豆豆先生の研究室

ぼくの気ままなnostalgic journeyです。

吉野俊彦「『断腸亭』の経済学」

2024年09月27日 | 本と雑誌
 
 吉野俊彦「『断腸亭』の経済学ーー荷風文学の収支決算」(NHK出版、1999年)を読んだ。
 図書館で借りてきて読み始めたのだが、内容が面白かったので古本屋で探して買ってしまった。送料込みで609円だった。定年退職後は本は増やさない方針なのだが、この本は手元に置いておきたいという思いを抑えられなかった。

 著者は日銀所属のエコノミストだが、鴎外研究などをものした著述家でもあった。しかも著者は、晩年に荷風が暮らした市川の生まれ育ちで、昭和20年代に自宅近くの八幡駅前で何度か荷風を見かけたことがあったという。さらに荷風の疎開先である岡山で勤務した経験から、同地での疎開生活の記述にも地理勘がある。
 そして、「断腸亭日乗」に見られる印税、預貯金、株式・不動産売買などの収支、日用品の価格、交通費から買春、身請けなど女性に要した出費などの詳細な記述の中に荷風の経済観念の鋭さを読み取り、昭和経済の変動をうかがう昭和経済史の第一級の資料として「断腸亭」を読み解いたのが本書である。
 大正・昭和初期、準戦時期、戦時期、戦後期の時系列で書かれているが、各時代の冒頭にその時代の経済情勢の簡潔な記述があり、高校日本史の復習にもなった(131頁金融恐慌、202頁井上デフレなど)。戦後の金融緊急措置例の経過では、戦前の預金が戦後の預金封鎖で紙切れ同然になってしまったといっていた亡父や、終戦後に大学の1か月分の非常勤手当で吉祥寺駅北口から10分、東京女子大近くの売地が買えたのに(買わなかった)という亡母の嘆きを思い出した(386頁)。

 表紙の帯に書かれた「抱いた、書いた、儲けた。」という惹句が、荷風の女性関係、文筆活動、経済生活というまさに本書の内容を要約している。
 <抱いた>について。 
 荷風の女性関係は、基本的に売買春である。著者は、その頻度や費用を「日乗」から丹念に広いあげる。昭和4年5月4日以降の「日乗」の日付欄には「●」や「○」の印がついていることがある(190頁)。岩波版第2期全集の後記にもこの印について詳細な言及があるが、その意味については説明がないという。著者は、これは荷風がその日に性交渉があったことを示す印だろうと推測する。
 荷風が関係を持った女性の氏名と関係をもった期間は荷風自身が「日乗」に列挙しているが(本書520頁以下に一覧あり)、著者は、「日乗」から「○」「●」印をすべて洗い出して、昭和4年(荷風50歳)41回(/年間)から、昭和19年(65歳)28回までを一覧表にしている(192頁)。最後にこの印がついたのは昭和32年3月18日(荷風78歳)の日記の「○」印だった(449頁)。
 そして荷風が一時期妾とした山路さん子や関根うたを身請けした際の代金がともに1000円だったことも日記に記されている(194頁)。荷風が通った玉の井(戦後は小岩や海神にも出没したらしい)などの私娼の料金は、戦時中は一晩30円だったのが(214頁)、終戦後はショート100円、泊まり400円に上昇したとある(373頁)。いずれにしても、印税だけで数億円を稼ぐ年もあった荷風にとっては痛くも痒くもない出費だっただろう。

 <書いた>について。
 荷風が書いたことについては、これまでの荷風関連書でも十分に論じられているが、著者独自の考察として、荷風の出版物の定価や部数が詳しく記録されている点がある(後の<儲けた>と重複する)。例えば大正末期から昭和初期にかけての改造社版および春陽堂版円本の対比(141、152頁)、岩波文庫に収録された荷風作品の増刷部数の一覧表などがついている(270頁)。
 「日乗」に見られる荷風の斜に構えた世相批判の指摘も随所にある。関東大震災を、それ以前の(第一次大戦)戦後の浮かれた世相に対する「天罰」であると書き(108頁)、自分の春陽堂版全集が売れるのは「世を挙げて浮華淫卑に走りし証拠」などと書いている(116頁)。戦時中に軍部が戦地の兵士の慰問用として「腕くらべ」の増刷を要求してきたことを荷風は「何等の滑稽ぞ」と記している(296頁)。

 <儲けた>について。 
 経済面では荷風は相当裕福な一生を送ったが、荷風を「ランティエ」とする見方に著者は異論を述べる。ランティエとは年金や預貯金の利息などで仕事もせずに生活できるフランスの富裕層を意味するが、荷風は確かに親から相続した不動産や預貯金、株式などを豊富に持っていた。しかし、荷風の経済基盤は相続した株や不動産の売却益などの不労所得よりも、荷風自身の文筆活動による印税収入によるほうがはるかに大きかったと著者は見る。当初は借地だった「偏奇館」敷地の買取りの経緯などでも、銀行を相手にした荷風の経済感覚の鋭さが指摘される(343頁)。
 とくに昭和初期に起った円本ブームの頃(昭和2年)の日記には、荷風の所得税額は「2万6千円以上」と書いてある(157頁)。この「所得」とは実際の収入から経費を差し引いた金額であり、当時の税務実務では文筆家は収入の50%を経費として控除することが認められていたから、実際の収入は倍の5万円以上あったはずで、その額は現在の貨幣価値に換算すると数億円に上ったという。荷風は相続した余丁町の不動産売却や株への投資などでも儲けているが、その経済基盤はけっして「ランティエ」のようなものではなかった(401頁)。
 ただし、晩年の荷風は文化勲章による年金と、芸術院会員としての俸給が支給されることを楽しみにしており、昭和27年12月16日の文化勲章年金証書受領の記事から、亡くなる1か月前の昭和34年4月2日の「年金45万円受取」まで毎年年金受領の記事があるから(477頁~)、晩年の荷風は「ランティエ」といっても差し支えないだろう。

 そして、本書最終章「荷風とケインズ」では、著者は、恩師中山伊知郎のエッセイを引用する。中山は、経済学者にとどまらず企業家、投資家でもあり巨万の財産を有したケインズと、(当時の作家の中では富裕層とみられた)荷風との共通点を指摘する。それは二人の蓄財の目的である。
 中山によれば、2人の蓄財に共通していた目的は、「いやな仕事をしないための自由」「一切の世間的な付合いを絶って勝手に生活できる自由」の確保であった。そのためには金なしで生きる生活もありうるが、2人はこの自由を得るために金銭的に備えた点で共通するというのである(517頁)。
 著者も中山の説に共感し、荷風が(残高2000万円以上ある)預金通帳を常に持ち歩いていて紛失したり(新聞記事になった)、亡くなった際の枕元にも通帳入りのバッグが置いてあったことを揶揄する意見があったが、これらのエピソードは 荷風の精神的自由を象徴するものであったとして本書を結んでいる。
 
 最後に今回も、miscellaneous な話題をいくつか。
 まず驚いたのは、戦前の荷風が長年住んだ麻布の「偏奇館」に「ペンキ館」とルビが振ってあったことである(15頁)。どこかに荷風自身が、ペンキ塗りの建物なので「ペンキ館」と呼んだことが紹介してあった。「へんき館」だとばかり思っていた。
 つぎに、売春防止法以前の売買春に関して、誰も解説してくれないので分からなかったことを知ることができた。
 売買春が行われる場所である「待合」「料亭」そして「芸者家」(芸者置屋?)を「三業」といい(「自宅」「別宅」の場合もある)、待合は場所を提供するが賄い施設はもたず、食事はすし屋などから出前を取るが、料亭は自前の賄い施設をもっているという違いがあること、芸者を呼ぶ場合には芸者家ではなく検番を経由しなければならないことが説明してあった(85頁)。
 それらの場所にやってくる女性のうち、芸を売るのが芸妓(体を売る場合もある)、体を売るのが娼妓だが、その他にカフェ女給、素人もいた(81頁)。娼妓は、公認されているが性病検査などの義務がある公娼と、非公認の私娼に分かれる。実際には私娼も黙認されていたが、時おり抜打ちの取締り(臨検)があった。「ひかげの花」はそのような私娼がモデルである(229頁)。
 著者の説明で、荷風「濹東綺譚」や「日乗」の背景はかなり理解できた。

 荷風の慧眼ぶりを示す例として、中央公論社版全集刊行の経緯がある。岩波と中公がともに全集刊行の申し込みをして競い合ったが、結局中公での刊行が昭和15年11月に決まり、中公は5万円の手付けを支払っている。驚くのはその契約書で、中公側は刊行開始時期を「昭和20年12月1日以降」と明記しているのである(274頁~)。まるで4年後の昭和20年8月の終戦を見越したような日程である。
 しかも、実際に終戦になった翌日の8月16日に、荷風は中央公論社長の嶋中雄作宛てに手紙を出しており(367頁)、さっそく嶋中は熱海に疎開中の荷風を訪ねている。おそらく全集についての話合いであろう。その後、中公の内紛(林達夫氏が退社した!)、社長の急死などもあったが(428頁)、中公版全集は完結した。
 戦後の荷風は寡作で、見るべき作品もないが、著者はその理由として、心身(色欲)の衰えのほか、「荷風全集」の刊行に集中したことを指摘している。「日乗」の記述も、昭和24年のドッジラインによるインフレの終息以降は経済生活の記述は姿を消し、経済史的資料としての価値は消滅したとする(472頁)。

 戦後になって市川に荷風を訪ねてきたかつての愛妾関根うたへの荷風の対応はきわめて冷淡である(500頁)。これも荷風の「いやな世間と付き合わない自由」の行使なのだろうか。映画「放浪記」のラストに、戦後に売れっ子作家になった林芙美子のもとに金を無心に来る親戚や慈善団体を林が追い返す場面があったが、あのような事情でもあったのだろうか。

 2024年9月27日 記

紀田順一郎「日記の虚実」

2024年09月16日 | 本と雑誌
 
 紀田順一郎「日記の虚実」(ちくま文庫、1995年。元は新潮社、1988年)を読んだ。
 川本三郎「ミステリと東京」の紀田の紹介欄でこの本の存在を知って、さっそく図書館で借りてきた。永井荷風「断腸亭日乗」が取り上げられているのではないかと期待したのだが、期待通り載っていた。しかもかなり荷風に対して辛口の評価である。荷風「日乗」を客観的に読むうえでも役立ちそうである。

 紀田によれば、本書が刊行された1988年頃、わが出版界で「日記ブーム」が起きたという。一般に作家の日記は文学評論の対象として作品論が展開されてきたが、紀田は、日記は「日記論」ないし「日記研究」の視点から検討する必要があるとして、本書を書いたという(263頁~、296頁)。
 作者はなぜ日記を書いたのか(動機)、日記に何を書いたのか(内容)、その日記は記録なのか、創作なのか、内容の真偽はどのように確定するかなど、「日記」は「日記」という形態の特殊性から解読する必要がある。紀田は、日記を書く動機として、わが国の学校での日記教育(大宅壮一「青春日記」など)、海外生活の経験(荷風「日乗」など)、人生の展開、転機など(徳富蘆花、竹久夢二の日記など)があるという。
 最初は荷風「日乗」の章だけを読むつもりだったが、面白かったのでついついほぼ全部を読んでしまった。

