豆豆先生の研究室

ぼくの気ままなnostalgic journeyです。

サリンジャー『若者たち』ーー2023年最後の書込み

2023年12月31日 | 本と雑誌
 
 今年最後の書き込みは、J・D・サリンジャー『若者たち<短編集1> サリンジャー選集2巻』(荒地出版社、1999年新装7刷)。
 「日本の古本屋」経由で、土浦のれんが堂書店というところから買った。500円だった。
 送料は185円~となっていたが、「最も安い送料で発送します」と書いてあった。そして実際に185円で郵送されてきた。クリックポストよりも安い。良心的な古本屋である。中には、「185円から」と書いておきながら、新書版の送料に350円を請求されたこともある。本体価格を安く見せながら、送料を明示しないで利ザヤを稼ぐ古本屋もあるのである。
 本の状態は「並み」とあったが、きれいな方である。元の持ち主の読みグセがついていたが、amazonの基準なら「良い」だろう。帯までついていた。

       

 「若者たち」は鈴木武樹訳の角川文庫版を持っているのだが、苅田元司、渥美昭夫訳で読んだほうがよかった短編もあったので、断捨離にもかかわらず、買ってしまった。
 実はその前にも、12月になってから荒地出版社版の「倒錯の森<短編集2>」を買ってしまった。角川文庫版と荒地出版社版では収録作品が異なっているので、ぼくが気に入ったサリンジャーの初期の短編集を一応揃えておきたいと思ったのである(上の写真)。
 今では「ライ麦畑で捕まえて」以上に、サリンジャーの初期短編(のいくつか)が気に入ってしまった。 

 1年間、時々お付き合いくださったみなさん、有難うございました。
 それでは、よいお年をお迎えください。   

 2023年12月31日 記
 

J・ギースラー『ハリウッドの弁護士(下)』

2023年12月16日 | 本と雑誌
 
 ジェリー・ギースラー/竹内澄夫訳『ハリウッドの弁護士--ギースラーの法廷生活(下)』(弘文堂、1963年)を読み終えた。フロンティア・ブックスという弘文堂から出ていた新書版の1冊。

 ハリウッド界隈で起きた痴情による殺人事件、スターたちの離婚裁判や、ロバート・ミッチャムの麻薬事件、選挙をめぐるフレームアップ事件(ロスでは市長や地方検事候補者をハニートラップ、中でも未成年者淫行罪で引っ掛ける事件が横行したらしい)、さらにはハリウッドのやくざや賭博師がかかわる事件の弁護もしている。「東京クラブ事件」など何かと思ったら、ハリウッドの「東京クラブ」という名前の鉄火場で起きた日系賭博師が絡む殺人事件だった。
 ロバート・ミッチャムの事件もハメられた感じがある。オフの日に友人に誘われて出かけてみると、室内でマリファナ・パーティーが始まっており、彼が差し出されたマリファナを受け取った瞬間にガサ入れの警官が踏み込み、彼は逮捕されたという。ギースラーは、陪審裁判で彼がマスコミのさらし者になるのを避けるために、あっさりと有罪を認めさせて、60日間の刑期も済ませて芸能界に復帰させたという。
 民事事件では離婚関係が多く(シェリー・ウィンタース、グレタ・ガルボその他)、離婚原因の姦通(不貞)、離婚時の財産分与、離婚後の親権(監護権)や子の養育費、祖父母の孫との面会交渉権など、今日的な問題のオンパレードである。
 ぼくの感覚からは「こんな事件まで・・・」と思うような事件の弁護も引き受けているが、彼なりの倫理観に基いてはいるのだろう。

 チャールズ・チャップリンのマン法違反事件というのも印象的である。
 1942年当時のカリフォルニア州には性的目的で州外に移動する者に旅費を渡すなどした行為を罰する法律があった。チャップリンは、若い女優の卵と恋愛関係にあり、やがて破局した際に(チャップリンが彼女に飽きたのが原因だったという)、彼女がニューヨークに帰る旅費を渡したところ、同法違反で起訴されたという事件である。
 チャップリンは被告人席に座ると足が床につかないくらいの小さい男だったが、その被告人席でしょんぼりと肩を落として陪審員席を見つめていたという。それが演技だったのか本当に憔悴していたのか、ギースラーには判断できなかったが、その効果もあってか、当初はチャップリンに反感を抱いていた陪審員たちも最後には無罪の評決を下した。
 もちろんマン法が定める構成要件に該当する行為も故意もないことが証明されたから無罪になったのだろうが、ぼくにはその時のチャップリンの姿が手に取るように想像できる。おそらく演技だったのではないだろうか。冒頭の本書(下巻)の右側がチャップリンである。
 チャップリンはあけすけな性格で、彼女との関係を全く否定しなかったばかりか、「私の人生にとってセックスは重要なことではない」とまで証言したという。戦争が終わるとチャップリンはアメリカを去って行った。ヒットラーから逃れたアメリカで、今度はマッカーシズムから逃れるハメになった。
 そう言えば、この本にはマッカーシズム時代のハリウッドのことは全く出てこない。

 クラレンス・ダロウとの交流も印象的だった。
 1886年にアイオワで生まれたギースラーは、弁護士になりたいという野望を抱いてロサンゼルスに出て、材木運びの荷馬車の御者をしながら南カリフォルニア大学のロースクールで学び、アール・ロジャースという有名な刑事弁護士事務所の書生となった。
 書類運びなどの仕事をしながら司法試験に合格するのだが、当時のカリフォルニア州の司法試験はあっけないほど簡単だった。試験委員の裁判官に向かって、住所・氏名・年齢と、最近読んだ法律書の書名を答えるだけで合格したという。
 合格直後の時期に、ダロウが労働事件で労働者側の弁護人を務めていた際に、検察側の罠にハメられて陪審員買収の廉で起訴された事件で、ダロウはロジャースに弁護を依頼するが、事務所で見初めた若いギースラーにも弁護人になることを依頼したのであった。このことを名誉に思ったギースラーは、生涯ロジャースとダロウの写真を事務所に飾ったという。

 「アメリカは有罪だ」(この本はサイマル出版会から出ていたのではなかったか?そうだとすると、本書の編集者である田村勝夫さんと繋がる)のクラレンス・ダロウと、「ハリウッドの弁護士」のギースラーとはどこで繋がっていたのか訝しかったが、そんな馴れ初めだったのだ。

 2023年12月16日 記

家永真幸『台湾のアイデンティティ』

2023年11月24日 | 本と雑誌
 
 家永真幸『台湾のアイデンティティ--「中国」との相克の戦後史』(文春新書、2023年)を読んだ。

 台湾で生まれたぼくの祖父は、幼少時に台風で増水した川を見物に行って溺れたところを現地人の大工に救われて一命を取りとめた。下手をしたら子孫のぼくらもこの世に存在しなかったのだから、この台湾人大工さんにはいくら感謝しても足りない。
 もう一つ、ぼくは学生だった1960年代末から1970年代前半にかけて(本書の著者の言葉によれば)「左翼的な」台湾観を抱いていた一人だった。あの頃台湾を支配していた蔣介石・蔣経国親子の国民党政権と、その後の台湾の変遷に対する認識を整理して、現在の台湾を見る視角を得たいという思いがある。
 ※下の写真は総督府が発行した台湾総督府庁舎の絵葉書。
  

 本書は、「はじめに」から第1章「多様性を尊重する社会」までの数十ページで、古代から同性婚も認める多様性社会となった現在の台湾に至るまでの歴史の概略が語られる。そして第2章「一党支配下の政治的抑圧」、第3章「人権問題の争点化」、第4章「大陸中国との交流拡大と民主化」、第5章「アイデンティティをめぐる摩擦」においては、多くの先行研究の成果を要領よく紹介しながら、著者の視点から再構成することによって、人物に焦点を当てた戦後台湾の発展が語られる。本書によって戦後日本における台湾研究の到達点を知ることができる。 

 蔣介石の国民党政権のもとでは、反体制派を逮捕、拷問、銃殺する恐怖政治(「白色テロ」)が行われていた(64頁以下)。その蔣介石政権をアメリカ帝国主義と日本政府が支援する。日本政府は、反体制派の在日台湾人を蔣政権下の台湾に次々と強制送還する。こうして米国、蔣政権(および韓国の軍事政権)、日本が反共の防波堤として「人民中国」と敵対するというのが、当時のぼくが描いていた図式だった。
 そんな台湾が、どうして今日のような多様性を尊重する自由で、選挙によって政権交代が起きる民主的な国家になったのか。蔣介石、蔣経国亡き後の台湾の動向をきちんとフォローしていなかったので、蔣政権下の恐怖政治国家と、現在は蔡英文率いる民主国家との間の missing link に居心地の悪い思いを抱いてきた。

 特に気になっていたのは、日本にいた反体制派活動家たちの台湾への強制送還をめぐる一連の事件である。日本政府は、政治犯1人を台湾に強制送還するごとに麻薬密輸犯30人を台湾に引き取らせる密約まで結んでいたという(113頁)。
 本書で紹介される陳智雄、陳玉璽、柳文卿その他、1960年代以降に蔣政権下の台湾に強制送還された活動家の名前の多くは(70頁、109頁以下)ぼくの記憶から消えていたのだが、1970年前後に起った林景明さん強制送還事件だけは、はっきりと記憶にある。ただし林さんは強制送還されたと思っていたが実はそうではなかったから(126頁~)、柳さんの報道と混同していたのかもしれない。

 ぼくは江青ら「四人組」が失脚する頃までは、「人民中国」に淡い希望を抱いていた。蔣政権の恐怖政治に抵抗する反体制派の人たちに同情はしていたが、最終的に台湾は「人民中国」と一体になるべきだとも考えていたと思う。だから国民党政権の敵ではあるが、「人民中国」の敵でもある「台湾独立」派の人たちに強い共感がもてなかったのだと思う。
 その意味で、ぼくは代田智明さんがいう「滑稽な親中派教条主義者」の側の1人だっただろう(134頁)。本書で、べ平連から出発してその後は在日外国人の人権を守る活動をつづけた谷たみさんという方の存在を知ったが(136頁)、彼女のような生き方こそべ平連シンパだったぼくが選択しなければいけないその後の道だった。
 ※ 下の写真はぼくが予備校、大学生の頃にいつも胸につけていたべ平連の「殺すな」のバッジ。誰だったか有名なデザイナーのデザインだった。先日別件で物置を探していたら出てきた。
     

 若干の弁明をするならば、ぼくは林さんらの台湾独立運動家に対する人権弾圧にまったく無関心だったわけではない。林景明さんは「知られざる台湾」という著書を出版しているが(三省堂、1970年)、本書によれば同書は「三省堂新書編集部の『任侠的支援』を得て」出版されたという。
 三省堂新書はユニークなラインアップを誇った、装丁もお洒落な新書だったが、むのたけじ「たいまつ」、羽仁五郎「ヨオロッパの大学を行く」、井上幸治=江口朴郎「危機としての現代」、堀越智「アイルランドの反乱」、宮崎繁樹「出入国管理」などとともに、林景明「知られざる台湾」もぼくの記憶に残っている。
 林景明は、楊伝広(東京オリンピック十種競技の「台湾」代表で、当時の世界記録保持者)、翁倩玉(ジュディ・オング)とともに、当時のぼくにとって台湾を代表する名前だった。さらに、大陸側に帰還した劉彩品という名前にも確たる記憶はなかったのだが、学生時代にキャンパスで渡されたビラ類を保存してある段ボール箱の中に、なぜか劉さんを支援するガリ版刷のビラも残されていた。
 いずれにしても、本書を読んだ目的の一つは台湾戦後史における林景明さんの位置づけを確認することだったのだが、ぼんやりとした記憶の彼方にあった林景明さんの像が鮮明に結ばれた。
 林さんを支援した宮崎繁樹さんにも編集者時代に原稿をお願いしたことがあったが、当時の彼の立ち位置にも合点がいった。

