気ままに

大船での気ままな生活日誌

花盛り、大船フラワーセンター ヒスイカズラも

2012-03-24 10:02:49 | Weblog
百花繚乱/大船フラワーセンターのつづきです。今回の主役は温室内のヒスイカズラ(翡翠葛)。熱帯雨林の限られた地域にしか自生しないマメ科の、蔓性植物で,花房は 垂れ下がり、1 メートル以上にもなります。名前のように翡翠色の大きな花を咲かせます。そのうつくしさは、植物界のカワセミといっていいでしょう。どこにでもあるというものではないので、よく新聞記事になります。今年は最高の見頃の時期に巡り合うことができました。





さて、次は一転、スカーレット色。スカーレットオハラではなく、スカーレットニノミヤです。はあ?アマリリスの品種名で、二宮に県の農業試験場があったときに育成された品種だそうです。あざやかな赤ですね。





わちきは、君子蘭でありんす。


わちきはまだ子供でありんす


わちきは誕生真近でありんす。三月生まれは美人が多いどす。男ならハンサムどす(今日はおいらの誕生日どす)。五月生まれはぶすばかりどす(奥さん)。


わちきはパールアカシヤでありんす。和名は、”あほあかしや”だす。


桜さくらサクラで、〆ようと思います。


お、お前は誰だ! 大船ルミネの(客寄せ)サクラです。



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稀勢の里寛は男でござる

2012-03-23 20:39:04 | Weblog
やってくれました。稀勢の里寛は男でござる。 このままではおわりましぇん。もう優勝なんかどうでもよござんす。白鵬さえ倒せば。たとえ、あとはどうなろうともかまへん。どぎゃんでもこぎゃんでもよか。白鵬さえ倒せば、稀勢の里寛は男でござる

とは言ってはみたけれど、明日の把瑠都戦は落とすわけにはいけないノダ。先場所のうらみを晴らす、仇討でやんす。又兵衛さんの”山中常盤物語”の牛若の術でいこう。霧の印を結び、把瑠都の眼をくらませ、小鷹の法を使って飛び上がり、把瑠都を切り倒す。しかし重くて飛べないか(爆)。鶴竜ならできるけど。

それにしても鶴竜もすごか。見事、琴将を破り、なななんと単独トップ。この調子なら優勝して大関昇進どす、間違いなかと。まだ1敗。その一敗は誰に負けたん?稀勢の里寛どすえ。えへん。ということは、優勝力士と横綱に勝った、稀勢の里寛が一番の実力者

今日は、最高にうれしい一日になった。午前中は、フラワーセンターで百花繚乱の花々を観て、午後は春風亭小朝の独演会で大笑いして、夕方は、稀勢の里の大勝利。お酒もうまかった。いつもの倍、飲みましたよ。鬼の居ぬ間に(爆)。








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百花繚乱 大船フラワーセンター

2012-03-23 18:24:57 | Weblog
小雨そぼふる中、大船フラワーセンターに出掛けた。天気の良かった一昨日だったら、もっと良かったのだが、祝休日の翌日ということで休園日だった。気まま族ではあるが、結構、ぼくの予定表は(遊びで;汗)埋まっていて、なかなか日がとれない。しかし、のんびりしていると、花の命は短くて、たちまち、見頃を逸してしまう。それで、午後の小朝師匠の噺を聞く前にと、午前中、思い切って、足を運んだのだ。

すごいことになっていた。まさに百花繚乱。フラワーセンターご自慢の梅林が、紅白梅そろい咲き、そして早咲きの桜、玉縄桜、おかめ桜等が出そろって、加えて花桃も観ることができる。梅、桃、桜が同時に楽しめる”三春”になっていた。こんなことは、なかなかないことだ。寒かった冬と早春にお礼をいわなければならなくなった。そして、そのほかの花も満開、百花繚乱になっていた。フラワーセンターは今、一番、きれいなときを迎えているの。なのに、お客は、ほんのわずか。ゆうゆうと、まるで開館前の美術館を特別閲覧させてもらっているおえらいさんみたいな気分だった。1週間以内にもう一度、行く!

