今朝、原三渓のことを、そして昨日、東慶寺のことを書いていて、あれ、結構、両者に縁があるんだなと思って、今、書いている。
まず、三渓園内に、旧東慶寺仏殿がある。寛永11年建築のもので、1907年(明治40)に、東慶寺から移築したものだ。先日、ここには行かずに、写真はないが、なかなか優雅な建物である。しかし、何故、移築したのだろうか。
そして、三渓が親交をもったという、朝比奈宗源円覚寺管長は、一時、東慶寺の住職を兼務していた。彼とのつきあいから書にも興味をもったということは前回、書いたが、仏殿の移築も関係しているのだろうか。
また、三渓がパトロンとなって、財政的に支援した、前田青邨のお墓と筆塚が東慶寺の墓苑にもあるが、これも、三渓と宗源との縁に由来するのかもしれない。
そして、不思議な縁が、まだある。三渓同様、著名な美術品蒐集家であり、美術家のパトロンともなった、出光興産創業者の出光佐三のお墓もあるのだ。加えて、安宅産業の創始者、安宅弥吉のお墓もある。彼自身はコレクターではないが、彼が稼いだ資金で、息子の安宅英一が、無類の美術品コレクターとなり、東洋陶磁器や、現在は山種美術館に買い取られた105点もの速水御舟の作品を所蔵していた。いわゆる安宅コレクションである。
安宅と出光のお墓の間に、鈴木大拙のお墓がある。安宅は大拙と同郷で、学生時代、おれが実業家で成功したら、おまえに援助するからと約束し、実際、東慶寺内の、大拙の松ヶ岡文庫に巨額の財政的援助をしたのだ。しかし安宅産業が破綻し、そのあとを継いであげたのが、出光だった。そうゆうわけで、3人のお墓が並んでいるのだ。
三渓と東慶寺の関係から、話がそれてしまったが、むかしの実業家は、偉い人が多かったと思う。今の実業家は、サラリーマン社長が多いせいもあるが、カネ、カネ、カネと、紙くずばかりに、目がくらんで、若い芸術家や学者を育てようとしたり、美術品を蒐集し、後世に残そうなんていう人は、ほとんど見当たらないように思う。社内の”埋蔵金”ばかり増やすことだけを考えているようでは、日本文化の先が思いやられる。
前田青邨の筆塚

出光佐三のお墓

安宅弥吉のお墓

鈴木大拙のお墓

そうそう、三渓園と東慶寺の共通点はまだありました。梅と紅葉がきれいなことです。
東慶寺の紅葉

三渓園の紅葉

まず、三渓園内に、旧東慶寺仏殿がある。寛永11年建築のもので、1907年(明治40)に、東慶寺から移築したものだ。先日、ここには行かずに、写真はないが、なかなか優雅な建物である。しかし、何故、移築したのだろうか。
そして、三渓が親交をもったという、朝比奈宗源円覚寺管長は、一時、東慶寺の住職を兼務していた。彼とのつきあいから書にも興味をもったということは前回、書いたが、仏殿の移築も関係しているのだろうか。
また、三渓がパトロンとなって、財政的に支援した、前田青邨のお墓と筆塚が東慶寺の墓苑にもあるが、これも、三渓と宗源との縁に由来するのかもしれない。
そして、不思議な縁が、まだある。三渓同様、著名な美術品蒐集家であり、美術家のパトロンともなった、出光興産創業者の出光佐三のお墓もあるのだ。加えて、安宅産業の創始者、安宅弥吉のお墓もある。彼自身はコレクターではないが、彼が稼いだ資金で、息子の安宅英一が、無類の美術品コレクターとなり、東洋陶磁器や、現在は山種美術館に買い取られた105点もの速水御舟の作品を所蔵していた。いわゆる安宅コレクションである。
安宅と出光のお墓の間に、鈴木大拙のお墓がある。安宅は大拙と同郷で、学生時代、おれが実業家で成功したら、おまえに援助するからと約束し、実際、東慶寺内の、大拙の松ヶ岡文庫に巨額の財政的援助をしたのだ。しかし安宅産業が破綻し、そのあとを継いであげたのが、出光だった。そうゆうわけで、3人のお墓が並んでいるのだ。
三渓と東慶寺の関係から、話がそれてしまったが、むかしの実業家は、偉い人が多かったと思う。今の実業家は、サラリーマン社長が多いせいもあるが、カネ、カネ、カネと、紙くずばかりに、目がくらんで、若い芸術家や学者を育てようとしたり、美術品を蒐集し、後世に残そうなんていう人は、ほとんど見当たらないように思う。社内の”埋蔵金”ばかり増やすことだけを考えているようでは、日本文化の先が思いやられる。
前田青邨の筆塚

出光佐三のお墓

安宅弥吉のお墓

鈴木大拙のお墓

そうそう、三渓園と東慶寺の共通点はまだありました。梅と紅葉がきれいなことです。
東慶寺の紅葉

三渓園の紅葉
