「昭和落語名演CDコレクション vol.1 古今亭志ん朝」(アシェット、2024年)を買った。
古今亭志ん朝は一時期ぼくの憧れだった。
中学生の頃だろうか、日曜日の昼下がりのテレビ番組に「サンデー志ん朝」というのがあった。「サンデー毎日」と「週刊新潮」をもじったタイトル名だったのだろう。
15分くらいの短い番組だったが、当時若手落語家だった志ん朝のトーク番組だった。具体的な話の内容はまったく覚えていないのだが、話題がお洒落でユーモアがあって、話し方のリズムもよいので、毎週欠かさず聞いていた。志ん朝には「落語家」につきまとう古くささがなく、現代的な印象だった。
中学生の頃から聞きはじめたラジオのリクエスト番組の土井まさる、野沢那智、今仁哲夫その他のDJからも知らずに学んでいたのだとは思うが、ぼくの認識では、出発点はやはり「サンデー志ん朝」なのである。その古今亭志ん朝の音源を集めたシリーズが発売されたという広告を目にしたので、さっそく買ってきた。
画像もついたDVDだと思っていたのだが、残念ながら収録されているのはすべて彼の落語の、しかも音声だけのCDだった。がっかりした。ぼくが聞いていた「サンデー志ん朝」の音声も、もちろん入っていない。
彼の落語はまったく聞いたことがないので、ずっと抱き続けてきた志ん朝のイメージが崩れはしないかと心配で、実は買って来たまま未だに聞いていない。
何度か書いたことだが、ぼくは「研究者は物書き、教師は咄し家」という信念(?)をもっている。研究者としては一流らしく立派なものを書いているらしいけれど、講義はまったく面白くないと学生たちの悪評紛々の教師というのは少なからず存在する。ぼくは研究者としては二流三流だったけれど、教師としては及第点だったと自負している。授業評価で学部教員70数人(非常勤講師も含めれば200人以上)の中で最高評価だった年度もあった。
ぼくは、意図して「話し方」を学んだ経験はないのだが、後に教師になって1回90分の授業を週に5~7コマ担当するようになってから、自分はどこで「話し方」を学んだのだろうとふり返ったとき、最初に思い当たったのが、この「サンデー志ん朝」である。
実は初めて教師に採用してくれた大学の新任研修で、元NHKアナウンス室長だった大沢さんという講師から「話し言葉のコミュニケーション」という講義を聞いた。
この講義も大にい役に立った。口語によるコミュニケーションは基本的に困難なものだと心得よ、そして学生の答案の出来が悪かったときには、学生がばかだと思う前にあなたの話し方、伝え方に問題がなかったかを反省しなさいと言われた。
細かい点で一番役に立ったのは、話の合い間に「あー」とか「うー」とか「あの~」とか「この~」とか「やっぱり」とか言ってはいけない、言いそうになったらむしろ沈黙しなさいということだった。この手の口癖は聞いている者にとってきわめて耳障りなのだ。だから授業中、話に詰まった時にぼくは沈黙した。話の間合いとしても沈黙は有用だった。授業中90分間話し続けるぼくが沈黙すると、受講生たちは何があったのかと顔をあげた。
受講生全員に向かって話しかけるのではなく、特定の受講生を想定して話しなさいというアドバイスもよかった。いつもぼくは、教壇の前から3、4列目で、正面からやや右か左寄りの席に必ず座るような程よく奥ゆかしい学生で、話の途中でうなずいてくれたり、納得できない様子でしかめ面をするような反応の良い学生を見定めて、彼(多くの場合は彼女)に語りかけるつもりで話をした。
授業では、「話をする」というよりは、「語りかける」ように心がけた。ぼく自身が学生だったときに、語りかけるように話をする先生の話し方が心地よかったからである。先生の主張に共感して黙ってうなずくと、関西出身のその先生は「そやろ!」といって嬉しそうな顔をされた。
ただし、教員生活の終わりころにはハラスメント関係の注意事項がやたらに増えて、その中に「授業中に特定の学生に一定時間以上視線をとどめることは視線によるハラスメントです」というのがあった。「一定時間」とは何秒くらいですかと質問したかったが、やめておいた。
授業評価で「目を見て話せ!」と書かれたことがあったので、「視線によるセクハラ」といわれる恐れがあるので、君たちの目を見つめて話すわけにはいかないんだ、と答えておいた。そんなわけで、晩年の授業では、ぼくの視線はいつも宙を泳いでいたと思う。
2024年3月8日 記
でも「話し方」よりも大事なことは、学生に対する愛である。
ぼくの大学では、毎年夏休みに教員が手分けして全国47都道府県を回って保護者会を開催してきた。地方から子どもを本学に通わせる親御さんと面談をして、相談やご意見を伺う機会をもつのである。穏やかで純朴なご父兄が多かった。彼らのお子さんをお預かりしているのだ、という気持ちをいつも思い起こさせてくれる行事だった。
現役時代のぼくの生活は、彼らが支払う学納金によって成り立っていた。彼らの期待に応える授業をすることは、ぼくの法的というより道義的な義務である。ぼくは脱サラして無収入の期間も長かったから、有難みは骨身に沁みる。本心から彼らに対する感謝の念を抱くことができた。(2024年3月11日 追記)