写真を載せますが、実物を観た方がいいです。お近くの方はどうぞお出かけください。今回は”三春”だけにしますが、残りの花は、次回のお楽しみに。あの翡翠色の花も今、ちょうど見頃になりましたよ。


梅林





玉縄桜 (タマ三郎;ぼくがつけたあだ名)


玉縄桜原木 (フラワーセンターが育成したご自慢の桜;肝っタマ母さん)タマタマ姉妹(築山の二本)も元気でしたよ。


おかめ桜(手前)と春めき


緋かんざくら


河津桜 まだ、ここに移植されてから4,5年の子ですが、すっかりりっぱに成長しました。


大寒桜 熱海では満開でしたが、大船では三分咲き


花桃


玉縄桜を模して、お祝いの花飾り


(つづく)







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博物館でお花見を

2012-03-23 09:11:14 | Weblog
いよいよ東博でボストン美術館展がはじまった。ついでにお花見も楽しみたかったので、天気予報をみて、昨日、22日に出掛けた。

今、どこも梅が満開でにぎわっているが、東博も梅が見事だった。庭園の入口では紅白梅が艶姿をみせてくれた。でも、庭園内の桜はまだぜんぜんだったので、すぐ引き換えし、本館へ。こちらでも、お花見が出来るのだ。恒例の”博物館でお花見を”の特集展示。お花見を描いた浮世絵、屏風絵とか、刀装、器、着物などにも桜が咲いている。三溪園の臥龍梅が描かれた、下村観山の屏風絵”弱法師(よろぼし)”を期待していたが、残念だった。

平成館のボストン展を出てから、また少し、お花見をした。法隆寺館の周囲。こちらも梅の古木が見事な花を咲かせていた。そして、まだ若木だが、河津桜が見頃になり、寒桜が花を咲かせはじめていた。

次回は庭園内の桜が咲きそろった頃に訪ねてみよう。
。。。。。

庭園入口の紅梅白梅


ゴミ箱までお花見仕様


国宝・花下遊楽図屏風(一部) 狩野長信



東都名所・吉原仲の町夜桜 広重



太閤五妻洛東遊観の図 歌麿



そして、法隆寺館周辺の梅






寒桜


河津桜
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藤牧義夫展/モダン都市の光と影

2012-03-22 10:05:31 | Weblog
藤牧義夫生誕100年を記念して、表記の展覧会が、神奈川県立近代美術館・鎌倉で開催されている。ぼくにとっては、あまり馴染みのない画家ではあったが、展覧会を出たあとには、気になる作家の一人になっていた。1911年に館林に生まれ、27年に日本橋浜町の染織図案家、佐々木倉太の門下に入る。32年に小野忠重ら22名と共に新版画集団を結成、活躍した。しかし、35年、24歳の若さで失踪してしまう。この短い生涯で制作した作品が約200点、展示されている。

まず、”三岳全集”という藤牧義夫、手作りの本に驚かされる。何と13歳のときの作である。小学校長も歴任した父親は、”三岳”と号し絵や書をよくしたが、67歳のとき亡くなった。義夫は父の生前の書画や趣味の盆栽に至るまで、克明に写し取り、かつ、父と暮らした日々を一コマ漫画のように描いた。それらをまとめて本にしたのだ。こんなにも父親を尊敬できるものか、逆に、それほど父親が子供を溺愛していたのか、ふと思ったりした。いずれにせよ、神童だったのである。

そして、修業時代(1927~1934)、新版画集団結成から”赤陽”まで(1932~1934)、白描絵巻以降(1934~1935)とほぼ年代順に作品が並んでいる。主題はサブタイトルに示されるように”モダン都市の光と影”だ。当時の盛り場、上野、浅草を舞台とする都市風景とか映画演劇の空間がモチーフになっている。1923年に関東大震災が起きているから、そのほぼ10年後の”モダン都市”を描いているのだ。

彼の代表作、”赤陽”はやはり一番印象に残った作品だった。上野広小路を描いたもので、路面電車が走り、道沿いのビルが、荒々しい、走るような、鋭利な線で彫られている。そしてビルの向こうには血のような赤い夕陽がぽつんと落とされている。心象風景だろうか。1934年作だから、亡くなる1年前だ。ちらし絵に採用された”月”も同じ年のもの。これはさらに抽象的で、これこそ心の風景かもしれない。一方、”城沼の冬”とか”アドバルーン”などのように、ほのぼのとした印象を与えてくれるものもある。”白ひげ橋”や”井の頭風景”もそうだ。