 台湾の人びとの「日本人」観について。
 日本統治期に、一方では「日本人になれ」といわれながら(皇民化政策)、学校では日本人から蔑称で呼ばれたという台湾人の経験が語られている(39頁)。台湾旅行の際に、ぼくは明らかに日本人に反感をもつタクシー運転手に乗り合わせたことがあった。彼の反日感情が、日本統治時代の日本人への反感に由来するのか、抗日戦争を戦った国民党兵士の子孫が抱く反日感情だったのか、あるいは近年の日本人観光客への反感によるものだったのかは分からないが、今日でもすべての台湾人が「親日」派というわけではないことを体感した。
 八田與一に対する台湾の人たちの敬意と、日本人の八田評価の齟齬などもなるほどと思った(216~7頁)。八田の技術者的な真面目さ、勤勉さ、正直な人柄こそが台湾の人たちの尊敬を得たのであって、日本統治や日本人全般が尊敬されているわけでは決してない。

 本書の縦糸になっているのは「恐怖」だろう、とぼくは読んだ。本書の帯には「スリリングな台湾現代史!」という惹句があるが、その意味ではまさに「スリリング」といえよう。
 台湾で数年前に大ヒットした「返校」という(ゲームを原作とする)ホラー映画にみられる恐怖、蔣政権による「白色テロ」時代の恐怖(とくに強制送還の危機にさらされた在日台湾人の恐怖)、そして大陸中国による軍事的併合に対する台湾の人びとの恐怖である。
 映画「返校」は見ていないが(89頁~)、蔣介石の恐怖政治が支配した1960年代台湾の高校が舞台で、密告者を恐れる反体制派高校生が主人公らしい。独裁政権の下で、周囲の人間がすべて権力側の共犯者である可能性のある密告社会ほど恐ろしい、ホラーな社会はないだろう。
 蔣政権の白色テロの記憶が今日の台湾アイデンティティの根幹にあり、さらに政権に批判的な言論を弾圧する強権的政治を行なう習近平政権に台湾が組み込まれ、第二の香港になることへの恐怖と反発が今日の台湾の人たちの中国観の根っ子にあるのだろう。 

 「台湾有事は日本の有事」などといった声高な発言を蔡英文は歓迎したようだが(240頁)、台湾市民の多数は「現状維持」を願っている(144頁)。ぼくも、さし当りは「現状維持」、最終的には大陸中国と台湾の平和的統一、それも現在の台湾における自由と民主主義の水準での統一を願うものであるが(200頁で紹介される劉暁波の意見に賛同する)、そのようなことは “impossible dream” なのだろうか。
 いずれにせよ、台湾の帰趨は台湾の人びとが自ら決定することである。
 
 2023年11月23日 記

 ※「週刊ポスト」2024年1月1・5日号の「2024年を占う1冊」というコーナーで、川本三郎さんが本書の書評を書いていた。
 川本さんは本書で紹介された1960年代に起きた台湾人留学生の強制送還事件を「恥しいことに知らなかった」と書いている。これは驚きであった。彼はぼくより少し年長だが、東大法学部の卒業で、朝日新聞の記者を務めた人物である。東大法学部の芦部信喜ゼミに所属した留学生が強制送還されたり、(ぼくの記憶では)朝日ジャーナルにも強制送還に抗議する側の論稿が掲載されたのに、知らなかったとは。
 ぼくは彼の「同時代を生きる気分」を読んだ頃から、「同時代」を生きていないなという感懐をもった。ただし、その当時は「左翼知識人のあいだで親中派が多かったため、台湾に関心を持つだけで疎んじられた」という本書の記述に対して、「私などの世代にはこの空気はよく分かる」と川本さんが書いているのにはまったく同感で、ぼくもあの当時の「空気」がよく分かる。ということは彼と「同時代」を生きた部分もあるのだろう。
(2024年1月23日 追記)

斬馬剣禅『東西両京の大学』

2023年11月17日 | 本と雑誌
 
 斬馬剣禅『東西両京の大学--東京帝大と京都帝大』(講談社学術文庫、1988年、原著は明治36年刊)を読んだ。
 著者は「ざんば けんぜん」と読むらしい。明治36年の読売新聞に連載されたもので、筆者が同紙の記者であることは当時から明示されていたが、解説によると、斬馬とは五来(ごらい)欣造(ペンネームは五来素川)の別名であると末川博、大内兵衛らが語っているとのことである。五来は、東京帝国大学法科大学を卒業し、欧米遊学の後に読売新聞に入社し(後に同紙主幹)、さらに後に早稲田大学教授になって政治学を講じている。

 執筆当時の東京帝大および京都帝大の法律学の教授を対比して論じつつ、京都帝大法科大学の進取性を称賛し、東京帝大法科大学の改革を阻害する教授たちを論難するのだが、その人物紹介と非難がとにかく面白い。まさに「巻置くこと能わず」で、一気に読んだ。
 真偽のほどが疑わしい噂話に類するエピソードもあるが、登場人物の人柄や学問上の業績に関する記述はかなり具体的で信憑性は高い印象である。斬馬自身が東京帝大法科の卒業生で、法律学に関する知識をもっており、講義に出席して教授たちの人柄を直接観察する機会もあっただろう。
 しかし、そのような学生や新聞記者としての見聞だけでなく、教授会の内部事情にも詳しい情報提供者(内通者)がいなければ知りえないような情報も多数記されている。東京帝大法科大学内部で改革を推進しようとする側からのリークもあったと思われる。

 登場するのは、穂積陳重・梅謙次郎vs岡松参太郎、穂積八束・一木喜徳郎vs織田萬、岡野敬次郎・松波仁一郎vs高根義人、岡田朝太郎vs勝本勘三郎、・・・寺尾亨・戸水寛人、高橋vs岡村司、山田三郎vs仁井田益太郎その他で、法律学者が多いが、経済学者(田尻稲次郎ら)、政治学者、社会学者(建部遯吾など)も登場する。
 斬馬によって最初に批判される(斬られる)のは、穂積陳重である。
 穂積は従四位勲二等法学博士にして、東京大学教頭、法科大学長、貴族院議員、法典調査会主査委員の盛名を誇り、富豪の恩沢に衣食するは(陳重の妻は渋沢の娘だった)、法科大学教授中「もっとも俗の俗なるもの」であるとする(~69頁)。
 斬馬による穂積批判の要点は、彼が試験至上主義者である点に向けられる。陳重は自らがケンブリッジ大学を一番で卒業した例をあげ、得点1点の重要さを学生に説いたという(~74頁)。これが帝国大学改革を支持する斬馬の反感を買ったのであろう。
 なお本書には陳重が寄せた弁明書が掲載されている。それによれば、陳重はすでに法科大学教授以外の官職をすべて辞し、教授会でもなるべく発言を慎んで研究室で研究に励んでいる、梅、富井らはかつて自分の学生だったので謙譲を表することはあったが、自分の学内における勢力などというものは誤解である、試験制度についても改革に反対するのではなく漸進的に行なうべきであると主張するだけであるときわめて穏やかである(81頁~)。

 斬馬の批評の的確なことは、梅謙次郎の評価にも顕著である。
 斬馬は梅の「脳中やや深奥なる法理の薀蓄に欠くる所あるの憾み]はあり、法理的学殖では岡松参太郎に劣るものの、その(民)法典編纂の折に示した立法的手腕は空前絶後であると評する(~61頁)。彼は『民法要義』のような実際的、活用的な著書を出版し、人はこれを浅薄、取るに足らずという者もあるが(そんな評価があったとは!)、この著書が一般法律学的知識の普及に如何に貢献したかを知るべきである、梅は法律の解釈応用に至っては空前の天才であるという(62~3頁)。
 
 一番愉快だったエピソードは、穂積八束の結婚である。かれは浅野総一郎の娘でその操行に非難ある女と結婚したのだそうだが、そのような女と結婚したのでは学者としての体面を保てないと友人から讒言されたのに対して、八束は「余は妻を娶ったのではない、財産を娶ったのだ」と嘯いたという(94頁)。八束は、常々日本の学者が貧しいことを嘆いていたというから、さもありなんと思わせる。
 八束は人力車の車夫とは直接口を利かなかったという。車夫が行き先を聞いても返事をしないので、車夫は仕方なく人力車を引いて八束が行きそうな場所を走り回ったという。その一方で、さる東大助教授(加藤正治)の結婚式に出席した折、貴賓席に伊藤博文を見つけた八束は跪坐一礼のうえ膝行して面前に進み出て挨拶したという。こっちの行状こそ学者としての体面を汚す所為ではないか。
 早稲田の講師だった副島義一は高等文官試験に8回落第したが、その理由は八束の神主的憲法学説に従った答案を拒絶したためだという(98頁)。斬馬は、八束のような人物は「愛国心を振り廻して却って国害を来さんとす」るものであると的確に批判している(88頁)。

 その他の教授連に対する批評もどれも面白い。 
 岡松参太郎の学問的評価も極めて高いが、岡松が示した台湾総督府の委嘱を受けての台湾旧慣取調、法典編纂の事業、京大図書館新設時に彼が陣頭に立って行った整理作業の精勤ぶりなどの行政官的手腕をも斬馬は評価する(63~4頁)。
 土方寧は「名利に淡く、学問道楽なる点において」法科大学教授中でも異色であり、「仙人に近い」ものがあるという(194頁)。英法に対する学識の深さも他の英法専攻者を圧倒すると評する。
 岡村司は「もっとも学者として正直なる学者」である(212頁)。斬馬は岡村と所説を同じくするものではないが、彼の心術の公明正大さ、所信を貫く果敢なる勇気を称賛して、岡村を「学界の壮士」と呼んでいる(~234頁)。その姿勢は、後の『民法と社会主義』(弘文堂、大正11年)にまでつながるものであろう。
 寺尾亨は「教師は乞食と同じで三日やるとやめられない」と語って、大学教授の言説の自由を誇称したという。寺尾は試験が易しかったために学生の人望が厚かった。「国際法とは何ぞや」式の問題だったという(~216頁)。最近のロシア、イスラエル、国連の関係などを見ると、これは難問ではないか。

 しかし全般的に、批判の論法のほうが面白い。
 例えば、穂積の幇間として(74頁ほか)、また洋行帰りの典型としての山田三郎への批判(~238頁)など。一木喜徳郎の棒読みの口述をノートにとらせるだけの講義(101頁)、学生たちにもっとも不評だったという商法の松波仁一郎は、岡野敬次郎に追及されて商法から海商法に鞍替えされたという(120頁~)。岡田朝太郎のことを、リストが「彼の頭脳は博物館的なり、常に材料の蒐集学説の併列を主とす」と評したとあるが(57頁)、これも後進国日本に典型的な学者への批判だろう。

