東京新聞朝刊には、ドナルド・キーンの養子が養父(キーン氏)の思い出をつづったエッセイが定期的に掲載されている。
けさ(7月18日)のこの連載は「軽井沢の日々」と題して、キーンが愛したという軽井沢の思い出が記されていた。
キーンの軽井沢の思い出は、彼の養子よりもぼくのほうがはるかに古いと思う。
昭和40年頃、ぼくと従弟たちは、千ヶ滝中区の通称「文化村」から沢沿いのけもの道をテクテクと上流に向かって歩いて登った。ぼくたちの「スタンド・バイ・ミー」である。途中の崖の上にはNHKの保養所や、東京女学館の夏季寮などが見えた。
一時間以上歩いて、ぼくたちはグリーン・ホテルの道路を隔てた南側にあった展望台の真下の別荘地に至った。
その中の一軒に、「D・キーン」という白い板の表札の立つ家があり(今日の記事を読むと10坪の建物で、キーンは「庵」と称していたという)、 平屋建てのその家のテラスで、キーン氏らしき人物がタイプライターを打っているのが見えた。
「ドナルド・キーン」というと毛筆か万年筆で原稿を執筆しそうなイメージだが、彼(らしき人物)はタイプライターを打っていた。
今朝の記事によると、彼はタイプライターで原稿を打っていたとあるから、おそらく昭和40年頃に中学生のぼくが見た「D・キーン」宅のテラスの人物はドナルド・キーンさんだったのだろう。
この夏、軽井沢高原文庫で「ドナルド・キーン展」が開催されるというから、見に行ってキーン氏の昭和40年頃の別荘の所在地を確認してこようと思う。
2022年7月18日 記
今朝郵便受けを開けると、西武リアルティからの封書が届いていた。「重要」というハンコが押してある。
締切り(7月10日)から日にちが経ったので落選したのだろうとあきらめていたが、ひょっとして! と思って開封すると、予想通り「千ヶ滝音楽祭」の当選案内だった。
倍率がどのくらいだったのか分からないが、前にも書いたとおり、なぜか当選するという予感がしていたのである。
10年ほど前に勤務先の労働組合の忘年会で一等賞(横浜ホテルニューグランドのペア宿泊券)が当たった際に、突然壇上で当選のスピーチを求められたので、つい「こんなことで “運” を使いたくない」などと言ってしまって顰蹙を買ったので、今回は素直に喜びたい。
あの千ヶ滝プリンスホテルの中に入れるなど、昭和の時代には考えてもみなかったことである。しっかり見て来なくては。
2022年7月20日 追記