豆豆先生の研究室

ぼくの気ままなnostalgic journeyです。

きょうの軽井沢(2010年1月3日)

2010年01月03日 | 軽井沢・千ヶ滝
 
 ついでに、三が日の今日まで「きょうの軽井沢」を掲載しておこう。

 長野県道路事務所の、軽井沢バイパス「長倉」の今日午後4時半ころの写真。

 「-2℃ 凍結注意」という警告表示だけがオレンジに光っていて、この写真がモノクロでないことを示している。

 2010/1/3

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今年の勉強始め

2010年01月03日 | 本と雑誌
 
 今年の勉強始めは、仁志田博司編著『出生をめぐるバイオエシックス--周産期の臨床にみる「母と子のいのち」』(メジカル・ビュー社、1999年)を読むことで始めることにした。

 仁志田先生は、東京女子医大のNICU(新生児集中治療室)の責任者だった方で(同大学母子総合医療センター教授)である。
 これまでにもシンポジウムや学会後の懇親会でご一緒したことはあり、論文も何本か読んだことはあったが、今度仕事でご一緒する機会を得たので、改めて先生のお考えをまとめて読んでおこうと思い立った。
 
 内容はサブタイトルの通りなのだが、特に超低体重児や染色体異常などのために予後が極めて不良と予想される新生児に対する治療・治療中止の決定をめぐるいわゆる「倫理問題」が扱われている。
 ただし、仁志田先生の論考はバイオエシックスの「勉強」から産出されたものではなく、いつも通り先生のNICUにおける臨床経験から導かれた、まさに「臨床知」の結晶である。

 したがって、抽象的な議論の部分よりも、先生の臨床経験を記録したケーススタディの部分のほうが興味深い。ただ、先生の「ケーススタディ」は凡百のいわゆる「症例報告」などとはまったく趣きを異にする。
 そこには、仁志田先生の治療中止の決断に納得できず反発する看護婦(当時)との長い話し合いや、死の転機をたどった赤ちゃんの父親から送られてきた手紙のエピソードなども紹介されている。

 先生が重視するのは、結果を過去回顧的に眺めたときの「倫理的」妥当性ではなく、ある結論に到達するまでのプロセスの適切さである、とぼくは読んだ。
 これらを医師のパターナリズムだと批判する者もあるらしいが、このような局面で自由な自己決定などできる産婦や夫がいるとは思えない。ここに書かれているような医療側の介入(関与)は、すべての当事者にとって必要不可欠な介入であると思う。
 この問題に対する唯一の正しい結論などもありえないだろう。結局は話し合いを繰り返し、結論に至るプロセスを大切にすることしか私たちにはできないのではないだろうか。

 これはぼくの主観的な解釈であって、仁志田先生の論考を曲解しているかもしれない。
 法律を専攻する者は手続の適正(due process)とか当事者主義(adversary system)ということを重視する。だからというわけではないが、仁志田先生の議論と実践は、ぼくには腑に落ちる議論である。
 ただし、手続論の先にある「生命とはなにか」、「“いのち”とはなにか」という問いに、ぼくは答えられないままでいる。

 この本の最終章には「優しさと連帯のバイオエシックス」というサブタイトルがついている。 
 その中で、仁志田先生は、ぼくも大好きなレイモンド・チャンドラー(フィリップ・マーロウ)の、「人は優しいだけでは生きていけない。しかし優しくなければ生きている資格はない」という台詞を引用している。
 引用はぼくの記憶で書き換えた。どちらが正しいかは、原典が手元ないので調べられない。

 ぼくが引用しても迫力はないが、仁志田先生が引用すると迫力がある。30年以上にわたってNICUの現場で奮闘してきた仁志田先生が語る言葉は、まさに“hard boiled”の言葉である。

 * 写真は、仁志田博司編著『出生をめぐるバイオエシックス--周産期の臨床にみる「母と子のいのち」』(メジカル・ビュー社、1999年。ただし品切)の表紙。

 2010/1/3

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