豆豆先生の研究室

ぼくの気ままなnostalgic journeyです。

『国鉄スワローズ』

2010年10月14日 | 本と雑誌
 
 先週末の朝日新聞の書評欄に載っていた堤哲『国鉄スワローズ 1950-1964』(交通新聞社新書、2010年)を読んだ。

 書評が載ったその日に近所の本屋に行ったが店頭に見当たらず、翌日の月曜、出勤の途中に西武百貨店のリブロに立ち寄ったら、書評で取り上げられた本を集めたコーナーに1冊だけ残っていた。
 あまり期待もしていなかったのだが、巻末に「国鉄スワローズ」の全戦績が、年月日、相手チーム、点数、勝利投手として掲載されていたので、買ってきた。
 そこで、大変に懐かしい事実を確認することができた。

 ぼくは子どもの頃は巨人ファンだったのだが、巨人・国鉄戦を後楽園球場に見に行ったことがあった。当日券は売り切れていたため、比較的裕福だった母親がダフ屋から券を買ってくれて観戦することになった。
 それだけでも結構不愉快な気持ちだったのだが、さらに巨人の試合内容が悪く、国鉄の新人投手村田を打ち崩せず巨人が負けてしまったのである。
 相当悔しかったのだろう、その後今日に至るまで「巨人に勝った国鉄の村田」の名前を忘れることができないでいる。

 そして今回、この『国鉄スワローズ 1950-1964』巻末の国鉄スワローズ全戦績で確認すると、新人の村田が後楽園の巨人戦で勝利したのは、1958年(昭和33年)6月15日のことで(ダブルヘッダーの第2戦)、6対3で勝利投手になっている。
 ぼくのこの記憶は52年前のこの試合だったことが確認できた。村田(元一)はその前年の1957年に明治高校から入団しており、入団の年には登板していないが、1958年の新人ではなかったようだ。
 
 もう1つ、ぼくの子どもの頃、わが家の数軒先に「宇佐美」さんという家があり、友達の間ではこの家が国鉄のコーチの家だと知られていた。
 物干しに背番号34のユニフォームが干してあるのを見た、などと吹聴する友達もいた(ぼくは見たことがない)。当時はコーチが選手のユニフォームまで洗濯していたのだろうか?
 いずれにせよ、この「宇佐美」も横浜高商出身でノンプロの国鉄を経由して、1950年のスワローズ球団発足時に捕手として入団し、1952年から1963年までコーチとして在籍していたことが分かった。

 わが家が現在の住所に引っ越してきたのが、1960年だから宇佐美コーチのスワローズ最後の3、4年はご近所さんだったらしい。
 
 その他にも、ぼくと国鉄との因縁をいくつか発見した。
 たとえば、国鉄スワローズが最初の本拠地にしたのは、今はなき「武蔵野グリーンパーク球場」だが、跡地は現在は武蔵野中央公園になっているという。この球場には中央線の武蔵境駅から引き込み線まで敷設されたという。
 ぼくは1978年に結婚した頃、武蔵野市緑町のアパートを借りていたが、道を挟んだ向かい側は広大な国鉄職員の官舎だった。当時の会社の同僚に、親父さんが旧国鉄マンで小さい頃にこの緑町の官舎に住んでいたという人がいて、彼によれば、当時は引き込み線があったという話を聞いたことがあった。
 しかし、彼からグリーンパーク球場のことは聞かなかったように思う。

 さらに戦後史上の重大事件である、三鷹事件、松川事件、桜木町事件、洞爺丸事件、三河島事件などなどが、すべて国鉄スワローズの運営に影響を及ぼしていたことなども知った。
 考えてみれば、今年は国鉄スワローズの創設60年だが、三鷹事件60年でもある。

 ぼくが生まれた年、三鷹事件などが起きた1950年に生まれた国鉄スワローズはまさに「戦後」に生まれた野球チームであり、1964年(東京オリンピックの年)、「戦後」が終わりかけた年に、戦後とともに消滅したのだった。

 2010/10/14