 その日記が公開を予定して書かれたのか、公開を予定ていなかったかも重要である。
 樋口一葉は公開を予定していなかったが、一葉の没後に妹が添削を加えて発表したことが明らかになっている。
 紀田は「一葉処女説」論争に最大の関心を寄せる(そんな論争があったとは!)。一葉は小説の師匠である半井桃水と観想家久佐賀義孝という二人の男と交渉があった。半井との間には性的な関係はなかったとするのが通説のようだが、久佐賀との関係は日記からは明らかでない。紀田は、経済的に苦境にあった一葉が久佐賀から60円(現在の金額で180万円くらい)の借金をした以降の8か月間に及ぶ日記が欠けていることに注目する。この間は一葉が日記を書かなかったのではなく、久佐賀との間の微妙な内容が書いてあったので妹が抹消したのではないかと推測する(46頁)。
 この論争には、塩田良平、吉田精一など、ぼくが高校大学受験の頃の国語参考書や辞典の著者、監修者として名前を知った人たちが登場する。荷風も、一葉は桃水の妾だったという説を和田芳恵に吹聴した人物として登場する(56頁)。

 紀田の「後書き」は、本書で取り上げた日記の中で永井荷風「断腸亭日乗」をもっとも愛着を抱いてきたと書く(296頁)。しかし本文中の記述は「断腸亭」の「虚実」に集中する。
 荷風は佐藤春夫の門弟だった平井程一を気に入って懇意にしていた時期があった。最初の荷風全集が岩波書店ではなく中央公論社から刊行されることになったのも、平井と中公嘱託社員猪場毅の貢献があったからだという(101頁)。
 しかし、平井が荷風の偽書を作ったことをきっかけに両者の関係は断絶する。荷風は「日乗」の中で平井を批判しただけでなく、平井をモデルにした「来訪者」という小説まで執筆して、平井と思しき人物を「淫蕩」「強慾冷酷」な人間などと扱き下ろしているという(106頁~)。
 戦後になって、紀田は平井やその愛人(?)と面談する機会があったが、到底荷風が描いたような人間には思えなかったという(戦後の平井は荷風を「色の聖」と評したという)。荷風がそこまで平井を憎んだ理由は、平井の偽書の中に「四畳半襖の下張」が含まれており、これが官憲の目に入って自分が追及されることを恐れたためではないかと推測する(115頁~)。荷風「日乗」はこのことにまったく触れていないが、まさに書かないことによる「日記」の「虚」を示す一例である。紀田は偏奇館焼失によって「日乗」は終わっていると評する(117頁)。

 徳富蘆花の日記は、家族制度の下で自分を抑圧した父親の臨終に際して、葬儀に出席しない決意をした時から書き始められている(70頁~)。人生の転機である。日記には、父親や兄蘇峰に対する蘆花の憎しみ、同志社時代の一歳年下の女性(新島襄の姪)や同居人琴に対する思いなどがつづられている(63頁)。蘆花の妻は夫の女性関係を憎み、お互いに相手の日記を盗み読むかと思えば(79頁)、夫婦間の交合を書き残すなど(85頁)、微妙な愛憎関係が記されている。
 40年以上前に蘆花公園で、蘆花の生存時のままに保存された居室を見たが、刺繍の施された色褪せた洋式寝台のベッドカバーが印象的だった。あれがこの日記に記された愛憎劇の現場だったのだろうか。
 岸田劉生の日記は、従来からも指摘されていることのようだが、遺伝的な精神疾患や、身体的な異常への劉生の恐れが底流に読み取れるという(136頁~)。それが麗子像の変遷にも反映されているという。
 竹久夢二の日記は、博文館から立派な日記帳をもらったので書き始めたということだが、内容は、荒畑寒村を介して幸徳秋水の大逆事件に関与した嫌疑をかけられ、警察から常に監視されつづけたことによる不安が底流にあったという(156頁~)。夢二の描く絵や商業的な成功とは裏腹に、日記に記された彼の内面はかなり不安定だったらしい。大逆事件という冤罪の捏造は幸徳秋水らの生命だけでなく、荷風や夢二にまで影響していたのだ。

 野上彌生子の日記には、中勘助に対する終生変わることのなかった思い(182頁)、自分の留守中に岩波茂雄が訪ねてきたというだけで嫉妬する嫉妬深い夫豊一郎に対する不満(息子素一よりもフランス語会話力がなかったなどと夫を詰る記述もある。187頁)、志賀直哉、芥川龍之介、武者小路実篤、与謝野晶子、平塚雷鳥、宮本百合子らに対する強い反感、否定感情などが書かれている(193頁)。辛気臭そうで読む気にもならなかった野上彌生子の日記だが、意外に人間臭い内容もあるようだ。しかし読みたいとは思わない。
 古川ロッパは、ぼくはその名前を目にしたことがあるだけで、どんな人物かどんな演劇だったのかはまったく知らなかった(声帯模写の始祖だったらしい)。日記よりも、ロッパが自由民権論者から国権主義者に転向した加藤弘之の孫であり、浜尾四郎の弟であるという素性にびっくりした(242頁)。加藤は嫡子一人だけを自ら養育し他の子たちはすべて養子に出したという。養子に出されたロッパは早稲田を中退し小林一三に見出されてデビューするが、座付作者にすぎなかった菊田一夫がやがて脚光を浴びるようになると、彼に対する軽蔑と嫉妬をあらわにする(255頁)。「所詮は百姓」などと侮蔑的な言葉を浴びせる(257頁)。
 日中戦争、太平洋戦争中の日記の代表として伊藤整の日記が取り上げられているが、この時期の作家の日記はとくに「虚実」が怪しいので、読みとばした。引用された中では高見順の日記がもっとも率直な印象を受けたが・・・。
 ぼくが読んだ戦争中の日記では山田風太郎「戦中派不戦日記」(講談社文庫、1973年)が一番印象深い。引っ張り出してみると、「日記は自分との対話だ」というが、年齢相応の青臭さや噴飯物の観察や意見もある、とくに自分でも閉口するのは「妙に小説がかった書き方をした部分である」と書いている(529頁「あとがき」)。そして小学校の同級生34人中14人が戦死したという現実の前にはこの日記の空しさを感じると書き、「人は変わらない。そしておそらく人間のひき起こすことも」と結んでいる(531頁)。

 本人が日記の公開を予定していたか否かに拘わらず、今日公開されている日記を読むわれわれの側に、他人の日記を「盗み見る」楽しみがあるのは間違いないだろう(香山リカの解説は「スリルや興奮」という)。本書で紹介された、樋口一葉の支援男性との関係、徳富蘆花の蘇峰に対する憎しみ、永井荷風と平井程一の絶縁をめぐる虚実、岸田劉生、竹久夢二らの内心の悩み、野上彌生子、古川ロッパのライバルに対する敵愾心など、いずれも他人の日記を合法的に「覗き見」る面白さがなかったと言ったら嘘になるだろう。
 紀田は、日本人の日記の特徴として天候に関する記述が多いことと、俳諧的であることを指摘する(289頁~)。内容の真偽、虚実はともかく、荷風の「日乗」の気候描写がその日の荷風の心象までを表わしており、その漢文調の流麗で簡潔なな文章は漢詩の訓み下し文を読んでいるような印象だったことが想起される(ただしぼくの知っている漢詩は教科書に載っていた李白、杜甫、孟浩然などごくわずかだが)。

 ぼく自身は、1964年(中学3年生)から3年間は旺文社の「学生日記」で、その後の約10年間は大学ノートに日記を書きつづけた。1974年に編集者になってからは出版団体が毎年発行する小型の「Books」という日程表に日々の予定や出来事をメモに取り、教員になってからは所属大学が発行する日程表に日々の予定や行動をメモしてきた。
 ぼくが日記を書き始めた動機は、旺文社の学習雑誌の広告を見たからだと思うが、その後の大学ノート時代は、思春期・青年期の自分を老後になってからもう一人の自分がふり返る楽しみ、ノスタルジックな回顧趣味のためだった(紀田も、日記には後から自省したり回顧する意味があるという。282頁ほか)。
 日記を書いてきた唯一の実益は、大学を定年退職する際に学内紀要に「業績目録」というものを掲載してもらう際の資料として大いに役立ったことである。大した「業績」もなかったが、教員時代の「自分史」を作るつもりで30年弱の日記(日程帳)を全頁読み返して、「業績」といえるかどうか分からないが、教師(その前の編集者)としての活動を洗いざらい列挙した。
 この「豆豆先生」は2006年から書き始めたが、2020年の定年退職後はこの「豆豆先生」だけが唯一の「日記」になってしまった。いやいや、「お薬手帳」と「血圧手帳」もあったか。

 2024年9月16日 記

 ※ 参考文献欄(300頁)の「秋葉太郎」は「秋庭太郎」の誤り。
 

川本三郎「ミステリと東京」

2024年09月14日 | 本と雑誌
 
 川本三郎「ミステリと東京」(平凡社、2007年)を読んだ。
 ミステリー小説のたんなる舞台や背景としての東京ではなく、その小説のテーマにもなっている「東京」に着目して読み解く評論集である。「ミステリー小説に現われた昭和の東京」といった内容だが、時系列にはなっていない。
 興味のある作家と作品だけをつまみ食いで読んだ。取り上げられる小説でぼくが読んだのは宮部みゆき「理由」と、広瀬正「マイナス・ゼロ」、松本清張「張込み」、その他数冊しかなかった。

 島田荘司「火刑都市」には、明治初年から22年頃の東京を、たんなる江戸の延長ではなく、しかし病める近代東京でもない幸せな時間だったとする小木新造「東亰時代」(NHK出版、1980年)論に依拠した記述があるらしい。明治 6年九州生れのぼくの祖父は、戦後になってからも東京を「東亰」(とうけい)と言っており、語頭にアクセントを置いて発音していたと亡母から聞いた。高校の同級生に小木さんの縁者がいたので、「東亰時代」が出版された時にはその旧友を思い出した。
 宮部みゆき「理由」は、深川生まれで「下町っ子」を自称する宮部が描く下町小説。川本さんは東京は東東京が中心の「水の都」だったというが、宮部は江東を「ゼロメートル地帯」という。ぼくの印象でも下町は大雨のたびに浸水が報道される浸水地帯だった。
 桐野夏生「水の眠り 灰の夢」は、所謂「草加次郎」事件を下敷きにしている。昭和38年頃から始まった連続爆破事件の犯人が自らを「草加次郎」と称したのだが、中学生だったぼくは、いつどこで電車の網棚に爆弾が仕掛けてあるかわからないという恐怖心を抱いた覚えがある。草加次郎は鰐淵晴子にも脅迫状を送ったという(105頁)。
 昭和30年代の千駄ヶ谷は「旅館」(ラブホテル)の並ぶ町だったと川本さんは書くが(110頁)、ぼくが信濃町の出版社に勤めていた昭和50年代になっても、千駄ヶ谷駅北口と新宿御苑の間にはその手の「旅館」がまだ残っていた。湯島辺りのその手の旅館とは違って、千駄ヶ谷の旅館は本当に「ご商談」をする人でも利用できそうな隠れ家風の旅館だった。川本さんは、「出張校正」という言葉は「今や死語か」と書いている(98頁)。出張校正が死語とは・・・。1974年から9年間、毎月末の数日間を板橋小豆沢の凸版印刷で過ごしたあの日々を何といえばよいのか。

