豆豆先生の研究室

ぼくの気ままなnostalgic journeyです。

ヴォルテール『カラス事件』

2022年05月04日 | 本と雑誌
 
 ヴォルテール『カラス事件』(中川信訳、冨山房百科文庫22、1978年)を読んだ。

 この本が出版された1978年はヴォルテールおよびルソーの没後200年にあたり、この本もそれを契機に訳出されたようだ。
 1978年はぼくが結婚した年だが、まだあのころは刑事訴訟法の研究者になることを夢見て、誤判や冤罪に関心があったのだろう。
 ただし読んだ形跡はまったくなく、わずかに166頁に色あせた付箋が挟んであるだけだった。なぜ166頁だったのかは不明。

 カラス事件とは、1761年に南フランスのトゥールーズで起きた一青年の(おそらく自殺と思われる)死亡を発端とした冤罪事件である。
 プロテスタントを信奉する商人ジャン・カラスの家で、ジャン夫妻、長男マルク、次男ピエール、ボルドーからたまたま来ていた旧知のラヴェス青年の5人が夕食を共にしており、長年同家に奉公している女中(カトリック教徒)が給仕をしていた。
 やがて来客が帰宅することになり、全員が階下に降りると、少し前から姿が見えなかった長男マルクが両開きのドアに横棒を渡し、その横棒に懸けたロープで首を吊っているのが発見された。一家は慌てて医者を呼びにやったが、すでにマルクは絶命していた。
 
 騒ぎを聞きつけた近所のカトリック教徒たちが集まってきて、マルクは翌日カトリックに改宗することになっており、それを阻止するために父親を中心とする一家で彼を殺したのだ、来客はその死刑執行役としてやって来たのだという噂を広めた。
 実際にはマルクには改宗の予定はなかったばかりか、かつて三男のルイがカトリックに改宗した時も本人の信仰を尊重して反対しなかったくらいに、父親は家族の信仰に寛容であった。
 マルクは以前からうつ状態に落ちいっており、自殺したものと家族は考えたが、改宗を阻止しようとした父親らが長男を殺し自殺に見せかけたのだという噂が広まった。カトリック教徒からなる市参事会は、この噂話に従って、その場にいた5人全員をマルク殺害の容疑で投獄したが、越権行為として事件は当地の高等法院で審理されることになった。

 13人の裁判官のうちには被告人らの容疑を疑問視するものもあったが、狂信的にカトリックを支持する一人の裁判官が頑迷に有罪、死刑を主張して譲らなかったため、結局8対5で、父親は拷問のうえ車責めによる死刑、ピエールは終身追放刑、妻は免訴、ラヴェスは追放刑、女中はカトリック信徒だったことから釈放という判決が下った。
 1762年3月9日、父親に対する車責めによる死刑が執行された。父親は最後まで自らの無実を訴えるとともに、自分を死刑にした裁判官たちを赦すと言って絶命した。
 父親が有罪なら共犯者である家族も全員有罪で死刑にするべきだったが、裁判官たちはそうはしなかった。父親以外を死刑にしなかったのは、拷問によって父親が最後に罪を告白するだろうと裁判官が期待していたからであり、最期に至ってなお無実を主張したことに裁判官たちは驚愕したという。ーー有罪なら最後には罪を告白する、最期まで無実を主張するのは無実の証拠であると当時は考えられていたようだ。

 ピエールらの無実の訴えにより、この事件はヴォルテールの知るところとなり、彼はカラス一家の冤罪を雪ぐために一家を支援し、公開されていなかった訴訟記録の開示、そして国王および国王顧問会議による再審、カラス一家の名誉回復を求める論陣をはった。
 最終的に宮中訴願審査法廷(238頁)は、裁判官全員一致で被告人ら全員を無罪とする判決を下し(1765年3月9日)、国王は一家に対して3万6000リーブルを下賜した。さらに再審無罪判決を下した国王裁判所は、誤判をした裁判官に対する処罰および賠償も指示している(240頁)。

