その『今よみがえる玉電と世田谷の街』(TAC出版)から、玉電山下駅から松原へ向かう玉電の写真。
どぶ川(北沢川と言うらしい)から判断して、向って左側の奥が河田保育園(当時は河田母子寮といった)だと思う。
何かの映画--“私は貝になりたい”か?--でフランキー堺が雨の中を走るシーンをこの保育園で撮影していたのを見た。
河田保育園の東の踏切を渡ってすぐのT字路を左折して20メートルくらい行ったところにわが家はあった。
そして、写真の右奥にぼんやりと見えている木立が、ぼくたちが“お不動さん”と呼んでいた山だと思う。
お寺があって、線路との間がお墓になっていた。お寺の境内は小さな公園で、ブランコがあった。
階段を下った東側の参道のはずれにはお地蔵さんが立っていた。
ちょうどこの写真の玉電が走っているあたりの反対車線(三軒茶屋方面行き)に沿った家の子が赤堤小学校の同級生で、庭から線路に忍び込んで、電車に1円玉を轢かせて遊んだりした。
メグレ警部を見ていたら、メグレ警部も子供時代にまったく同じことをして遊んでいた。子どもの考えることなど、洋の東西を問わずあまり違わないようだ。
* 写真は、『今よみがえる玉電と世田谷の街』(TAC出版)107ページから。1964年5月、中本雅博撮影とある。
光っているのはぼくの接写が下手なため。
2010/1/19