豆豆先生の研究室

ぼくの気ままなnostalgic journeyです。

河田保育園、お不動さん

2010年01月19日 | 玉電山下・豪徳寺
 
 その『今よみがえる玉電と世田谷の街』(TAC出版)から、玉電山下駅から松原へ向かう玉電の写真。

 どぶ川(北沢川と言うらしい)から判断して、向って左側の奥が河田保育園(当時は河田母子寮といった)だと思う。
 何かの映画--“私は貝になりたい”か?--でフランキー堺が雨の中を走るシーンをこの保育園で撮影していたのを見た。
 河田保育園の東の踏切を渡ってすぐのT字路を左折して20メートルくらい行ったところにわが家はあった。

 そして、写真の右奥にぼんやりと見えている木立が、ぼくたちが“お不動さん”と呼んでいた山だと思う。
 お寺があって、線路との間がお墓になっていた。お寺の境内は小さな公園で、ブランコがあった。
 階段を下った東側の参道のはずれにはお地蔵さんが立っていた。

 ちょうどこの写真の玉電が走っているあたりの反対車線(三軒茶屋方面行き)に沿った家の子が赤堤小学校の同級生で、庭から線路に忍び込んで、電車に1円玉を轢かせて遊んだりした。
 メグレ警部を見ていたら、メグレ警部も子供時代にまったく同じことをして遊んでいた。子どもの考えることなど、洋の東西を問わずあまり違わないようだ。

 * 写真は、『今よみがえる玉電と世田谷の街』(TAC出版)107ページから。1964年5月、中本雅博撮影とある。
 光っているのはぼくの接写が下手なため。

 2010/1/19

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玉電と世田谷の街

2010年01月19日 | 玉電山下・豪徳寺

 小さな挨拶の原稿を書いたら、1万円足らずの印税が来た。
 原稿料など期待していなかったので、前から本屋で気になっていた本を買うことにした。

 1冊目は『今よみがえる玉電の時代と世田谷の街』(武相高校鉄道研究同好会編、TAC出版、2009年)。

 ぼくが1950年、昭和25年に生れ、1960年まで育った世田谷区豪徳寺(当時は世田谷区世田谷2丁目)というか、「玉電山下」界隈の懐かしい写真が山のように出てくる。
 残念ながら、玉電の三軒茶屋~渋谷間が廃線になった1969年頃の写真が多いが、それでもぼくが物心ついた1955年から60年頃の雰囲気は漂っている。

 ぼくの玉電にまつわる謎の一つは、玉電の渋谷駅はどこにあったのかということだったが、この謎もこの本で解決した。
 今のハチ公広場の南側に「玉電ビル」というのがあって、3階が井の頭線、地下鉄銀座線の渋谷駅、2階が玉電の渋谷駅、そして1階に都電の渋谷駅があったらしい。
 ぼくの記憶でも、地面ではなく薄暗いビルの中だったように憶えている。

 道玄坂から上り坂になり、今のマークシティー、WEST入り口のあたりから、この玉電ビルに入っていたらしい。現在の写真と重ね合わせると、何とか当時の路線を思い出すことができる。
 
 それに対して、大橋のあたりはあまりに変わりすぎてしまって、まったく再現不可能である。
 大橋か池尻のあたりの沿線には、たしか中将湯(津村順天堂)の工場があったはずである。その付近を通過するときは、車内にあの漢方特有のにおいが流れ込んで、我慢できなかった記憶がある。
 気になって、津村順天堂をグーグルで調べると、確かに1940~50年代に「目黒工場」というのがあったらしいが、所在地は書いてない。ちなみに、社長の別荘が上目黒にあったという記事もある。
 中将湯の「目黒工場」が大橋あたりにあってもおかしくはない。

 さて、この本の嬉しかったことの1つは、なぜか「玉電山下」だけ特別のコーナーが設けてあって、山下の懐かしい写真がけっこう多かったこと。
 残念ながら、小さい頃の僕や知っている人物、建物(石川屋、ウワボ菓子店など)は出ていなかったが、わが家の裏山、通称「お不動さん」の木立はしっかり写っていた。

 * 写真は、武相高校鉄道研究同好会編『今よみがえる玉電の時代と世田谷の街』(TAC出版、2009年)。

 2010/1/19

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