧軍閥の首魁荒木東條」らに死刑判決が出たことを報じる号外が電柱に貼り出されたことは書き残している(166、7頁)。
 文士を嫌い、それこそ文士の首魁ともいうべき菊池を嫌った荷風が太宰や菊池の死に関心を示さなかったのは当然だろうが、東京裁判はどう思っていたのだろうか。少なくとも「米英豪による報復裁判、笑うべし」とは書かなかった。半藤によれば、この頃から「日乗」の記述は俄然、簡略になりはじめるという(169頁)。

 昭和24年には、下山事件、三鷹事件、松川事件は無視するが、日参していた浅草のストリップ劇場のストライキには言及する。スト解除後に出かけてみると、米兵が舞台に上がって踊り子と戯れており、これを傍観する邦人の気概の無さに憤慨する(181頁)。この年ドッジラインによって戦後のインフレは終息に向かうが、この時期から「日乗」からも物価高騰に対する恨みは完全に消えるという(185頁)。
 ぼくが生まれた昭和25年頃には、浅草ロック座のヌード嬢の楽屋に日参してはマスコミの餌食になっていたらしい。川本さんを読む前は、荷風といえば浅草のストリップ小屋の楽屋で踊り子と戯れる老人というイメージを持っていたが、この頃の荷風の実像だったようだ。
 その浅草ロック座で軽演劇用に書いた原稿を、天敵であるはずの文藝春秋(新)社「オール読物」の上林吾郎に手渡している。舞台の宣伝用だろうから、荷風は「商売上手」であったと半藤は書く(190~3頁)。
 林芙美子、吉屋信子に関する「日乗」の記述はそっけない。荷風は美人が好きだったので、このお二人は到底美人とは言いかねるのが原因だろうと評した者があったという(207~9頁。半藤の評価ではない)。

 「日乗」では無視するか、きれいごとで済ませているが、実情はそうでもなかったという事例が、荷風が市川で居候した小西茂也(知人だった仏文学者、「ゴリオ爺さん」「風流滑稽譚」などの訳者)や後に荷風の養子となった永井永光のエッセイなどから紹介される。大家にとって荷風は厄介な居候だったようだ。
 従兄(従弟?)の杵屋五叟宅に居候をしながら、(荷風)「先生」は、三味線の稽古が始まると火箸を叩いて妨害し、下駄や靴のまま畳の上を歩き、雨戸から放尿したりしたと養子は書く(87~90頁)。
 小西宅では、襖を締め切った座敷の中で七輪の火をおこす。娘が「火事ですか」と注意に行くと、「はいはい、火事ですよ」と平然と答えて雑誌類を燃やしつづけたこともあった(159頁)。幸田露伴の葬儀の際は、喪服がないので「平服」で遠くからお送りしたと「日乗」には書くが、当日荷風が実際に着用した「平服」とは、麦藁帽子に白いシャツ、黒ズボンに下駄ばきだったと小西は書く(123頁)。
 
 昭和28年、荷風の文化勲章受章に陰で貢献したのは久保田万太郎だったと中央公論社の社史に書いてあるそうだ(215頁)。中央公論社長の嶋中鵬二の工作もあったと思われる。授与式で着用したモーニングは先代嶋中雄作の遺品だったという。荷風自身は当時刊行中だった「全集」の中の「断腸亭日乗」に対して授与されたと考えたようである(213~25頁)。
 川本さんのものを読めば、荷風の文化勲章受章も宜なるかなと思うが、半藤を読むとよくぞこの人物がという思いがわく。
 半藤には菊池寛をテーマにした書物はあるのだろうか。あれば荷風論と照応しながら読んでみたい。

 「断腸亭日乗」の完全版と称するものが岩波文庫から刊行され始めたが、いささか眉に唾して読まなければならない。少なくとも、そのすべてが史実、事実だとは思わないほうがよいだろう。あれも一種の作品、フィクションと言わないまでも脚色された日記と思って読んだほうがよさそうである。