 本書は、カラス夫人、ピエールらの弁明書などのカラス事件資料集と、この事件の救援のためにヴォルテールが書いた「寛容論」からなる。
 ヴォルテールは、カトリック教徒たちの不寛容、狂信的な熱狂がこの冤罪事件を生んだ原因であると考え、不寛容が妥当するのは犯罪行為に対してだけであり、信仰については各人の自由に委ねることがキリストの教えであるとして、信仰に対する寛容を説いている。
 多くの寛容、不寛容をめぐる史実が論じられているが、ぼくの能力を超える。

 当時のフランスはアンリ4世の寛容政策(ナントの勅令)は遠い過去のものとなり、ルイ15世の不寛容政策(異端弾圧)がまかり通っていた。当時トゥールーズのプロテスタント市民は200人しかいなかったという(訳者解説ⅳ頁)。
 トゥールーズの高等法院は多くのプロテスタント牧師を死刑に処し、市民の間にはプロテスタントに対する強い怒りがあったという(同ⅵ頁)。
 そのような背景のもとで、カラス事件はフレーム・アップされたのであった。ドレフュース事件はユダヤ人に対する差別が根底にあり、戦後日本の松川事件などは共産党に対する偏見に基づく冤罪事件だった。ゾラがドレフュースのために闘い、広津和郎が松川の被告たちのために、野間宏が狭山事件被告のために闘ったように、ヴォルテールはカラス一家のために闘った。
 
 カラス事件で、ヴォルテールが家族の冤罪を確信した根拠は、68歳の老父が単独で28歳の青年を殺して、ドアにロープをかけて自殺したように偽装することは物理的に不可能であるという点にあった。
 これは八海(やかい)事件における単独犯説vs共犯説の対立を思わせる。八海事件の検察側は、被害者を自殺に見せかけるために鴨居に吊るす偽装行為は単独では不可能と主張し、弁護側は単独でも可能であるとして(確か法廷で)正木ひろし弁護人が一人で実演して見せた。
 八海事件で有罪となった被告人は壮健な青年で、被害者は老夫婦、偽装工作もかなり杜撰だったのに対して、カラス事件の父親は高齢だが、被害者は壮健だったうえに、被害者の身体には争ったことをうかがわせる傷一つなく、着衣も整然と整えられていた。
 何よりも、信仰に寛容だった父親には、たとえ改宗するとしても息子を殺す動機はまったくない。

 本書を読んだ人は、おそらく一家の無実を信じることだろう。
 父親の非業の死は痛ましいが、他の家族が国王裁判所によって再審無罪を勝ち取ったことに少し安堵させられた。
 こんな目にあいながら、裁判官を赦すという父親の寛容はぼくには到底無理である。

   *   *   *
 「寛容が内乱を招いたためしはまったくなく、不寛容は地球を殺戮の修羅場と化してしまった」(107頁)というヴォルテールの言葉が印象に残った。
 なお、「日本人は全人類中最も寛容な国民であり、国内には12の宗派が根を下ろしていた」、しかし「13番目にやって来たイエズス会が他の宗派を認めようとしなかったために・・・すさまじい内乱が国土を壊滅させてしまった」という記述がある(105頁)。どの史実を指しているのだろうか。
 ※ 1587年に豊臣秀吉は最初の禁教令を出したが、この禁令は、個人的なキリスト教信仰は「その者の心次第」として許容しつつ、大名領主の信仰に制約を加え、バテレンに国外退去を命じたものだった。しかし、キリスト教信徒による神社仏閣の破壊、日本人を奴隷として連れ去る人身売買などが起こったために、1596年のサンフェリペ号事件(同船の乗組員が、宣教師は植民地支配の尖兵である旨を供述した)をきっかけに、宣教師および日本人信徒26名を長崎の丘で処刑したという(家永三郎=黒羽清隆『新講日本史』三省堂、1986年、271頁)。このことだろうか? しかし「国土を壊滅させてしまった」とまでは言えないだろう。(2022年5月5日 追記)

 2022年5月4日 記