7月5日(日)、朝7時15分から、日本映画専門チャンネル(BS放送501ch)で、「湾生回家」(2015年、台湾映画)を見た。
ホァン・ミンチェン(黄銘正)監督、エギュゼクティブ・プロデューサー:チェン・シュエンルー 陳宣儒(日本名:田中實加)とある。
以前読んだ「台湾を知るための60章」(明石書店)で知ったが、「湾生」という言葉があるらしい。日本統治下の台湾で生まれた日本人のことをさす。
その「湾生」の人たち数人が登場し、「故郷」台湾を語る。
開拓移民として花蓮などの荒れ地に入植した人の子孫、総督府の役人の子として台北高等女学校に学んだ人など、台湾での境遇は異なるが、その人たちが台湾を訪ねて、旧友と再会したり、現地にとどまった人が日本の本籍地、そこに残る先祖の墓を探す姿などが描かれてている。
下の写真は、かつては台北高等女学校だった台北市立第一女子高級中学の正門。
当時の生徒だった湾生の一人が、日本人なら誰でも入れたが、数人しかいなかった台湾人の生徒はみな成績がきわめて優秀で、「日本人にバカにされないために一生懸命勉強している」と言っていたと語っていた。
数年前の旅行の際に、台北市立第一女子高級中学の前を通った。旧台湾総督府庁舎(現在は総統府)の真向かいに正門があって、建物や植栽は女学校当時のままのようだったが、その立地や正門の佇まいからして、いかにも伝統のある名門校という風情だった。
抗日戦争の英雄らを祀る忠烈祠の前を通り過ぎるシーンがあったり、湾生の人が「霧社事件」に言及したり、日本兵としてかり出された高砂族の義勇兵を追憶する場面もあったが、亡くなった湾生の法事で、遺族が「故郷」(高野辰之詞・岡野貞一曲)を歌うラストシーンが象徴するように、基本的に「ふるさと台湾」への郷愁のトーンが強い印象だった。
割譲直後の1890年代の末に総督府役人の子として台北で生まれ、小学校就学前に内地(?)に帰国した祖父の台湾時代を知るよすがは、この映画からは得られなかった。
父親が総督府の役人だったという湾生の女性が、総統府の建物に入ると、父がここにいたのかという感慨を覚えると語っていた。ぼくも、南洋風の樹木が茂る中庭を臨むあの建物のひんやりとした廊下を歩いた時に、同じような気持ちを覚えた。曾祖父もかつてここを歩いたのだろうか、と。
台湾の役所で総督府の役人の名簿を閲覧するシーンや、「台湾戸籍」(?)を閲覧するシーンがあったので、現地へ行けばわが “ Family History” をたどることができるかもしれない。それとも、映画撮影だから特別の便宜を図ってもらったのだろうか・・・。
定年退職して、執筆の場がなくなってしまったので、最近はこのコラムにやたらと読書ノートを書き連ねてきたが、久しぶりに映画をテーマにできた。
「お勉強」風の書き込みは、別のブログを立ち上げた方がよいかもしれない。
※ 冒頭の写真は、台湾土産のボールペン(総統府の売店で買った)と、ついでに、韓国土産の古い朝鮮の婚礼を描いた印鑑入れ、それに1978年に買ったサンフランシスコ土産の缶バッジ。汚れているように見えるのは汚れではなく、カモメの跳ぶ姿がグレーで点在したもの。フィッシャーマンズ・ワーフあたりではケーブル・カーの周りをカモメが飛んでいたかも。
2020年 7月 5日 記