 2024年9月12日 記

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永井荷風「濹東綺譚」

2024年09月12日 | 本と雑誌
 
 永井荷風「濹東綺譚」(岩波文庫、1974年)を読んだ。
 1974年頃に買ったのだろうが、ちょっと読んだだけで投げ出したまま50年近くが経過した。ある程度の年齢にならないと面白さが分からなかったのは、小津安二郎の映画と同じか。
 最近、川本三郎さんの講演「荷風を読む楽しみ」を聞き、同氏の「荷風と東京ーー『断腸亭日乗』」を読んで以来、荷風に興味が湧いてきた。好きになることはできないけれど、なぜか興味が湧いてきてしまうのである。
 そこで、放ってあった「濹東綺譚」も読んでみることにした。幸い手元にあった岩波文庫(昭和49年10月発行、18刷)は、新字体、新仮名遣い、振り仮名つきに改版された後のものだったが、活字が小さすぎたので、図書館で岩波文庫ワイド版を借りてきて、そっちで読んだ。

 ストーリーは単純で、荷風と思しき小説家である「わたくし」(一応「大江匡」という名前がついている)が、「失踪」という小説を書こうと構想する。「失踪」の主人公(種田順平)は、妻と不仲になって私立学校の英語教師をやめてしまった51歳の男である。種田は受け取った退職金を持ったまま家族のもとから失踪して、カフェの女給と逃避行を始める。この種田という人物も荷風の一面をあらわしているようである(25頁の木村壮八の挿絵に描かれた種田の後ろ姿は荷風のように見える)。
 種田の最初の逃避先を玉の井に設定するために、「わたくし」は玉の井の情景を描く必要から玉の井に出かけ、街を歩いているとにわか雨が降り出し「わたくし」の雨傘の中に女が飛び込んでくる。こうして知り合った雪子という私娼と親しくなり、その生態を観察する。しかし、雪子が本気になりそうな気配を感じたところで、「わたくし」は雪子と別れる決意をしたことをほのめかして話は終わる。「失踪」のほうも未完成のままで終わっている。

 この後に「作者贅言」という蛇足がついている。
 話の端々で、昭和10年代(発表は昭和12年)の世相に対する荷風の辛辣な感想が述べられるが、以下に引用した文章は、その「作者贅言」から引用したものが多い。
 昭和4年頃、銀座の表通りにカフェーが出現した頃、荷風はそこで酔っぱらった(「酔(え)いを買った」)ことがあった。このことに対して、あらゆる新聞が筆誅を加えたらしい。「文芸春秋」同年4月号に至っては、(荷風を)世に「生存させて置いてはならない」人間とまで非難したという(63頁)。それ以来、荷風はマスコミの筆誅を避けるために、身をやつして辺境だった玉の井で遊ぶようになった。玉の井に向かう東武電車の中でも、新聞記者と文学者とに見られて筆誅されることを恐れて、人目につく日中には出かけないように注意している(125頁)。
 「断腸亭日乗」には、荷風が忌み嫌う「田舎漢」の筆頭に(文芸春秋社主の)菊池寛の名をあげていたが、そのような因縁があったのだ。

 荷風は江戸情緒を愛する一方で、近代的なダンディズムを身につけた都会人だったが、「わたくし」が玉の井に行くときは、古ズボンに(下女からもらった)古下駄を履き、古手拭いの鉢巻をして出かけた。これなら、路上であれ電車内であれ、どこでも好きなところへ痰唾を吐けるし、煙草の吸い殻やマッチの燃え残りも捨てられる(99頁)。
 当時の東京の下町(砂町、千住、葛飾金町辺りと書いている)では、こんなことが平然と行われていたのだ。滝田ゆうが玉の井を描いた漫画に、駅のホームに置かれた痰壺が描いてあったが、痰壺に向かって痰を吐く人はむしろマナーのよい人だったのだ。

 戦前昭和期の東京の世相の移り変わり、とくに「東京の田舎化」とでもいうべき現象に荷風の筆は及んでいる。
 婉曲に満州事変(昭和6年)に言及するが、東京人が満州での出来事など真剣に考えていないで日々の喧騒にまぎれている様子が描写される(150頁)。二・二六事件(昭和11年)の号外が電柱に張り出された時も同じで、銀座通りを歩くおびただしい人たちは何ら特別の感情もあらわさず、話題にもしないで通り過ぎていったと書いている(151頁)。
 この頃から、銀座通りには柳の苗木が植えられ、朱骨の雪洞(ぼんぼり)がともされ、銀座の町がさながら田舎芝居の中の町の場といった光景を呈し出したと評し(同頁)、銀座の町を酔客がひょろひょろとさ迷い歩くような不体裁は、昭和2年に野球見物の帰りの慶応の学生や卒業生が群れをなして銀座の町を襲って乱暴狼藉を働いた事件に始まると書く(157~8頁)。
 荷風が慶応の教授に就任した時に、ある理事から「三田の文学も稲門に負けないように尽力していただきたい」と言われ、文学芸術を野球と同一視する愚劣さに眉をひそめたというエピソードも挿入される(同頁)。