そして、ふたつの白描絵巻(紙本墨画、巻子)。浜町公園から相生橋までの隅田川沿いを描いた絵巻と申孝園の庭園の絵巻である。後者の絵巻は草花の生い茂る様子が延々と描かれている、のびのびとした絵だった。申孝園って、どこの公園だろうと、帰ってから調べたら、田中智学(1861-19­39)が創設した日蓮宗教団”国柱会”の本部・申孝園(江戸川区一之江)の庭園だった。宮沢賢治も信者だったが、藤牧義夫もそうだったらしい。北鎌倉の亀ヶ谷切通しに”田中智学師子王文庫跡”があるので、彼の名は知っていた。

”モダン都市の光と影”だけではなく、短い生涯の”藤牧義夫の光と影”も感じとることができた展覧会であった。

”月”


、”赤陽”と、”アドバルーン”と”城沼の冬”



のんきな夫婦 今日はどこへ行くか。上野か近場にするか(汗)。ワイフは熊本のクラス会へ。



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山中常盤物語つづき

2012-03-21 10:57:30 | Weblog
岩佐又兵衛作”山中常盤物語”の前半のハイライトは、第五巻の常盤御前が盗賊共に殺害される場面であった。そして後半のハイライトというと、牛若が盗賊共を山中の宿におびき寄せ、仇討する第9巻である。これがまたすごい。まず、牛若が一人の盗賊の首をはねる。それをみた五人の盗賊が牛若を取り囲む。牛若は霧の印を結び、盗賊たちの眼をくらませ、小鷹の法を使って飛び上がり、全員を次々と切り倒す。こうして仇討が成就する。目をそむけたくなるような(でも怖いものみたさみたいな)場面がいっぱいだ。胴を真っ二つに切られてしまった盗賊たちも描かれている。



そのハイライトまでに、次の四つの絵巻の物語りがある。

第5巻。騒ぎに駆け付けた宿の太夫は瀕死の状態の常盤御前を抱き上げる。常盤は身分を打ち明けて、”牛若に会えずに、盗賊の手にかかって果てるのは口惜しい。せめて道端に土葬にして高札をたててほしい。牛若が都へ上る折りに見守ってやりたい”と述べ、息絶える。一方、秀衡の館の牛若は母の常盤が夢うつつに現れるのが気にかかり、館を忍び出て京へ上る。


第6巻。牛若は奇しくも山中の宿まできて、常盤の襲われた宿に泊まることになる。その夜、夢枕に立った、母常盤の姿、言葉を不審に思い、宿の太夫に尋ねる。事の次第を知った牛若は激怒し、かたき討ちを決意する。まず盗賊どもを宿におびき寄せるため、宿の女房に頼んで、座敷いっぱいに派手な小袖や黄金の太刀を並べる。さまざまな模様の華やかな小袖が並ぶ絵が見もの。

第7巻。牛若は先ず、宿場を出て、都の大名がおつきのようだが、宿はどこか教えてほしいと言って回る。その後、さまざまに変装して、この宿に大名が宿をとったとふれまわる。盗賊たちはこれを聞きつけ、宿の様子を伺いにいく。

第8巻。牛若の計略通り、盗賊たちは、その夜、大夫の宿を襲う。待ち構えていた牛若ははじめおびえたふりをして宝物は奥にあると盗賊たちをやり過ごす。

そして、牛若は盗賊をやりすごしたと同時に切りかかり、クライマックスの第9巻がはじまるのだ。そして第10巻で牛若は死骸の始末をし、宿の太夫と女房に感謝し、のちの褒章を約して立ち去る。

そして、11巻、牛若、秀衡の館にもどる。その後、三年三月が経ち、平家打倒のため十万騎の大軍を率いて都へ上る。うつくしい武具をつけた侍たちの列が延々とつづく。

最終巻、12巻。途中、山中の宿に立ち寄り、常盤の墓前で手厚く仏事をいとなみ冥福を祈る。そして、大夫と女房を呼び、そのときの感謝を述べ、山中三百町の土地を与え、そお恩にむくいた。

こうして、全12巻をたっぷり時間をかけて、絵巻を楽しませてもらった。まさに絢爛豪華な絵巻だった。生き生きとした、流れるような描写、またストーリーも、ふたつのハイライトを配し、変化があり、おもしろく観ることができた。常盤と侍従の殺害シーンや牛若による盗賊切り倒し場面など残酷なシーンもあるが、漫画的な描写なので、からっとした印象である。