 広瀬正「マイナス・ゼロ」は、わがブログ「豆豆先生の研究室」の出発点となった小説である。
 本書に出てくるタイム・マシンのあった場所は、何と、ぼくが生まれた世田谷豪徳寺(玉電山下)の隣りの梅ヶ丘なのである。ぼくは梅ヶ丘駅北口の根津山(根津家の所有する山だったのでそう呼ばれていたのだろう。戦争中は斎藤茂吉の青山脳病院が疎開していたと北杜夫のエッセイに書いてあった。最近は羽根木公園というらしい)にしょっちゅう遊びに行ったが、おっちょこちょいだったぼくがそこでこのタイム・マシンに乗ってしまった可能性は否定できない。
 昭和20年5月25日に東京山の手を襲った空襲のことも出てくる(127頁)。世田谷も被災したこの空襲の思い出は父母からよく聞かされた。当時わが一家が住んでいた松原の家は幸い被害を免れたが、四谷軒牧場の近くに撃墜されたB29が落ちたのを見に行ったという。パイロットはまだあどけなさの残る少年のような死に顔だったと母が言っていた。1945年5月に世田谷の松原(赤堤)で生涯を終えたアメリカ青年がいたのである。
 川本さんは荷風を「ノスタルジーの作家」と性格づけていたが、本書では、この小説も広瀬の東京へのスタルジーが強く表れているといい(134頁)、タイムマシンはSF小説というより「ノスタルジー」小説であると結んでいる(139頁)。ぼくもそう思う。タイムマシンだけでなく、「時をかける少女」や「謎の転校生」なども、ノスタルジックなSFである。
 ぼくのこのブログは「気ままな “nostalgic journey” です」とサブタイトルをつけてあるが、玉電山下や軽井沢の思い出を書いたものだけでなく、読んだ本や見た映画の感想を書いたものも、いつの間にか失われた過去を懐かしむ気持ちがにじみ出てしまう。

 小杉健治「土俵を走る殺意」は、東京オリンピックの頃に集団就職で秋田県から上京してきた3人の若者が主人公。彼らが休日に見に行った「成人映画」(後に「ピンク映画」と呼ばれるようになる)の第1作が香取環(懐かしい!)主演の「肉体市場」(1962年)だったと川本さんの薀蓄が聞ける。主人公の一人は相撲取りになるのだが、折から秋場所の最中、大学卒の力士や相撲名門高校出身の力士がずらりと並ぶ番付は隔世の感がある。中卒で入門したという熱海富士でも応援するか。※と書いたら、念力が通じたのか、この日(9月14日)の取組で熱海富士は翔猿に快勝した。
 小杉「灰の男」は、向島生まれの小杉による東京大空襲の被害者に対する鎮魂歌。

 久生十蘭「魔都」は戦前(1937年)の作品。「魔都」東京の地下は、張りめぐらされた地下水道の「迷路」(ラビリンス)になっている(294頁)。東京の下水道は、明治か大正の時代に、東京でコレラか赤痢が流行した際に皇居を感染から守るために整備されたと、学生時代に柴田徳衛さんの「現代都市論」で聞いた。地下の迷宮といえば森達也「千代田区一番一号のラビリンス 」(現代書館)を思い出す。あれも久生を参考にしたのだろうか。

 紀田順一郎「古本屋探偵の事件簿」は神田神保町が舞台。ガラス張りのエレベーターの古書センターのビニ本屋(!)の向かいに開業した小さな古書店主が主人公(355頁~)。紀田には「日記の虚実」という著書もあるらしい。荷風「断腸亭日乗」の虚実も出てくるのだろうか。※出てくる!
 逢坂剛は「カディスの赤い星」だけ読んだ。ヘミングウェイ「誰がために鐘は鳴る」から始まって、斉藤孝「スペイン戦争」(中公新書)、石垣綾子「オリーブの墓標」(立風書房)など、「スペイン内戦」はかつてのぼくの関心領域の一つだった。当時5歳だった息子がこの本の背表紙を見て「カディスの赤い星」とたどたどしい文字でなぞって書いたので、とくに印象に残っている。
 逢坂は駿河台下にあった中大法学部の卒業で、神保町に近いので博報堂に入社したそうだ(375頁)。文化学院、駿台予備校、山の上ホテル、カザルスホール(かつては主婦の友社!)から、天ぷらの「いもや」(小豆島のかどやごま油の揚がる匂いが店内に漂っていた)まで、懐かしい場所が出てくる。ぼくは一度だけ神保町のどこかの古書店に入っていく逢坂の姿を見かけたことがある。散歩日和の昼下がりだった。

 その他いくつか。
 藤原伊織の中で、新宿紀伊國屋書店の改築の話が出てくる(346頁)。東京オリンピックの頃だったらしい。ぼくは改築前の建物が取り壊されて更地になっていた時にその前を通ったことがあった。土の色が妙に濃いこげ茶色だったのが印象的だった。改築後の紀伊國屋の2階のレコード店から聞こえてくる音楽のエピソードは川本さんの他の本でも読んだが、ぼくは紀伊國屋というと、エスカレーターで2階に上がるといつもリンガフォンが宣伝のために流していた英会話テープの音声が聞こえてきたのを思い出す。リンガフォンは今でもあるのだろうか。
 藤村正太「孤独なアスファルト」は、東京オリンピック前夜の吉祥寺、井の頭公園が出てくるらしい。
 髙村薫「照柿」の舞台は拝島、福生あたりである(410頁)。昨年来旧交を温めている高校時代の友人の本拠地が福生なので、二度訪問して横田基地周辺から東福生まで歩いたので多少の地理勘がある。
 中井英夫には「黒鳥館戦後日記 西荻窪の青春」という著書があるらしい(424頁)。「西荻窪の青春」というサブタイトルは胸に刺さる。
 本書のどこかに、典厩五郎なる著者の「名探偵大杉栄の正月」というのが挙がっていた。山田風太郎の明治伝奇物のような内容だろうか。ちょっと興味をひかれたが読む時間はないだろう。

 結びは松本清張で。
 松本清張の原作を映画化した「張込み」に関して、石炭ストーブの話題が出てくる(446頁)。川本さんの杉並第一小学校は石炭ストーブだったと書いているが、ぼくも小学校、中学校ともに石炭ストーブだった。この辺は川本さんと「同時代」を生きている。ちなみに映画の「張込み」のロケ地は祖父が生まれた佐賀だった。
 松本は上京して最初に練馬区の関町に住み、やがて上石神井に転居したので、西武線沿線の練馬区や豊島区がよく出てくるという(449頁)。そう言えば、石神井公園内にある練馬区郷土館(?)に地元ゆかりの有名人として松本清張の名が出ていた。
 松本の「歪んだ複写」には調布の深大寺が出てくるらしい。「波の塔」で検事が人妻と密会する場所も深大寺だそうだ(466頁)。軽井沢在住作家たちが作品の中で密会場所として小瀬温泉を選ぶようなものか。映画化された「波の塔」には深大寺ロケのシーンが登場するという。深大寺周辺もその後宅地化が進み、武蔵野の面影はかなり失われてしまった。あそこの蕎麦屋さんの姪がゼミ生にいた。

 今回も川本さんの読書量に圧倒された。
 しかし、やっぱりぼくは西東京(旧田無市には非ず)が舞台でないと気持ちが入らないようだ。

 2024年9月14日 記

半藤一利「荷風さんの戦後」

2024年09月13日 | 本と雑誌
 
 半藤一利「荷風さんの戦後」(筑摩書房、2006年)を読んだ。
 川本三郎さんとは違った角度から見た永井荷風の違う側面を知りたいと思ったのだが、それなら荷風の天敵菊池寛の創業した文藝春秋の編集者だった半藤の書いたものがふさわしいのではないか。
 半藤は自らを「歴史探偵」と称するが、「傍観者」といいながら軍人や軍国主義者に対する反感、憎悪の感情(「田舎漢」!)をあからさまに日記に記した荷風が、戦後の日本社会に対してどのような関心を持っていたかに興味があったので、半藤の本書も面白く読んだ。半藤の書いたものを読むのは今回が初めてだが、もっと硬い文章を書くのかと思っていたので、江戸っ子風の文体は意外だった。
 半藤は、「断腸亭日乗」の中から、荷風の好色さ(「日乗」の日付の上に付けた「○」だの「●」だのという印はその日の性的事項の有無を暗示するものだそうだ)、勘定高さ、吝嗇ぶりを示すエピソードなどを紹介するだけでなく、「日乗」には戦後史の何が書いてあり、何が書かれなかったかを検討し、さらには「日乗」以外の文献から「日乗」には書かれなかった荷風の戦後の言動を紹介する。

 川本さんの描く荷風には、「東京」の「風景」を発見した「見る人」としての荷風、江戸情緒と近代人の二面性を持つ「明治の児」としての荷風に対する川本さんの敬愛の念がにじみ出ているのに対して、半藤の描く荷風には、好色で奇行の目立つ老作家荷風に対する皮肉で冷ややかな視線が感じられる。荷風のことをしばしば「爺さん」と揶揄的に呼んだりもする。
 ただし半藤も、戦後間もなくの学生時代に中公版「荷風全集」の「日乗」で読んだ「時流に流されぬ堅固な姿勢と、日記を書き続けるゆるぎない筆力と、流暢な、あまりの名文に」は舌を巻いたのであり、敗戦後の物資不足の折に「断腸亭日乗」を含む「荷風全集」を刊行した中央公論社への感謝を記している(157頁)。
 本書の著者は川本さんとはそりが合わないのだろう、川本さんの浩瀚な著書「荷風と東京」はまったく引用されることなく(参考文献欄にも載っていない)、わずかに市川時代の荷風の日常生活を支援した青年に関する川本さんの随筆を引用するだけである(164頁)。 

 「摘録・断腸亭日乗」(岩波文庫)を読んだときに、ぼくは荷風は昭和天皇のことをどう思っていたのかということが気になった。とくに難波大助事件の伏字と13行だったかの削除部分に何が書いてあったのかが気になった。本書でもその回答は得られなかったが、昭和20年の天皇とマッカーサーの会見の写真が新聞紙に掲載されたことに対する荷風の感想が記されている。
 荷風は、「余は別に世の所謂愛国者と云う者にもあらず、また米国崇拝者」でもないが、「日本の天子が米国の陣営に微行して和を請い罪を謝するが如き」ことがあるとは思わなかった、幕府瓦解の際に慶喜がとった態度は今日の陛下よりはるかに名誉あるものだった、これに反して、昭和の軍人官吏の中には勝海舟に比すべき良臣がいなかったと書いている(9月28日)。
 「荷風は、思いもかけぬ天皇好きであったのだろうか」と半藤は評しているが(46頁)、ぼくは必ずしも「思いもかけぬ」とは思わなかったが、戦前の「日乗」もきちんと読まなければ判断はできない。

 「摘録・断腸亭日乗」(したがって岩波全集版「断腸亭日乗」)の昭和22年5月3日の項は、「米人の作りし日本新憲法今日より実施の由。笑ふべし」となっている。おそらくこれが「日記」の原文なのだろうが、昭和31年に発表された「葛飾こよみ 荷風戦後日暦」の同日の項では「日本新憲法今日より実施の由なり」と書き改めていたという(105頁)。
 ぼくは「摘録・断腸亭日乗」を読んだとき、この「笑うべし」の真意が何だったのかに引っかかった。つい先日までは「鬼畜英米」とか言っていた連中が、手のひらを返すようにアメリカ人におもねる姿を笑ったのか、それともアメリカ嫌いの荷風であったから、アメリカ人の作った憲法を笑ったのか。
 それでは昭和31年の改変はどういう意図だったのか。昭和31年といえば日本の逆コース化、対米追随がますます明確化する時期である。この時期に「米人の作りし」憲法とか、「笑ふべし」といった文言を削除した荷風の本心はどこにあったのだろうか。