 明治中盤の、わが国法学界の黎明期に現われた高名な法学者たちの人物像や人間関係を窺うことができ、資料などで名前のみの存在だった人物の生きた姿--それこそ「活き活きとした」だけではなく「生々しい」という意味での “vivid” な姿--を窺うことができる。凡百の人物事典や学説史からは知ることができない法学者像である。
 この本を事前に読んでいたら、とくに、法典調査会議事速記録などはもっと面白く読めただろうと、残念に思う。
 ただし、各学者を当時の相撲取りに喩え、陳重を大砲(おおずつ)、梅を太刀山、梅ケ谷、岡松を常陸山などと比べて論ずるのだが、それらの力士がどんな相撲取りだったのかが分からない。人物評が時おり前後に飛ぶのも難点か。

 2023年11月17日 記

ヴェルコール『星への歩み』、アロン『自由の論理』

2023年11月16日 | 本と雑誌
 
 祖父の蔵書の整理作業のつづき。フランス・レジスタンス関連の本を2冊。
 ★ヴェルコール/河野与一・加藤周一訳『海の沈黙・星への歩み』(岩波現代叢書、1951年)
 大学1年の時に卒論のテーマにしようと思ったのがフランスのレジスタンス運動だった。反ドイツ、反ナチでは団結していたレジスタンスが、大戦後のアルジェリア戦争までには分裂してしまう経緯をやろうと思った。しかし第2外国語で選択したフランス語がほとんど身につかなかったので政治学専攻は断念して、法律学科に転科した。
 それでも祖父が亡くなった1984年頃は、まだその頃(1969~70年)の自分は何を考えていたのかを顧みるよすがを手元に残しておきたいと思ったのだろう。

 ★レイモン・アロン/曽村保信訳『自由の論理--トクヴィルとマルクス』(荒地出版社、1970年)
 アロンは「反動的」思想家ということで読まず嫌いしていた。本書の解説を書いているのが村松剛だったことも関係していたかもしれない。しかし今回読んでみると、村松の解説はきわめて穏当な記述に終始していて、テレビなどで見かけた彼の言動からは想像もできない。
 この本の裏表紙に、アロンを論じた杉山光信『モラリストの政治参加』(中公新書)の書評が2つ挟んであった(朝日、読売1987年4月20日付)。朝日の評者は西部邁だった。彼のような人間に担がれたのもアロンにとって不幸だった。「贔屓の引き倒し」で、「贔屓」筋への反感からぼくはアロンの真価を理解できなかった(理解しようともしなかった)のかもしれない。
 アロンこそ、戦後になって、かつてのレジスタンスの盟友たちと決別して別の道を歩んだ人物の代表的存在(の1人)ではないか。レジスタンスを卒論のテーマにしようと思いつつ、戦後の一時期日本を風靡したレジスタンス礼賛論にも違和感を感じていたあの頃のぼくが読むべき本だったかも知れない。今さら手遅れだろうけど、この本はもうしばらく手元に置いておきたい。
 ちなみに、このアロンの本の版元は荒地出版社(「あれち」と読むのか「こうち」と読むのか)だった! 荒地出版社といえば、「サリンジャー選集」の版元ではないか。サリンジャーもアロンも「反共」という点では共通していると言えるけれど。

 2023年10月30日 記

イェリネク『法の社会倫理的意義』

2023年11月07日 | 本と雑誌
 
 祖父の蔵書を整理するする作業の途上で、イェリネク/大森英太郎訳『法の社会倫理的意義』(大畑書店、昭和9年=1943年)を読んだ。
 本書は、「序論 社会科学」「第1章 社会倫理学」「第2章 法」「第3章 不法」「第4章 刑罰」の5章からなる。
 「第1章」には、「全体は個のために、個は全体のために」(“Alle für einen,einer für alle”)という最近スポーツ番組でよく耳にする標語が出てくる(41頁)。この標語はイェリネックの造語なのだろうか。
 イェリネックによれば、社会倫理的立場から一切の倫理的命令を取り入れ得る形式は「汝の行状が社会を維持し進展せしむる如く振舞うべし」ということである(33頁)。

 本書の中核になるのは「第2章 法」である。
 「法は倫理の最低限に他ならない」(“Das Recht ist nichts anders,als das ethische Minimum”)は、彼の有名な言葉であり、本書「法の社会倫理的意義」の論旨を集約した標語である。
 この言葉につづけて、「法は、客観的には、人間の意志に依拠する限りでの社会維持諸条件、従って倫理的諸規範の最低限の存在であり、主観的には、法は社会構成員が要求せられる道徳的な生活行動及び意向の最低限である」と敷衍される(67頁)。訳文に頻出する「意向」が分からないのだが。

 イェリネックによれば、歴史的に法と道徳は分離の道をたどってきたが、近年ふたたび合一の傾向もみられる(75頁)。しかし法は、道徳的諸概念のもっとも外的な領域においてのみ道徳を防御するにすぎない(77頁)。彼は、法概念における道徳の過剰を批判する一方で、道徳を個人に帰し、法を共同倫理と見る見解も批判する(78頁)。
 著者によれば、法と道徳はともに習俗すなわち倫理的慣習から発生する。習俗の内的態度が道徳(の若い概念)であり、外的態度が法(ないし共同倫理、生活態様)であり(79頁)、法は原則として外部的態度(人間の行動)を要求する(79頁)。

 法は人間の行動によって発生すべき社会状態の保持を目的とするから、緊急の場合には(社会保持のための)強制力を備えていなければならないが、法の強制力は法的生活の病的諸現象に対処するものであり、法が何らの抵抗もなく行われる場合は無数にある。むしろ強制を用いなければならないような法秩序は、粘土細工の足で立つ人形のようなものである(80頁)。
 このように、イェリネックは強制力によって担保されることを法の特質に掲げる論者を批判する。その一例として、イェーリングの「法は社会の存立諸条件を強制の形式において確保するものである」という主張があげられている(81頁注7)。

 それでは、「倫理の最低限」(である法)の「最低限」はどのように設定されるか。
 社会は構成員に対して秩序の外部的維持を要求するだけでなく、秩序の内部的意欲をも要求する。社会全体の法的意向が増大すればそれだけ法的秩序は堅固になるが、法的意向が減少すれば規範が無力となり強制がますます必要になる。「倫理の最低限」もこの内部的意欲の程度に応じて増大することになる(84~5頁)。
 法と道徳の無関係を示すものとして、道徳上禁ぜられることが法律上許されることがある(85頁)。極貧の債務者から最後の生活資産を奪うことは不道徳ではあるが、不法ではない。これも「法は道徳の最低限」の内容である(らしい)。

 「第3章 不法」および「第4章 刑罰」では、規範に背く行為(=不法)の性質と、これに対する社会的な制裁(イェリネックはこの言葉を使っていないが)たる刑罰が論じられる。意志の自由論と決定論(言い換えれば責任論)をめぐる法哲学ないし刑法理論を検討し、刑罰の性質をめぐる応報主義と目的主義の対立が論じられる。イェリネックは、刑罰の報復的性質も認めるが、その本質は予防と犯罪者の改善にあるという立場を表明する(199~202頁)。犯罪は社会の所産であるとも言う(126頁)。

 以上、イェリネックの要約を試みたが、自分が十分に理解できていないことを自白する結果になってしまった。ただ読んだだけで、要約や感想を書かなければ「読んだ」ことにはならない。しかし、この程度のことしか書けないのでは、「書いた」としても「読んだ」と言えるのか。
 イェリネック「法の社会倫理的意義」が言う、道徳的に望ましくない行為のすべてが法規制の対象になるのではなく、法による規制は「最小限」の倫理的命令の違反に限られるということには賛成である。問題は、それでは倫理の「最小限」はどこに設定されるのか、倫理的規制と法的規制の境界線をどこに引くべきか、という点にある。
 残念ながら、その境界線はイェリネックの本書では明示されていなかった(と思う)。人は内心(心の中で思った)だけでは刑罰を受けることはないこと、ただし外部的行動を起こした場合には、その行動が内心で意欲したものか否かは問われることはどこかに書いてあった。

 法と倫理の境界線ないし法的な強制力行使の限界について、ぼくは、J・S・ミル『自由論』が唱えた、社会が強制力をもって個人の行動を規制できるのは、その行為が他人の生命・身体・自由・財産等を侵害するか、侵害される危険がある場合に限られるという原則(侵害原則)を支持する。
 他人の身体等を侵害する危険がない場合は、たとえその行為によって本人自身が傷ついたり(パターナリズム)、社会の道徳が損なわれたとしても(モラリズム)、それは法規制の対象にはならない。これらは、外部からの強制力によって規制されるのではなく、各人の倫理的判断に委ねたり、あるいは道徳的な批判にとどめるべきであるという考えに共感する。
 このようなミルの考え方を、ぼくは、加藤尚武「子育ての倫理学」(丸善ライブラリ、2000年)その他一連の加藤氏の著書から学んだ。

 家族法の世界でも「社会倫理」が関係する場面は、離婚理由としての「不貞行為」、相続廃除理由としての「著しい非行」などいくつかあるが、近親婚禁止の根拠としての「社会倫理的」理由がもっとも直接的である。
 わが家族法学者は、近親婚は「優生学的」および「社会倫理的」理由から禁止されるといいながら、2、3の学者を除いてほとんどの学者は、彼らがいう「社会倫理」の具体的内容を一言も説明していない。彼らの「社会倫理」は、内容のないレッテル貼りにしか思えない。もし現在の社会で共有されるべき「社会倫理」があるとしたら、それは婚姻の自由(=配偶者選択の自由)など個人の幸福追求権の尊重だと思うのだが。
 イェリネックの本書は「法の社会倫理的意義」と題しながら、後半部分は刑罰論に集中してしまい、法と倫理の関係が問題になるはずの「公序良俗」論など民事法の分野は残念ながらまったく取り上げられない。
 
 ちなみに、この本の巻末には大畑書店の既刊書目録がついているが、瀧川幸辰『刑法読本』と、スタリゲヴィッチ著/山之内一郎訳『サヴェート法思想の発展過程』の2書の定価欄には「禁止」とある。発禁本についても既刊書目録欄に掲載することで抵抗の意志を示したのだろう。

 2023年11月7日 記

 ※この連休は孫の相手などでバタバタしていたら、気がつかないうちに「豆豆先生の研究室」の閲覧数が210万件を超えていた。17年弱の間にどなたかが210万回以上も立ち寄って下さったとは有り難いことで、信じ難いことである。

J・ギースラー『ハリウッドの弁護士(上・下)』

2023年11月02日 | 本と雑誌
 
 ジェリー・ギースラー/竹内澄夫訳『ハリウッドの弁護士--ギースラーの法廷生活(上)』(弘文堂、1963年)を読んだ。
 病院の待ち時間用に持って行ったのだが、活字が小さいのと(印刷も薄い)、前夜が寝不足だったために眠くなってしまい、数ページで断念して瞑目。帰宅してから読んだ。

 ギースラーはハリウッドの有名俳優たちの犯罪やスキャンダルを弁護したことで名をはせた弁護士で、「ハリウッドの無罪請負い人」とも称される弁護士だった。ただし、ハリウッド俳優の離婚事件なども引き受けているから、生粋の刑事弁護士というわけでもない。まさに原書のタイトルである「ハリウッドの弁護士」(“Hollywood Lawyer”)だったのだろう。
 本人によれば、彼はその風貌から「ハリウッドの田舎弁護士」と呼ばれたそうだが、ご本人はそのように呼ばれた方が仕事には有利だったという。バリッとした都会育ちのインテリ風の弁護士のほうが陪審には嫌われるらしい(上の表紙カバー写真の左側がギースラー弁護士)。