又兵衛は、摂津国の有岡城主荒木村重の子として生まれたが、誕生の翌年、村重が信長に謀反を企て、荒木一族はそのほとんどが斬殺される。又兵衛は乳母に救い出され、石山本願寺に保護された。堀江物語もそうだが、又兵衛が仇討物に強くひかれた理由は、自分の幼児体験にあるのではないかと、ちょっと思ったりした。

11巻(上)と12巻(下)の一部


全12巻



次回の又兵衛絵巻は浄瑠璃物語。見逃さないようにしよう。

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春彼岸 三溪園の臥龍梅が満開

2012-03-20 18:16:23 | Weblog
ふたりで、お彼岸のお墓参りを済ませ、帰路、根岸の三溪園に寄った。入口の三溪園観梅会ポスターに”期間は2/11~3/4”とあったが、関東では梅の開花がひと月近くも遅れ、今頃が見頃になっている。ここの観梅会も今日まで延長の貼り紙があった。

現在、約600本の梅の木があるが、およそ百年前の、開園当初は2000本もあったということだ。江戸時代から梅の名所として知られた小向(川崎)、杉田(横浜)、蒲田(東京)から3年あまりかけて移植したらしい。その後、横浜大空襲などで被害を受け、激減してしまった。でも生きながらえた古木もある。臥龍梅(がりょうばい)もそのひとつである。まるで龍のように、くねくね幹を這わせ、今年も見事な花を咲かせていた。


東博所蔵の重文、下村観山の六曲一双の屏風絵”弱法師(よろぼし)”は、ここの臥龍梅を観て、着想を得たそうだ。謡曲”弱法師”に取材した絵で、父を求めて摂津の天王寺にさまよう俊徳丸が,臥龍梅の彼方の赤い日輪を拝している場面だ。

ここへ来る電車の中で読んでいた、隆慶一郎の”吉原御免状”(宮本武蔵に育てられた青年剣士、松永誠一郎の物語)で”弱法師”のことが載っていた。誠一郎はまるで弱法師のように、よろめくような、一見、頼りなげな歩き方をする。この歩き方は”ずし走り”に現れる禹歩(うほ)の型である。今日でも東大寺二月堂のお水取りに行われていて、古くは中国の遁甲(とんこう)兵術からきている。遁甲、すなわち忍術だそうである。ふーん、そうのなんだ。

臥龍梅だけではなく、白馬、紅梅、緑萼梅などが妍を競っていた。








ソレゾレが妍を競っていた三溪園
キンクロハジロ


イネムリニャンコ


コケノミドリ


春の七草



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絢爛豪華岩佐又兵衛絵巻 山中常盤物語

2012-03-19 11:24:45 | Weblog
いよいよ岩佐又兵衛絵巻シリーズ第I期 ”山中常盤物語”が、熱海のMOA美術館で始まった。ひと月しか展示していないので、うっかりすると見逃してしまう。II期の浄瑠璃物語、III期の堀江物語もいいけど、山中常盤物語は、又兵衛さんの最高傑作だ。断言する!絶対見逃すわけにはいかないのだ(笑)。

山中常盤物語全12巻。一巻約12.5メートル、全巻となると、ななななんと、150メートル。それらすべてが開かれるのだから、展示室はひとつではとても収まらない、5,6室はあったのではないか。こんな豪華な展示は、MOAだからできること。普通なら、各巻の名場面のところだけの展示で済まされるだろう。

第1巻から第12巻まで順に、豪華絢爛たる絵巻物を、自分のペースでゆっくりと眺めながら進む。ふと思い出して、前の巻に戻ってもう一度みるなんてこともできる。お客さんがまばらなので、そういう見方ができるのだ。東京から離れた地での開催ということもあるのだろう。まるで自分ちで絵巻を拡げてみている感じ。なんて贅沢な鑑賞だろうと、幸福感でいっぱいになる。

さて、第1巻。はじめに、源氏の御曹司、牛若丸がひとり現れる。”15歳の春、おごる平家を討とうと奥州の藤原秀衡を頼み、東国へ下ろうとする”という意味の文章が前に添えられている。こうして、以降、浄瑠璃の語りに当たる文章と絵物語が進行するのだ。秀衡の館に着いた牛若丸は鄭重に迎えられ、幸せな日々をすごす。一方、都にいる常盤御前は、行方知らずになった牛若を案じ、清水寺にはだし参りをしたり、八幡山への百日詣でをする。神仏のご利益により、その年の秋、奥州から牛若の文が届き、常盤は喜び、秀衡の館を訪ねようとする。巻き手紙を読む常盤の嬉しそうな姿でおわる。