 荷風「日乗」がふれなかった戦後の事件が列挙されているのも興味深い。
 荷風が無視した事件としては、例えば、昭和22年では、ヤミ米拒否の山口良忠判事の餓死事件、極東軍事裁判の審理開始などは一切記載がない。昭和23年には、帝銀事件、菊池寛の死去、太宰治の情死などは無視されるが、極東軍事(東京裁判)で「旧軍閥の首魁荒木東條」らに死刑判決が出たことを報じる号外が電柱に貼り出されたことは書き残している(166、7頁)。
 文士を嫌い、それこそ文士の首魁ともいうべき菊池を嫌った荷風が太宰や菊池の死に関心を示さなかったのは当然だろうが、東京裁判はどう思っていたのだろうか。少なくとも「米英豪による報復裁判、笑うべし」とは書かなかった。半藤によれば、この頃から「日乗」の記述は俄然、簡略になりはじめるという(169頁)。

 昭和24年には、下山事件、三鷹事件、松川事件は無視するが、日参していた浅草のストリップ劇場のストライキには言及する。スト解除後に出かけてみると、米兵が舞台に上がって踊り子と戯れており、これを傍観する邦人の気概の無さに憤慨する(181頁)。この年ドッジラインによって戦後のインフレは終息に向かうが、この時期から「日乗」からも物価高騰に対する恨みは完全に消えるという(185頁)。
 ぼくが生まれた昭和25年頃には、浅草ロック座のヌード嬢の楽屋に日参してはマスコミの餌食になっていたらしい。川本さんを読む前は、荷風といえば浅草のストリップ小屋の楽屋で踊り子と戯れる老人というイメージを持っていたが、この頃の荷風の実像だったようだ。
 その浅草ロック座で軽演劇用に書いた原稿を、天敵であるはずの文藝春秋(新)社「オール読物」の上林吾郎に手渡している。舞台の宣伝用だろうから、荷風は「商売上手」であったと半藤は書く(190~3頁)。
 林芙美子、吉屋信子に関する「日乗」の記述はそっけない。荷風は美人が好きだったので、このお二人は到底美人とは言いかねるのが原因だろうと評した者があったという(207~9頁。半藤の評価ではない)。

 「日乗」では無視するか、きれいごとで済ませているが、実情はそうでもなかったという事例が、荷風が市川で居候した小西茂也(知人だった仏文学者、「ゴリオ爺さん」「風流滑稽譚」などの訳者)や後に荷風の養子となった永井永光のエッセイなどから紹介される。大家にとって荷風は厄介な居候だったようだ。
 従兄(従弟?)の杵屋五叟宅に居候をしながら、(荷風)「先生」は、三味線の稽古が始まると火箸を叩いて妨害し、下駄や靴のまま畳の上を歩き、雨戸から放尿したりしたと養子は書く(87~90頁)。
 小西宅では、襖を締め切った座敷の中で七輪の火をおこす。娘が「火事ですか」と注意に行くと、「はいはい、火事ですよ」と平然と答えて雑誌類を燃やしつづけたこともあった(159頁)。幸田露伴の葬儀の際は、喪服がないので「平服」で遠くからお送りしたと「日乗」には書くが、当日荷風が実際に着用した「平服」とは、麦藁帽子に白いシャツ、黒ズボンに下駄ばきだったと小西は書く(123頁)。
 
 昭和28年、荷風の文化勲章受章に陰で貢献したのは久保田万太郎だったと中央公論社の社史に書いてあるそうだ(215頁)。中央公論社長の嶋中鵬二の工作もあったと思われる。授与式で着用したモーニングは先代嶋中雄作の遺品だったという。荷風自身は当時刊行中だった「全集」の中の「断腸亭日乗」に対して授与されたと考えたようである(213~25頁)。
 川本さんのものを読めば、荷風の文化勲章受章も宜なるかなと思うが、半藤を読むとよくぞこの人物がという思いがわく。
 半藤には菊池寛をテーマにした書物はあるのだろうか。あれば荷風論と照応しながら読んでみたい。

 「断腸亭日乗」の完全版と称するものが岩波文庫から刊行され始めたが、いささか眉に唾して読まなければならない。少なくとも、そのすべてが史実、事実だとは思わないほうがよいだろう。あれも一種の作品、フィクションと言わないまでも脚色された日記と思って読んだほうがよさそうである。

 2024年9月12日 記

永井荷風「濹東綺譚」

2024年09月12日 | 本と雑誌
 
 永井荷風「濹東綺譚」(岩波文庫、1974年)を読んだ。
 1974年頃に買ったのだろうが、ちょっと読んだだけで投げ出したまま50年近くが経過した。ある程度の年齢にならないと面白さが分からなかったのは、小津安二郎の映画と同じか。
 最近、川本三郎さんの講演「荷風を読む楽しみ」を聞き、同氏の「荷風と東京ーー『断腸亭日乗』」を読んで以来、荷風に興味が湧いてきた。好きになることはできないけれど、なぜか興味が湧いてきてしまうのである。
 そこで、放ってあった「濹東綺譚」も読んでみることにした。幸い手元にあった岩波文庫(昭和49年10月発行、18刷)は、新字体、新仮名遣い、振り仮名つきに改版された後のものだったが、活字が小さすぎたので、図書館で岩波文庫ワイド版を借りてきて、そっちで読んだ。

 ストーリーは単純で、荷風と思しき小説家である「わたくし」(一応「大江匡」という名前がついている)が、「失踪」という小説を書こうと構想する。「失踪」の主人公(種田順平)は、妻と不仲になって私立学校の英語教師をやめてしまった51歳の男である。種田は受け取った退職金を持ったまま家族のもとから失踪して、カフェの女給と逃避行を始める。この種田という人物も荷風の一面をあらわしているようである(25頁の木村壮八の挿絵に描かれた種田の後ろ姿は荷風のように見える)。
 種田の最初の逃避先を玉の井に設定するために、「わたくし」は玉の井の情景を描く必要から玉の井に出かけ、街を歩いているとにわか雨が降り出し「わたくし」の雨傘の中に女が飛び込んでくる。こうして知り合った雪子という私娼と親しくなり、その生態を観察する。しかし、雪子が本気になりそうな気配を感じたところで、「わたくし」は雪子と別れる決意をしたことをほのめかして話は終わる。「失踪」のほうも未完成のままで終わっている。

 この後に「作者贅言」という蛇足がついている。
 話の端々で、昭和10年代(発表は昭和12年)の世相に対する荷風の辛辣な感想が述べられるが、以下に引用した文章は、その「作者贅言」から引用したものが多い。
 昭和4年頃、銀座の表通りにカフェーが出現した頃、荷風はそこで酔っぱらった(「酔(え)いを買った」)ことがあった。このことに対して、あらゆる新聞が筆誅を加えたらしい。「文芸春秋」同年4月号に至っては、(荷風を)世に「生存させて置いてはならない」人間とまで非難したという(63頁)。それ以来、荷風はマスコミの筆誅を避けるために、身をやつして辺境だった玉の井で遊ぶようになった。玉の井に向かう東武電車の中でも、新聞記者と文学者とに見られて筆誅されることを恐れて、人目につく日中には出かけないように注意している(125頁)。
 「断腸亭日乗」には、荷風が忌み嫌う「田舎漢」の筆頭に(文芸春秋社主の)菊池寛の名をあげていたが、そのような因縁があったのだ。

 荷風は江戸情緒を愛する一方で、近代的なダンディズムを身につけた都会人だったが、「わたくし」が玉の井に行くときは、古ズボンに(下女からもらった)古下駄を履き、古手拭いの鉢巻をして出かけた。これなら、路上であれ電車内であれ、どこでも好きなところへ痰唾を吐けるし、煙草の吸い殻やマッチの燃え残りも捨てられる(99頁)。
 当時の東京の下町(砂町、千住、葛飾金町辺りと書いている)では、こんなことが平然と行われていたのだ。滝田ゆうが玉の井を描いた漫画に、駅のホームに置かれた痰壺が描いてあったが、痰壺に向かって痰を吐く人はむしろマナーのよい人だったのだ。

 戦前昭和期の東京の世相の移り変わり、とくに「東京の田舎化」とでもいうべき現象に荷風の筆は及んでいる。
 婉曲に満州事変(昭和6年)に言及するが、東京人が満州での出来事など真剣に考えていないで日々の喧騒にまぎれている様子が描写される(150頁)。二・二六事件(昭和11年)の号外が電柱に張り出された時も同じで、銀座通りを歩くおびただしい人たちは何ら特別の感情もあらわさず、話題にもしないで通り過ぎていったと書いている(151頁)。
 この頃から、銀座通りには柳の苗木が植えられ、朱骨の雪洞(ぼんぼり)がともされ、銀座の町がさながら田舎芝居の中の町の場といった光景を呈し出したと評し(同頁)、銀座の町を酔客がひょろひょろとさ迷い歩くような不体裁は、昭和2年に野球見物の帰りの慶応の学生や卒業生が群れをなして銀座の町を襲って乱暴狼藉を働いた事件に始まると書く(157~8頁)。
 荷風が慶応の教授に就任した時に、ある理事から「三田の文学も稲門に負けないように尽力していただきたい」と言われ、文学芸術を野球と同一視する愚劣さに眉をひそめたというエピソードも挿入される(同頁)。

 昭和11年に東京の周縁部が東京市に併合された折には、市電には花電車が走り、日比谷公園では東京音頭が踊られた。しかしこれは東京市の拡大を祝うためではなく、実際には日比谷の角の百貨店の宣伝にすぎず、その百貨店でのみ売られている浴衣を買わなければ入場できなかったという(161頁)。
 明治の末頃は、地方でも盆踊りは県知事の命令で禁止されており、もちろん東京にも盆踊りの習慣などはなかったが、田舎から出てきて山の手の屋敷町に雇われた奉公人に限って盆踊りが許可されることになったという(161頁)。まったく知らなかった。
 コロナ前までは、わが家の近所のお祭りでも、大人は東京音頭を、子どもたちはオバQ音頭などを踊っていたが、今年は盆踊りの音は聞こえてこなかった。コロナ禍の自粛の時期に静けさを知った近隣住民から騒音の苦情が出たのだろうか。

 2024年9月11日 記

滝田ゆう「私版・昭和迷走絵図」

2024年09月02日 | 本と雑誌
 
 滝田ゆう「私版・昭和迷走絵図」(東京堂出版、1987年)を眺めた(正式な書名は「滝田ゆうの私版昭和迷走絵図」)。東京堂出版というのは、あの神田神保町すずらん通りにある東京堂(書店)と関係あるのだろうか。

 この本も、川本三郎さんの「荷風と東京--『断腸亭日乗』私註」で引用されていたので、興味をもって図書館で借りてきた。「寺島町奇譚」と同じく、著者が育った旧向島区寺島町、かつての玉の井の風景や人物を描いた絵も多いが、本書は玉の井に限られず、著者が旅した日本各地の昭和の風景が描かれている。しかも、前書と違ってほぼ全頁カラー版である。

 モノクロだった「寺島町奇譚」で描かれた玉の井はそれらしくうらぶれた風景に見えたが、カラー版の本書で描かれた玉の井は、例えば、「2 迷路への小路」「12 わが下町」「44 旧玉の井停車場跡」などを見ると、著者の同級生だった円歌が回想したような汚い町(私娼窟)ではなく、日ざしを浴びてどことなく美しい町並みのように見える。幼年・少年時代の著者にとっては玉の井は懐かしく輝いていたのだろう。

 2024年9月2日 記

川本三郎「荷風と東京ーー『断腸亭日乗』私註」(その1)

2024年09月01日 | 本と雑誌
 
 川本三郎「荷風と東京ーー『断腸亭日乗』私註」(都市出版、1996年)をようやく読み終えた。
 本文510ページ。途中で旅行をしたり、他の本を読んだりして中断があったが、ほぼ1か月かかった。
 最初のうちは読み通せるか自信がなかったが、途中からは読み終えるのがもったいなくなって、1章1章を銘酒でも味わうようにちびちびと読んだ。

