豆豆先生の研究室

ぼくの気ままなnostalgic journeyです。

小津安二郎 “父ありき”と “一人息子”

2010年08月27日 | 映画
 
 “父ありき”と“一人息子”は、いずれも片親家族が主人公だが、描かれているストーリーと結末は好対照である。
  
 “父ありき”の父親(笠智衆)は金沢で学校教師をしていたが、修学旅行の引率中に一人の生徒が無断でボートに乗り転覆死してしまう。責任を感じた父は学校を辞め、縁故を頼って信州、上田の寺で世話になったのち、東京に出て仕事に就く。最初は工場の現場監督のような仕事である。教師から工場労働者への転身である。「坊っちゃんはなぜ市街電車の車掌になったか」という本があったが、かつてはそういう転職もあったのだろう。 
 この父親は、母親を亡くした息子の弁当も作るような父親であるが、「これからの時代には学問がなければならない」といって、父親と一緒に生活したいという息子の希望を認めない。息子は親の期待通りに勉強して上田の中学校に合格するが、父は息子を寄宿舎に入れて、単身東京に出て行くのである。

 父の期待にこたえて勉強に励んだ息子(佐野周二)は、やがて旧制高校から帝大を出て、教授の推薦で秋田の鉱山学校(現在の秋田大学工学部だろう)の教師になる。父子二人で温泉旅行に出かけた折に、息子は秋田の学校を辞めて上京してお父さんと一緒に生活したいと申し出るが、父はこれも許さない。
 それから何年か経ち、徴兵検査のために上京して、数日間だけ父子水入らずの生活を過ごすが、父はあっけなく心筋梗塞で亡くなってしまう。息子は、父の金沢時代以来の友人教師の娘(水戸光子)と結婚して、父の遺骨を抱いて秋田に帰って行く。

 これに対して、“一人息子”のほうは父を亡くした母子家庭が舞台である。
 1923年だったかの信州から話は始まる。製糸工場の女工をしながら息子を育てる母親(飯田蝶子)のもとを息子の担任教師(笠智衆)が訪ねてくる。成績優秀だった息子が学校で、「母さんが中学校に進んでもいいと言った」と嘘をついたため、先生が激励に来たのである。母はそんな余裕はないとは言えず、結局進学を認める。
 母は身を粉にして働き、家屋敷や田畑まですべて処分して息子の学費を工面する。学校をおえた息子(日守新一)は上京して「市役所の役人になった」と母には伝えるが、実は夜学の代用教員をしながらその日暮らしの生活を送っている。母に内緒で結婚して息子も生まれていた。
 そんなある日、母がひょっこり上京して、息子を訪ねて来てしまうのである。息子は教員仲間から金を借り、妻(坪内美子)も着物を売って金をこしらえ、母をもてなそうとする。しかし、長屋の隣家の子どもが馬に蹴られて大怪我をしたため、息子は、入院費用に当てるようにと言ってその金を隣家の細君に恵んでしまう。息子の立身出世を夢見ていた母は、その優しさをうれしく思いながらも、やっぱり自分の努力の甲斐がなかったという思いを抱いて信州に帰っていくのである。
 息子の小学校の担任教師だった笠智衆も、田舎の学校教師を辞めて上京したのだが、夢を果たせず、割烹着を身にまとって豚カツを揚げるとんかつ屋になっている。

 時代はそれほど違わないと思われるこの2本の作品の結末を分けたものは何なのか。
 ぼくは、ブルデューの“遺産相続者たち--学生と文化”(藤原書店)を思い出した。彼によれば、親から子に相続されるものは、金や土地などの経済的資本に限られず、学校で要求される勉強や振舞いなどの文化的資本もあるという。
 “父ありき”の息子は、学校教師を務め、のちには都市のホワイトカラーになった父親からそのような文化的資本を相続していたのに対して、“一人息子”の母親は必死で働く女工ではあったが、もともと「中学校なんか行かなくていい」と言い放つ女である。相続させるべき文化資本は持ち合わせてはいない。
 2つの映画で息子を演じる子役も、“父ありき”の子はひ弱だが聡明そうな子役であるのに、“一人息子”のほうはガキ大将でもおかしくない容貌である。この子にとって、上の学校に進み、そして東京に出たことは本当に良かったのか。
 東京案内の途中で巨大なゴミ焼き場を指さして、息子は母に向かって「東京はゴミの量もすごいんだ」という。「東京では仕事にありつけない人もたくさんいるんだ」、「夜学の教師だってようやく見つけた仕事なんだ」と言い訳しながらも、息子は自分を東京のゴミのように感じてもいたのだろう。

 話はそれるが、“一人息子”で、主人公の妻を演じる坪内美子という女優がいい。ネット上で何でも分かってしまう。大正4年の東京白山生まれで、本名は山崎登美子。現在の豊島岡女子高を卒業し、銀座のカフェの女給をしているところをスカウトされたとある。1985年に亡くなっている。“戸田家の兄妹”二女役もこの人らしい。ずいぶん違った役柄である。
 “父ありき”の水戸光子なども晩年しか知らなかったが、若いころはなかなかいい。“晩春”の月丘夢路、“風の中の牝鶏”の田中絹代など、役の上とはいえ、みんな好感が持てる。“戸田家の兄妹”に出ていた戸田家の長女の家の女中さん役の女優もかわいかった。配役に「女中きぬ 河野文子、たけ 文谷千代子、かね 岡本エイ子、しげ 出雲八重子」とあるが、どれだろうか。
 シェリー・ウィンタース(ウィンチェスター'73)やジュリー・アダムス(怒りの河)などと言わなくても、日本の女優にもきれいな人はたくさんいたのだ。