 昭和11年に東京の周縁部が東京市に併合された折には、市電には花電車が走り、日比谷公園では東京音頭が踊られた。しかしこれは東京市の拡大を祝うためではなく、実際には日比谷の角の百貨店の宣伝にすぎず、その百貨店でのみ売られている浴衣を買わなければ入場できなかったという(161頁)。
 明治の末頃は、地方でも盆踊りは県知事の命令で禁止されており、もちろん東京にも盆踊りの習慣などはなかったが、田舎から出てきて山の手の屋敷町に雇われた奉公人に限って盆踊りが許可されることになったという(161頁)。まったく知らなかった。
 コロナ前までは、わが家の近所のお祭りでも、大人は東京音頭を、子どもたちはオバQ音頭などを踊っていたが、今年は盆踊りの音は聞こえてこなかった。コロナ禍の自粛の時期に静けさを知った近隣住民から騒音の苦情が出たのだろうか。

 2024年9月11日 記

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滝田ゆう「私版・昭和迷走絵図」

2024年09月02日 | 本と雑誌
 
 滝田ゆう「私版・昭和迷走絵図」(東京堂出版、1987年)を眺めた(正式な書名は「滝田ゆうの私版昭和迷走絵図」)。東京堂出版というのは、あの神田神保町すずらん通りにある東京堂(書店)と関係あるのだろうか。

 この本も、川本三郎さんの「荷風と東京--『断腸亭日乗』私註」で引用されていたので、興味をもって図書館で借りてきた。「寺島町奇譚」と同じく、著者が育った旧向島区寺島町、かつての玉の井の風景や人物を描いた絵も多いが、本書は玉の井に限られず、著者が旅した日本各地の昭和の風景が描かれている。しかも、前書と違ってほぼ全頁カラー版である。

 モノクロだった「寺島町奇譚」で描かれた玉の井はそれらしくうらぶれた風景に見えたが、カラー版の本書で描かれた玉の井は、例えば、「2 迷路への小路」「12 わが下町」「44 旧玉の井停車場跡」などを見ると、著者の同級生だった円歌が回想したような汚い町(私娼窟)ではなく、日ざしを浴びてどことなく美しい町並みのように見える。幼年・少年時代の著者にとっては玉の井は懐かしく輝いていたのだろう。

 2024年9月2日 記

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川本三郎「荷風と東京ーー『断腸亭日乗』私註」(その1)

2024年09月01日 | 本と雑誌
 
 川本三郎「荷風と東京ーー『断腸亭日乗』私註」(都市出版、1996年)をようやく読み終えた。
 本文510ページ。途中で旅行をしたり、他の本を読んだりして中断があったが、ほぼ1か月かかった。
 最初のうちは読み通せるか自信がなかったが、途中からは読み終えるのがもったいなくなって、1章1章を銘酒でも味わうようにちびちびと読んだ。

 岩波文庫の「摘録・断腸亭日乗」と違って、荷風からの引用は旧字体、難しい漢字や熟語に振り仮名(ルビ)もないので、読めない漢字・熟語に出あうたびに CASIO<EX-word>の「漢字源」(学研)で、手書き入力して読み方や意味を調べながら読んだため、ちびちびと読むしかなかったのである。ぼくが調べた漢字はすべて「漢字源」に載っていた。漢和辞典、恐るべし。
 「帙」(ちつ、和綴じ本を収める函)、「晡下」(ほか、お八つ時間以後の夕刻)、「初更」(しょこう、日没から日出までを5分した内の最初の5分の1の時間帯)のような、自分が言葉を知らないことを思い知らされるような簡単な言葉から、「躑蠋」(てきちょく、立ち止まること。これは本書で最後に調べた言葉になった)のような、知らなくてもやむを得ないと自らを慰めるような言葉まで、とにかく漢文の素養のある荷風と言葉の豊富な川本さんに悪戦苦闘した。