 ベテランになってからも、彼は公判前夜には眠ることができず、公判廷に立つと足が震えたと述懐している。弁護人席で背後から彼を見ていた後輩弁護士によると、弁論するギースラーのズボンが揺れていて、彼が震えているのが分かったという。それは緊張からというよりも、獲物を仕留める前の武者震いだったかもしれない。
 今日の社会状況や意識の変化からみると、刑事事件(中でも強姦事件)における彼の弁護活動には、疑問を呈する向きもあるかもしれない。
 強姦事件の被害を訴える「被害者」に被害当時の服装で出廷することを裁判官に求めたりするのは、あたかもそんな恰好をしていた被害者のほうが悪いと言わんばかりである。そのような弁護活動に幻惑されて無罪評決をしてしまうとしたら陪審員のほうが悪いのだが、紹介された事件で陪審が無罪を評決したのは、検察側が、被告人が有罪であることを立証できなかったから、無罪(“not guilty”)と評決したのである。
 ガードナー「最後の法廷」では強調されていなかったが、本書では、被告人には「無罪の推定」が及ぶこと、そして、検察側が「合理的な疑いを差し挟まないまでに」(“beyond a reasonable doubt”)被告人が有罪であることを立証する責任を負っていることが明記されている。陪審制のアメリカでは常識なのかもしれない。映画「十二人の怒れる男」では、登場する陪審員たちの口から自然に “beyond a reasonable doubt” という言葉が出ていた。

 昔から、興行主やスターの地位を利用して女性を籠絡させようとする御仁もいれば、そのような連中との性的スキャンダルを脅しのネタに芸能界へのデビューをもくろんだり、金銭を要求する御仁もいたのだ。
 強姦事件で起訴された第6話「エロール・フリンの強姦事件」と、第3話「大興行主のスキャンダル」は似たような展開である。エロール・フリンというのは往年のスターらしいが、ぼくは名前を聞いたことはあるが映画を見たことはない。共演した女優やファンの女性などと浮名を流したが、その中の2人の女性から準強姦で告発され、起訴された。訴えた「被害者」がいずれも未成年者だったため、「合意」があったとしても準強姦罪に擬せられたのである。
 ギースラーは、彼女たちが証言する「強姦」被害の具体的な態様についての矛盾を次々にあばいていく。例えば、隣りの部屋には職員がいる事務所の一室で助けも求めずに襲われたとか、襲われたという翌日にもパーティーで彼と談笑していたとか、「月を見よう」と誘われて窓際で見ていたら襲われたというが、その日その時刻にその場所から月は見えなかったことを調べたり・・・など、探偵や配下の若手弁護士を使って相当入念な調査を行なうのである。
 彼の活躍は公判廷での尋問や弁論が有名だったらしいが、実際には公判前の入念な調査にこそ彼の弁護活動の本領があった。

 さらに、被害を訴えた女性たちが未成年者とはいえ(そもそも彼女らが未成年であること自体も争点になっている。アメリカの出生証明書には推定力しかないらしい)、あまり品行方正と言えなかったことが調査で判明する。
 1人は(性犯罪に関与した)他の事件で少年院への収容を恐れて検察官に迎合した可能性があることを、もう1人は(当時のカリフォルニア州では犯罪とされていた)堕胎をしたことがばれたため処罰を免れるために、これまた検察官に迎合した可能性があったことを指摘することで(こういった事実を法廷=陪審員の面前に提出するにも法廷技術が駆使される)、公判開始当初は被害女性に同情的だった陪審員(12名中9名が女性だった)の心証を決定的に無罪評決に向けさせることに成功する。
 さらに、彼女らの背後で、彼女らとの性関係をネタにフリンをひっかけてやろうとけしかけていた男の存在を突き止め、その男を法廷に召喚して証言させることで、合意による性関係の存在すら疑わしいものとして、結局無罪評決を勝ち取るのである。
 強姦事件の公判におけるこのような審理は、いわゆる二次被害の恐れもあるが、フリンが被告となった2件の事案では、逆に、わが国の痴漢冤罪事件のような、女性側の虚偽告発の可能性が濃厚だったという印象を受ける。

 事件の紹介の中でギースラーは、検察官(と被害者)の尋問、これに対する弁護人(ギースラー)の反対尋問を公判調書からそのまま問答形式で引用しているので、アメリカ・カリフォルニア州法における反対尋問の許容範囲を知ることができる。例えば、検察側証人である警察官が現場写真を見ながら「✕印の所に被告人が立っていた」と証言したことで、ギースラーは、被告人を証言台に立たせるリスクを負うことなしに、被告人がその場で何を語ったかを警察官への反対尋問で証言させることができた(第5話「勝ち取った正当防衛」)。他にも、伝聞証拠を法廷に顕出させる方法や、許される誘導尋問の限界なども具体的に知ることができる。
 ご本人は、自分の尋問技術は、ストライカー「弁護の技術」(古賀正義訳の邦訳が青甲社から出版されている)などを参考にして修得したことの成果であると書いているが、本書で紹介されているようなギースラーの尋問は、検察官が異議を申し立てなかったり、申し立てても裁判官に却下されているところを見ると、当時としては(現在でも?)適法だったのだろう。

 ぼくは1970年代に、青学近くの青山通りに面した古本屋で “Law and Tactics” という全5巻の Case Book を見つけたことがあった。各巻1000頁近く、1冊の厚さが10センチ近くあったのだが、面白そうな目次が並んでいて、値段も5巻で2000円くらいだったので買って、自宅まで担いで(というのは嘘で、紐で縛って手提げをつけてもらって)帰ったことがあった。
 結局目次を眺めただけで、本文を読むことはなく捨ててしまった。古い革装だったのだがその革が湿気っていて黴臭かったので置いておけなくなった。陪審制を採用する英米では、陪審員相手に弁論を行う際には、たんなる法律論だけでなく、素人陪審員に対して訴求力をもつための戦術を修得しておくことも必要なのだ。ギースラーはその面でも「有能」な弁護士だったのだろう。
 ちなみに、検察側も、被害者をうぶで純情な少女に見せるために、女子高生のような衣装を着せて、おさげ髪で傍聴席の最前列に座らせたりしている。

          

 上巻で驚いたのは、わがシェリー・ウィンタースがギースラーの依頼人として登場したことであった。
 あの「ウィンチェスター銃 ' 73」(1950年)や「陽の当たる場所」(1951年)でぼくを魅了した女優さんである(上の写真は「ウィンチェスター銃 ' 73」KEEP社から)。ただし幸いにも刑事事件の被告ではなく、彼女は離婚訴訟の原告としての登場だった。
 その他にも、チャールズ・チャップリン、ザザ・ガボール、マリリン・モンロー、ロバート・ミッチャムなどが、ギースラーの依頼人として登場するらしいが(上巻には未登場)、残念ながらそれ以外の登場人物のことをぼくはまったく知らない。第3話のA・パンテージスなる被告は、ハリウッドだけでなくアメリカ西部一帯を牛耳っていた興行主だというが、彼がどの程度の「大物」だったのかは分からない。
 本書は、ある意味で、ディック・モーア 「ハリウッドのピーターパンたち」(早川書房、1987年)や、ローナン・ファロー「キャッチ・アンド・キル」(文芸春秋、2022年)などの対極にある、しかも一時代も二時代も前の1920~50年代の、ハリウッドの裏面史である。しかし、ファローらの本が告発したハリウッドの裏側の原点ともいえる情景を、彼らとは異なる視点から暴きだした本である。

 なお、ギースラーも、 E・S・ガードナーと同様に、正式なロー・スクール教育を受けていない。
 ギースラーは、アイオワ大学や南カリフォルニア大学のロー・スクールに入学したものの、いずれも中退して、アール・ロジャースという当時の大物弁護士の事務所で書生をしながら勉強して弁護士になっている。ロー・スクールでの勉強より実地の訓練のほうが重要であると考えたからであった。
 確かリンカーンも大学教育は受けておらず、弁護士事務所で書生をしながら弁護士資格を取得したはずである。そのようなバイパスが用意されているところも、アメリカの法曹養成の伝統である。1970年代になっても、アメリカ各地に無認可ロー・スクールがあったが、今でもあるのだろうか。

 2023年11月1日 記

島崎敏樹『心で見る世界』ほか

2023年10月29日 | 本と雑誌
 
 島崎敏樹『心で見る世界』(岩波新書、1969年)、同『感情の世界』(〃、1969年)、同『心の風物誌』(〃、1970年)、同『幻想の現代』(〃、1970年)、同『現代人の心』(中公新書、1968年)も、断捨離する。

 島崎敏樹の文章は、1968年当時の大学入試で頻出するという評判だったので、受験生時代に読んだと思っていた。ところがこれらの本の奥付を見ると1969年や1970年刊行のものもある。どうやらぼくは大学生になってからも、しばらくの間は島崎を読んでいたようだ。
 パラパラと眺めてみると、詩的な表現もあって、今ではすんなりとぼくの「心」には入ってこない。18、9歳の頃はこんな文章がよかったのだろうか、と思う。
 何度か書いたが、「男が憧れるのは(恋するのは、だったかも)、母性と処女性と娼婦性を兼ね備えた女性である」という、島崎の文章は、今でもぼくの印象に残っているので、捨てる前にその出典だけは確認しておこうと、一応すべてのページをめくってみたが見つからなかった。
 あれは島崎の言葉ではなかったのだろうか。そんなことはないと思うのだが・・・。

 「心」の問題で、大学生になってから影響を受けたのは、小此木啓吾の一連の「モラトリアム人間」論だった。その後にもっと影響を受けたのは山田和夫の『家という病巣』(朝日出版社)だが。
 予備校時代に、中央公論新人賞を受賞した庄司薫の「赤頭巾ちゃん、気をつけて」が雑誌の中央公論に載ったのを読んで、とんでもない同世代(18、9歳)の人間が世の中にはいるのだと衝撃を受けた。著者が実際には30歳過ぎだったことは後に知った。30歳は、今のぼくから見れば若い世代に属するが、18歳のぼくには「オッサン」だった。今度は逆に、そんな「オッサン」がよくぞあんな小説を書けたな!と衝撃だった。
 その後の「白鳥・・・」だの「黒頭巾・・・」だのは、みんな途中で投げ出した。一方で、「赤頭巾・・・」がサリンジャーの「ライ麦畑でつかまえて」のパクリだという記事を読んで、サリンジャーという作家の存在を知り、野崎孝訳の「ライ麦畑でつかまえて」(白水社)を読んだ。そしてサリンジャーを論じた小此木(初出は中央公論だったと思う)を読んだのだった。 

 70歳を過ぎた一昨年の秋に、サリンジャーの初期短編集を再読して、けっこう気に入った作品に出会ったことは前に書いた。しかし小此木の「モラトリアム人間論」からは、気持ちはかなり以前に離れてしまった。猶予しているうちに、満期が近づいてきたのだ。
 そして今回は、若き日に出会った島崎敏樹の本ともお別れである。