 ところで、“一人息子”は、「原作 ゼームス・槇」とある。誰だろうと思ったら、小津安二郎の別名だそうだ。これもネットで分かってしまった。ジェームス・三木の由来はここだろう。

* 小津安二郎 “父ありき”(日本名作映画集18[Cosmo Contents])、同“一人息子”(同16)のケース。

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小津安二郎 “晩春”,“長屋紳士録”

2010年08月27日 | 映画
 
 閑話休題。
 最初に見たDVDは、“晩春”である。1949年製作だから、ぼくが大学生のころは製作からまだ20年しか経っていなかった。にもかかわらず、随分古い映画のように思っていた。現在はそれから40年が経っているが、この40年間のほうが短かったような気がする。
 “晩春”のテーマは妻と死別した父の再婚と、娘の晩婚である。父(笠智衆)に再婚話が出ると娘(原節子)は「不潔だ」と嫌悪感を示す。そして一人身の父を案じて自分の結婚話にも乗ってこない。父は一計を案じて再婚を決意したと娘に告げる。父の再婚相手に多少心を開き始めていた娘は結婚を決意する。そして娘の結婚披露宴を終えて父が家に帰って来るところで映画は終わる。このような場合、娘の「婚姻の意思」に瑕疵があるかなどとは問わないでおこう。

 もう1本の“長屋紳士録”は1947年の作品。“晩春”とはうって変わって東京の下町の貧しい長屋が舞台。長屋の住人、笠智衆が靖国神社で捨て子を拾ってくる、そして同じ長屋で独り暮らしをしている飯田蝶子にその子を押しつけるのである。
 最初は嫌っていた飯田蝶子も、やがてその子の父親が子どもを引き取りに来るころには情が移っていて、その子が去った後に号泣するところで話は終わる。
 
 小津の作品を見ていつも感ずるのだが、小津の基本的なテーマは家族だが、彼は裕福な家族も、貧しい家族も、どちらもうまく描くことができる。“晩春”は、鎌倉に住む大学教授が主人公である。その生活風景もさりげなく描かれる。娘はお茶会に通い、父の再婚相手とは能の鑑賞会で出会う。“長屋・・・”とは別世界である。
 笠智衆もすごい。変幻自在というか、彼を見ても小津映画の製作年度の前後関係はまったくわからない。学生時代に彼の台詞回しに違和感があると言ったら、先生にひどく叱られたことがある。いまではとても味のある演技だとわかる。彼が出てこない小津映画は面白くない。

 また小津作品には、今ではなくなってしまった戦後昭和の風物がふんだんに登場する。やがて「昭和考古学」、「昭和民俗学」が語られる時代になったら、小津映画は格好のフィールドになるだろう。頻繁に登場するのは物干しである。あの廃材のような柱に2、3か所、少し上向きかげんで竿を引っ掛ける木が打ちつけてある。あれに手製の三またで竿を乗せたのである。大工が手間賃仕事で作った木製のゴミ箱もよく出てくる。これも昭和30年代まで残っていた。
 “長屋・・・”の捨て子は最初から最後まで、いわゆる「正ちゃん帽」をかぶっている。小津の他の作品にも正ちゃん帽の子どもがしばしば登場するのだが、昭和25年に世田谷で生まれたぼくには、こんな帽子をかぶった子どもの記憶はまったくない。いつ頃、どのあたりで流行したのだろうか。

  “晩春”では二人が東京に出かけるときの鎌倉-新橋間の湘南電車がいい。木の床、木の手摺り、木のつり革(文字通り皮製である)など。こんな電車は昭和43年にぼくが四谷の予備校に通っていたころも総武線で使われていたので、匂いまでが懐かしい。
 
 * 小津安二郎“晩春”(日本名作映画集21[Cosmo Contents発売])、同“長屋紳士録”(同19)のケース。

 2010/8/27

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小津安二郎とぼくの先生

2010年08月27日 | 映画
 
 1学期の中ごろ、神保町を歩いていて、書泉ブックマートの店頭に小津安二郎の映画DVDが3枚セットになって999円で売られているのを見つけ、3セット(計9本)買ってきた。
 
 小津安二郎監督の名前は、大学時代に家族法の先生が授業中にしばしば口にすることで知った。
 その先生は、戦後の民法改正、つまり個人主義的な方向への家族法改正を推進した側の先生だったが、その後、故郷に残った母上を不慮の事故で亡くされ、自分の母親一人守ることができないで何の家族法改正だったのかという自責の念に駆られたというエピソードをもつ方である。
 個人主義家族と親族協同体的家族との間で揺れていた先生にとっては、戦前、戦後初期の家族を描き続けた小津安二郎は共感するところが多かったのだろう。

 ところが、ぼくが大学生だった昭和44、5年(1969~70年)頃は、小津安二郎はすでに過去の人になっており、しかも今ほど高く再評価されていなかったので(もちろんDVDはおろかVHSすらなかった時代である)、小津の映画を見る機会はほとんどなかった。
 先生がせっかく家族法を分かりやすく説明するために小津映画の例を持ち出すたびに、聞いている学生の側はかえって意味が分からなくなるのだった。

 因果応報というべく、今度はぼくが教師の立場でこの悲哀を味わっている。
 “卒業”(婚姻の成立時期の例)、“ひまわり”(失踪宣告の取消と重婚の事例)、“クレーマー・クレーマー”(離婚後の共同親権)などを持ち出すたびに、平成生まれの(もう平成生まれが大学3年生である!)の学生たちは、なんで先生はこんな古い映画の話をして、しかもヘンリー・マンシーニの“ひまわりのテーマ”を教室で口ずさんだりまでするのかと訝しそうな顔をするのである。

 長くなったので、本題は次回に・・・。

 * 小津安二郎“戸田家の兄妹”(日本名作映画集17[Cosmo Contents発売])のケース

 2010/8/27

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