 永井荷風「断腸亭日乗」をこれほどまで詳細に読み込み、関連文献を渉猟、援用し、さらに荷風の眺めた風景を訪ね歩いて再体験する川本さんのエネルギーに圧倒されつづけながら読み進めた。
 今は圧倒されて、読後感を簡単に書くことができない。とりあえず読み終わったことだけを記録として書きとどめておくことにした。

 2024年9月1日 記 
 ※ ほぼ正午に読み終わったが、テレビのニュースによると、まさに今日正午、迷惑千万の台風10号は熱帯低気圧に変わったという。

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滝田ゆう「寺島町奇譚(上・下)」

2024年08月31日 | 本と雑誌
 
 滝田ゆう「寺島町奇譚(上・下)」(筑摩書房「滝田ゆう漫画館 (1) (2)」、1992年)を読んだ(?)。

 読みかけの川本三郎「荷風と東京--『断腸亭日乗』私註」(都市出版)のなかで、玉の井(寺島町)出身の漫画家で、昭和戦前期の玉の井風景が描かれていると紹介していたので、図書館で借りてきた。
 滝田は生前には時おりテレビで見かけたが、1932年(昭和 7年)の向島区寺島町(現在の墨田区向島町)の生まれで、田河水泡の内弟子を経て独立したとある。漫画の中の「ドン」という小さなスタンド・バーの息子が滝田本人らしい。
 驚いたことは、三遊亭圓歌(歌奴)の後書き(下巻)によると、滝田、圓歌、小川宏、出羽錦、早乙女勝元が、同地の小学校(学校名は書いてなかった)の同窓生だったという。下町空襲の資料収集で有名な早乙女さんと同窓だったとは知らなかった。
 ※ 滝田ゆうの本を1冊持っていた。「下駄の向くまま--新東京百景」(講談社)という画文集である。小学校の同窓生だったという早乙女勝元「ゴマメの歯ぎしり--平和を探して生きる」(河出書房新社)と並べて(下の写真)。
   

 さて、「寺島町奇譚」だが、確かに東京大空襲で町全体が焼失する前の玉の井の雰囲気を知ることができる。玉の井(寺島町)は「どぶ川があったり・・・。それがまた汚いどぶ川でね、真っ黒なんでおはぐろどぶって呼んでた。その周りに女郎屋さんがあったんですね。まああんまりいい町じゃないんですよね。要するに私娼窟ですから」と圓歌はいっている(下441頁)。
 川本「私註」では、玉の井の匂いを、娼家の便所から流れ出る洗浄液と屎尿の臭気と書いた大林清の文章が紹介されていたが(407頁)、滝田の漫画からは、そんな臭いまでは漂ってこなかった。荷風「断腸亭日乗」や「濹東奇譚」では私娼が健気に生業を営むひっそりとした町のように描かれているが、荷風の「陋巷」趣味によって美化された描写なのだろう。

 この漫画で描かれた玉の井の風物で、昭和25年に山の手で生まれたぼくとの共通の思い出もいくつかあった。
 まず、どぶ川である。どぶ川は世田谷の玉電山下の駅前にもあって、経堂方面から東松原方面に向かって流れていた。玉の井ほど汚くはなかったが、屎尿も含んでいただろう下水(生活排水)が流れていたはずである。草の繁る幅30センチくらいの川岸があり、ぼくたちは山下駅前の橋の袂から土手を降りて、その狭い川岸をトミヤ洋品店やウワボ菓子店の裏(下)を通って赤堤通り(?)に架かる橋のあたりで地上に戻った。
 滝田はそのどぶ川で笹舟を流す競争をやっていた。笹舟の競争はぼくらもやったが、さすがに山下のどぶ川ではやらなかった。どこでやったのだろう?