 2023年10月29日 記

E・S・ガードナー『続・最後の法廷』

2023年10月28日 | 本と雑誌
 
 E・S・ガードナー/新庄哲夫訳『続・最後の法廷』(早川書房、1959年)も読んだ。

 上巻は、どちらかといえば個別事件のストーリー--被告の誤認逮捕、起訴、有罪評決から収監、そしてガードナーらの活動による冤罪の証明、釈放へという展開--に主眼がおかれていた。
 これに対して「続巻」のほうは12章からなるが、後半の章では個別事件は登場せず、誤判、冤罪事件一般の原因および改善の方策の提案に誌面が費やされている。
 第1章は「26年間を賭けた蘭の花」と題される(各章につけられたタイトルは訳者がつけたものだそうだ)。1924年にミシガン州デトロイトで発生した強盗殺人事件で有罪判決を受け収監されたヴァンス・ハーディが再審無罪を勝ち取るまでの物語である。兄の無実を信じつづけた妹からガードナーの「最後の法廷」委員会に救援の申し出があり、調査の結果無実が判明したのである。法廷では、被告(ヴァンス)は犯人ではないと証言した目撃者が法廷侮辱罪で収監されるなど、捜査や公判の段階で多くの疑問があったことが指摘される。
 妹が兄の無実を確信したのは、犯行時刻とされる時間帯に、兄は犯行現場から遠く離れた妹の家で妹と一緒にいたからであった。妹のアリバイ証言を捜査、訴追側は黙殺した。その結果真犯人は大手を振って娑婆を歩きまわっている。「26年の蘭の花」の意味は読んでのお楽しみにしておくが、ガードナーのペリー・メイスンもののようなエンディングになっている。
 きのう再審が始まった袴田事件のお姉さんを思わせる。袴田さんにも「蘭の花」が届く日が一日も早く訪れることを祈る。

 最初の数章では具体的な事件も取り上げられるが、ガードナーの筆は、個別事件の展開よりも、それらの事件に共通する誤判、冤罪発生の原因と対策に向けられる。
 被告人に不利な情況証拠だけを掻き集め、他方で、被告人は目撃された犯人ではないという目撃者の証言を公判に提出しないなど、自分たちに不利な証拠を隠蔽する検察の体質、さらには、有罪率の高さによる検察官の勤務評価など検察組織の問題点の指摘、単なる状況証拠の寄せ集めにすぎない訴追側の主張を疑わない陪審員、警官殺し事件などでは地元新聞に煽られ、処罰感情をむき出しにした地元住民(からなる陪審員)による有罪評決など、陪審員の能力に対する疑念、その他、科学的手段の導入が遅れ、杜撰な初動捜査を行なう1920~50年代アメリカ諸州の警察捜査の課題などに記述の重点が移っている。

 「“最後の法廷” の教訓」と題した最終章で、ガードナーは、誤判、冤罪を防ぐための対策として10点を指摘する。
 1.証拠の標準を高くすること。現状では陪審員は推定や推理に頼りすぎている。--被告人が有罪であることを検察側が立証できないかぎり、陪審は無罪(not guilty)の評決をしなければならないという「無罪の推定」にガードナーはまったく言及しない。有罪が立証されたというためには、検察側は「合理的な疑いを差し挟む余地がないまでに」被告人が犯行を行なったことを立証しなければならないという立証の基準への言及もなかった。この基準は本書刊行以降に確立したのだったか。
 2.納税者と警察の相互理解を深めること。良心的な警察官が政治的圧力や経済的不安から自由でいられるような待遇を保障しなければならない。 
 3.殺人事件の捜査技術を向上させること。訓練された優秀な検屍官の組織をつくること。
 4.誤審の可能性がある事件を再審する権限をもつ委員会を各州に設置すること。
 5.被告の弁護が十分かつ完全に行なわれたかを調べる権限を裁判所に与えること。--その権限が裁判所にはなかったのだろうか?
 6.訴訟手続の変更を許すこと。※この項は意味不明。
 7.更生不能な職業的犯罪者と更生可能な犯罪者とを区別して、後者の更生を促す行刑制度に改めること。民衆は犯罪者の厳罰を求めるが、彼らを職業的犯罪者にしなければ結局は納税者にとって節約になる。--強盗被害を前提とした保険料が代金に上乗せされるといった「犯罪の対価」を計算するなどはいかにもアメリカ的である。
 8.アメリカの裁判制度の長所を民衆に認識させること。依頼人(被告)の権利を擁護するためではなく、裁判制度を攻撃して民衆の司法制度に対する信頼を損なうような弁護士の活動を糾弾すること。---ガードナーは悪徳警官よりも悪徳弁護士に厳しいのが印象的である。
 9.民衆と法律実務家の理解を深めること。漫画家や軽作家(!)などは法律職を風刺するが、「最後の法廷」活動では多くの弁護士が無報酬で何年間も活動してくれた。
 10.法律と医学関係者との相互理解を深めること。専門知識のない検屍官を追放し、法医学の重要性を認識すること。--その後も州によっては検死担当者の資質に問題があり、杜撰な検死が行われている実態をテレビ番組で見たことがある。

 総じて、ガードナーは警察の腐敗、悪徳警官などのキャンペーンには批判的で、良心的な警察官に同情的である(例えば第7章「路地に追い詰めた男」など)。またセンセーショナルな記事で読者を煽って部数を稼ごうとする新聞報道にも批判的であり、そのような新聞記事や近所の噂話を安易に信じる民衆や陪審員にも批判的である。さらに、選挙によって選ばれる検察官や、選挙で選ばれる市長によって任命される警察署長や刑務所長(!)が選挙目当てで(少なくとも選挙を気にして)行動することにも批判的である(「さっさと犯人を逮捕しろ!」という圧力)。陪審制や検察官選挙制など、民主主義的制度に対する、ガードナーの批判的な態度が感じられる。
 本書の対象は、1920年代の禁酒法時代から、せいぜい1950年代後半(原書は1954年の刊行)までである。その後科学的捜査技術は長足の進歩を遂げたはずである。本書の冤罪事件の中には、今日であれば、法医解剖やDNA鑑定で一発で無実が証明されると思われるものもある。しかし共犯者や同房者の虚偽自白、目撃者や被害者の誤った目撃証言、自己に不利な証拠を隠蔽する検察官など、今日でも続いている問題もある。
 ガードナーのように弁護士の経験と法律知識をもち、作家として巨万の富を築いた(著書は総計7000万部を売り上げたという)人物が現われて、冤罪救済のために私財と時間を投じてくれることは期待できない。結局はわれわれ市民が関心をもち、新聞、雑誌、テレビが報道し、われわれが監視しつづけるしかないだろう。

       
 
 なお、上巻についていた訳者による紹介によれば(上巻245頁~)、E・S・ガードナーは、1889年にマサチュセッツ州で砂金掘りの山師を父に生まれ、西部の鉱山町を放浪する生活を送り、転校をくり返した挙句に高校を中退してボクサーになった。無鑑札で試合をした廉で検事補の取調べを受けたのを機にその検事補の事務所員となり、その後高校を卒業し一度は大学に入ったものの中退して、昼間は法律事務所で働きながら独学で勉強して21歳の時に司法試験に合格し、カリフォルニア州の弁護士になった。
 しかし西部劇、探偵小説、旅行記などの雑文をパルプ雑誌に書いているうちにその収入で食べていけるようになったので、自由な時間が拘束される弁護士業は廃業して作家に専念することになり、3日間で書き上げたペリー・メイスンものの第1作「ビロードの爪」(1933年)で大ブレークした。雑文を書き始めて10年目だった。
 最盛期には年間100万ワード(日本語で400字詰め原稿用紙で約1万枚)を電動タイプライターで書いたという。ペリー・メイスンものは「コスモポリタン」や「サタデー・イヴニング・ポスト」などに連載された。弁護士業をやりながら、ペリー・メイスンものを執筆していたのかと思っていたが、違っていたようだ。なお本書の箱のデザインも勝呂忠だった。

 ※上の写真は D・B・Hughes によるガードナーの伝記 “Erle Stanley Gardner --The Case of The Real Perry Mason” (Morrow,1978)。ロス・アンジェルスの “Fowler Brothers” という書店のショー・ウィンドウに飾ってあるのを見つけて1978年5月11日に買った(と扉にメモしてあった)。15ドルだったようだ。当時は1ドルは何円だったか。“Time” 誌の78年5月8日号に載った書評が挟んであった。25ページの欄外に “on airplane Pan-am,9:30 pm, Hawaii St. time ” と書きこみがあった。その先は読まないでいるうちに早川書房から翻訳が出たが、その後は原書も翻訳も読んでない。

 2023年10月28日 記

瀧川幸辰『刑法読本』ほか

2023年10月27日 | 本と雑誌
 
 祖父の旧蔵書を、図書館に返還する話のつづき(その2)。

 ★瀧川幸辰『刑法読本』(大畑書店、昭和7年=1932年)。
 ボアソナードから始まって、ベッカリーア、フォイエルバッハら刑法学者の肖像画が数十ページごとに薄葉紙のカバーがかかって挿入されている。表紙は本当のクロス装で、箱入りのお洒落な本である。今どきこんなお洒落な概説書はないだろう。昭和7年と令和5年と比べて、どちらが豊かな時代だったと後世の人は思うだろう。
 刑法学で論じられている「因果関係論」は実は「責任論」にすぎないという瀧川の通説批判に、大学時代のぼくは影響を受けた。瀧川の言う通りだと思った。後に平井宜雄『損害賠償法の理論』(東大出版会)に結実する法学協会雑誌の連載を読んで、ようやく納得できる因果関係論に出会った。瀧川の通説批判は『刑法読本』でも論じられているが(67~9頁)、ぼくが彼の因果関係論批判を知ったのは、『犯罪論序説』(有斐閣)によってだった。
 『刑法読本』は、扉の口絵写真に写っている「刑罰からの犯人解放は、犯罪からの人間解放である」という色紙を手にするチャイナドレス姿の女性は誰なのだろう、という不思議な印象の方が中身より大きい。編集者時代に、京都大学出身で瀧川教授の教えを受けた世代の刑法学者に、「あの女性は誰ですか?」と伺ったことがあったが、先生は微苦笑されただけで答えてくれなかった。
 『刑法読本』はなぜ発禁処分となったのか。内容的には、社会紊乱や国体変革の恐れなどない穏当な刑法の概説的記述に終始していると思うのだが、あの口絵の標語と、最終ページ(195~6頁)に書かれた同じ標語を敷衍した数行が資本主義、私有財産制の否定とみなされたのだろうか。

 ★瀧川幸辰『刑法史の或る断層面』(政経書院、昭和8年)
 挿絵が入っていたり、本文各ページの下欄に欧文の脚注がついていたり、これもお洒落な本である。この本は祖父の蔵書の中でも、ぼくのお気に入りの1冊だった。法律書専門の古書店(目録)でもほとんど見かけない。
 ★瀧川幸辰『刑法と社会』(河出書房、昭和18年)
 新聞や雑誌に書いた随筆を集めたものだが、最後の「中学校時代のある思い出」が面白い。
 滝川は大阪北野中学時代に野球をやっていた。ところが当時の北野中学当局は、大阪朝日新聞の野球征伐論に便乗してか、野球を迫害したという。当時の朝日新聞は合理的な理由もなしに(中等)野球を批判していた時期があったのである。
 滝川は成績は悪くなかったのに、成績不良者に対する早朝の早出および放課後の居残り勉強への参加を強制された。「自分より成績不良の者が指名されていないのに、自分を指名するのは不公平だ」と教師に抗議すると、教師は「お前は野球をやってるからだ」と言ったという。学校側が敵視する野球をやっているうえに、他校の野球部が白ユニフォームに地下足袋姿だったのに、当時の北野中学野球部は、神戸のアメリカ人チームに似たハイカラなユニフォームに、スェーターなどを着ていたのが学校側の気に障ったのだろうと滝川は書いている。そんな時代もあったのだ。朝日新聞はいつから高校野球礼賛論になったのか。