そして、第2巻が惜しげもなく、次のコーナーに拡げられている。さあ、どういう旅路か、わくわくとする。常盤は直ぐにでも旅立ちたいが、侍従は冬に向かう奥州路は難所も多いので、春を待つよう、常盤をとどめる。そして、春も半ばのころ、常盤と侍従を従え、東国へ下る。常盤は十二単衣に糸のわらじ、侍従は五重ねの小袖にもみたびといういでたちで、柴野の御所をあとにする。衣装のうつくしいこと。色も、今、描いたばかりかと見紛う鮮やかさです。

第3巻。奥州への女二人の徒歩での旅はきつく、つらい。子ゆえの暗に迷うとはこのことかと思い知らされる。二人が山中(やまなか)の宿(現在の岐阜県関ヶ原町)に辿りつくと、常盤は旅の難儀と牛若恋しさで身も心も疲れ果て、重い病の床についてしまう。

そして、この絵巻の最大のハイライト、第4巻。気の弱い人は見られないシーン。山中の宿に住む六人の盗賊は、常盤と侍従を東下りする上臈(じょうろう)とみて、美しい小袖を盗もうと謀る。夜半に押しいった盗賊は、常盤と侍従の見ている小袖まではぎとる。肌をかくす小袖を残すがなさけ、さもなくば命もとってゆけと叫ぶ。すると盗賊は裸の常盤をぐさりと刺し、侍従も殺して逃げ去る。血がしたたる様子が描かれている。内容は残酷だが、絵ではそれほどのむごい印象はない。

では、第4巻までの絵をのせる。

第一巻 牛若の行方を心配する常盤御前


第三巻 瀬田の唐橋を御曹司を思い、涙して渡る常盤御前と侍従


第三巻 しのはら堤、なるみが原と旅を続ける常磐主従


第四巻 山中の宿で盗賊に襲われ、肌をかくす小袖を残すがなさけ、さもなくば命もとってゆけと叫ぶ常盤御前


(つづく) これからまた、遊びに出かけますので。夜は横浜でミニクラス会(汗)。

(この記事の、各巻の要旨は展覧会資料を参照しています)

 
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浅草三社祭・舟渡御 半世紀ぶり

2012-03-18 18:02:10 | Weblog
ぼくのパソコン君が新旧交代した。NECから東芝に。ビスタからウインドーズ7に。で、これが新しい相棒との初仕事となる。幸い、景気のよい記事でスタートすることができた。

浅草三社祭が今年、700年を迎えるに当たり、半世紀ぶりに舟渡御を復活させるということを知り、早速、出掛けてきた(汗)。お昼前に着いたが、雷門の通りで、いきなり金龍の舞に出くわした。幸先のよいこと。浅草寺 の山号”金龍山”から名をとったこの龍は、たしか、お正月に東博で舞っていたはずだ。でも、ぼくが東博初詣のときは、休憩中だった。3か月後に浅草で舞をみさせてもらえるとは夢にも思わなかった。加えて、金龍のうしろの車には、きれいどころがずらり。






浅草神社と浅草寺にお参りし、街中をぶらり散策。舟渡御が始まる2時までは、まだ十分時間がある。よしいっぱいやってからと(汗)、いつもの神谷バーではなくて、場外馬券売り場の裏あたりの、飲み屋街のひとつに入った。それが大当たりだった。安くて、おいしくて、席もぼくの好きなカウンターの端っこ。舟渡御”の観光案内をみながら、牛筋煮込みとまぐろの刺身でゆっくり大徳利を開ける。



舟渡御の出発は東武電鉄の手前の船着き場ということだった。前方には、5月開業予定のスカイツリーがそびえている。浅草神社からの、一乃宮、二乃宮、三乃宮の三基の大神輿はすでに待機していた。そこはだいぶ込み合っていたので、向こう岸から見物することにした。雨がぽつりぽつりきた頃、神輿が動き出し、そして大きな平べったい舟に乗る。予定の時間通り、桜橋目指して、大きく動き出した。観衆から大きな拍手が。おめでとう、54年ぶりの舟渡御。さあ、二年ぶりの5月の三社祭に勢いがつくぞ。