 各家の塀際に置かれた木でできたゴミ箱(小津の「風の中の雌鶏」などにも登場していた)、そのゴミを収集に来た収集車はこれまた木製の大八車だった。木樽を天秤担ぎしたおわい屋(と当時は呼ばれていた)なども共通である。漫画ではおわい屋に滝田の母親が金を払っているが、昭和30年頃はうちの母親に5円を渡していた。滝田の家は商売をしていたから有料だったのかも。
 京成電車の駅には痰壺が描かれているが、痰壺は昭和40年代まで電車の各駅の柱の脇に置かれていた。「痰は痰壺に」といった標語が貼られていた。もちろん駅の便所も汲み取り式だった。
 電信柱に病院の広告が貼ってあるのも同じである。昭和40年代になっても、西荻窪の中学校の周辺にはやたらと性病科の広告が目立った。「淋病」などという言葉を知ったのもその広告からだった。

 メンコ、ベーゴマも昭和30年代の玉電山下界隈で行われていたが、ぼくはまったくやらなかった。ベーゴマなどまわし方も分からなかった。
 ぼくは野球一筋で、近所の路地でキャッチボールや屋根ボールをやって遊んだ。少年時代のサリンジャーもアメリカで屋根ボールをやっていたらしい。エラーしたボールはしょっちゅう道路わきの小さなどぶに落ちた。どぶには灰白色の濁った下水がよどんでいた。藻のような得体のしれないドロッとした物も交じっていたが、ぼくたちは拾いあげたボールをちょっと振って水を切り、濡れた手はズボンにこすっただけで、キャッチボールを再開した。赤痢や日本脳炎などで死ぬ子もいた時代に、よくぞ生き延びたものである。
 夕方になるとそんなぼくたちを一瞥しながら、近所のアパートからMさんという女性が腰をくねらながら出かけていった(「ペーパー・ムーン」のライアン・オニールの彼女!)。水商売の女性だったのだろう。玉の井ではありふれた人だったが、ぼくたちとは別世界の人に思えた。滝田の漫画の女性たちは色っぽくないのが残念。

 二つの空き缶を紐でつないで、両足の親指と人差指の間に挟んで歩く遊びも昭和30年代の世田谷に残っていた。洗い張りを営んでいる家もあった。
 「玄米パンのホーヤ、ホヤ」といいながら売りに来るパン屋もあった。東京オリンピックの昭和39年頃になっても、西荻窪では玄米パン売りの声が授業中の教室に聞こえてくることがあった。ぼくは見たことがないが、この西荻の玄米パン売りは、ロバが牽く車で売りに来ていると近所の子が言っていた。ぼくは玄米パンを食べたことがないが、圓歌は「格別おいしいものではない」と語っている。

 一番驚いたのは、迷路のようだったという玉の井の路地の随所に「ぬけられます」という案内が出ていたが、その案内がある路地は行き止まりだったということ。あれは実は道案内ではなく、お客を袋小路に迷い込ませる娼家や飲み屋の作戦だったという。
 昭和戦前の私娼街の治安はどうだったのだろうかと、荷風や川本を読みながらいつも気になるのだが、飲み逃げと「危険人物」くらいしか滝田少年の思い出には出て来なかった。

 2024年8月31日 記

 ※ 漫画本というのはほとんど読んだことも手にしたこともなかったが、今回借りた滝田の本の傷み方はひどかった。今までに図書館で借りた活字の本でこれほど傷んだ本は見たことがない。漫画本の借り手はよほど本を乱暴に扱うのだろうか。

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芦原伸「草軽電鉄物語」ーー緑陰の読書(その3)

2024年08月19日 | 本と雑誌
 
 芦原伸「草軽電鉄物語――高原の記憶から」(信濃毎日新聞社、2023年)を読んだ。
 昭和35年だったかに営業廃止になってしまった草軽電鉄の廃線跡を、新軽井沢駅から草津温泉駅まで歩いて辿る紀行である。
 かつて芦原の書いた「西部劇映画事典」(NHK生活新書、書名、出版社名とも不確か)を読んだことがあった。子どもの頃からの映画好きで映画館に通って西部劇映画を見てきたという著者のこの本は面白かった。この本を道しるべにして、西部劇映画のDVDを何十本も見た。
 なんで今度は「草軽電鉄」なのかと思ったら、著者は鉄道雑誌の編集長も務めた紀行作家だった。著者は名古屋出身だが、母親が毎夏、軽井沢の女子大寮で開かれる同窓会に出席していて(日本女子大の三泉寮だろうか?)、草軽電車の思い出話も語っていたので、以前から関心があったところ、定年後に嬬恋に別荘を建てて移り住んだのをきっかけに草軽電鉄廃線の旅を始めたのだという。