 ★イェリネク/大森英太郎訳『法の社会倫理的意義』(大畑書店、昭和9年=1934年)
 「法は倫理の最低限」という標語で有名な著書であるが、もうしばらく手元にとどめておきたい。
 ★大森英太郎『刑法哲学研究』(関西学院大学法政学会、昭和29年)
 著者の大森氏は、東北大学助手を経て、関西学院大学教授になったが、昭和18年、鳥取を旅行中に鳥取大地震に遭遇し、鳥取の宿舎で亡くなったとのことである。38歳だった。
 ★橋本文雄『社会法と市民法』(岩波書店、昭和9年)
 ★橋本文雄『社会法の研究』( 〃、昭和10年)
 前者の表紙裏には「昭和九年九月十日午前六時四十分橋本君逝去、同十七日葬儀あり、秋霜の折」という祖父の書き込みがある(後者の年譜によれば9月16日死去とある)。後者は、著者の没後に恒藤恭・栗生武夫編で出版されたもので、恒藤の前書きによると、橋本が東北帝国大学で担当した「社会法」はわが国で初めて「社会法」を標榜した講義、講座であるという。
 ★尾高朝雄『実定法秩序論』(岩波書店、昭和17年)
 奥付の著作権者が「京城帝国大学法学会 代表船田享二」となっている。扉の「尾高朝雄著」の下に「京城帝国大学法学会叢刊」とあるが、著作権まで大学に帰属していたようだ。尾高の『法の究極にあるもの』(有斐閣)は大学1年の時に読んだ。終わり近くまで共感しつつ読み進めたが、最後にどんでん返しを食らった思いがした。法の究極にはやはり政治があると今でも思っている。民主社会では、主権者たる人民がその政治を動かせるのだが。

 ★イェリング/三村立人訳『権利闘争論』(清水書店、大正4年=1915年)
 「法の目的は平和である、しかしそこに至る手段は闘争である」という書き出しの一文(だけ)が有名である。三村訳では「権利の目的は平和に在り」とある。学生時代に読んだ日沖憲郎訳の岩波文庫版では「法」となっていた(1970年、定価は★1つ。ぼくが学生の頃は★1つは50円だった)。大正4年刊ということは、祖父は旧制高校生の頃に読んだのだろうか。
 ★ハンス・ケルゼン/阿武京二郎訳『規範学又は文化科学としての法律学--方法批判的研究』(大村書店、大正12年)
 丁寧に読んだ形跡があり、祖父の独特の難読の字体で随所に書き込みがあった。大正12年は祖父が大学を出て2年目である。
 ★J・S・ミル/松浦孝作訳『精神科学の理論』(改造社、昭和15年)
 この本は、ケルゼンよりさらに丁寧に読んでいる。社会学がテーマになっているからだろう。今回の書籍の中でも、一番に祖父の蔵書に戻さなければならない本かも知れない。
 ★田辺寿利『デュルケム社会学研究』(未来社、1988年)
 祖父の没後に献呈を受けたものらしい。

     

 以上の他にも、まだ中川善之助さんの著書などが何冊か残っていることを思い出した。
 祖父は中川さんと同い年で、中学、高校、大学と同窓だった。学生時代から面識はあったが、親しく交流するほどではなかったようだ。中川さんはぼくが編集者をしていた雑誌の編集顧問だったこともあり、何度かお会いした。最後にお会いしたのは、亡くなられる前年の1974年の秋頃だったと思う。場所は九段の坂を登った所にあった「あや」(「綾」だったかも)という料亭だった。翌年暖かくなったら、先生を囲む座談会を先生ゆかりの金沢と仙台で開くことになった。
 先生は、金沢の料亭「つば甚」の屏風を蹴破った四高生の昔話などを楽しそうに語っておられたが、翌1975年の3月20日、仙台に向かう上野駅で急逝されたため、この座談会は実現しなかった。
 ★中川善之助『略説身分法学』(岩波書店、昭和5年)
 ★ 同 『身分法の基礎理論--身分法及び身分関係』(河出書房、昭和14年)
 ★ 同 『身分法の総則的課題--身分権及び身分行為』(岩波書店、昭和16年)
 ★ 同 『妻妾論』(中央公論社、昭和11年)
 ★ 同 『法学協奏曲』(河出書房、昭和11年)
 中川さんの本は軽妙な筆致で読みやすく、温故知新の新発見もあるのでしばしば参照してきたのだが、やはり祖父の旧蔵書と一緒の場所に置かれるべきだろう。 
 ★栗生武夫『法の変動』(岩波書店、昭和12年)
 ★ 同 『一法学者の嘆息』(弘文堂書房、昭和11年)
 『嘆息』の中には、有島武郎、柳原燁子らの恋愛と、最近(昭和10年頃)の宇野千代、福田蘭堂らの恋愛事件の比較論などがあったりして面白そうだが、もう過去の話である。ストリート・ガールと女給の区別の話などは戦前の裁判例を読む前提として知っておいて損はないのかもしれないが。

 以上、ひとまず箱詰めは済ませておくが、発送はもうしばらく待って気持ちの整理がついてからにしよう。

 2023年10月27日 記

 ※ ところが2024年9月に、いよいよこれら祖父の旧蔵書を返納する決意をして、旧蔵書を一括収納してくれている大学の図書館に打診の手紙を送ったところ、なんと一切不要であるとの返答が返ってきてしまった。亡くなった際にまとめて送付しておけばよかったものを、さて誰に貰ってもらったらよいものやら・・・。(2024年10月24日 追記)

K・レヴィット『ヘーゲルからニーチェへ』ほか

2023年10月25日 | 本と雑誌
 
 40年近く前の1984年に亡くなった祖父の蔵書は、当時お弟子さんが在職していた関西のある私立大学図書館に一括して収蔵されることになった。
 祖父宅の書庫から搬出される前に、まだ現役教師だったぼくは、関心のある書籍を何冊か祖父の書庫から持ち帰った。しかし、祖父の蔵書の一部を手元に置いておくことにずっと罪悪感を抱いてきた。ぼくも定年となったので、この際手元にとどめてあった本をその大学図書館に送ることにした。収まるべき場所への「返還」なので、今回は「断捨離」などとは言わない。
 以下はその書籍の目録(その1)である。
 
 岩波現代叢書に収められた本がひとまとまりある。40年近く前に祖父が亡くなった頃のぼくの関心の対象がこのあたりにあったのだろうが、ほとんど読むことなく時間が流れてしまった。
 ★K・レヴィット/柴田治三郎訳『ヘーゲルからニーチェへ(Ⅰ・Ⅱ)』(岩波現代叢書、1952、3年)
 カール・レーヴィットは祖父の同僚で、友人だった。戦前に来日して日本の教壇に立っていたが、ユダヤ系だったため、身辺に迫った危険を逃れてアメリカに移住(亡命?)した。
 敗戦後に進駐してきたアメリカ軍の将校が、レーヴィットからの伝言を携えて祖父宅を訪ねて来たことがあり、祖父の知人が進駐軍のレッド・クロスに就職する際には紹介状を書いてくれたと聞いた。その後来日したこともあったようだが、祖父とは再会できたのだろうか。
 本書の解説を見ると、1897年生まれで祖父より1歳年長だが、祖父は「レーヴィット君」と呼んでいた。

 ★H・D・ラスウェル/久保田きぬ子訳『政治--動態分析』( 〃、1959年)
 原書の表題 “Politics:Who gets what, when,how” のほうが内容にふさわしそうである。
 ★R・ホーフスタッタ―/田口富久治・泉昌一訳『アメリカの政治的伝統--その形成者たち(Ⅰ・Ⅱ)』( 〃、1959、60年)
 ジェファーソンからF・ローズヴェルトまで、各時代を代表する10人の政治家を取り上げて、アメリカの政治的伝統を時系列に描いた書(らしい。目次を眺めただけなので)。興味深い人物評もあるけれど、アメリカへの関心がほぼなくなってしまったので、もう読むことはないだろう。

 ★H・J・ラスキ/飯坂良明訳『近代国家における自由』( 〃、1951年)
 ぼくは学習院大学法学部政治学科も受験した。もしここに行っていれば飯坂さんと出会っただろうし、その後の人生も当然変わっていただろう。確か飯坂ゼミの女子学生がミス・ユニバースか何かの日本代表に選ばれたという記事が新聞に載ったことがあった。司法試験の政治学の勉強で飯坂さんの教科書(確か学陽書房版だった)を読んだ。分かりやすかった。※飯坂・井出嘉憲・中村菊男共著『現代の政治学』(学陽書房、1972年)だった。
 ★ 同 /辻清明・渡辺保男訳『議会・内閣・公務員制』( 〃、1959年)
 辻さんと渡辺さんには、編集者時代に(中曽根内閣の)行政改革に関する増刊号を出した際に、企画会議や座談会でご一緒させてもらったことがあった。
 辻さんを大森のご自宅までタクシーでお送りしたこともあった。その車中で辻さんから、戦後間もないころ、わが社での編集会議を終えて、大森駅から人力車で(!)自宅に帰る途中の坂道を人力車が登れなくなったため、担当の編集者(ぼくの入社時には社長になっていた)が下りて後ろから押してくれたなどというエピソードをうかがった。
 昭和20年代の戦後東京を人力車が走っていたとは!

