小津安二郎の映画の中で、ぼくが見そめた女優さんの話。
“晩春”の月岡夢路、“秋日和”の岡田茉莉子、“秋刀魚の味”の岩下志麻、古くは“東京の宿”の岡田嘉子なども綺麗なのだが(ただし岡田嘉子はスチール写真でしか見たことがない)、10数本見た小津作品の中でぼくが一番気に入った女優は、どうも文谷千代子というらしい。
最初の出会いは“戸田家の兄妹”(1941年製作)である。
この中で、戸田家の長女(吉川満子)の女中役を演じていて、2、3シーンでちょっとだけ登場する質素な着物姿の女優が好きになった。生意気なこの家の息子に邪険に扱われても、ただ「はい」と答えるだけの従順な娘である。
配役では「女中きぬ・河野敏子、たけ・文谷千代子、かね・岡本エイ子、しげ・出雲八重子」とだけあって、どの家の女中がどれなのか分からなかった。
その後に見た“東京暮色”(1957年)に出てくる鰻屋の女中も、横顔しか見えなかったがこの女優のような気がした。しかし『小津安二郎を読む――古きものの新しい復権』(フィルムアート社)で調べると、「うなぎ屋の少女・伊久美愛子」と書いてあり、別人だった。確かに年代的にも合わない。
ところが、この間の日曜に“父ありき”(1942年)を再び見ていたら、東京に出てきた笠智衆の家の女中を演じているのがこの女優のような気がした。また『小津安二郎を読む』で調べてみると、「堀川(笠智衆の役名)の女中・文谷千代子」とある。
写真は、笠智衆の具合が悪いことを、たまたま兵役検査のために上京中だった息子の佐野周二に伝えに来たシーンである。
これで、“戸田家の兄妹”に出てくる4人の女中役の女優と一致する「文谷千代子」というのがぼくのお気に入りの女優だと、ようやく確認できた。井上和男編『小津安二郎全集・下巻』に収録された“戸田家の兄妹”の脚本でも、長女宅(赤坂の浅井邸となっている)の台詞に「たけ」とあるので、たけ=文谷千代子で間違いなさそうである(同書636頁)。
こうして、ぼくは自分が好きな人の名前を知ることができたのだが、彼女は“戸田家の兄妹”や“父ありき”では2、3シーンにちょっと出てくるだけで、コマ送りで確認しようとしてもあまりはっきりとは映っていない。しかし「文谷千代子」なら、“風の中の牝雞”にたっぷり登場する。
主人公の佐野周二が、敗戦後に生活苦から妻が売春をした宿に女を買いに行くと、呼ばれてやって来た若い売春婦を演じているのが文谷千代子である。売春宿の窓辺に立って隣の小学校から聞こえてくる「夏は来ぬ」の歌声を聞いていたり、昼休みに荒川(?)の土手で弁当のおにぎりを食べていたりする。
“風の中の牝雞”ではコマ送りなどしなくてもゆっくり眺めることができるのだが、どちらかというと、ぼくは戦争前の女中時代のぽっちゃりとした、おでこの彼女のほうが好きである。
何かの本(もちろん最近読んだ「小津もの」)のどれかに、“風の中の牝雞”の文谷千代子は、後に誰か映画監督と結婚したと書いてあった。
ネットで調べるとその通りで、小林正樹監督の奥さんだった。しかも驚いたことに小林正樹は田中絹代の親戚(従兄の子)だという。ということは、文谷千代子は田中絹代と姻戚関係にあることになる。“風の中の牝雞”の田中絹代という女優もぼくは好きである。
台詞の喋り方がいい。溝口健二監督の“雨月物語”でも、幽霊になってからまで田中絹代の台詞の喋り方は良かった。
* 写真は、“戸田家の兄妹”の文谷千代子。もちろん中央、奥の女性。
2010/10/18