 著者は、草軽電鉄の路線に沿って、新軽井沢駅から、旧軽井沢、三笠、鶴溜、小瀬温泉、長日向、国境平、二度上、栗平、北軽井沢(旧・地蔵川)、嬬恋、上州三原、谷所、草津温泉までを、各駅にまつわるエピソードや思い出話などを挟みながら踏破する。
 例えば、軽井沢のエピソードでは、軽井沢を避暑地として「発見」したのは宣教師のA・ショーと言われているが、実は彼より以前に英国外交官のアーネスト・サトウが「日本旅行日記2」(1882年。平凡社、東洋文庫)で軽井沢を紹介しており、ショーはサトウの紹介を見て軽井沢を訪れたことが紹介されている(38頁)。
 
 草軽電鉄は、草津温泉に向かう湯治客を運ぶことと、木材や薪炭(硫黄も運搬したらしい)の運搬を目的として大正4年(1915年)に営業を開始した。当初は信越線の沓掛駅(長倉。現在の中軽井沢駅)と草津温泉を結ぶ計画だったが、軽井沢の有力者が軽井沢の別荘開発を約束したため、軽井沢を起点とすることになったという。
 ちなみに「草軽電鉄」とは「草津」と「軽井沢」を結ぶ電車の略称だと思っていたが、実は「草津軽便」鉄道の略称だという(22頁)。知らなかった。
 起点の新軽井沢駅の駅舎は、信越線(現在のJR長野新幹線)軽井沢駅北口のロータリーの北側にあったという。軽井沢駅ホーム(北側)の立食い蕎麦を食べた記憶はあるが、草軽電鉄の駅舎はまったく見た記憶がない。

 2つ目の旧軽井沢駅は、現在の旧軽井沢ロータリーの東側にあり、廃線後は洋菓子のヴィクトリアの店舗になったあたりにあった。この駅にカブト虫型の機関車が停っている姿は記憶にある。ぼくの記憶では、新軽井沢-上州三原間が廃止になる昭和35年の直前には、現在のいわゆる旧軽銀座の入り口のあたりに踏切があった。しかし本書に載っている昭和30年の旧軽ロータリー付近の踏切の写真を見ると、あまりにも寂しい風景で、ぼくの記憶とは一致しない(48頁)。昭和30年代末の旧軽井沢(旧道ロータリー)の記憶と混戦しているのだろうか。
 ※ 下の写真は、現在の軽井沢駅北口に保存されている草軽電鉄のカブト虫型機関車。

   

 三笠駅から線路は蛇行して(かつ逆行して)鶴溜駅に向かう。
 お盆などで国道18号が混雑する時は、千ヶ滝から星野温泉の裏手を通って鶴溜から旧軽井沢に行くことがあったが、鶴溜を通るたびに、何で草津温泉に向かう草軽電車が鶴溜に向かうのか不思議だった。本書によれば、一つは三笠から小瀬温泉への上り坂が急だったために蛇行せざるを得なかったのだが、もう一つは起点を沓掛駅から新軽井沢に変更したことへの配慮もあったようだ(55頁)。鶴溜から沓掛までは2・6キロ、徒歩で40分近くかかったが、当時の人たちはこのくらいの歩きは平気だったようだ。星野から軽井沢に向かうにも草軽電車は便利だった。
 小瀬温泉は、軽井沢在住作家の小説の中で不倫カップルの密会の場所として登場するのを読んだことがあるが、今では宿屋は一軒しかないという。雰囲気のある宿のようだ。白糸有料道路の土煙の舞う道すがらに「小瀬温泉」という看板を目にするが、宿はこの道から歩いて20分近く奥まったところにあるらしい。