 以下は<岩波現代叢書>ではないが、一緒に掲げておく
 ★E・H・サザーランド/平野竜一・井口浩二訳『ホワイト・カラーの犯罪』(岩波書店、1955年)
 滝川幸辰『刑法読本』では、犯罪者は無産者、被害者は有産者という構図だったが(それが発禁の原因だろう)、戦後になって中産階層の犯罪者が増えてきた時代を反映した内容なのだろう。
 自然犯(殺人、強盗、放火など古今東西、誰でもが「犯罪」と認めるような犯罪)とは違って、現代のサラリーマン犯罪、政治犯罪、性犯罪などのように、制定法による定義なしには「犯罪」か否かの識別が困難な「犯罪」、そしてまた、上層階層が「犯罪」化を妨害するような「犯罪」が、本書の考察対象になっている(らしい。平野さんの解説しか読まなかったので)。「独占資本と犯罪」という、原書にはないサブタイトルを平野さんがつけた意図はこのあたりを示唆するものか。
 本書は<現代叢書>ではなく、<時代の窓>というシリーズの1冊だった。このシリーズには、スメドレー/阿部知二訳『偉大なる道(上・下)』や、ラスキ/辻清明訳『議会制度の危機』などが収められていたらしい。<現代の窓>創刊の辞によれば、このシリーズは実践と理論の結合を目ざす人に向けられているという。<現代叢書>は理論書で、実践は含まないという趣旨か。

 ★ハナ・アレント/大島通義・大島かおり訳『全体主義の起源(2・3)』(みすず書房、1972年)
  (1) はどうしたのだろう。
 ★ 同 /阿部斉訳『暗い時代の人びと』(河出書房新社、1972年)
 この本が阿部斉さんの翻訳だったとは。
 祖父は戦争中のレーヴィット君のことなど思いつつ読んだかもしれない。パレスチナ人とイスラエル人がお互いの行為をジェノサイド(大量虐殺)と罵り合う時代に、アレントがイスラエルのことをどう考えていたのか関心はあるが、この本から今日の問題の解決が見つかることはないだろう。
 受験時代の世界史で、今日の中東問題は近代に入ってからのイギリスの三枚舌外交によってもたらされた悲劇であることを知った。たしか東大学コンの模試の解説冊子で、秀村欣二さんが解説していたと記憶する。フセイン=マクマフォン協定でアラブ支持を密約しておきながら、バルフォア宣言でユダヤ人国家の建設を支持し、さらにサイクス=ピコ密約でオスマン帝国の領土を大国間で分割することを密約していた! アラブから石油・農産物を獲得し、ユダヤ資本からは軍事費支援を得る目的だった。
 先日のNHKテレビ「映像の20世紀・アラビアのロレンス」も同趣旨だった。ロレンスは後に自分が英国政府に利用されていた事実を知って自らの過去を恥じ、アラブ人に謝罪し、英国政府からの叙勲を拒否したという。こんなことをやっているうちにイギリスは衰退し、100年後のいま、アメリカも衰退しつつある。 

 2023年10月25日 記

トマス・ハーディ『テス(上・中)』ほか

2023年10月23日 | 本と雑誌
 
 ホレーショ・ウォルポールの『オトラント城』をめぐって、ぼくは古本との相性がよくて、探している本は向うからぼくの目に飛び込んでくるなどと書いたが、まったく出会うことができなかった古本もいくつもある。

 トマス・ハーディ/山内義雄訳『テス(下)』(角川文庫、おそらく1980年)もその1冊である。
 1980年10月に、ナターシャ・キンスキー主演の映画「テス」が公開されるのに便乗して、角川文庫の「テス」全3冊も重版されたらしい。表紙のカバーもカバーの折り返しもすべて、映画の中のナターシャのスチール写真である。
 それから何年かして、『テス(上・中)』(角川文庫、1980年)が不ぞろいだったけれど、2冊で100円と安かったのを見つけて買った。高田馬場駅から早稲田大学に向かうバス道路に面した古書店の店頭だったと記憶する。
 そのうち、どこかの古本屋の店頭の廉価コーナーで『テス(下)』も見つかるだろう、とタカをくくっていたが、その後現在までまったく見かけない。

 途中で諦めたらしく、河出書房「世界文学全集」27巻のハーディ『テス』(1967年)というあの緑色の文学全集版を買った。裏表紙の扉に「相模大野ロビーシティー内古書 “旅の一座” で¥100」と書き込みがしてある。確かにそんな古書店があったような記憶がある。今もあるのだろうか。
 しかし、どっちにしろ結局ぼくは「テス」は読まなかった。「テス」は映画は見たが、本はオックスフォード出版局から出ていた Book Worms シリーズの Retold 版 “TESS of the d'Urbervilles” で済ませた。ひところ、行方昭夫さんが著書の中で、retold(rewrite)版でよいから速読せよと書いていたので、せっせと読んだ時期があった。
 ハーディは当時は好きな作家だったので、「テス」だけでなく、「キャスターブリッジの町長」「はるか群れを離れて」「日陰のジュード」「緑陰の下で」などを、同じオックスフォードの Progressive English Readers シリーズや、Penguin Readers シリーズなどで読んだ。ハーディらしい retold もあれば、ただの要約に近いものもあった。

 ハーディ『日陰者ヂュード(下)』(岩波文庫、1997年)も同じである。
 ケイト・ウィンスレット主演の映画「日陰のふたり」の上映に便乗した重版のようで、帯に映画「ふたり」のスチール写真が載っている。
 この本も(上)と(中)は結局見つからなかった。
 ハーディのしんどいストーリーを読むにはある程度の気力とゆとりが必要である。見つける前に、3冊本で読むほどの気力も暇もなくなってしまった。
 トマス・ハーディも断捨離である。本当は「テス」の下巻や、「ジュード」の上・中巻を持っている人にあげたいのだが。

 冒頭の写真は、「テス」「ジュード」、スティーヴン・キングなど、本来は2冊本、3冊本だけど、欠けている巻を結局見つけられなかった不揃いな本を何冊か並べてみた(ただし和久峻三はついでに捨てる本である)。

 2023年10月22日 記

ロバート・ブロック『アメリカン・ゴシック』

2023年10月19日 | 本と雑誌
 
 ロバート・ブロック/仁賀克雄訳『アメリカン・ゴシック』(早川書房、1979年)は、実在の連続殺人犯をモデルにしたフィクションだが、強烈なノンフィクションを読んだ後では、印象はきわめて弱い。「事実は小説より奇なり」である。
 読んでもいないのだが、断捨離に迷いはない。

 ただ、訳者による解説の中に、本書はゴシック小説の流れに属するが、ゴシック小説の元祖はホレイショ・ウォルポール(首相ではない方のウォルポール)の「オトラント城」(1765年)にさかのぼるとあった。
 ウォルポール「オトラント城」には思い出がある。
 息子が学部生の頃の英文学か英文学史のレポートで、この小説へのコメントを割り当てられたが、参考文献がなくて困っているというのだ。同僚の英文学の教授に質問したら、ペーパーバックながら1000頁をこえるずっしりと重いイギリス文学史のテキストを貸してくれた。定番の教科書だという。黄金のドレス姿で玉座に座るエリザベス1世かヴィクトリア女王のような肖像画が表紙を飾っていた。
 かなり網羅的にイギリス文学史上の重要作品ごとに、その一部が抄録されていて、作者紹介と簡単な解説がついたものだった。残念ながら、ウォルポール「オトラント城」に関する記述はそれほど詳細ではなかった。

 そこで、ウォルポールを探して、神保町の古書店街に出かけた。
 英米文学の古書なら、小川図書だろうと当たりをつけていた。かつてサマセット・モームのハイネマン版「木の葉のそよぎ」を見つけた古本屋である。専大前交差点から数軒のところにある。さきの日曜日(10月15日)の雨の中のマラソン中継を見ていたら、神保町の古書店街を通って、この交差点を左折して走っていく選手たちがテレビに映っていた。

          

 小川図書の店頭の路上におかれた段ボール箱を漁ると、すぐに、箱に詰められた古書の中に、柴田徹士他編「英國小説研究 第5冊」(篠崎書林、昭和36年)というのが目に入ってきた(上の写真)。
 手に取ってみると、内多毅「Horace Walpole の小説 The Castle of Otranto について」という論説が載っているではないか! 
 ぼくは古本屋というか、古本との相性がよい。本のほうからぼくを呼んでいたとしか思えない体験を何度かした。
 さっそく買って帰って、息子に渡した。選択科目か一般教養科目だから、この2冊で何とかなっただろうと思うけれど、息子からは「ありがとう、よく見つけたね」と言われたけれど、どんなレポートを書いたのかは知らされなかった。感謝されるほどの時間をかけて探し出したわけではないから、それでいいのだが。
 この本(雑誌)も断捨離するか・・・。

     

 ついでに、佐木隆三『復讐するは我にあり(下)』(講談社、1975年)と、清水一行『捜査一課長』(集英社、1978年)も断捨離する。『復讐・・・』の上巻は見つからない。
 『復讐・・・』は佐木の第74回直木賞受賞作である。裏表紙に佐木へのインタビューが挟んであった(週刊読書人1976年2月9日付)。モデルとなった連続殺人事件の4人の被害者が、いずれも犯人と同じ階層の人間だったという指摘が印象的である。佐木に影響を与えたカポーティの『冷血』とはこの点で決定的に異なっているという。『冷血』では、被害者は富裕層で、犯人は下層だった。

 佐木さんには、陪審裁判をめぐって伊佐千尋さんと対談してもらったことがあった。
 ゲラは佐木さんが缶詰めになっていた新潮社の会議室(?)に届けたのだが、そこで中学時代の同窓の校條君に再会した。中学を卒業して以来10年ぶりくらいの再会だったが、その時は中学時代がとても昔のことのように思えた。それから現在までに50年近く経ったのだが、こっちの50年はあっという間だったような気がする。
 佐木さんが座っていた大きなデスクの後ろの壁には、畳2畳分くらいはありそうな沖縄の地図が掛けてあった。学校の地理の授業で使うような壁掛け地図よりさらに大きな地図だった。

 2023年10月19日 記

『FBI心理分析官』『殺人者の自伝』

2023年10月18日 | 本と雑誌
 
 ロバート・K・レスラー他/相原真理子訳『FBI心理分析官--異常殺人者たちの素顔に迫る衝撃の手記』(早川書房、1994年)、ジョーイ+デイヴ・フィッシャー/高田正純訳『殺人者の自伝--組織犯罪の25年』(早川書房、1976年)を読んだ。
 10月18日が資源ごみの回収日で、単行本も対象になっているので、捨てる前に読んでおくことにした。「資源」ゴミというのだから、焼却されたりしないで、誰か関心のある人のところに届くであろうことを祈る。

 『FBI心理分析官』は、「羊たちの沈黙」の原作かと思ったが、そうではなくあの映画のモデルになった実在のFBI捜査官が書いた本だった。著者のレスラーはあの映画には批判的のようで、実際には、あれほど単純に調査は進行しないし、ジョディ・フォスターのような訓練生にあのような調査をさせることはないと書いてあった。
 最初は、福島章の解説だけ読んで捨てようと思ったのだが、解説を読んで、本文をパラパラとめくっているうちに読みたくなって、結局全部読んだ。
 「面白かった」といったら語弊があるが、最終的に大量殺人を実行してしまう人間と、そういう犯罪に興味をもつが実際には実行しない人間との違いは何に由来するのか。その回答は、本書から得ることができる。

 FBIでプロファイリングを行なってきたレスラーが、自らがかかわった大量殺人事件の捜査における犯人像のプロファイリングと、犯人が逮捕された後にそのプロファイリングがどの程度正確だったかを分析する部分と、実際に大量殺人者にインタビューした結果、彼らがなぜそのような行為を行ったかを分析する部分からなる。
 登場するのは、シャロン・テート事件のマンソン、R・ケネディ暗殺事件のサーハン・サーハン、女子大生殺人事件のテッド・バンディなどの有名事件の犯人をはじめ、20件近くの大量殺人事件とその犯人であり、彼らに対するプロファイリング、その結果の検証、犯人に共通する特性の分析が書かれる。

 著者によれば、プロファイリングとは、発生した事件において、「何が」発生したのかを解明し、「なぜ」発生したのか、そして「誰が」起こしたのかを推測することである。
 大量殺人には、精神病的人格者(原文のままだが、今日の「人格障害者」か)による犯罪であることの痕跡が残る「秩序型」と、精神異常者による「無秩序型」があり、その混合型もあるという。
 犯罪現場に臨場した著者がまず把握するのは、「何が」起きたのか、「秩序型」か「無秩序型」かの判別である。いずれの犯人も幼少年期に不幸な家族体験をしていることが多いが、「無秩序型」は親が貧困、アルコール中毒、精神疾患などを抱えていて、目立たない学校生活を送っていることが多いのに対して、「秩序型」の親は経済的には豊かだが父親によるしつけが甘く、学校時代から攻撃的で話がうまかったりすることが多いという。

