べロック・ローンズ『下宿人』(ハヤカワ・ミステリ199、1955年初版、1994年3版、早川書房)を読んだ。
切り裂きジャック事件に着想を得た小説は多くあるが、この作品はその嚆矢となったものである(1913年の発表)。
真犯人ではないかと疑われる人物に下宿を提供した下宿屋夫婦の視点から、下宿人に対する疑惑と恐怖が描かれる。「切り裂きジャック」ものは大体が推理小説ないし犯罪小説になるが、この小説はサスペンス小説のジャンルに入るものだろう。
女性連続殺人事件ではあるが、事件それ自体の描写はほとんどなく、切り裂きジャック事件とは違って、酔っぱらった女性が深夜次々に殺される。
聖書原理主義、禁酒主義、菜食主義の女性嫌悪者である下宿人が、この酔っ払い女連続殺人事件の犯人ではないか、と下宿屋夫婦が次第に疑惑を深めていく。
この下宿人には奇妙な言動はあるが、連続殺人犯のような凶暴さは見られない。家賃や食費はきちんと支払う。下宿屋の主婦は、この紳士的で金払いのよい下宿人に対して、当初は好意すら抱いていた。
しかし、霧の深い秋から寒いクリスマスにかけて、この下宿人は、時おり夜中になるとひそかに家を抜け出して、どこかへ出かけ、数時間後にはそっと帰宅する。
翌朝になると、街角の新聞売り子たちが、前夜の殺人事件を報ずる新聞を売っている。
その人相や、犯人の残した足跡に合致するゴム底の靴などは下宿人のものとそっくりである。しかも下宿人は、深夜に家を空けた翌日は「実験」と称して、部屋にこもって何やら作業をしている。
鍵のかかった戸棚の隙間から血液と思しき赤い液体が漏れていたり、台所で異臭がしたりしたこともある。帰宅した下宿人の外套のポケットに血が滲んでいたこともある。
下宿屋の夫婦には、次第に下宿人に対する疑惑と恐怖が生じてくる。そんなある日、下宿人は宿の主婦に対して、「あなたは私を裏切っている」と言い残して消えてしまう。
本の最後にはこの下宿人が捕まるものと決めてかかっていたので、拍子抜けした。
結局この夫婦の疑念、恐怖は杞憂だったのかどうかは分からないので、その分サスペンス小説としては成功しているのだろう。
切り裂きジャック事件をモデルにした小説としてよりも、ヴィクトリア朝時代のロンドンの下宿屋事情を知ることができる小説として面白かった。
すでにロンドンには地下鉄が通っている一方で、タクシーはまだなく辻馬車などが登場する。部屋の明かりはランプや蝋燭、煮炊きは地下の台所で、ガスもあるがコイン式の量り売りのようである。
下宿屋の夫婦は、別々の家で召使頭と召使として長年働いてきたが、こつこつ貯めた給金で家を買って下宿屋を始めたようである。しかし家計は、この下宿人が現われるまでは火の車だった。
この下宿屋の間取りが文字だけでは理解できなかったため、下宿人の私生活と家主の生活との境界を十分に読み取ることができなかった。このことが家主夫婦の恐怖を読み取る妨げになってしまった。
「小説に見る家の間取り」という連載がかつてどこかの新聞に載っていたが、この本こそ、舞台となった下宿の間取り図が欲しい。訳文もいまいち。誰かに分担で下訳でもさせたのか、「ブドウ酒」、「葡萄酒」、「ぶどう酒」が混在していたりする。
ネットで調べると、原書は今でも出ているらしい。単行本にはイラストも多数入っているようなので、ぜひ欲しいのだが(Marie Belloc Lowndes, “The Lodger” , Cambridge Scholars Pub., 2015)、8000円余とは、ちょっと高すぎる。
Kindle版は0円だが、イラストはない。
ヒチコックその他の監督によって4回も映画化されたという。ヒチコックのものはDVDがあるようなので、いつか見てみようと思う。
2020年9月18日 記