 長日向駅などは駅舎の跡形もまったくなくなっていて、案内人の説明がなければ見過ごしてしまう状態だったという。長日向には霧積温泉に向かう道と国境平に向かう道の分岐点があるという(90頁)。
 森村誠一「人間の証明」では、碓氷峠(見晴台)を下ったところに霧積温泉があるように書いてあったが、方向音痴のぼくには長日向と霧積温泉と碓氷峠の位置関係は分からない。
 伊藤博文が霧積温泉で明治憲法を起草したというエピソードも紹介されるが、明治憲法を実際に起草したのは金子堅太郎で、しかも場所は横須賀の夏島(当時は島だったが、その後埋め立てれれて地続きになり日産自動車のテストコースになった)のはずである。
 鼻曲山(はなまがりやま)も長日向から行くらしい(89頁)。

 北軽井沢駅は、以前は近くを流れる川の名前から地蔵川駅と称していた。
 ここが発展したのは、法政大学がこの地を理想郷とすべく、大正9年に80万坪という広大な敷地を購入して「法政大学村」として、安倍能成、野上弥生子、津田左右吉、岸田國士らが別荘を建て、後には岩波茂雄も住み、大江健三郎も住んだという。
 彼らは、午前中は他家を訪問しない、午後10時以降の会合・宴会は控えるなどの規律を設け、道路を舗装しないことなどを協定したという。北軽井沢駅の駅舎は法政大学が草軽電鉄に寄付した建物で、その壁面には「H」字形の意匠が凝らされているが、この「H」は法政を象徴する「H」だそうだ(146~8頁)。亡父が昭和30年代前半に、草軽電車で北軽井沢に田辺元を訪ねたことが、わが家の人間が草軽電車に乗った唯一のエピソードである。
 わが家では、軽井沢では電話も引かず、テレビも置かず、午前中と夕食後は勉強するものと決まっていて、父や祖父に付き合って学生だったぼくも机に向かわなければならなかった(机に向かって本を読んでいれば何も言われなかったのだが)。父や祖父が在軽の友人を気楽に訪ねたりすることもなかった。そもそもわが家と軽井沢の関係は、叔父が学生時代に友人と追分の学生村で一夏を過ごし、夏の追分を気に入ったのがきっかけで始まった。その後叔父は千ヶ滝の文化村に別荘を購入し、ぼくも夏休みにはそこに居候させてもらい、何年か後にわが家でも千ヶ滝の分譲地を買って別荘を建てた。そんなわが家の軽井沢での生活の根っこには、「法政村」に暮らした人たちの精神が受け継がれていたのかもしれない。 

 北軽井沢から先は、吾妻(あがつま)、小代(こよ)、嬬恋、上州三原、東三原、湯窪、万座温泉口、草津前口、谷所(やと)、終点の草津温泉と続くのだが、本の返却期日が迫ってしまったので、省略する。
 嬬恋は満蒙開拓団の帰住者が開拓した村である。満州の海倫から帰住した群馬県人が開拓した地域は現在でも「ハイロン」という地名だそうだ(166頁)。
 医師で作家の南木佳士は昭和26年、三原の出身で、父親は草軽電車の運転士だった。その後東京の保谷市に移ったという。草軽電鉄の廃線後、草軽鉄道関係者は系列の東急電鉄に移籍したというから(187頁)、彼の父親も東京に移住したのだろうか。彼の芥川賞受賞作「ダイヤモンドダスト」には嬬恋村の風景が出てくるという(207~8頁)。加賀乙彦の「永遠の都」という小説にも嬬恋が登場するという(217頁)。いつか読んでみよう

 草軽電車は、新軽井沢-草津温泉間55・5キロを3時間以上かけて走った。時速17キロ程度だった。
 新軽井沢-上州三原間が廃線となった昭和35年当時、大卒初任給は1万800円、かけそば35円、コーヒー60円、ロードショー映画館入場料180円、肉屋のコロッケ1個5円だった(「コロッケ五円の助」!)。当時の草軽電車の1区間は10円、新軽井沢から草津までの全区間が210円だったという(130頁)。
 草軽電鉄の廃業は、モータリゼーションの影響だけではなく、国鉄長野原線の開業の影響もあったらしい(197頁)。

 著者は、帰り道は草軽バスで軽井沢に戻っている。軽井沢駅前では、草津温泉の旅館の送迎バスを時折見かけるが、路線バスもあるようだ。 
 巻末には、草軽電鉄の全路線の地図、略年表が付いている。

2024年8月13日 記

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