 大量殺人者のほとんどは白人であり、20代から30代の若者である(このことは福島の解説も指摘している)。そのため、ある殺人が大量殺人の一部であることが判明した場合、犯人像は一気に狭めることができる。
 連続する事件の発生場所の距離、遺体の遺棄の場所や遺棄の方法から犯人の居住地域も推測可能になる。殺害方法、遺体の状態からは犯人が軍隊経験を有する者かどうか、警察に向けた挑戦状などがあれば犯人の教育程度(ハイスクール中退かそれ以上か)、精神病院の受診歴の有無なども推測される。登場する大量殺人者の中には、17歳でシカゴ大学に飛び級入学した者や、スタンフォード大学の大学院生なども含まれている。
 
 彼らの最大の共通項は、幼少年時代の家庭環境の劣悪さである。彼らの多くは、実母や養親から愛されなかったり、父親から虐待にちかい厳格すぎるしつけを受けたりした経験をもっている。著者は親に愛されなかった子や、虐待を受けた子がすべて大量殺人者になるわけではないと何度も断ってはいるが、大量殺人者のほとんどが不幸な幼少年期を過ごしていることは事実のようだ。
 このことが原因となって、彼らは青年期になっても同年代の女性(というか他者)と自然な性関係を結ぶことができない。そして充たされない現実を離れて「空想」(妄想)を抱くようになる。普通であればそれは空想にとどまるのだが、彼らはその空想を実行に移してしまう。大量殺人は性的殺人であると著者はいう。
 犯行は動物虐待(惨殺)などの比較的小さな事件から始まって、次第に空想が拡大していくという指摘は、神戸の酒鬼薔薇事件を思わせる(小田晋「神戸小学生殺害事件の心理分析」カッパブックスなど)。

 著者は、「怪物と闘う者は、自分自身も怪物にならないように気をつけなければならない。深淵をのぞきこむとき、その深淵もこちらを見つめているのだ」というニーチェの言葉を後輩たちへの警句として引用している(47頁)。
 実際にインタビューするうちに彼らに魅了されてしまって、犯人(受刑者)に捜査情報を流すようになった捜査官もいたという。
 アメリカの犯罪ものテレビドラマにはしばしばFBIのプロファイラーが登場してプロファイリングによる推理を開陳する場面があるが、ドラマではその推理がシャーロック・ホームズ的でご都合主義的な感が否めないが、さすがに本書は実話だけあって説得力がある。一気に読んだ。

   *   *   *

 ジョーイ『殺人者の自伝』も、表紙の帯に「38人を殺した男の素顔!」とあるから、大量殺人者の自伝なのだろうが、殺人を生業にしてきたような者が起こした殺人には興味はない。1970年代に何でこんな本を買ったのか記憶もないし、読んだ形跡もまったくない。そして今回も読む気が起きないので、そのまま資源ごみに出すことにした。
 ただし、CBS記者(元警察官)による前書きには、この本はわが国の恥部を描き出しているとあるが、本書には20世紀アメリカの裏面史の一面もあるのだろう。
 フィッシャーという補筆者は、自分は(少なくとも初めて会ってから数回)は彼(ジョーイ)に魅了されていたと書いている。大恐慌のさなかの1929年に生まれ、孤児院をたらいまわしにされながら育ったジョーイにも「一分の理」はあると言いたげである。「地獄をのぞく者は、地獄からのぞかれている」というレスラーが引用したニーチェの言葉通りである。
 職業として、プロとして殺人を生業としてきたジョーイだが、彼を利用した政治家や、ニューヨーク市警察内部の腐敗も語っていて、その点ではたんなる殺人者(ヒットマン)の自伝にとどまらない。いったん彼を利用した政治家たちは、主客転倒して、それ以後は彼が主人となり、彼から逃れることができなくなってしまう。
 この本も高村薫「マークスの山」を思わせる。
 愉快な本ではないが、不要の本ではなかったのかもしれない。しかし、ぼくの人生にとっては不要になった。もう資源回収は来ただろうか。

 2023年10月18日 記

ガードナー『最後の法廷』余滴

2023年10月14日 | 本と雑誌
 
 E・S・ガードナーの『最後の法廷』にまつわる余滴をいくつか。
 同書の第6話「この事件から手を引け!」は、真犯人に迫った警部に対して上層部が圧力をかけて、警部を解雇して捜査を中止させてしまうというストーリーだったが、現在BS日テレ(BS141ch)で毎週放映されている「マークスの山」(高村薫原作)を思わせる。
 それはそうと、BS560ch の「AXNミステリー」が10月から「ミステリー・チャンネル」に変わった。何が変わったのか分からないが、「オックスフォード・ミステリー」や「女警部ヴェラ」などは引き続き放映されている。フランスの女性予審判事が主人公の新番組の予告編には、水色のわがシトロエン2CV も登場する。
 明らかに変わったといえば、同局のマスコット(?)の猫のイラストが変わった(下の写真)。

  

 さて、ガードナーの「最後の法廷」は、「アーゴシ―」という雑誌に連載された。
 「アーゴシ―」とはどのような雑誌だったのかと思って、常盤新平・川本三郎・青山南編『アメリカ雑誌全カタログ』(冬樹社、1980年、下の写真)を調べたが、残念ながら載っていなかった。 
 “Argosy” 誌をネットで調べると、1882年創刊、1978年廃刊のパルプ・マガジンとある。
 パルプ・マガジンというのも正確な定義は知らないが、わら半紙のような粗末な紙に印刷された雑誌、たとえば、かつての「噂の真相」あるいは軽井沢の旧道の三笠書房の片隅に置いてあったアメリカの犯罪実話雑誌のような紙質の雑誌のことだろうと想像してきた。今回、「アーゴシ―」誌で気になったので辞書を引いてみると、“pulp magazine” とは「(安物のザラ紙に印刷された)エログロ[低俗]雑誌」とあるではないか!(プログレッシブ英和中辞典)。
 雑誌の紙質については想像通りで異論はないが、ガードナーの「最後の法廷」を連載した雑誌を「エログロ、低俗」とはなんということか! 「アーゴシ―」を「パルプ・マガジン」と書いたネットの書込みが悪いのか、プログレッシブの語義が悪いのか。
 ちなみに “argosy” とは「大型商船、大商船隊、豊富な蓄え」とある(ジーニアス英和辞典)。

      

 ついでに、雑誌つながりで、蛇足をもう1本。
 『最後の法廷』の著者アール・スタンリー・ガードナーの伝記が、アルヴァ・ジョンストンという人の筆によって「サタデー・イヴニング・ポスト」誌に連載されたことが同書に紹介されている(14頁)。
 「サタデー・イヴニング・ポスト」というのは、サリンジャーの初期の短編の何編かを掲載した雑誌(新聞?)だが、以前にも書いたように、「サタデー・イヴニング・ポスト」に載ったサリンジャーの初期の短編はどれも好感をもって読んだ。かえってサリンジャー自身は有りがたがっていた「ニューヨーカー」に掲載された短編はあまり面白くなかった。
 ※サタデー・イブニング・ポストに掲載されたサリンジャーの作品は、「ヴァリオーニ兄弟」(1943年)、「当事者双方」「優しい軍曹」(ともに1944年)、「フランスの少年兵」(1945年)の4本だった(鈴木武樹訳、『若者たち』角川文庫、1971年)388頁以下の「年譜」による)。

 サリンジャーの短編が時おり掲載され、ガードナーの伝記が連載される「サタデー・イヴニング・ポスト」というのは、どんな雑誌だったのだろうか。この雑誌も『アメリカ雑誌全カタログ』には載っていなかった。
 ひょっとして、ノーマン・ロックウェルの挿し絵でも入った雑誌ではないかと思って、『アメリカン・ノスタルジア--ノーマン・ロックウェルの世界』(PARCO出版、1975年)をひっぱり出してみた(冒頭の写真)。すると、なんと! ロックウェルは「サタデー・イヴニング・ポスト」の表紙を40年にわたって描いていたというではないか。わが直観に我ながら感動した。

 同書の解説(T・S・ブッヒュナー/東野芳明訳)によると、ロックウェルは「サタデー・イーヴニング・ポスト」(同書では「イーヴニング」と延ばしている)の表紙を描きつづけていたが、同誌(週刊誌だった)は経営難から一時休刊していた。ところが、1968年にロックウェルの才能を評価したある画商がニューヨークで彼の作品展を開いたところ、ロックウェル・ブームに一気に火がつき、その時からロックウェルはイラストレイターから芸術家になった。解説によれば、ロックウェルは「アメリカ国民が誇りに思っていた時代の記録者」であるという。
 手元の『アメリカン・ノスタルジア』には、ロックウェルの訃報を伝える東京新聞1978年11月10日の記事と、TIME誌1978年11月20日号の記事が挟んであった(冒頭の写真)。
 彼は、1978年11月8日にマサチュセッツ州の自宅で死去。1894年生れの84歳だった。22歳の時に「サタデー・イブニング・ポスト」の表紙を描きはじめ、以後同誌の表紙を360点描き、その他にも、リンドバークの大西洋横断時の「ポスト」誌や、アポロの月面到着時の「ルック」誌の表紙なども描いたという。東京新聞の記事は、見出しも含めてロックウェルを「イラストレーター」としているが、「イラストレーター」だろうが、「芸術家、画家」だろうが、ぼくはロックウェルの描く世界が好きである。
 
 そして、この時のロックウェル・ブームのおかげで、「サタデー・イヴニング・ポスト」も復刊したという。Wikipedia によると、「サタデー・イブニング・ポスト」は1897年創刊、1969年までは週刊誌、一時休刊の後、1971年に季刊誌として再出発したという。
 同誌には、ポー、フォークナー、スタインベック、サロイヤンらのそうそうたる執筆者が名を連ねており(サリンジャーの名はあがっていなかった)、ジャック・ロンドンの「野生の叫び声」が連載されたのも同誌だったが、F・ルーズベルトのニューディール政策に反対するなど、中西部の読者を対象とした保守系の雑誌だった(時期もあった)らしい。

 ところで、日本の雑誌はどうだろうか。 
 10代後半から20代の頃にぼくが読んでいた雑誌といえば、「平凡パンチ」「週刊プレイボーイ」などだが、これは前にも書いたので省略。同じ頃、五木寛之のような作家になりたいと思って、「小説現代新人賞」でデビューした彼の小説が掲載された「小説現代」を時おり買っていた。そういえば、「エラリー・クイン ミステリー・マガジン」(早川書房、途中から「ハヤカワ ミステリ・マガジン」に改称した)を定期購読していたこともあった(数十冊あったが「平凡パンチ」などと一緒に20年近く前にポラン書房に売却した)。
 表紙が印象的だったのは「推理ストーリー」(双葉社)だが、やや「パルプ・マガジン」的だったかもしれない。ただし「推理ストーリー」には推理小説だけでなく、犯罪実話や、正木ひろし、高木彬光による冤罪ドキュメントなども掲載されることがあったと記憶する。

 2023年10月14日 記