 岩波文庫の「摘録・断腸亭日乗」と違って、荷風からの引用は旧字体、難しい漢字や熟語に振り仮名(ルビ)もないので、読めない漢字・熟語に出あうたびに CASIO<EX-word>の「漢字源」(学研)で、手書き入力して読み方や意味を調べながら読んだため、ちびちびと読むしかなかったのである。ぼくが調べた漢字はすべて「漢字源」に載っていた。漢和辞典、恐るべし。
 「帙」(ちつ、和綴じ本を収める函)、「晡下」(ほか、お八つ時間以後の夕刻)、「初更」(しょこう、日没から日出までを5分した内の最初の5分の1の時間帯)のような、自分が言葉を知らないことを思い知らされるような簡単な言葉から、「躑蠋」(てきちょく、立ち止まること。これは本書で最後に調べた言葉になった)のような、知らなくてもやむを得ないと自らを慰めるような言葉まで、とにかく漢文の素養のある荷風と言葉の豊富な川本さんに悪戦苦闘した。

 永井荷風「断腸亭日乗」をこれほどまで詳細に読み込み、関連文献を渉猟、援用し、さらに荷風の眺めた風景を訪ね歩いて再体験する川本さんのエネルギーに圧倒されつづけながら読み進めた。
 今は圧倒されて、読後感を簡単に書くことができない。とりあえず読み終わったことだけを記録として書きとどめておくことにした。

 2024年9月1日 記 
 ※ ほぼ正午に読み終わったが、テレビのニュースによると、まさに今日正午、迷惑千万の台風10号は熱帯低気圧に変わったという。

滝田ゆう「寺島町奇譚(上・下)」

2024年08月31日 | 本と雑誌
 
 滝田ゆう「寺島町奇譚(上・下)」(筑摩書房「滝田ゆう漫画館 (1) (2)」、1992年)を読んだ(?)。

 読みかけの川本三郎「荷風と東京--『断腸亭日乗』私註」(都市出版)のなかで、玉の井(寺島町)出身の漫画家で、昭和戦前期の玉の井風景が描かれていると紹介していたので、図書館で借りてきた。
 滝田は生前には時おりテレビで見かけたが、1932年(昭和 7年)の向島区寺島町(現在の墨田区向島町)の生まれで、田河水泡の内弟子を経て独立したとある。漫画の中の「ドン」という小さなスタンド・バーの息子が滝田本人らしい。
 驚いたことは、三遊亭圓歌(歌奴)の後書き(下巻)によると、滝田、圓歌、小川宏、出羽錦、早乙女勝元が、同地の小学校(学校名は書いてなかった)の同窓生だったという。下町空襲の資料収集で有名な早乙女さんと同窓だったとは知らなかった。
 ※ 滝田ゆうの本を1冊持っていた。「下駄の向くまま--新東京百景」(講談社)という画文集である。小学校の同窓生だったという早乙女勝元「ゴマメの歯ぎしり--平和を探して生きる」(河出書房新社)と並べて(下の写真)。
   

 さて、「寺島町奇譚」だが、確かに東京大空襲で町全体が焼失する前の玉の井の雰囲気を知ることができる。玉の井(寺島町)は「どぶ川があったり・・・。それがまた汚いどぶ川でね、真っ黒なんでおはぐろどぶって呼んでた。その周りに女郎屋さんがあったんですね。まああんまりいい町じゃないんですよね。要するに私娼窟ですから」と圓歌はいっている(下441頁)。
 川本「私註」では、玉の井の匂いを、娼家の便所から流れ出る洗浄液と屎尿の臭気と書いた大林清の文章が紹介されていたが(407頁)、滝田の漫画からは、そんな臭いまでは漂ってこなかった。荷風「断腸亭日乗」や「濹東奇譚」では私娼が健気に生業を営むひっそりとした町のように描かれているが、荷風の「陋巷」趣味によって美化された描写なのだろう。

 この漫画で描かれた玉の井の風物で、昭和25年に山の手で生まれたぼくとの共通の思い出もいくつかあった。
 まず、どぶ川である。どぶ川は世田谷の玉電山下の駅前にもあって、経堂方面から東松原方面に向かって流れていた。玉の井ほど汚くはなかったが、屎尿も含んでいただろう下水(生活排水)が流れていたはずである。草の繁る幅30センチくらいの川岸があり、ぼくたちは山下駅前の橋の袂から土手を降りて、その狭い川岸をトミヤ洋品店やウワボ菓子店の裏(下)を通って赤堤通り(?)に架かる橋のあたりで地上に戻った。
 滝田はそのどぶ川で笹舟を流す競争をやっていた。笹舟の競争はぼくらもやったが、さすがに山下のどぶ川ではやらなかった。どこでやったのだろう?

 各家の塀際に置かれた木でできたゴミ箱(小津の「風の中の雌鶏」などにも登場していた)、そのゴミを収集に来た収集車はこれまた木製の大八車だった。木樽を天秤担ぎしたおわい屋(と当時は呼ばれていた)なども共通である。漫画ではおわい屋に滝田の母親が金を払っているが、昭和30年頃はうちの母親に5円を渡していた。滝田の家は商売をしていたから有料だったのかも。
 京成電車の駅には痰壺が描かれているが、痰壺は昭和40年代まで電車の各駅の柱の脇に置かれていた。「痰は痰壺に」といった標語が貼られていた。もちろん駅の便所も汲み取り式だった。
 電信柱に病院の広告が貼ってあるのも同じである。昭和40年代になっても、西荻窪の中学校の周辺にはやたらと性病科の広告が目立った。「淋病」などという言葉を知ったのもその広告からだった。

 メンコ、ベーゴマも昭和30年代の玉電山下界隈で行われていたが、ぼくはまったくやらなかった。ベーゴマなどまわし方も分からなかった。
 ぼくは野球一筋で、近所の路地でキャッチボールや屋根ボールをやって遊んだ。少年時代のサリンジャーもアメリカで屋根ボールをやっていたらしい。エラーしたボールはしょっちゅう道路わきの小さなどぶに落ちた。どぶには灰白色の濁った下水がよどんでいた。藻のような得体のしれないドロッとした物も交じっていたが、ぼくたちは拾いあげたボールをちょっと振って水を切り、濡れた手はズボンにこすっただけで、キャッチボールを再開した。赤痢や日本脳炎などで死ぬ子もいた時代に、よくぞ生き延びたものである。
 夕方になるとそんなぼくたちを一瞥しながら、近所のアパートからMさんという女性が腰をくねらながら出かけていった(「ペーパー・ムーン」のライアン・オニールの彼女!)。水商売の女性だったのだろう。玉の井ではありふれた人だったが、ぼくたちとは別世界の人に思えた。滝田の漫画の女性たちは色っぽくないのが残念。

 二つの空き缶を紐でつないで、両足の親指と人差指の間に挟んで歩く遊びも昭和30年代の世田谷に残っていた。洗い張りを営んでいる家もあった。
 「玄米パンのホーヤ、ホヤ」といいながら売りに来るパン屋もあった。東京オリンピックの昭和39年頃になっても、西荻窪では玄米パン売りの声が授業中の教室に聞こえてくることがあった。ぼくは見たことがないが、この西荻の玄米パン売りは、ロバが牽く車で売りに来ていると近所の子が言っていた。ぼくは玄米パンを食べたことがないが、圓歌は「格別おいしいものではない」と語っている。

 一番驚いたのは、迷路のようだったという玉の井の路地の随所に「ぬけられます」という案内が出ていたが、その案内がある路地は行き止まりだったということ。あれは実は道案内ではなく、お客を袋小路に迷い込ませる娼家や飲み屋の作戦だったという。
 昭和戦前の私娼街の治安はどうだったのだろうかと、荷風や川本を読みながらいつも気になるのだが、飲み逃げと「危険人物」くらいしか滝田少年の思い出には出て来なかった。

 2024年8月31日 記

 ※ 漫画本というのはほとんど読んだことも手にしたこともなかったが、今回借りた滝田の本の傷み方はひどかった。今までに図書館で借りた活字の本でこれほど傷んだ本は見たことがない。漫画本の借り手はよほど本を乱暴に扱うのだろうか。

芦原伸「草軽電鉄物語」ーー緑陰の読書(その3)

2024年08月19日 | 本と雑誌
 
 芦原伸「草軽電鉄物語――高原の記憶から」(信濃毎日新聞社、2023年)を読んだ。
 昭和35年だったかに営業廃止になってしまった草軽電鉄の廃線跡を、新軽井沢駅から草津温泉駅まで歩いて辿る紀行である。
 かつて芦原の書いた「西部劇映画事典」(NHK生活新書、書名、出版社名とも不確か)を読んだことがあった。子どもの頃からの映画好きで映画館に通って西部劇映画を見てきたという著者のこの本は面白かった。この本を道しるべにして、西部劇映画のDVDを何十本も見た。
 なんで今度は「草軽電鉄」なのかと思ったら、著者は鉄道雑誌の編集長も務めた紀行作家だった。著者は名古屋出身だが、母親が毎夏、軽井沢の女子大寮で開かれる同窓会に出席していて(日本女子大の三泉寮だろうか?)、草軽電車の思い出話も語っていたので、以前から関心があったところ、定年後に嬬恋に別荘を建てて移り住んだのをきっかけに草軽電鉄廃線の旅を始めたのだという。

 著者は、草軽電鉄の路線に沿って、新軽井沢駅から、旧軽井沢、三笠、鶴溜、小瀬温泉、長日向、国境平、二度上、栗平、北軽井沢(旧・地蔵川)、嬬恋、上州三原、谷所、草津温泉までを、各駅にまつわるエピソードや思い出話などを挟みながら踏破する。
 例えば、軽井沢のエピソードでは、軽井沢を避暑地として「発見」したのは宣教師のA・ショーと言われているが、実は彼より以前に英国外交官のアーネスト・サトウが「日本旅行日記2」(1882年。平凡社、東洋文庫)で軽井沢を紹介しており、ショーはサトウの紹介を見て軽井沢を訪れたことが紹介されている(38頁)。
 
 草軽電鉄は、草津温泉に向かう湯治客を運ぶことと、木材や薪炭(硫黄も運搬したらしい)の運搬を目的として大正4年(1915年)に営業を開始した。当初は信越線の沓掛駅(長倉。現在の中軽井沢駅)と草津温泉を結ぶ計画だったが、軽井沢の有力者が軽井沢の別荘開発を約束したため、軽井沢を起点とすることになったという。
 ちなみに「草軽電鉄」とは「草津」と「軽井沢」を結ぶ電車の略称だと思っていたが、実は「草津軽便」鉄道の略称だという(22頁)。知らなかった。
 起点の新軽井沢駅の駅舎は、信越線(現在のJR長野新幹線)軽井沢駅北口のロータリーの北側にあったという。軽井沢駅ホーム(北側)の立食い蕎麦を食べた記憶はあるが、草軽電鉄の駅舎はまったく見た記憶がない。

 2つ目の旧軽井沢駅は、現在の旧軽井沢ロータリーの東側にあり、廃線後は洋菓子のヴィクトリアの店舗になったあたりにあった。この駅にカブト虫型の機関車が停っている姿は記憶にある。ぼくの記憶では、新軽井沢-上州三原間が廃止になる昭和35年の直前には、現在のいわゆる旧軽銀座の入り口のあたりに踏切があった。しかし本書に載っている昭和30年の旧軽ロータリー付近の踏切の写真を見ると、あまりにも寂しい風景で、ぼくの記憶とは一致しない(48頁)。昭和30年代末の旧軽井沢(旧道ロータリー)の記憶と混戦しているのだろうか。
 ※ 下の写真は、現在の軽井沢駅北口に保存されている草軽電鉄のカブト虫型機関車。

