今年の夏、軽井沢に関する新聞記事を二度見かけた。
1つ目は、毎日新聞8月19日付、全国版19面“文化”欄の、“権力の館を歩く--長野・軽井沢町別荘地”と題した記事。
筆者は御厨貴東大教授。記事のあとがきによると、専門は日本政治史・建築と政治とある。
「政治と建築」なんていう専門領域があり、御厨氏がそれを専門にしているとはまったく知らなかった。
確かに、かつて読んだ長谷川堯の『建築の現在』とか『神殿か獄舎か』には建築物と政治の関係は描かれていた。しかし、それはあくまで建築家の目から見た建築物の政治性であって、「政治と建築」というほどのものではなかった。
例えば、最高裁判所の新庁舎のコンペティションの際の条件が、最高点の海抜を国会議事堂と同じにすることだったと紹介されていた。
三権分立の理念が、立法府と司法府の建物の高さが同じであることを要求すると、最高裁のお役人は考えたのだろう。
さて、「政治と建築」の学問としての可能性はさておいて、この御厨氏のエッセイは、軽井沢の歴史というか過去を語るものとして面白かった。
敗色濃い第二次大戦の末期に、近衛文麿、東郷茂徳、伊東治正(巳代治の孫)らが、軽井沢で繰り広げた終戦工作を素描する。
確かに建物を中心に描いている。
近衛の別荘のある通称“近衛レーン”の突き当たりに伊東巳代治の別荘“翠雨荘”があり、近衛の山荘との間に東郷の別荘がある。さらに、一本隣りの“鳩山通り”には鳩山一郎の別荘もある。
特高や憲兵が目を光らせる中、彼らは庭越しに各自の別荘を行き来して、和平工作を密議した。
さらに、三笠通りを少し行った先の三笠ホテルには外務省の軽井沢出張所が開設され、通りを挟んだ向いにはスイス公使館が疎開していた。
いずれにしても、ここ軽井沢で交わされた密議は、下界では実現することなく、日本は原爆を投下されてようやく降伏することになる。
御厨氏は、これを「霧に消えた和平交渉」と表現する。近衛レーンのあたり、旧軽井沢はまさに霧の名所である。
近衛や東郷たちが霧に隠れて、庭先から相手宅を訪問するというのは、いかにもありそうな話である。
このエッセイは、敗戦前後の軽井沢を素描するだけでなく、旧軽井沢の霧を描いたエッセイともいえる。
かつて読んだ、水村美苗『本格小説』に致命的に欠けていた戦争中の旧軽井沢の一側面を知ることができる読み物である。
* 写真は、御厨貴「権力の館を歩く--長野・軽井沢別荘地(戦中編)」(毎日新聞2009年8月19日付)
2009/9/6