豆豆先生の研究室

ぼくの気ままなnostalgic journeyです。

小津安二郎“東京の合唱”、“東京の女”

2011年01月06日 | 映画
 
 今年の映画はじめも小津安二郎から。大学図書館で借りた松竹ホームビデオのVHSで、“東京の合唱”と“東京の女”を見た。

 もし小津に「夏三部作」(“晩春”“麦秋”“東京物語”)、「秋三部作」(“秋日和”“小早川家の秋”“秋刀魚の味”)のように(高橋治『絢爛たる影絵』199頁)、「東京三部作」というジャンルがあるとしたら、“東京の合唱”(1931年)、“東京の女”(1933年)、“東京の宿”(1935年)がそれに該当することになろう。
 ただし、撮影年、題名はいかにも「三部作」風だが、この三作にはそれほど一貫性はない。興行面を考えて「東京」と銘打っただけではないか。“東京の合唱”は「学園もの」+「会社員もの」、“東京の宿”は「喜八もの」(主演は坂本武)である。これに対して“東京の女”は似たものが思いつかない。あえて言えば、主人公が最後に自殺するところは“東京暮色”だろうか。
 そう言えば“東京暮色”も「東京」と銘打ってあったか・・・。

 “東京の合唱”(合唱は「コーラス」とルビが振ってある)の最初の場面は、“落第はしたけれど”などと同じ大学の体育の授業風景。いつもと同じように、教師(斎藤隆雄)の指示を岡田時彦その他の学生たちが不真面目にサボるスラップ・スティックから始まり、やがて社会人になった岡田が会社をクビになり、サンドイッチマンをしながら、最後は栃木の女学校に英語教師の職を得るというストーリー。
 当時の東京の会社員世帯にもすでに格差社会の様相が現われていて、二輪車(14インチ位の子ども用自転車)を買ってもらえる家庭の子と買ってもらえない家の子との間に差別が生じている。ちなみに、岡田の娘役を演じているのが幼い高峰秀子だが、4、5歳にして既に後世の「高峰秀子」の面影がある。
 職を失った夫が街頭でサンドイッチマンをしている姿をたまたま目撃した妻(八雲恵美子)が帰宅した夫に向かって、「あんなことをしてまでお金を稼いで欲しくない」といったセリフを吐くシーンがある。娘が病気になった時は、治療費を捻出するために夫は、妻に無断で着物を質に入れてしまうのだが、女房の着物を質に入れるほうがよっぽど恥ずかしい行為で、サンドイッチマンをしてでも家族を養おうとするのは当然のことのようにぼくには思えるのだが。
 最後に、元教師でいまはカレー屋の親父になった斎藤隆雄の斡旋で、栃木の女学校の教師の職を得るのだが、ここでまた妻は、「栃木と云ったって東京からそんなに遠くはない、いつかきっと東京に戻れるわ」と夫をなぐさめる。あの就職難の時代に栃木だろうがどこだろうが教師の職にありつけただけでも御の字ではなかったのだろうか。

                

 “東京の女”は、姉弟二人暮らしの姉(岡田嘉子)が、大学生の弟(江川宇礼雄)の学費を稼ぐために酒場勤めをしていることを、恋人(田中絹代)から聞いてショックを受けた弟が自殺をしてしまうというストーリー。
 岡田嘉子は “東京の宿”でもルンペン母子の母を演じていたが、なんで家なしになったのかは描かれていなかったし、最後にお人よしの飯田蝶子に救われるあたりは「喜八もの」の世界に近い。それに比べると、“東京の女”の岡田嘉子は「岡田嘉子」の記号性に忠実である。彼女が昼間働いている会社に巡査が調べに来るあたりは、岡田の夜の生活のあやしさをうかがわせる。結局それは政治的なあやしさではなく、酒場女(売春婦?)のいかがわしさだったのだが。
 ラストシーン、江川の亡骸の前で田中は泣き崩れるが、岡田は涙を流しながらも毅然と立ちすくんでいる。
 「映画は終わりが始まりだ」というのが小津の口癖だったというが、弟を失った後の岡田はどう生きたのだろうか。

 いずれにしても、小津には、彼の晩年の映画とくに「秋三部作」などとは違った世界があった。今回観た「東京もの」から、戦前の“父ありき”や“一人息子”、さらに戦後の“風の中の雌鶏”や“東京暮色”などにつながる一連の映画のほうが、じつは小津の世界だったように思うのだが。
 そして、小津が描く「東京」はどれも暗い。

2011/1/6 記