   

 三笠駅から線路は蛇行して(かつ逆行して)鶴溜駅に向かう。
 お盆などで国道18号が混雑する時は、千ヶ滝から星野温泉の裏手を通って鶴溜から旧軽井沢に行くことがあったが、鶴溜を通るたびに、何で草津温泉に向かう草軽電車が鶴溜に向かうのか不思議だった。本書によれば、一つは三笠から小瀬温泉への上り坂が急だったために蛇行せざるを得なかったのだが、もう一つは起点を沓掛駅から新軽井沢に変更したことへの配慮もあったようだ(55頁)。鶴溜から沓掛までは2・6キロ、徒歩で40分近くかかったが、当時の人たちはこのくらいの歩きは平気だったようだ。星野から軽井沢に向かうにも草軽電車は便利だった。
 小瀬温泉は、軽井沢在住作家の小説の中で不倫カップルの密会の場所として登場するのを読んだことがあるが、今では宿屋は一軒しかないという。雰囲気のある宿のようだ。白糸有料道路の土煙の舞う道すがらに「小瀬温泉」という看板を目にするが、宿はこの道から歩いて20分近く奥まったところにあるらしい。

 長日向駅などは駅舎の跡形もまったくなくなっていて、案内人の説明がなければ見過ごしてしまう状態だったという。長日向には霧積温泉に向かう道と国境平に向かう道の分岐点があるという(90頁)。
 森村誠一「人間の証明」では、碓氷峠(見晴台)を下ったところに霧積温泉があるように書いてあったが、方向音痴のぼくには長日向と霧積温泉と碓氷峠の位置関係は分からない。
 伊藤博文が霧積温泉で明治憲法を起草したというエピソードも紹介されるが、明治憲法を実際に起草したのは金子堅太郎で、しかも場所は横須賀の夏島(当時は島だったが、その後埋め立てれれて地続きになり日産自動車のテストコースになった)のはずである。
 鼻曲山(はなまがりやま)も長日向から行くらしい(89頁)。

 北軽井沢駅は、以前は近くを流れる川の名前から地蔵川駅と称していた。
 ここが発展したのは、法政大学がこの地を理想郷とすべく、大正9年に80万坪という広大な敷地を購入して「法政大学村」として、安倍能成、野上弥生子、津田左右吉、岸田國士らが別荘を建て、後には岩波茂雄も住み、大江健三郎も住んだという。
 彼らは、午前中は他家を訪問しない、午後10時以降の会合・宴会は控えるなどの規律を設け、道路を舗装しないことなどを協定したという。北軽井沢駅の駅舎は法政大学が草軽電鉄に寄付した建物で、その壁面には「H」字形の意匠が凝らされているが、この「H」は法政を象徴する「H」だそうだ(146~8頁)。亡父が昭和30年代前半に、草軽電車で北軽井沢に田辺元を訪ねたことが、わが家の人間が草軽電車に乗った唯一のエピソードである。
 わが家では、軽井沢では電話も引かず、テレビも置かず、午前中と夕食後は勉強するものと決まっていて、父や祖父に付き合って学生だったぼくも机に向かわなければならなかった(机に向かって本を読んでいれば何も言われなかったのだが)。父や祖父が在軽の友人を気楽に訪ねたりすることもなかった。そもそもわが家と軽井沢の関係は、叔父が学生時代に友人と追分の学生村で一夏を過ごし、夏の追分を気に入ったのがきっかけで始まった。その後叔父は千ヶ滝の文化村に別荘を購入し、ぼくも夏休みにはそこに居候させてもらい、何年か後にわが家でも千ヶ滝の分譲地を買って別荘を建てた。そんなわが家の軽井沢での生活の根っこには、「法政村」に暮らした人たちの精神が受け継がれていたのかもしれない。 

 北軽井沢から先は、吾妻(あがつま)、小代(こよ)、嬬恋、上州三原、東三原、湯窪、万座温泉口、草津前口、谷所(やと)、終点の草津温泉と続くのだが、本の返却期日が迫ってしまったので、省略する。
 嬬恋は満蒙開拓団の帰住者が開拓した村である。満州の海倫から帰住した群馬県人が開拓した地域は現在でも「ハイロン」という地名だそうだ(166頁)。
 医師で作家の南木佳士は昭和26年、三原の出身で、父親は草軽電車の運転士だった。その後東京の保谷市に移ったという。草軽電鉄の廃線後、草軽鉄道関係者は系列の東急電鉄に移籍したというから(187頁)、彼の父親も東京に移住したのだろうか。彼の芥川賞受賞作「ダイヤモンドダスト」には嬬恋村の風景が出てくるという(207~8頁)。加賀乙彦の「永遠の都」という小説にも嬬恋が登場するという(217頁)。いつか読んでみよう

 草軽電車は、新軽井沢-草津温泉間55・5キロを3時間以上かけて走った。時速17キロ程度だった。
 新軽井沢-上州三原間が廃線となった昭和35年当時、大卒初任給は1万800円、かけそば35円、コーヒー60円、ロードショー映画館入場料180円、肉屋のコロッケ1個5円だった(「コロッケ五円の助」!)。当時の草軽電車の1区間は10円、新軽井沢から草津までの全区間が210円だったという(130頁)。
 草軽電鉄の廃業は、モータリゼーションの影響だけではなく、国鉄長野原線の開業の影響もあったらしい(197頁)。

 著者は、帰り道は草軽バスで軽井沢に戻っている。軽井沢駅前では、草津温泉の旅館の送迎バスを時折見かけるが、路線バスもあるようだ。 
 巻末には、草軽電鉄の全路線の地図、略年表が付いている。

2024年8月13日 記

片山杜秀「見果てぬ日本」ーー緑陰の読書(その2)

2024年08月19日 | 本と雑誌
 
 軽井沢図書館で、川本三郎の本を探したけれど見つからなかった。その代わりと言っては何だが、作者名「か」の欄の本棚に並んでいた片山杜秀「見果てぬ日本」(新潮社、2015年)を借りてきた。
 「司馬遼太郎・小津安二郎・小松左京の挑戦」というサブタイトル通り、日本の過去、現在、未来への視角を、この3人の著作の中から探ろうとする思索の書。
 著者は、1984年の学生時代に講義で知ったパウル・ティリッヒというワイマール・ドイツのキリスト教思想家が「社会主義的決断」で示した<過去=根源、現在=自律、未来=決断>とする図式に想を得て、日本の過去、現在、未来という3つの時代の価値付けを考える。その際に依拠したのが、歴史小説家司馬、日常生活を描いた映画監督小津、未来日本を構想したSF作家小松である。3人とも、日中・太平洋戦争の敗北を契機に日本の過去、現在、未来を構想したのであるが、第3章の小津だけを読んで、小松、司馬は斜め読みですませた。

 片山は、黒澤明と対比して小津を検討する。ともにアメリカ映画から影響を受けながら、黒澤はアメリカ流の大作を志向したのに対して、小津は戦中・戦後のわが国の窮状、映画会社の資金力の無さからそのような方向を断念して、身の丈に合った日常生活を映画の舞台に設定する。小津は自身の目ざす映画を「雲をつかむような、棒杭を抱いているような感じの」映画と表現したという(284頁)。
 小津の「現在」には、大きな事件や登場人物の感情の起伏はない。それは小津の戦争体験に基づいているという。
 日本の兵士と支那の兵士の間に力量の差はなく互角に戦っているが、日本の兵士は「最後の五分」の力で差がつく」と小津は語っているらしい(303頁)。兵士も生活者も日常的に常に全力で生きているわけではない、それではいざというときに疲れ果てて力を発揮できない。だから小津映画で描かれる日常生活は、「最後の五分」のための余力を残した生活風景であり、そのような映画に必須の俳優が「ヌーボー」とした笠智衆だったという。
 典型例として、「父ありき」のラストで、亡父(笠)の遺骨を任地の秋田に持ち帰る息子の佐野周二が遺骨を網棚に置いたシーンが批判されたことに対する小津の反論がある(297頁)。このシーンで、佐野が遺骨を膝の上に乗せて夜通し秋田まで行くことは、押しつけがましくてインチキ臭い。息子の孝行の念は、遺骨を膝の上に置くか網棚にあげるかに関わりなく観客に伝わればよいと小津は考える(298頁)。
 合格した旧制中学校で寄宿舎に入って以来、旧制高校、帝大、そして就職した秋田の鉱山学校と、父とは別居生活を余儀なくされてきた息子が、「東京に出てお父さんと一緒に暮らしたい」と申し出たのに対して、息子の願いを拒絶し秋田での教師生活をつづけなければならないと諭した父親(笠)に対する息子(佐野)の思いは、観客の1人であるぼくには十分に伝わった。網棚の上にあろうと、佐野はこの時はじめて父親と一緒になれたのである。
 上田の中学校の寄宿舎に入れられた時から何十年も経過した後の、束の間の一緒の時間だった。上田と東京、秋田と東京の距離に比べれば、網棚と座席との距離など無いに等しい。

 ちなみに、小津と対比された黒澤の戦後第1作が「姿三四郎」ではなく、「達磨寺のドイツ人」という映画で、浅間山の大噴火に歓喜の声をあげる日本に滞在するドイツ人が主役だったという(291頁)。松島、宮島、天橋立を日本三景とするような日本観に反発して、火山に象徴される爆発的エネルギーに、日本の未来を見ようとした映画らしい。
 黒澤の映画に浅間山が登場していたとは知らなかった。ただし1940年頃に構想されたこの映画は実際に製作されることはなく、脚本だけが残っているという。

 2024年8月11日 記 

清永聡「家庭裁判所物語」ーー 緑陰の読書(その1)

2024年08月19日 | 本と雑誌
 
 清永聡「家庭裁判所物語」(日本評論社、2018年)を図書館で借りてきて読んだ。面白かった。
 著者はNHKの解説委員で、司法記者クラブ等に所属した経験を持つ。戦後の家庭裁判所誕生から、2011年の東日本大震災時の仙台家庭裁判所(秋武憲一所長)の活動に至るまでを概観した物語である。家裁の創設から初期の運営に携わった方々の書き残した文献(例えば、五鬼上堅磐の当時の日記)や聞き書き、取材当時まだ健在だった当事者や、内藤頼博、宇田川潤四郎、三淵嘉子氏らの遺族への聞き書きを交えて要領よくまとめられていた。

 登場人物の何人かは私もお目にかかったことがあり、私なりの印象をもっていたが、著書や論文を通してお名前しか知らなかった方々の肉声というか、生身の人物像も知ることができた。
 お会いしたことがある人としては、法曹では内藤頼博さん、竹内壽平さん、佐藤藤佐さん(25、30、43頁)、森田宗一さんなど、学者では中川善之助さん、平野龍一さん、平場安治さん、宮澤浩一さん、松尾浩也さん、田宮裕さん、澤登俊雄さんなどが登場した。家庭裁判所でも家事部よりは少年部に関わる方が多い。
 著書や論文でしか存じ上げない方としては、宇田川潤四郎、三淵嘉子、栗原平八郎、秋武憲一らの諸氏の人柄にふれることができた。
 かつて私が編集部に所属した雑誌では、毎年の年末号でその年に刊行された著書・論文の講評を掲載したが、ある年、柏木千秋氏(名大教授)の刑法だったか刑訴法だったかの体系書を評者が「教科書」として紹介したところ、柏木さんが大変怒っていると澤登さん(國學院大学教授)経由でクレームが来た。澤登さんと柏木氏の接点を知らなかったので、なんで澤登さんから?と訝しく思ったが、本書で彼らの接点を知ることができた(頁数は見つからなくなってしまった)。

