豆豆先生の研究室

ぼくの気ままなnostalgic journeyです。

バルザック 『あら皮』

2020年07月21日 | 本と雑誌
 
 バルザック『あら皮』(バルザック全集・第3巻、東京創元社、1973年。手元にあるのは1975年8月15日再版)を読んでいる。

 バルザックは、定年後の読書では「結婚の生理学」につづいて2冊目。
 霧生和夫『バルザック』のすすめに従って、「あら皮」、「ウージェニー・グランデ」、「幻滅」、「浮かれ女盛衰記」、「シャベール大佐」、「トゥールの司祭」、「風流滑稽譚」を読んでみることにした。
 場合によっては、「従妹ベット」と「従兄ポンス」も。多くの人がすすめる「ゴリオ爺さん」と「谷間の百合」は、高校生の頃に読んだので省略。
 ※ 下の写真は、角川文庫版『ゴリオ爺さん』のカバー。

             
             
 霧生によれば、「あら皮」が「人間喜劇」の出発作らしい(1831年の作品)。
 「あら皮」という表題がまったく読書意欲をそそらなかったので、読む気はなかったのだが、霧生であらすじを知って、読んでみる気になった。

 まだ20ページちょっと読んだ段階で、主人公と骨董屋の老人は登場したが、「あら皮」はまだ出てこない。したがって、「あら皮」がどんなものかもまだわからない(霧生の紹介で知ってしまっているのだが)。
 原題 “La Peau de Chagrin” の “chagrin” はクラウン仏和辞典(三省堂)では「粒起(りゅうき)なめし皮」とあり、広辞苑の「あらかわ」は「粗皮」と漢字が当てられ「まだなめしていない獣皮」となっている。
 そもそも「なめす」というのがどんな作業なのかもわからない僕にとっては、「なめし皮」だろうが「まだなめしていない皮」だろうが、まったく影響はない。このストーリーにとって意味があるのは、「あら皮」なる皮が少しずつ縮む性質をもっているということである(これも霧生による知識だが)。

 霧生の紹介では「あら皮」は、芥川龍之介の「魔術」のようなストーリーである。
 「魔術」は中学校の国語教科書(光村図書だった)に載っていて、中学生だったぼくを本のとりこにしたというか、読書の面白さに引き込んだ、ぼくの人生にとって忘れがたい作品である。まさに「魔術」にかかったのであった。
 雨のなかを人力車が古い洋館の玄関に到着する冒頭のシーンと、「お婆さん、お客さんはお帰りになるよ」、遠くからミスラ君の声が聞こえてくるというラストシーンが、「ミスラ」という不思議な名前とともに印象に残っている。

 それに比べると、バルザック「あら皮」の始まりは冗漫である。
 全財産であるたった1枚の金貨を賭博で失った青年が、セーヌ川に身を投げるために日が暮れるのを待って、河端の骨董屋に入っていくのであるが、ここまでですでに20ページ。芥川ならそろそろ話が終わるころである。
 賭博場から骨董屋に至るセーヌ河畔の風景や、骨董屋に並んだ陳列品のイラストがあれば、と思う。
 「ゴリオ爺さん」角川文庫版に描かれたラスティニャック、とくにラストシーンのイラスト(下の写真)が印象的だった。岩波少年文庫の「名探偵カッレ君」や「ニキータと少年探偵」、「あらしの前」で育ったぼくは、大人の小説でもイラストが欲しい。
 フランスではイラスト入りのバルザック本は出ていないのだろうか。永井荷風の『濹東綺譚』も、ぼくには木村壮八のイラストがなければ、文章だけでは雰囲気が伝わらない。

                

               
 70歳になってバルザックを読む必要があるのだろうか、という思いが時おり首をもたげてくるが、しかし読んでおこう。
 30代の頃に、なぜか「定年になって暇になったらバルザックを読もう」と思って全集を購入したのだった。どうしてそんなことを思い立ったのか、今では思い出せないが、40年間ぼくの部屋の本棚の最上段で眠り続けてきた本である。
 少なくとも、開くことなく捨てるわけにはいかない。断捨離した本たちとは違うのである。

 2020年7月21日


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