家に帰ったら、稀勢も勝って、ぼくのパソコン君の初仕事に花を添えてくれた。





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徳川美術館&蓬左文庫&徳川園

2012-03-17 12:38:56 | Weblog
名古屋旅行の記事はこれが最後となる。徳川美術館そして隣接するは蓬左文庫(ほうさぶんこ)。楽しみにしていたところだ。尾張徳川家といえば、御三家筆頭の大大名。お宝もたくさん継承しているはずだ。徳川家康の本好きは有名で、古本屋業界では神様みたいな存在だと、古本屋さんで作家の出久根達郎さんのトークで聞いたことがある。その家康が死んだときに、この尾張徳川家にも駿河御譲本とし分与された。それが、現在の蓬左文庫に継承されている。

バスを降り、まず目に入ったのは、蓬左文庫の看板。もちろん、入場する。東洋文庫ミュージアム風な文庫をイメージしていたが、そうではなく、ここでは、狭い玄関ホールに、”河内本源氏物語”の複製本、古地図などが展示されているだけであった。蔵書は2万冊、絵図2千枚もあり、閲覧も付属の図書館で可能とのこと。展示は隣りの徳川美術館で行っているとのことだった。で、さっそく、徳川美術館へ。

特別展、”尾張の徳川家の雛まつり”の大きな垂れ幕が。まず、これから紹介しよう。圧巻は三代夫人にわたる雛段飾りだろう。最上段に内裏雛、4,5段にわたって三人官女、五人囃子をはじめとする御所人形、毛植え人形、雛道具などが飾られている。そして、”さまざまな人形・雛道具”では、犬張子、御所人形、若君、姫君など、”町屋の雛”では享保雛、古今雛、有識雛などが展示されている。加えて、”かね姫さまの雛人形、雛道具”、”尾張徳川家伝来の雛道具”も。

そして常設展。第一展示室 ”武家のシンボル/武具・刀剣”、第二展示室 ”大名の数奇/茶の湯”、第三展示室 ”室礼/書院飾り”(大名の公式行事に用いられた広間に飾るさまざまな道具類)、第四展示室 ”武家の式楽”(能文化の美術品)、第五展示室 ”大名の雅び”(姫君たちが持参した婚礼調度品、大名が私的な生活で所持した奥道具など)、第六展示室 ”王朝の華”(国宝「源氏物語絵巻」について、映像やパネルで解説)。千利休作、”泪の茶杓”も3月4日まで特別展示されていたようだ(残念)。徳川美術館が、”「大名道具とは何か?」「近世大名とは何か?」という問いに答えることのできる我が国唯一の美術館です”と誇るだけのことはある、と思った。

そして、蓬左文庫の展示品。ふたつの特集展示があった。”琉球漆器の美”と”アジアの風”。沖縄返還40年ということで家康に贈られた琉球ゆかりの品々が。王府の祭器と楽器とともに、琉球楽器図巻、琉球歌舞音楽図巻なども展示されていた。一方、重要文化財、”高麗史節要”や林子平編”三国通覧図説など、そして場違いのように、ちょこんと香木があり、ほほえましかった。健康に気遣う家康が各地から集めたのだろう。

雨の中、外に出た。そして徳川園へ。尾張藩2代藩主徳川光友の隠居所の大曽根御屋敷跡地へ2005年に築造された池泉廻遊式の大名庭園とのこと。園内に配置された山、大曽根の瀧、渓流、龍仙湖、牡丹園、菖蒲田はそれぞれ、木曽山脈、木曽三川、伊勢湾、濃尾平野に見立てられてのものだそうだ。また園内の龍門の滝は、尾張藩江戸下屋敷戸山荘跡(現在の早稲田大学戸山キャンパス)から発掘された龍門の瀧の遺構を移設したものとのこと。

二泊三日の旅行だったが、名古屋は、お城だけではなく、文化、食文化、と見(味も)どころ満載の都市であった。お城がみえるホテルも、とてもよかった。実は、ぼくら新婚旅行の最後の日の、名古屋のホテル(別のホテルだが)の部屋からもお城が正面に見えたのだ。そのホテルの横を通ったとき、なんとなく照れくさかった(汗)。

。。。。。

蓬左文庫



河内本源氏物語(複製)



徳川美術館


徳川園


龍門の滝




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