 以下は、思いつくままエピソード的に記しておく。
 最高裁の家庭局長(課長?)だった「五鬼上堅磐」という名前(8頁)には思い出がある。おそらく昭和30年代に彼は世田谷の赤堤周辺に住んでいたのではなかったかと思う。通学の道すがらだったか遊びに行った先に「五鬼上」という表札の家があって、何て読むのだろうと級友たちの間で話題になっていた。「ごきじょう」と読むことは後に知ったが、名前を「かきわ」と呼ぶことは本書ではじめて知った。
 内藤頼博さんを、面長、目元涼しく、鼻筋の通った二枚目、身長は175cmという描写は、まさに私がお会いした内藤さんそのものである(25頁)。前にも書いたが、NHK朝の連ドラ「虎に翼」の沢村一樹演ずる久藤何某とは似ても似つかぬ方だった。内藤さんが細野長良(最後の大審院長)と袂を分かつに至った経緯なども初めて知った(142頁)。内藤さんと石田和外最高裁長官との「交友」関係なども意外だったが(202頁)、法曹人にはそのような結びつきもあるのだろう。

 個人的には、裁判官らの自由闊達な議論と交流を封じ込めたいわゆる「司法の危機」問題、最高裁による青法協所属裁判官に対する締め付けに関する著者の筆法の弱さには不満が残った(225頁)。私は家族法の学会で最高裁家庭局付の裁判官の方の発表をお聞きし、その後の懇親会で同席して会話する機会があったが、その方の優秀さと誠実さが印象に残った。ニューシネマ時代の “handsome woman” という言葉がぴったり合う方だった。家裁発足時の精神が今に生き続けていることを信じたいが、その方はのちに地裁判事に転出してしまった。
 東京家裁事務官採用第1号の水越玲子さんという方のインタビューも印象に残った。私の教師時代の(夜間部の)受講生に東京家裁の事務官をしている女性がいたが、真面目で大へんに優秀な学生だった。きっと第1号の水越さんの精神を引き継いだ優秀な事務官でもあっただろう。
 
 小松川女子高生殺害事件をめぐって、世論が加害少年の厳罰化を要求して盛り上がった際に、これを受けた法務省で厳罰化を唱えたのが安倍治夫検事だったというのも知らなかった(156頁)。彼の著書「刑事裁判における均衡と調和」(題名は不確か)を読んだことがあった。私の学生時代の刑事訴訟法学では、弾劾的捜査観か糺問的捜査観か、当事者主義的訴訟か職権主義的訴訟かというの二項対立的な刑事手続き観が隆盛だったが、彼の本はそれでは捉えられない内容だった(ように記憶する)。
 いわゆる東大紛争をめぐって逮捕された活動家の中には126人もの未成年者が含まれており、彼らに対する少年審判事件が東京家裁に大量に係属していたことも本書で初めて知った(186頁)。

 NHK朝の連ドラ「寅に翼」で、なんで明治の女子部に穂積重遠が登場するのか不思議に思っていたが、彼は東大教授と同時に「明治大学女子部委員」という肩書をもっていたらしい(37頁)。私が在籍した大学でも、戦後まもなくの頃には東大教授が本学教授も兼務していたことがあった。
 本書は「寅に翼」の参考文献の一つになったと思われるが、私としてはドラマの「寅に翼」よりもはるかにドラマティックで、興味深い内容だった。
 ※ 5頁、飯森重任は飯守重任の誤り。

 2024年8月9日 記 

J・W・ヒギンズ「秘蔵カラー写真で味わう60年前の東京・日本」

2024年07月31日 | 本と雑誌
 
 J・ウォーリー・ヒギンズ「秘蔵カラー写真で味わう60年前の東京・日本(正・続)」(光文社新書、2018、19年)を眺めた。川本三郎の「東京抒情」に紹介されていたので、興味をもった本である。
 著者(撮影者)は、アメリカ軍の軍属として1956年に来日し、帰国した後1960年に再来日して日本の鉄道写真を撮りまくった自称「乗り鉄で撮り鉄」である。すべてがカラー写真というのが当時としては珍しかったようだ。著者は父母双方の祖父が鉄道関係者だったことから子どもの頃から鉄道に興味をもっていたという。
 新書版なので写真が小さく、画像がやや劣化した写真もあるが、いくつか懐かしい場面に出会えた。

 信濃町駅前の写真(1964年)には、北口側の駅前に「高級果実」の看板があって、丸正のマークが見える。ぼくが須賀町の出版社に勤めていた頃にもこの果物店があったことを思い出した。向かいの慶応病院の見舞客を当てこんでいたのだろう。
 神田須田町は、ぼくの数少ない路地歩きの行先の一つだったが、須田町電停は都電38系統の終点だったそうだ(73頁)。川本の「東京抒情」によれば須田町界隈は空襲を免れたというから、昭和レトロの懐かしい建物が多く残っていたのだろう。
 六本木の交差点に向かって溜池から登ってくる都電の背景には、高層ビルもなく秋の青空が広がっている(1964年、92頁)。高層ビルに遮られてしまって、あんな空の広さは今はもうない。
 青山墓地の中を走る都電7系統の両脇は草むらである。1956年には都電は青山墓地の中を通っていたという。最近の青山界隈からは想像もできないのどかな田園風景である(99頁)。
 東横線の学芸大学駅の写真もあった。1963年の東横線は学芸大学駅では地面を走っている(113頁)。ぼくが大学に入学した1969年頃にも、祐天寺駅から都立大学駅の手前まではまだ地面を走っていた。ある年の夏休みが明けて登校したら、突然に東横線が高架を走るようになっていて、車窓の眺めの良いことに感動した。以前にも書いたが、たしか1970年か1971年の9月に高架になったと思う。

 三軒茶屋の分岐点を曲がって下高井戸に向かう玉電の「イモムシ」も写っている(1964年、115頁)。クリーム色と黄緑色のツートンカラーのボディのあの車体である。
 豪徳寺付近を走るこげ茶色の4両編成の小田急線の写真がある(1956年、続102頁)。ここも線路の両脇は一面田んぼか草むらである。どの辺だろうか。1956年はぼくが赤堤小学校に入学した年だが、赤小の正門前(東側)は一面の畑で、玉ねぎなどが植えられていた。しかし小田急線の豪徳寺近くの沿線に畑があった記憶はない。梅ヶ丘駅よりにはこんな光景もあったのだろうか。
 さらに、1958年の小田急線豪徳寺駅付近の写真では、ガード上を走る小田急のロマンスカーと、ガード下に玉電山下駅にとまる玉電のイモムシのツーショットが見られる(続103頁)。  
 この2枚が、ぼくの世田谷の幼年時代を象徴するベストショットか。

 2024年7月29日 記

川本三郎「東京抒情」

2024年07月26日 | 本と雑誌
 
 川本三郎「東京抒情」(春秋社、2015年)を読んだ。

 本書は、「東京」をテーマにした「東京本」や、「東京人」をテーマにした「東京人」ものを川本が読みときながら、失われてしまった「東京」の残像を求めて川本自身が歩いて、彼自身の「東京」論を書き記した随筆集である。
 第1部「ノスタルジー都市 東京」、第2部「残影を探して」、第3部「文学、映画、ここにあり」(第3部は「小説、映画に描かれた東京」といった内容)から構成されるが、いずれも川本の東京ノスタルジック・ジャーニーである。

 東京は工業都市だったという指摘(34頁)は、ぼくの記憶とも一致する。
 荷風が愛し、川本が愛する東京の下町ということで、ぼくが最初に思い出すのは江東区で発生した六価クロム公害事件である。六価クロムがどんな物質かは分からないが、クロムというからメッキなどと関係がある町工場から排出された有害物質ではないだろうか。
 工業都市には当然労働者が多く住んでいた。学生時代、夕方の退け時の東横線車内で友人と教師の悪口を喋っていたところ、武蔵小杉(東京ではないか?)から乗ってきた労働者風の乗客に「偉そうな口をきくのはテメエで稼いでからにしろ!」と怒鳴られてしまった。当時の武蔵小杉は小さな工場が立ち並ぶ工場地帯だった。生意気な学生の物言いが不愉快だったのだろう。

 鉄道の「頭端駅」という言葉ははじめて知った。終着駅、ターミナル駅の意味だそうだ。東急世田谷線では三軒茶屋が「頭端駅」とあるが(48頁)、ぼくの玉電の「頭端」は、一方は渋谷駅、反対側は下高井戸か二子玉川で、三軒茶屋は分岐点にすぎなかった。
 聖蹟桜ヶ丘駅ホームが高架になったのは1969年だったというのも(83頁)、ぼくの思い出と合致する。聖蹟桜ヶ丘駅近くの老人施設に入っていた祖母が亡くなったのは、ぼくが19歳のまさに1969年だった。祖母を看取った帰りに、伯父を聖蹟桜ヶ丘駅まで車で送った。駅前にとめた車の中から見守っていると、しばらくして伯父が高架のホームに姿を現した。「秋刀魚の味」の石川台駅ホームの吉田輝雄のように、高架ホームに佇む伯父の映像が今でもありありと浮かぶ。

 神田は古本屋だけの町ではなく、印刷所の町でもあったと川本は書く(151頁~)。神田が印刷所の町だったことをぼくは知らなかったが、神田は実は1万人以上の中国人が集まる中華街でもあった。孫文、魯迅、周恩来、蒋介石らが留学生活を送った神保町には孫文や周恩来の行きつけだった中華料理屋があり(漢陽楼)、周恩来の記念碑もある(愛全公園)。
 板橋の章では、小豆沢(あずさわ)がカメラやフィルムメーカーの町として紹介されているが(165頁)、小豆沢こそ印刷所の町だろう。中山道の小豆沢交差点には凸版印刷があり、近所には小さな印刷所や製本所がいくつもあった。ぼくが出版社に就職した1974年には、凸版印刷ではすでにコンピュータ製版が導入されつつあったが、活字印刷の印刷所も残っていた。
 入社直後のぼくは研修のため、志村坂上にあった東洋印刷という印刷所で、活字の鋳造から植字、文撰、版組み、印刷といった活字印刷のプロセスを見学させてもらった。東洋印刷は平凡社の東洋文庫などの印刷も手掛けていて、旧字体の多く含まれる書籍の印刷はここに発注した。わが社の執筆者の中に、名前の「亀」の文字を略字(新字体)にすることを許さない筆者がいたため、様々な大きさの「亀」の旧字体の活字が用意してあった。

