アラン・ブルーム『アメリカン・マインドの終焉』(菅野盾樹訳、みすず書房、1988年。原題 “The Closing of the American Mind” ,1987)を読んでいる。
「全米80万部の超ベストセラー、文明の将来をうらなう問題作」などと、みすず書房にしては珍しく大袈裟な新聞広告をうっていたのにつられて、1989年に買って読みだしたのだが、著者が何を言いたいのかよく理解できず、「第3部 大学」の手前まではヨタヨタと読んだ形跡があるが、ここで断念したようだ。
今回断捨離に際して、捨てるまえに再度チャレンジしたのだが、今回は第3部よりもはるか手前でうんざりしてきた。
そこで、本文を読み進めるのをやめて、巻末の訳者による解説を先に読んた。
訳者によれば、本書の著者は「ほとんど無名の大学教授」であり、「経歴について、そう詳しいことはわからない」のであり、本書はニューヨーク・タイムズの「褒めちぎった」(!)「書評によって作られたベストセラー」なのだそうだ(425頁~)。
本書の著者に対しては、「鼻もちならぬエリート主義者だ」、「とんでもない性差別論者だ」などの批判が加えられたが、訳者は「そんなに粗雑で単純な議論を、彼が展開しているわけではない、・・・理論的・哲学的な水準で本書をめぐる議論を・・・本格的に行なうことが必要だ」という(428頁)。
しかし、訳者も、本書(著者)の最後の拠り所が人間の「理性」と「本性」だとすると、「ブルームは肝心な点について何も言っていない、という批判を免れ」ず、「あるいは、あまりに安易に考えている、というそしりを免れないだろう」(429頁)と指摘する。
ぼくは、本書は、高名な政治哲学者が、学問的な蓄積をバックグランドにして、昨今の大学教育や学生を批判する政治哲学の書だと思った。しかし、どうも著者の拠って立つところが見えてこない。ソクラテス、プラトン、アリストテレス、ホッブズ、ロック、ルソーらが引用されるのだが、登場の仕方が唐突で、饒舌に語るわりには彼らを引用して著者が何を言いたいのかが読み取れない。ぼくが無教養だからなのかもしれないけれど。
フロイト、ウェーバー、フロム、リースマンらも引用され、その精神分析学、価値相対主義、他者志向型人間類型などが批判されるのだが(どこかにロールズを茶化すような引用もあった)、それでは著者自身は、現代の若者にどのような内面性を求め、そのためにどのような具体的な方策を提案しているのか、大学教育がそのためにどのように改革されることが必要なのかについての著者の考えは見えてこなかった。
巻末で訳者が、「(著者は)肝心な点について何も言っていない」と解説しているのを読んで安心した。何も言っていないのであれば、著者が何を言いたいのかを読み取ることができなくても当然だろう。ぼくには、解説で訳者が紹介された本書への批判のほうが当たっているように思えた。
この本は、人文科学を軽視する大学の現状、世間のリベラリズムやフェミニズムの傾向、学界における「ドイツ・コネクション」(ナチズムの弾圧を逃れてアメリカにやって来たユダヤ系ドイツ人学者たち)を苦々しく思ってきた保守派の教授が、ゼミかオフィス・アワーの場で、学生たちを相手に鬱憤をぶちまけた長広舌(おしゃべり)を活字化したものと思って読むことにした。面倒くさい個所はすっ飛ばして(聞き流して)先に進むのである。そうすると、あまり腹も立たなくなってきた。
本書は、大学教師の立場からみた「若者の魂の省察」であり(11頁)、大学における一般教養教育(“Liberal Education”)のあり方を論じた本であるなどという、冒頭の著者の宣言にぼくは幻惑されてしまっていたようだ。著者が批判したフロム「自由からの逃走」や、リースマン「孤独な群衆」ほどの洞察力のある本とは、ぼくには思えなかった。
1980年代末に80万部の超ベストセラーになったというが、あの当時、本書のようなアンチ・リベラルな論調に喝采する読者が一定数はいたのだろう。しかし、30年後の今日のアメリカにおける、トランプ支持者らの議事堂乱入、トランプに任命された連邦最高裁判事による中絶判例の変更その他のアンチ・リベラルの現象を見ると、本書の著者が抱いたような感情は必ずしも少数者の感情ではなく、30年間ずっとリベラルな流れの裏側でくすぶっていたのかもしれない。
疑問を一つ。
著者によれば、アメリカでは寛容が権利にとってかわり(20頁)、O・W・ホームズらの考え方に従えば、「不寛容な人に対して寛容であってはならないのだ」(21頁)と訳してあるが、この個所はぼくには理解不能だった。
逆なのではないだろうか。ホームズのような思想の自由市場論者によれば、「不寛容な人に対しても不寛容であってはならない」か、「不寛容な人に対しても寛容でなければならない」という結論になるはずである。ホームズのような「思想の自由市場」における自由な言論活動による自然淘汰という考え方が、ナチズムの「不寛容」を生む温床になったのではないか。ぼくの読み間違えかも知れないが。
2022年9月21日 記