 西武池袋線の池袋駅と椎名町駅の間に「上り屋敷駅」(あがりやしき)という駅があったというのも驚いた(173頁)。西武線は池袋駅の手前、山手線の線路を跨いだ所から大きく左折して池袋駅に向かってけっこう進む。もしこの左折する所に駅があったら、池袋駅の雑踏を避けてここで降りて目白駅に向かうことができるのに、といつも思っていた。それがなんと昭和28年だったかまではこの近くに駅があったらしい。ぜひ復活してほしいけれど、無理だろう。
 ぼくを映画に誘った飯島正「映画の話」(日本児童文庫)を出版したアルスの社長は北原白秋の弟で、林芙美子が社長宅の女中をしていたというエピソードもあった(204頁)。亡父はアルスから本を出したが、同社が倒産したために印税を払ってもらえなかったと言っていた。
 五木寛之「風に吹かれて」に昭和30年頃の中野駅のことが出てくるとあった(207頁)。中野駅北口にも思い出はあるが、今はやめておこう。線路沿いの小学校の西向かいのアパートは今でもあるだろうか。
 荒木町界隈の話題も懐かしい(261頁)。ぼくの勤めていた出版社は新宿区須賀町にあり、昼食をとりに四谷三丁目や荒木町界隈の食べ物屋にしばしば出かけた。戦争前に余丁町に住んでいたぼくの伯母は、「荒木町の角の三味線屋の飾り窓の畳の上に生きた猫が置物みたいに座っていた」と言っていた。確かぼくの編集者時代(1970年代中頃)にもこの三味線屋はあったように記憶する(猫はいなかった)。それ以外に三業地の名残りは見かけなかったが、消防署近くのビルの一室で怪しげなことをやっているという噂を聞いたことがあった。

 関東大震災の際に、芥川龍之介は家族を守ったようなことを書いているが、実際には家族を残して一人でさっさと逃げ出したと奥さんが暴露しているという(179頁)。これだから物書きが書いたものは信用できない。
 司馬遼太郎、吉村昭の話はスルー。

 本書を出版した春秋社は、ぼくにとって思い出深い出版社である。というのは、学生時代に当時絶版になっていた田中耕太郎「世界法の理論」(岩波書店)を読みたいと思って探したところ、春秋社の在庫目録の残部僅少コーナーにこの本が載っていたのを見つけた。春秋社からは「田中耕太郎著作集」が出ていて、その中に「世界法の理論」(全3巻)も入っていたのである。
 さっそくぼくはこの本を買いに出かけた。春秋社は、たしか御茶ノ水駅北口の東京医科歯科大学の近くにあったように記憶する。小じんまりとした二階建ての和風の社屋で、受付机の向う側には畳が敷いてあった。応対に出た社員が「これが最後の一冊です」と言っていた。
 その後田中には興味がなくなってしまい、結局この本は読まないまま放置してあったが、その時に買った「商法学の特殊問題」と一緒に後輩の商法研究者にあげてしまった。

 ※ 53頁6行目の「まわりと」は「まわりを」だろう。もう1か所、どこかで有楽町の「交通会館」が「交通公館」となっているところがあった。

 2024年7月26日 記

川本三郎「いまも、君を想う」

2024年07月15日 | 本と雑誌
 
 川本三郎「いまも、君を想う」(新潮社、2010年)を読んだ。

 川本が、2008年6月に57歳の若さで亡くなった妻への哀惜を綴った文章を収める。
 記者時代の川本が、大学紛争の取材で訪れた武蔵野美大で彼女を見初めて婚約したが、その後川本は公安事件で新聞社を退職する。それでも彼女は川本と結婚し、筆1本で立つことを決意した夫を支えつづけ、やがて彼女自身も服飾関係のライターとなったという。服飾関係に疎いぼくは知らなかったが、家内は川本恵子さんの名前を知っていると言う。

 二人の思い出が切々と語られるが、話題はニューヨーク、台湾、国内の旅行、映画の思い出から、川本の服飾センス、食べ物や食べ物屋の好みなどにまで及んでいる。
 舞台は川本得意の下町ではなく、三鷹、吉祥寺、井の頭公園、善福寺公園、浜田山、それに彼女が闘病生活を送った順天堂病院(御茶ノ水)など、ぼくにも比較的なじみのある場所だったので、光景を想像しながら読むことができた。

 本書の文章の中で、1944年生れの川本と1951年生れの妻の共通の話題としてテレビドラマの「ホームラン教室」と「少年探偵団」のことが語られていた。この番組はぼくにも思い出がある。
 小柳徹主演の「ホームラン教室」の主題歌の「ツー・ストライク、ノー・ボール・・・」というピンチの場面の歌詞への共感を書いていたが、ぼくは「ノーダン・満塁、そら、チャンス・・・」という歌詞のほうが記憶にある。「少年探偵団」も「ぼ、ぼ、ぼくらは少年探偵団・・・」の思い出が語られていたが、ぼくの記憶では「轟く、轟く、あの足音は・・・」という歌詞で始まる別番組の「少年探偵団」もあった。

 その昔、妻の三益愛子に先立たれた川口松太郎が「愛子恋しや」というエッセイの中で、「夫婦は絶対に夫が先に死ななければならない」と書いていたのを今でも覚えている。夫を亡くした吉川英治と谷崎潤一郎の未亡人が二人で元気に歌舞伎座だかに来ているところに出会った川口が上のような言葉を吐いたのである。
 当時の夫婦は妻が夫より数歳から10歳くらい若いのが一般的だったから、妻に先立たれる夫は少数派だっただろうが、若くて未婚だった当時のぼくには川口のこの言葉が印象に残った。

 川本は終章近くで、同じく妻に先立たれた「映画評論家の大先輩」飯島正の短歌への共感を記している。
 飯島正はぼくが映画に関する文章を読んだ最初の筆者である。子どもの頃、アルス少年文庫というシリーズのなかに、飯島正「映画の話」という巻があった。「自転車泥棒」のスチール写真を交えながら映画の見方を子どもに向けて解説していたのだと思う。申し訳ないことに飯島の文章はまったく記憶にないのだが、「自転車泥棒」のスチール写真は今でも覚えている。1ページに2、3枚の写真が載っていて、数行のキャプションがついていた(と思う)。
 最近では飯島の名前をほとんど見かけなくなったが、懐かしい名前に出会った。

 それにしても、これほどの愛妻家が何ゆえに、あれほど足繁く娼家に通い、愛人(?)を何度も取りかえる荷風のような作家を愛せるのかがぼくには分からなかった。本書を読んで、その謎はますます深まった。
 変な男に買われるよりは荷風のほうがマシだとでも言うのだろうか。

 2024年7月15日 記

川本三郎(講演会)「永井荷風を読む楽しみ」

2024年07月14日 | 本と雑誌
 
 きょう(7月13日、土曜)午後2時から(4時半まで)、川本三郎さんの講演会「荷風を読む楽しみ」を聞きに行ってきた。
 場所は武蔵境駅前にある武蔵野市スイングホール11階、レインボーサロン。「本を楽しもう会」という団体の主催で、同会に携わっている中学高校時代の旧友から誘われて出かけてきた。
 東京の気温は30℃くらい、酷暑というほどではなく雨も降らなかったので助かった。参加者は100人かくらいだろうか、男性の老人が多かったが、女性も結構いた。荷風ファンというより川本ファンなのではないか。

 川本さんの著書は「朝日のようにさわやかに」「『同時代』を生きる気分」から「シネマ裏通り」「町を歩いて映画の中へ」など若い頃にかなり読んだが、「雑!エンタテイメント」「走れ!ナフタリン少年」で川本はもう卒業という気分になって、その後は「向田邦子と昭和の東京」「郊外の文学誌」を読んだだけだった。
 しかし、今回の講演会に誘われたので、予習しておこうとまずはテーマの永井荷風「断腸亭日乗」を「摘録」で読んだ(岩波文庫)。そして、荷風に関する川本の最近の著作「荷風好日」「荷風語録」「老いの荷風」など数冊を図書館で借りてきて読んだ。「荷風と東京ーー『断腸亭日乗』私註」(都市出版)は古書店で購入したがまだ読んでいない。
 そんな川本さんご本人にお会いするのは今日が初めて。作家の講演会に参加するというのもおそらく初めての経験ではないかと思う。それこそ一期一会と思って出かけてきた。

 最寄駅である中央線武蔵境駅の変貌ぶりに驚いた。
 下の息子がICUに通っていたので何度か近くをクルマで通ったことはあったが、電車で武蔵境駅に降り立つのは久しぶり。 
 ぼくが高校生だった1960年代半ば頃の中央線は地面を走っていて、駅の南側には日本獣医畜産大学の馬場(?)が見えていた。駅の一番南側には西武是政線(現在の西武多摩川線)のホームがあり、是政線の沿線にはアメリカン・スクールがあったので、武蔵境から中央線に乗りかえてくる生徒がいた。当時三鷹市在住だったジュディ・オングに会えるのではないかと、放課後にホームのベンチで時間を過ごしたこともあった。
 ぼくの記憶の中の武蔵境駅ホームは小海線の岩村田駅くらい鄙びた駅だった。もちろんジュディ・オングに会えることもなかったし、そもそも彼女が是政のアメリカン・スクールに通っていたかどうかも定かではない。

   

 さて、今日の川本さんの講演だが、この7月15日だったかに荷風をこえて80歳になるという川本さんはやや声がくぐもっていて、耳が遠くなったぼくは時おり聞き取れなかった。
 話の内容は、これまでにすでに活字になている話題が多かったが、いくつか新鮮な視点も教えられた。
 例えば、荒川放水路は「運河」であること(シムノンの「メグレ警部」に出てくるベルギー国境の運河を思い出した。荒川放水路は運河なのに自然の川のように河原があるという)、山の手は「坂の文化」であるのに対して下町は「水の文化」であること(なるほど四ツ谷、世田谷など坂と谷が多い)、日本小説の理想の男性像には「英雄」と「世捨人」(西行、荷風など)の対抗があること、「ぼく」(僕)というのは勤王志士が使った言葉で、荷風は自分を一貫して「わたくし」と呼んだこと、など。
 「断腸亭」に登場する「阿部雪子」は仙台出身、荷風のフランス語の弟子で、原節子のようなロングスカートに白いブラウス姿の彼女の写真を川本さんは見たことがある、小津の「東京物語」で、荒川の土手で東山千栄子が孫たちに「あんたたちもお父さんのようにお医者さんになるのかい」と話す場面は、小津が「断腸亭」を読んでロケ地に決めたと小津の「全日記」に書いてあること、最近キネマ旬報の賞を受賞した映画(聞き取れなかった)にも同じ荒川が登場すること、など。
 最大の収穫は、荷風のお通夜の折の福田とよさん(荷風宅の通いのお手伝いさん)の写真を見ることができたこと。「毎日グラフ」1959年5月17日号に載った写真だそうで、両手で顔を覆って泣く割烹着の彼女の後ろ姿が写っている(上の写真)。小津安二郎の映画の1シーンのようである。小津にしては少しアングルが高いけれど。
 活字にしにくい荷風の周辺の人物の話題もあった。荷風は人間と人間の関係には興味がなく、人間と風景(特に東京の下町の風景)の関係だけを書いたという川本さんの解釈を伺ったが、川本さんご自身は、風景だけでなく人間関係にも関心がおありのようだった。

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 ところで、先日(2024年7月9日)の東京新聞夕刊に、永井荷風「断腸亭日乗」の完全版が岩波文庫から出るという記事が載っていた(下の写真)。全9巻で、この7月12日に第1巻が発売される。岩波書店版「荷風全集」の「日乗」を原本として、これに補注と解説がつくという。

  

 「摘録・断腸亭日乗」(磯田光一編、岩波文庫)では省略された個所に何が書いてあるのかが気になったので、少なくとも昭和以降の日記は完全版で読んでみようと思う。とくに荷風が天皇をどう考えていたのかを知りたい。新刊予告によると、伏字や切取・削除された個所を復元したとあるから、難波大助処刑の日などの伏字や削除の部分も復元されているのだろう。
 なお、文庫版第1巻の表紙カバーを見ると、大正期の書名の草稿は「断腸亭日記」となっているではないか。「日乗」という語がワードでは出てこないために苦労しているぼくとしては、なんで「日記」のままにしてくれなかったのかと恨めしい。

 2024年7月13日 記